第0章〜オヴェルトゥーラ 世界一AIに嫌われたピアニスト

0-1 2044年10月11日午前九時四十五分



 とある有名な国際ピアノコンクールでの話。

 ひときわ抜きん出た技量と個性で人々の耳目を集めつつも、これまたズバ抜けた運のなさで賞とは無縁だった某コンテスタントが、今回は予想外に健闘して最終選考に残ったとしよう。

 ここで上位に食い込めば、彼女の未来が一変すること間違いない。まさに人生の大一番。

 では、ファイナルで最高の成果を挙げるべく、このピアニストが前夜にとるべき行動とは、果たしてどれ?


  a)ひたすら休養する

  b)死ぬ気で練習する

  c)街に繰り出して人生を楽しむ

  d)朝までウォーシューティングで敵を殺しまくり、テンションを最大値に上げておく


 a)〜c)を選択した諸氏へ。

  君たちはまだ、〝伊摺木<マッシュパイ>サホ〟の真髄を知らない!


   オープンコミュボード「ミュージカル・カオス」より

     「クラシカル・ピアノ」スクウェアへの書き込み 2044/10/11 09:28




 喝采はいつまでも鳴りやまなかった。

 テアトル・アドリアーナ大ホール二千席の観衆は、ほぼ総立ちでステージ上のピアニストへ、いつ終わるとも知れない拍手を送り続けている。

 手放しで賞賛しているのは観客だけではなかった。指揮者も、共演相手だったオーケストラ、アドリア・シンフォニカのメンバーたちも、その多くが肩より高い位置で掌を打ち合わせながら、会心の演奏をものにしたソリストを褒めたたえている。

 第五回地中海国際ピアノコンペティション、その最終選考。二日間にわたって、ファイナリスト八人がオケをバックに各々が選んだピアノ協奏曲を披露し、審判を受ける。参加者にとっては厳しい試練の仕上げであり、キャリアを決めるステージでもある。とはいえ、音楽ファンからすると、この段階になればプロのハイレベルなコンサートそのもの。将来の若鳥を励ます気分も手伝って、客席の姿勢はおおむねポジティブだ。昨日の第一日にしろ、コンテスタントたちは出来不出来の差をあまり詮索されることもなく、それなりに盛大な拍手を送られていた。

 ――というファイナルの楽天的な空気を差し引いても、この場のこの熱狂ぶりはいささか例外的だと言えたかもしれない。二日目の第一プログラム。朝一番で、お客たちとしては本来もっともノリにくい演目順だったのに、カーテンコールはもう四度目。昨日のいちばん人気のコンテスタントでも二回どまりだったのだ。人々は醒めやらぬ興奮に浸りつつ、時々周りを見回して、ほとんどお祭り騒ぎのような会場のありさまに、感慨を一層深めている様子だった。

 めったに出会うことのできない光景。

 それは、賞賛を一身に受け止めている伊摺木いするぎサホ自身、誰よりもよく自覚していた。

 これは夢だ、と思った。たぶん、一瞬ののちにははじけて虚空へ吸い込まれてしまう夢。

 だからせめて、ひとかけらでも多くの拍手をこの耳に残しておこう。笑顔をこの眼に焼き付けておこう。

 そして、持てるだけの幸せを持って、一日も早く先生のもとに――

(ああ、先生。私、やりました!)

 そこにはいない人の面影を胸に抱きつつ、サホは五回目のカーテンコールに立った。額の汗を輝かせながら片手を胸に当て、深々とこうべを垂れる。うねりのような歓呼の声が、ひときわ大きな波になって会場を揺るがせた。



 ふと見ると、周囲は一面ミルク色の霧で満たされていた。

 あれ、ここって、なんかでっかい本番が載ってたホールじゃなかったっけ……と記憶をたどるも、頭の中も濃霧でいっぱいで、ろくに考えられない。

 さっきからどこかでラヴェルの音楽がずっと鳴っている。これは、間違えようがない。ラヴェルのト長調の協奏曲 *。だけど、妙にマズい演奏だ。はっきり言って、オケとピアノの息がちぐはぐ。

「さあ、行こうか」

 隣の深日河ふかがわ先生が私の肩をそっと押した。その声が魔法の一言だったかのように、風景がさあっと一変した。整然と並ぶ長イス。高みにきらめくステンドグラス。そう、そこは朝の光に満ち溢れた白いチャペル。ようやく思い当たる。今日は私と深日河先生との結婚式だ!

 優し気に微笑む先生は、白と黒のタキシード。花嫁の私は、当然純白のウェディングドレス……のはずが、目を落としてみると、お婿さんと似たような色合いのパンツスーツ姿だった。

「君はいつもその恰好なんだね」

 おかしそうに先生が笑う。当然です、と胸を張る私。だって、先生が誉めてくれたファッションなんですから。忘れもしません、ピティナの全国大会 **で、ドレスの準備なんか全然してなくて、半分やけっぱちで一張羅のパンツスーツで会場入りした日。他のみんなは失笑してたのに、先生だけは、とても似合うよって。

 そう、だから私、それからずっと。仙台も浜松もブゾーニもジュネーブ ***も、全部このカッコで出たんです。世間に何と言われようと。ネットの「葬儀屋みたいだ」なんて雑言も蹴散らしながら。

「ところで、さっきからラヴェルが聞こえるんですけど」

「ああ、聞こえるね」

 妙に近いところから流れてくるラヴェルのピアコンは、よれよれの第一楽章から、色々と怪しい第二楽章を経て、なんとか三楽章目で持ち直そうとがんばってるみたい……だけど。

「ちょっと力が入り過ぎかなあ……あ、外した」

「無理に合わせようとし過ぎですよね。それで逆にオケとピアノが疑心暗鬼になってるっていうか」

「君はオケとの呼吸も完璧だったね」

「はい! おかげさまで! これで、今度こそ入賞できます!」

 言ってから、あれ? と思う。すでに地中海コンペで入賞して凱旋帰国しているから、今ここで先生と結婚式をやってるんでは?

「で、僕のメールは読んでくれた?」

「はい? メール?」

「もう忘れてる。ファイナルが終わったら、大事な話を送るから読んでおいてって、昨日書いたよ?」

「えっと、それって確認してないんですけど。わたし、まだ――」

 まだ、何? んん、今って何日の何時?

「じゃ、ちゃんと読んどいてね」

「え!? 先生っ、結婚式は!?」

 急に先生の気配が遠ざかってパニックする。だめ。まだ目を覚ましちゃだめ。こんなところで打ち切りなんてひどすぎる。

「ほら、ラヴェルも終わったみたいだし」

「ちょっと待って! 先生、せめて、せめて――」


「キスしてぇっ!」

 声に出しながら跳ね起きて、サホははっと辺りを見回した。暗くて妙にだだっ広くて、天井が高い空間。けど、少し先の壁の向こう側はライトの光に満ち溢れ、笑い混じりのざわめきも聞こえる。その、明るいところと、サホの周りの暗いところを、何人もの人々が慌ただしく行き来しつつ、みんなどこか楽しげで、活気があって……。

「おや、ようやくお目覚めかい」

 たまたま通りかかったジーンズ姿の三十過ぎぐらいの男性が、もしゃもしゃした黒髪の下から、ナポリ風なイタリア語と一緒に冷やかすような視線をよこしてきた。

「舞台袖でちょっと横になるアーティストならいくらでもいたが、そのまんま次のステージが終わるまで熟睡してたやつは、初めて見たな」

「えっ!?」

 言われてようやく思い出す。カーテンコールの後で、さっさと楽屋に引き上げようと思ったのだけど、疲れがひどくて、少しだけ休憩のつもりで控え用の三連ソファに横になったんだった。のに、その後の記憶が全くない。どうやら秒で寝落ちしてしまったらしい。

 あげく、次のステージまで終わってしまってるということは……今は十一時半ぐらいってこと?

「いびきがうるさいようなら叩き起こして放り出すとこだったんだが、死んだように眠ってたから、逆に心配したやつが何人も出てな」

「はあ。……それで?」

「いや。ホールとしちゃ、静かにしてる分、死んでる方がありがたいんで、ほっとけってことになって」

「…………」

「午後の部になってもそのままなら、脈ぐらい見とこうと思ってたんだが、生きてたんだな。よかったよかった」

 薄ら笑いで笑えないジョークをほざくこの男は、カ―ディン・フメルジャコフ、れっきとしたここのステージマネージャー補佐 ****だ。確かリビアとカザフスタンの血が流れているという話を聞いたけれども、黒髪かつ濃い目の肌の色と言い、独特のくっきりした目元と言い、ぱっと見は中東系そのもの。それが、イタリアの有名ホールで裏方のトップ見習いみたいな職にいるんだから、それなりに努力も積んできたはず、なのに……このアメリカ人みたいな軽さはどうだ。

「ああ。ところで、例のネタだけど、もちろん答えはd)なんだよな? 何のゲームやってたの?」

「はいぃ?」

 意味不明な問いかけに、思わず動きを止めて相手の目を凝視する。サホが本気で眉をひそめているようなのに気付くと、カーディンは、

「え? あれ? あいや、ガセだったんならいいんだ。忘れてくれ」

 急に興味を失ったように、そそくさと立ち去った。

 何だったんだろうと、ソファに腰かけたまま、しばしぼんやりする。少し置いて、カ―ディンと入れ替わるように、にぎやかな一団が、ちょうどライトを落としたステージからサホのいる舞台袖へ移動してきた。女性たちに囲まれた、白い礼服姿の中国人男性。サホが熟睡している間に舞台を終えた、今日の二番手のピアニストだ。両手いっぱいに花束を抱え、サホと目が合うと、お、というように立ち止まった。

「今起きたのかい? このケネス・ツィーエンの稀代のライブを枕にして朝寝の続きとは、なんて幸せな女性なんだろうね! いい夢が見られた?」

 微妙に古風なアメリカンイングリッシュでのやたら芝居がかったセリフは、ケネスの癖だ。英国系の香港出身らしいけど、このチャラさは何なんだと思う。どんよりした目でソファから見上げつつ、ため息を押し隠す。元よりヨーロッパのコンクールを行脚あんぎゃして回るコンテスタント同士、知らぬ仲ではない。とりあえず、頭の言語モードを軽く切り替える。

「ケニー、あんた、タクトの方、ろくに見てなかったでしょ。終わりの方……えっと、第三楽章のファゴットの十六分音符のあたりだっけ? そっから開き直って、なんとかコーダは格好がついたけど、そこより前って全部ガタガタだったじゃない」

 急に会話がドイツ語になって、同行の女性たちはきょとんとした顔になっている。一瞬、気忙しそうに美女たちへ視線を走らせてから、ケネスはかがみこんでサホに顔を寄せた。彼は留学先がフランクフルトで、こみいった会話はドイツ語の方がまだしもだったのだ。

「いや、ちょっと、何もここでそんなマジな批評なんか」

「感謝しなさいよ。彼女たちには分からないようにしてやってんだから」

「だったら少しは褒めてくれよ。空気でバレるだろ。うちの親戚たちなんだよ。今回はグランプリ間違いなしって言ってあるんだ。察してくれよ!」

「私がここで口裏合わせても、審査員の耳は確かよ?」

「え、そんなにマズかった、俺のラヴェル?」

「そこまで自覚なかったわけ? あとで実況、聴き直してみたら? あらかた、リハ *****で細かいことばっかり言ってたんでしょう? んで、本番で色々予想外になって、真っ白になった。違う?」

「うっ…………」

 まさにぐぅの音も出ないという、見本のような顔。

「コンチェルトって、基本、指揮者と合わせるもんでしょお? ケニーはその点、棒をすっとばしてオケの一人ひとりに近寄りすぎって感じ。細かいテンポなんか、指揮に丸投げすりゃいいんだって。後はタクトとオケとの問題なんだから。大事なのは、棒とちゃんとコミュニケートできるかどうかなんだし。アンサンブル力、未熟過ぎ」

「ぐぐ……き、君は、他人をもっと褒めて伸ばすとかそういう……」

「仮に今日で独り立ちが決まったら、明日からのネット批評なんて、こんな甘いもんじゃないよ?」

 がっくりうなだれて沈黙するケネス。有名ブランド服に、いかにもな成金の女の子たちが、心配そうにその顔をのぞき込み、それから揃って険のある眼差しをサホに向ける。大丈夫? いや、大したことじゃないんだ、ちょっとがっかりなニュースがあってね、とかなんとか、小声の広東語でやりとりしてるのが聞こえる。

 そのまま黙って楽屋の方へ向かうかに見えた御一行だったが、ふと思い出したように、ケネスがサホへ向き直って尋ねた――思い切り楽しそうなアメリカンイングリッシュで。

「ああっ、そうそう。今思い出したんだが、例のネットジョークのオチ、つまりはd)で間違いないんだよね?」

「はいぃぃ?」

 つい目元に力をこめて相手を凝視すると、ものの三秒ほどでケネスは逃げ腰になった。

「あ、あ……いやあ、なんでもない、気にしないでくれ。はは。はははは」

「ちょっと、ケニー、それっ、どこから聞いた話――」

「ああ、やっぱり。やっとつかまえたわ、シニョーラ」

 恐ろしく雅びなイタリア語の呼びかけで、サホは思わず背後を振り返った。いや、聞いた瞬間に声の主は分かっていた。それぐらい、この大会の期間中に間近で接してきた相手だ。うんざりするぐらい。時に殺意を抱くほどに。

 サホの目の前には、一見簡素なワンピース姿の、初老の女性が佇んでいた。第五回地中海国際ピアノコンペティション実行委員会事務局主幹、グリゼルダ・ライモンディ。

 別名、「新劇場奥の間の魔女」。






*ラヴェルのト長調の協奏曲

 モーリス・ラヴェル(1875〜1937・仏)のピアノ協奏曲。全三楽章。1931年作曲。演奏時間はだいたい二十から二十五分。あえて「ト長調の」と断っているのは、ラヴェルにはもう一曲、「左手のためのピアノ協奏曲」という人気曲があるためでもある。ゆえに、「左手」との対比で「ラヴェルの両手の(方の)協奏曲」という言い方も。

 一・三楽章の、おもちゃ箱をひっくり返したがごとき軽妙洒脱で万華鏡みたいな色彩感は、歴代のピアノ協奏曲の中でも特筆もの。一方で、オケパートは厄介なパッセージだらけで、ピアノとの連携は、呼吸が合わないととんでもないことになりそうな、クセの強い難曲でもある……らしい。


**ピティナの全国大会

 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(PTNA)が主催するピティナ・ピアノコンペティションの全国大会のこと。ピアノ学習者の、級位とか段位認定みたいな意味合いのイベントとされつつ、2024年の状況だと、同大会ソロ部門の特級は、主要な国内コンクールにも匹敵するレベルであるとかなんとか。


***仙台も浜松もブゾーニもジュネーブも

 それぞれ著名な国際コンクール、及び国際ピアノコンクールの名。本作のイメージだと、それぞれ地中海コンペと同等か、やや上ぐらいの大会。


****ステージマネージャー補佐

 ステージマネージャーとは、イベントを実施する際の、舞台の計画・設営・進行・演出などに関わるすべてを仕切る職人。ここでのステマネはテアトル・アドリアーナ専属の立場で、ホールで開催されるイベントに応じてその都度セットをこしらえ、それぞれのイベント実行委員などと連絡を取りながら、大道具・小道具・音響・照明のスタッフらをたばねつつ、プログラムの一切を安全に実施する責任者、という意味合い。世界の有名ホールはそれぞれ熟達のステマネを抱えているもので、あまり表には出ないが、現場の感覚だと、多少有名な指揮者とかピアニストなんかよりも、ずっとずっとエライ人、という扱われ方をしていることもしばしば。

 ただし、補佐はその見習い的なものなので、力量はピンキリ。


*****リハ

 リハーサルのこと。指揮者、オーケストラとの打ち合わせ練習。ピアノコンクールのファイナルで協奏曲をオケと合わせるリハーサルは、だいたい二回程度組むのが普通かと。一回当たりの時間は一時間前後ってとこでしょうか。きっちり裏を取った情報ではありませんが。

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