0-2 2044年10月11日午前十一時三十一分
「えっと……。何の御用でしょうか?」
サホが尋ねると思いがけず、グリゼルダの片頬に邪気のない笑みが浮かんだ。
「先に言っておくわ。さっきのステージ、あれは本当に素晴らしかった。結果がどうでも、この先ずっと伝説になりそうな演奏だったわね。それは間違いない」
「はあ……ありがとうございます」
いったん素直に返すも、すぐさま小粒のアイロニーがにじんでいるのに気づいてしまう。
「あの、そのおっしゃりようだと、入賞はムリってことですか?」
変わらず笑みを湛えつつ、それまでは明らかに声のトーンを変えて、彼女が答えた。
「その判断は審査員の仕事だから。事務局は審査には一切関知しないことになってますからね。些細な言及もできないの。それだけのこと」
つい、イケズっ、という日本語がのど元から出てきそうになる。近年でこそ活動は抑え気味だけれど、実はこのグリゼルダ女史、ヨーロッパ中の音楽院を歴任してきたヴェテランのピアノ教育者なんである。それが証拠にというか、事務室の彼女の部屋には結構な高級モデルの電子ピアノがでんと据えられていて、時々独演会を開いているほどだという。今回のコンペだって、ここの審査員席に座っていてもおかしくなかった人だ。個人的に助言なり感想なりもらえるなら、どれだけ励みになることか。
「いや、そこは嘘でもいいから『ちょっと早いけど、おめでとう』とか、『後でトロフィー見せにきてね』とか、おだててくれたらいいじゃないですか」
口をとがらせ気味にそう振ってみても、「奥の間の魔女」はつんと澄ました顔で、
「私の立場でそんな軽率なセリフが言えるわけないでしょ」。
まったく、この人のこの性格ときたら。
事務の職務に忠実で謹厳実直……と言えば聞こえはいいのだけど、カチカチに頭が固くて、とにかく融通が利かない。ユーモア味に欠けるだけならまだしも、一事が万事で、ひたすら形式遵守、規約墨守。今回も、一次予選の段階から――いや、それ以前の出場者登録の受付時から、それはそれはバカバカしいほどのお役所的対応の連続コンボだったのだ。コンテスタント一同、どれだけむだにアドレナリンを消耗したか。まあ、事務局の仕事ぶりがお粗末なのはヨーロッパのどこのコンクールでも同様だし、元よりグリゼルダ一人の問題というわけでもないのだけど。
「で、何の御用でしょうか?」
仕方ないからこちらも澄ました声で話を戻してやる。
「率直に訊くけれども」
そう切り出した声音は、どこまでも端正かつ優雅だ。
「正解はd)なのね?」
しばし沈黙が降りた。サホは落ち着いた仕草で一度セミロングの髪を束ね直し、ヘアゴムの位置を調整して、くるりといったんグリゼルダに背中を向け、そして――
だだんっと大きな足音を立てて苛立ちも露わに詰め寄った。
「何なの、それっ!? CとかDとか、どこの誰が撒いてるデマ!? さっきからもう、どいつもこいつも――」
「ふう。やっぱりろくにチェックも入れてないってことね」
「何が!?」
グリゼルダが自分の顔の横を指差してみせた。メガネのレンズの縁だ。それで今さらのように気づいたのだけれど、彼女のフレームは結構上品そうな金縁仕様で、その上縁にはごく微細な光がいくつもちらちらしてるのが観察できた。つまり――作動中ということだ。
戸惑ったように見返すサホへ、事務主幹はイヤミな教師がダメを押すように付け加える。
「ステージは一時まで休憩だし、電波ならもう全館で使えるわ」
ようやくにして、サホは己の不覚を悟った。
ネットに非接続のままで何時間も平然としていたなんて。普通の日なら論外だ。でも、朝一番の本番なんてめったにないことがあったから、今日は劇場入りした時からずっとログオフしたままだったのだ。
外面だけはごく平静に、サホはジャケットの胸ポケットからモノクル型のヴァイザーを取り出し、右目につける。次いで腰ポケットからグローブタイプのインターフェイスデバイスを取り出し、両手にはめる。キーボードとマウスを兼ねる機能の入力装置で、指をぐにゃぐにゃ動かすだけで、電子画面上のあらゆる操作が可能だ。最後に、ヴァイザーからの金鎖が伸びている胸ポケットの中の、カード型プロセッサの角を長押し。それだけでOSがブート、ヴァイザーとグローブを自動認識し、至近のハブルーターと接続、ディスプレイ空間の構築をスタート。
一瞬でサホの視界が――正確には、右目の視界が――虚実入り混じったマルチ・レイヤード・モードに切り替わる。舞台裏の暗がりに重なって、いくつかの日常的な電子情報が、文字とシンボルアイコンの形で慎ましやかに視界の隅に現れる。肉眼で見えているものにちょっとおまけがついただけの状態ではあるけれど、今この時点で見えているベースレイヤーは、一昔前のパソコンとかスマホとかの画面越しに外界を見ている仮想画面そのものだ。このまま歩き回りながら文字チャットもできるし、(安全だと言い張れるのなら)ネットサーフィンもできるし、論文書きも、ゲームだってできる。
テアトル・アドリアーナ館内用のエリアコマーシャルがあつかしく視界をふさごうとしてきたのを右手首のひと振りで追い払って、グローブのマクロアクションで一足飛びに広域ポータルサーチにアクセス。ちらりとグリゼルダを見ると、さっきの話の〝中身〟を一応リンクイメージにして指の先に載せ、サホの求めがあればすぐに送れるようにしてはいる。そこは礼儀正しく、ありがとう結構です、と手まねで断りを入れておく。
ネットサービス否定論者がもしこの場にいれば、妙に真面目くさった二人の女が、暗がりの中でわけのわからない手話の投げ合いをしているとしか見えなかっただろう。
知りたい情報はすぐにヒットした。「伊摺木サホ」「地中海コンペティション」「噂」「最新」、これだけでうんざりするほどのゴシップもどきが掘り出されてくる。他に誰も居合わせていないのをいいことに、サホは両手を存分に振り回して視界全体へテキストイメージを並べまくった。入手できた記事全体へざっと視線を走らせ、いくつかのパラメータをぶちこんで文書の内容を自動解析にかけると、サホをめぐる怪情報はだいたい三通りの内容にまとめることができた。
そのうちの一つが、件の〝伊摺木サホ、ゲームジャンキー疑惑〟というわけだ。
「あ」と「う」の中間の母音に濁点を振ったようなうめき声が聞こえてきた。自分ののどから出ている声だった。事務主幹の魔女が、にこりともしない顔で言った。
「ご理解いただけまして?」
「ぅうううう、はい……」
「で、説明してもらえるかしら?」
「いや、こ、これはですね」
「答えはd)でいいのよね?」
「違います! ってか、いいかげんそのネタ引っ張るの、止めてもらえます!?」
「別にあなたの性癖なんてどうでもいいんだけど、ファイナリストの一人が単純にゲーム狂だったということにしてもらえた方が、色々と面倒ごとが減るの」
「やっぱりこの件、<キケロ>の差し金なんですね?」
サホとしてはその一言で奇襲をかけたつもりだったが、グリゼルダはまるで動じなかった。
「安全管理関係の背後事情はあまり詮索しないことね。というより、事務局としては大会への好感度が上がるようなオチにしてもらった方がありがたいの。なるべく笑えるような方向で。あの<マッシュパイ>サホが実はトリガーハッピーの依存症だったなんて、結構面白いと思うんだけど」
「その名前で呼ぶのは止めてください」
はっきりと嫌そうな目でグリゼルダを睨みつけると、途端に目元の筋肉がひきつれを起こしそうになった。指で目頭をもみほぐしながら、サホは肺の底から空気を吐き出した。
「とにかく、誤解です。たぶん、ちょっとした流出情報が、世間の希望的観測とランダムに結合して、ですね――」
「ふん? その流出情報っていうのは?」
「おそらくは昨晩の勤務先にたまたま奇特なクラシックファンがいて、私に気づいたんでしょう。で、ネットの噂話に枝葉がつきまくって」
グリゼルダが得心したように、物憂い顔で天を仰いだ。
「どうもホテルの滞在記録がおかしいと思っていたら……やっぱりあなた、部屋を抜け出して徹夜でアルバイトしてたのね」
「いやっ、だって仕方ないじゃないですかっ。あのホテルの通信仕様じゃ仕事にならない――」
「今回は事情が事情だから、コンテスタントの安全管理をいつになく徹底させてもらうって、何度も言いましたよね?」
「今更でしょう、そんなこと! こっちはこっちで連日短期バイトを拾い続けなきゃ、やってらんないのよ!」
「あなたがステージ以外で何をしようと自由だけど、行方不明になるのはやめてって言ってるのよ! だいたい――」
急にグリゼルダが英語に切り替えて詰問した。
「そんなにも音楽と無関係のド短期ジョブに血眼になってる理由って何!?」
深く考える暇もなく、反射的にこちらも英語で吠え返すサホ。
「何をしらじらしく! お金よ、決まってるでしょ!? 事務局が<キケロ>のあんなテロ対策プログラム丸のみしたせいで、今ぜんっぜんお金がないの! 帰りの旅費どころか、明日の食事代だってないんだから! 働く以外、どんな手段があるっていうの!?」
「うちから借りたらええやんか!!」
突然背後の暗がりから噴き出してきた声で、サホは小さく飛び上がった。慌てて振り返ると、ソバージュ気味の黒髪ショートにくっきりした目鼻立ちの若い女性が、間近い距離で肩をいからせて立っていた。
「うちを頼ったらええやんか! んで、うちのホテルに居候したらええんか! そのままパリまで持ち帰ったるがな! うちのフラットまでついて
「え、な、なんであんたがここに」
ソニア・タチバナ・デ・フレイタス。サホと同い年の、ブラジルからのファイナリストだ。ついさっきのケニー同様、国際コンクールを巡礼して回ってるおなかまの一人で、ことさら深い友誼を結んだ覚えはないのだけれど、なぜだか妙にサホと距離を詰めたがる、正直に言って暑苦しい女。
今はパリに住んでいて、フランス語はもちろん、英語もイタリア語も会話程度ならそこそここなすマルチリンガルだけれども、なぜだろう、サホの耳にはソニアの英語がどこか訛って聞こえる。なんとなく関西弁に脳内変換できてしまうような。
「というか、いつからそこに!?」
「ええっとな……サッフォーがグリゼに、後でトロフィー自慢しに来て吠え面かかせたるとか、そんなことを言うてたあたり」
「言ってない! あ、でもそれもいいかも……じゃなくて! いたんなら黙って聞いてないで声かけなよ!」
「いや、イタリア語の理屈っぽい口げんかにはちょっと入っていかれへんで」
その時になって、ようやくグリゼルダが急に英語に切り替えた訳に思い当たる。第三極の参入を促して、議論を有利に進めようとしたのだろう。小賢しい真似を、とすがめた目で事務主幹を見やるも、本人はどこ吹く風という顔つき。
「っていうのは、置いといて! どういうことなん!? サッフォーが一文無しって!」
「その享楽的なセクシー古代ギリシア人みたいな呼び方は止めて」
「他からも聞いたで! あんた、コンテスタントやのに、底辺の短期アルバイトやりまくってるんやて? 皿洗いとか、警備員とか、夜のお供とか!」
「ちょっと待って。さすがにフーゾク系はやってないから。……いやだから、ソニアみたいなお金持ちはわかんないでしょうけど! 今回のほら、テロ騒ぎで。私らみたいなギリギリの貧乏人は、当てが外れまくったわけよ。安いホテルが全部使えなくなったとか、宿泊費こっち持ちでしかも前払いに変更になったとか、市民との交流行事がオールキャンセルで小金稼ぎができなくなったとか! 実行委員はお金貸してくれるどころか、細かい経費まで全額現金払い要求してくるしさあ」
「ふん、こっちもギリギリなのよ。この一か月、いつ夜逃げしてやろうか、いつ破産宣告出そうかって、そればかり考えてたんだから」
心なしかぶすっとした顔でグリゼルダが毒づく。この人には珍しい姿かもしれない。とはいえ、サホの側だってまだまだ言い分がある。
「あげくが身の安全確保のために終日外出禁止、よ。ふざけんなっての。ホテルはホテルで足元見て高いディナーばかり並べてくるし! この状況で、労働する以外のどんな選択肢があると?」
「だから借りたらええやん! 義援金募ったらええやん!」
ひどく熱っぽい声で、こちらの発想と百八十度ベクトルの違う打開策を叫ぶソニア。サホはとっさに言い返せずに、つい口ごもってしまう。
「誰彼構わず泣きついたらええやん! んで、踏み倒したらええやん!」
「そ、それはさすがに社会人として……あ、あとその前に、誰も私なんかに義援金なんて」
「何言うてんの、あんた有名人やん! ここに来てるもんで、あんたみたいに二つ名まで持ってるピアニストなんておらんやん! サッフォーが人気対策に無頓着すぎるだけやろ? ちょっとおかしいわ! 寄付でも賛助金でも募ったらええやん、返金の当てなんかなくても、みんな喜んで貸すやん。なんならネットで大々的に呼びかけいや。そのミドルネームめいっぱい表に出して――」
「わかったから、ソニア、その名前出すのは止めて」
「サポーターになってくださいって叫んだれや。<マッシュパイ>サッフォーの――」
「止めてって言ってるでしょ!」
本気の怒鳴り声で、さすがにソニアが口をつぐんだ。ちょっと気まずい空気の横から、依然として万事他人事のようにグリゼルダが尋ねた。
「あなたのそういうところはほんとに不可解ね。そんなに嫌な響きかしら。このコンペティションに参加したのだって、まさに<マッシュパイ>を自認しているからなんでしょ? むしろその呼び名を誇ってもいいと思うんだけど」
「……とにかく、嫌なんです。嫌なものを嫌という権利は、誰にでも認められるべきですっ」
そのまま唇をひん曲げて沈黙するサホ。目の端で、グリゼルダとソニアが肩をすくめあっているのが見えるけれども、知ったことか、と思う。
人間誰しも、ぎりぎりまで守りたい尊厳というものがあるのだ。
音楽コンクールにAI審査が導入されたのは、そろそろサホが大学を出て、本気でピアニストのキャリアを積む気になっていた時期だったから、だいたい五、六年前だ。
日本国内のコンクールで何件か連続上位入賞を果たした頃だったので、急に成績が悪くなってもサホはそれがAIのせいだとは気づかなかった。
何しろ、導入当初の音楽業界は、AI賛美一色だったのだ。電子知性は偏見がない、コンピューターは常に公明正大――そんな素朴なスローガンを本気で丸呑みする者はそう多くなかったかもしれないが、ひとたび現れてからは改良も急速に進み、一、二年のうちには、AI抜きのコンクールなど審査の公正性が疑問視されて当然、というような風潮が出来上がっていった。
だが、そのうちにいやでもAIの〝不都合〟な点がクローズアップされるようになる。つまり、人の耳にはとても個性的で充分に魅力的な演奏なのに、AIが最低に近い点をつけてしまうというケースが頻出したのだ。
学習量を増やして改良も重ねるに従い、その例は次第に減っていったものの、ごく少数、どうしてもAIが評価しない、けれども明らかに優秀な(と聞こえる)ピアニストの例は、いつまでもなくならなかった。
その筆頭格のような扱いで、伊摺木サホというプレイヤーの名が世間に知れ渡ったのは、今から二年前。イギリスのとある中堅コンクールで椿事が起きた時だ。
たいていのピアノコンクールでは「聴衆賞」なるものが存在する。文字通り、聴取が最も良いと思うコンテスタントを投票で決める賞である。
そのコンクールでは、サホは三次予選落ちだった。本人はさしてショックも受けず、早々に下宿先のアムステルダムに帰っていった。ところがファイナリストにもならなかったサホが、審査発表の段になるとほぼぶっちぎりで聴衆賞に選ばれたのだ。想定外の事態で、大会実行委員が「本選進出者以外への投票は無効」などと今更のように疑義を呈すると、観客席はほとんど暴動のような騒ぎになった。
知らせを聞いたサホは唖然としたが、事件はかなり大きく報道され、頼んでもいないのに世界中でにわか評論家が「AI学習の限界と芸術の可能性について」だの「人の魂の優位性」だのについて
いつしか、「サッフォー・イスルギ―」の名は「世界で最もAIに嫌われたピアニスト(most hated pianist by AI)」との注記と並んで書かれるようになり、その省略形「MHPAI」が広く知れ渡るようになる。
が、世界の片隅でさらに屁理屈をこねるものが現れた。
――Hってフランス語だとアッシュ(ash)だよな? これでもっと語呂がよくならねーか?
かくて、MHPAIはMashPAIとなり、<マッシュパイ>はサホの不動のミドルネームとなって今に至る。
むろん、そのネーミングの深層心理に、「ぐちゃぐちゃになったパイのごとく、さんざんな不幸に翻弄されるかわいそうな娘」という、揶揄と憐憫がにじんでいることは疑いない。
不名誉な形であれ、せっかく得た知名度なんだから最大限利用してのしあがればいいのに、という意見があるのは理解する。でも、そんなふうに名前を売ったところで、じゃあ噂のピアニストの演奏を聞いてみようじゃないかと思ってくれる人間なんて、そのうちの一割もいやしないのだ。反面、ひとたび人気の維持に注力するとなると、そこで必要とされる時間とエネルギーは莫大なものになる。
ストイックなまでに自分の音楽世界を追究したいピアニストには、全く割に合わない計算だ。サホが<マッシュパイ>の通り名を徹底的に忌避したがるのは、彼女の性格からすれば当然のことではあった。
クラヴィフィリア、あるいは永遠への律動 湾多珠巳 @wonder_tamami
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