第63話副社長
藤堂アイリと別れた後、俺は一人、アパートまでの道を歩いていた。
地球の重力が六分の一ぐらいになってしまったかのように、なんだか全身がふわふわとして歩きにくい。
気をつけていないといつの間にか地面から足が離れ、星々が輝く夜空に昇っていってしまいそうな気がした。
藤堂アイリは、俺のことが好き。
俺も、藤堂アイリのことが大好き。
なのに、俺たちの関係は、まだ友達のまま――。
せめて俺から想いを伝えておけば、今この瞬間、俺たちはもう恋人同士だったかもしれないのに。
俺はあまりにもヘタレすぎた数時間前までの自分を絞め殺してやりたかった。
俺にもう少し勇気があって、世界中に聞こえるような大声で、お前が好きだと叫べていたら。
もうすでに自覚している自分の想いを、藤堂アイリに伝えられていたら。
今頃俺たちは、世界で一番幸せな二人になれていただろうに。
ガサッ、と音がして、俺は顔を上げた。
見ると、住宅街のブロック塀の上に、猫が二匹いた。
カップルか、それとも単なる仲良しか。猫は仲睦まじく肩を並べ、一匹の猫が自分の鼻先をもう一匹の猫に擦り寄せて目を細めている。
その様を見ていて――俺はあることを考えた。
恋人同士って、何をするものなんだろう、と。
俺たちは【
けれどそのダンジョンという共通項を除いたら、俺と藤堂アイリに共通項は少ない。
同学年のクラスメイトというだけで、住む世界も、経済基盤も、何もかもが違う。
そんな二人が晴れて恋人になったとしたら、何をすべきなのか。
そりゃあ、恋人同士なのだから、まず手は繋ぐだろう。
手を繋いで道を歩く。これはいい。問題は手を繋いでどこへ行くかだ。
家は反対方向だし、そもそも日常には休日だってある。
バイトのない俺の休日なぞ、本屋とドラッグストアのどっちかに行くしかない感じだし、服屋とか映画とか、そんなものにはあまり好んで行かない方だ。
藤堂アイリはとにかくそういう服屋とか映画とかカラオケとかお洒落なカフェとかは常連だろうし、お昼にはすき家ではなく、表通りから店内が丸見えのようなパスタ屋でペンネアラビアータとかを食べるのだろう。
喉が乾いたらコンビニでペプシコーラではなくスタバの新作メニューをグランデで頼むのだろうし、映画館ではMCU映画ではなくヨーロッパの小国の監督が撮ったヒューマンドラマを見るのだろうし、化粧品はツルハドラッグではなく駅ビルで買うのだろう。
俺がその全てに付き合うとして、その際に何をするのか。
手を繋いで、楽しく会話して、一緒に映画を見て、その先だ。
例えば――俺たちももう少し仲が良くなれば、キス、とか、するのか。
そう考えた途端、藤堂アイリの色素の薄い唇が目に浮かんで、俺は興奮よりも、なんだか物凄く罪深い事を考えているという罪悪感が湧いてきて、軽くパニックを起こした。
「えっ、えぇ――!? ちょ、ちょっと待て――!」
俺は自分で自分にツッコミを入れて立ち止まり、人目も憚らずに大声を上げた。
「き、キスぅ――!? 俺が!? 藤堂と!? いいの!?」
そう、「いいの!?」である。
俺と藤堂アイリが恋人になったとして、そんなことして許されるのか。
フォロワーが三百万人もいて、全世界に大量のファンを抱えるインフルエンサーと俺が、そんなことをする?
いいのか。それは本当に許されて然るべきことなのか。
たかが恋人になったぐらいで、俺のようなクソザコナメクジ男が藤堂アイリにそんなことをしていいのだろうか。
「そっ、そもそも……どうやるんだ? どうやって誘うんだソレ? その、キスとかしてみる? って言うの? 誰が? 俺が? 藤堂が? えっえっ、世間のカップルってどうやってそんなことしてんの――!?」
なんか昔見た映像では、ジョン・レノンとオノ・ヨーコはアイコンタクトのような感じで見つめ合った数秒後には実に自然にキスしていた。
俺たちも何かを極めればあんなフランクな感じでできるようになるのか――? と考えて、俺はそれを否定した。そもそも、最初の一回のハードルが高すぎる。
いやそもそも、キス……って。俺が? 藤堂アイリと?
こう、突然襲いかかるようにやったら、不同意わいせつとかになるだろう。
そもそも突然にそんなことしたら、歯とか当たるんじゃなかろうか。
最初のぶちゅーで前歯が欠ける、そんな悲しいファーストキスは絶対に嫌だ。
そもそも藤堂アイリはホラ、一部があの通りだし。
キスと同時にあの暴力的な部分まで押し付けられたら、俺も流石に理性を保っていられなくなる可能性があるのではないか。
なら――角度とか、工夫した方がいいのか。
こう、前歯と前歯が当たらないように、絶妙にあの部分が押し付けられないように避けて肩を掴んで、こう――。
くいっ、と奇妙に首を傾げ、あの部分が密着しないように両手を上げて、想定されるエア藤堂アイリに向かって顔を近づけたところで――俺は正気に戻ってしまった。
「おっ、おおおおお、俺、気色悪ッ――!!」
俺の悲鳴に、仲睦まじくしていた猫がびっくりしたように顔を上げた。
俺は頭を抱えて物凄く赤面し、しばらくフルスロットルで自己嫌悪感に震えた後、またよたよたと歩き始めた。
とにかく――今はその先を考えるべきではない。問題は宿題だ。
藤堂アイリが最高にロマンティックを感じられるようなシチュエーションを考え、作り上げ、その中で藤堂アイリに「俺も好きだ」と答える。対人スキルも人間力も限りなくゼロに近い俺にとっては、そもそもそっちだけで難易度が高いのだ。
西園寺睦月の今後、そして藤堂アイリの告白への返答――考えるべきことが多すぎる。
人生で一度も体験したことがないような難局が複数個襲ってきたことに莫大な不安を感じつつ、俺はようやくのことでアパートに帰り着いた。
築十五年という絶妙なアンティークを感じさせるアパートの階段を昇り、住まいを為す部屋の近くまで来た、その時――。
「ギャーッもうダメ! 死ぬぅ! 本当に死んじゃうっ!!」
冬子さんの悲鳴だ――! 俺がそう判断した途端、俺たちの部屋のドアがドバーンと開き、中から部屋着姿の冬子さんがまろび出てきて、その場にへたり込んだ。
俺はぎょっと目を見開き、あわあわ、と慌てている冬子さんに駆け寄った。
「とっ、冬子さん!? どうした!?」
俺が肩を抱くと、しばらく焦点の合わない目で俺を見つめた冬子さんが、あ、ああ、と呻いた。
「がっ、ガンちゃん――!」
「どうした冬子さん!? 強盗か!? 物取りか!? それともゴキブリか!?」
「かっ、かか――!」
「火事か!? くそっ、火災報知器がなんで鳴らない!? 今、大家さんとこから消火器持ってくるから冬子さんは通報を!!」
「ちっ、違うの、か、火事じゃない――!」
「えっ?」
俺が戸惑うと、部屋の奥に自分たち以外の気配を感じた。
俺が息を呑むと、ひぃっ! と冬子さんがその気配に向かって怯えた。
「やれやれ……まさか逃げ出すとは。簡単な損益計算書ぐらいは読めると思ってたんですがねぇ。でもだからこそイチから仕込み直しの甲斐がある。――さぁ、戻って。戻って続きを」
低い、そして威圧的な男の声である。
誰だ? ここは俺たちの部屋だぞ。
俺が身構えた瞬間、それは部屋の奥から、なんだかどす黒いようなオーラを後光に曳きながら、ゆっくりとやってきた。
ダークスーツを着込んだ、長身で痩せ型の若い男である。
その涼しく、如何にも理知的な顔立ちは平均以上に端正だが、目には触れれば切れそうな光が宿り、只者ではない雰囲気が全身から噴き出している。
誰だコイツ、そして、何者だ?
俺がその雰囲気に一層警戒を強めると――ん? というようにその眼光が俺の方を向いた。
途端に――男の顔に満面の笑みが浮かんで、俺はえっと声を上げた。
「おーっ、君がダンジョンイーツ君だね! はじめまして、待っていたよ!」
「……は?」
「おや、アイリお嬢様から僕のことを聞いてないのかい? おかしいなぁ、先に伝えておくって言われてたんだけど……」
「あ、アイリお嬢様、って――?」
「まぁいいや、どうせ初対面だ。挨拶はするんだしな。――僕、こういうものだ」
男は実にスマートな手つきでスーツの胸ポケットに手を伸ばし、中から名刺を取り出して、片手で俺の前にサッと突き出した。
反射的に名刺を受け取った俺は――その紙に書かれた文字を読み上げた。
「株式会社D Live、新事業開発部課長兼D Eats副社長、
D Eats副社長。
その言葉に、俺は名刺から顔を上げ、目の前の青年の顔に視線を戻した。
にっ、という感じで笑った、烏丸という青年は、なんだか悪魔のような笑みで俺に微笑みかけた。
「これからは私が君のお姉さん――夏川冬子さんを鍛え、どこに出しても恥ずかしくない超一流の経営者に育て上げる予定だ。これからはそれなりに長い付き合いになると思う。よろしくな、ダンジョンイーツ君」
◆
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