クラヴィフィリア、あるいは永遠への律動

湾多珠巳

断章〜トッカータ 2044年10月11日午後五時四十七分

 誰かの深いため息が聞こえたような気がして、伊摺木いするぎ理仁りひとはふと、辺りを見回した。

 それらしい人物はその場にいない。謹厳な顔で立ち並んでいる保安主任、ホールのオーナーである財団のお偉方、それに理仁と同業の外交官やこの国の文化省関係者たち、もちろん壁面の多面モニターを注視している監視員たち、技術者たちの中にも。

 実際、ため息をつくような場面ではないのだ。半月近く爆破テロの危険が懸念されていた国家級のイベントに、ようやく出口が見えようとしている。格別の不祥事もなく。とはいえ、安堵するにはまだ早く、今はむしろ、今日の分の演目が無事に終わるのを、固唾をのんで見届けるべき場面だろう。

 仮に、今ため息をつくような者がいるとしたら――。

「妹さんには、残念な結果だったようですね」

 耳元への遠慮がちなイタリア語で、理仁は傍らを見た。口ひげをたくわえた精悍な顔つきの、テアトル・アドリアーナの保安主任が、大ホールのステージを中継している正面サブモニターから目を離さないまま、憂愁の漂う表情を浮かべている。

「私を含めてうちの部署にも彼女のファンは多かったのですがね。なんと言ってもよく働いてくれたことだし」

「あ、いえ……このたびはうちのサホがご迷惑を」

「いえいえ、とんでもない」

 主任の顔はどこまでも大真面目だ。それ以上はお互い何も言わず、理仁も今一度サブモニターへ視線を向けた。画面の中では、二週間余りに渡って繰り広げられてきたこのホールでの戦いの、最終結果発表が行われているところだった。

 第五回地中海国際ピアノコンペティション。

 二〇三二年から始まったこの大会は、第二回以降急激に注目度を上げ、今ではリーズやロン・ティボー*に準じるレベルの国際コンクールとして内外に認知されている。今回だって、開催都市であるノーヴァ・アドリアーナのみならず、イタリア全体の――いや、EU圏全体の一大音楽イベントという扱いで、いささか斜陽がかったクラシック業界の話題でありながら、ネット・電波・その他の各メディアも連日報道に余念がないほどだった。

 その最終選考に、日本人コンテスタントが一人だけ勝ち残っていた。理仁の妹、サホである。

 外務公務員の兄と、ピアニストの妹、と言えば、聞いた者はみな一様にセレブめいた響きを感じるようだが、実のところ、伊摺木家はギリギリ中産階級かどうかという家庭。兄妹ともども、苦労してここまで上ってきた身の上だ。サホに至っては、よくは知らないがなんだか世にも珍しい悪運のめぐり合わせに祟られたようで、大卒後ヨーロッパ生活に移ってからも、ずっと芽が出ないままだった。

 妹がコンクールのファイナルに残ったのは、確か何年かぶりの快挙のはず。ここで一気に入賞まで決めて、と、本人も周囲も大いに期待はしていたのだけれども――。

(入賞ならず、か)

 大ホールのステージ実況では、ちょうど司会に促されて二位のピアニストがスピーチをしていた。つまり、サホにはまだ一位の可能性が残ってはいる。だが、さすがにそれはない、らしい。聞いてきた下馬評でも、サホはよくて三位、多分四位か五位を争うことになるだろう、という話だった。何よりも、本人がそう断言していた。もっとも、妹はその予測を「だからこれでやっと入賞できるの!」と満面の笑みで語っていたのだが……。

 地中海コンペティションのファイナルは八人が争う。うち、五位以上が入賞者扱いだ。これも理仁にはよくわからないことながら、ただのファイナリストと入賞者とは、時に大きく待遇が変わるとのことだ。日本の音楽大学での就職をずっと望んでいた妹にとっては、条件的に譲れない何かがあったのかも知れない。

 まあでも、よかったじゃないか、とも思う。爆弾騒ぎで命の危険と隣り合わせだったイベントに関わって、無事に生還できるのだから。

 どうやら今日は別件でとんでもないアンラックも降りかかっていたようだったけれども、それとて厄を出し切ったと思えばいい。あいつも、もう十分だろう。ここらでキリをつけるべきだ。なにしろ、今回サホにオファーが来ているというこの話。これで逆転人生の始まりじゃないか。さっそく今夜にでも、意気消沈しているところに聞かせたら、案外簡単に説得が――

『以上、二位のベアトリーチェ・サーマ・イスクルでした!』

 スピーチが終わり、英・伊二ヶ国語のアナウンスと万雷の拍手がモニタースピーカーから聞こえてくる。

『ではいよいよ一位の発表です!』

 違和感は最初、目の隅で起きた。一応は悠然と構えていた保安主任が、不意に首元へ雨の雫でも食らったみたいに硬直し、「バカな!」と絶叫したのだ。

 一瞬遅れて保安本部の空気が急変した。正面の大型統合モニターは明らかに緊急事態をわめきたてており、側面の補助ディスプレイに何かの脅威判定結果がフラッシュしている。統合安全管理システム運用AI<キケロ>がミリ秒で結論をはじきだし、ただちに連動ディスプレイが大ホール中のある動きをクローズアップした。

「うそ……だろ」

 理仁のうめき声は、怒号が飛び交い出している保安室の中では、背景ノイズの一部にしかならなかった。

 見間違えようがなかった。妹だ。

 サホが客席の外縁部を全力疾走している。二千席規模の客席エリア中央右端から、下手側の外縁通路をまっすぐステージへ向けて爆走していた。明らかに祝福の熱気に興奮してとかの陽性の行動ではない。なにしろ、そのスピードと運動ベクトルを保安AIが脅威と判定したほどなのだ。トレードマークの、黒基調のパンツスーツ姿が、今は不吉な影の塊にしか見えない。まるで標的の首を追尾するヒットマンのようなヤバさ。これはまさに、何かへ……誰かへ、襲いかかろうとでも?

(あのバカっ、いったい何を!?)

 異変に気がついた観客達は動転し、ステージの上も全員動きが止まっている。一部では、乱心したコンテスタントが結果発表に乱入してきたのかと思ったらしく、会場も保安本部もサホを制止する構えへと動いている。だが。

「そっちじゃない! 第一列の上手側だ! カメラマン席の左端、出せ! アングル複数で!」

 保安主任の一喝に、スタッフたちは素早く反応した。そもそも画面の中のサホの視線は、ずっと客席最前列の一ヶ所を睨み続けていたのだ。空きモニターに、そのポイントが複数カメラからの映像で映し出される。そこには一人、サホの接近を察して異様にうろたえている青年カメラマンがいた。右手を三脚上のビデオカメラの内部に突っ込んでいるところで、そのまま中身を引き出そうとしているような、ほっといて逃げようとしているような。

 事実関係を推察する間もなかった。サホが客席最前端にたどり着き、やはりステージには目もくれず、コーナーを曲がってそのままカメラマンめがけて一直線にスパートをかけ始めた。ようやっとサホの意図を汲み取った会場の目が、上手側のカメラマン席へと集まりだす。

 覚悟を決めたように、青年が機械から何かを取り出し、一、二歩舞台へ歩み寄って腕を振りかぶる動きに入った。もう間違いない。逃げるのを諦めたテロリストが、ステージに向けて大型手榴弾を投げ入れようとしているのだ。たちまち群衆がパニックに陥った。悲鳴を上げ、なりふり構わずにその場から駆け逃れようとする。その時。

「『ぜーいん、伏せろおぉぉぉぉぉ――――!』

 仁王のような形相で、サホが叫んだ。日本語だった。通じるはずがないセリフが、この場はあるべき号令として正しく認識されたようだ。客席もステージ上も、ほぼ全員が足を止め、その場に伏せた。依然立っているのは、青年爆弾犯のみ。サホが跳んだ。宙で体を倒し、片足をまっすぐ伸ばした理想のxxxxキックのフォームで、全身凶器となったその体が、一直線に青年の上半身へと吸い込まれていく。

 信じられないほど見事に飛び蹴りが決まり、リリース直前だった手榴弾が床へと転がる。痛撃を受け、サホの下敷きになる形で一旦倒れ伏した青年は、得物が目の前にあるのを見、苦悶に顔をしかめつつ手を伸ばした。それはテロをやり直す意図だったのかも知れず、自衛行動として爆弾を遠ざけたかっただけかも知れなかった。だが、その横っ面を殴りつけて、先に手榴弾をつかんだ猛者がいた。サホだ。すでに安全装置が外れているそれを手に取ると、ためらいもなくサホはステージへと飛び上がり、まっすぐ中央へ駆け出して――

 生きた心地もなく保安本部のモニターを注視していた理仁は、頭をかきむしりながら、今度こそ大声で絶叫した。

「このアホサホっっっ、おまっ、何やってんだあぁぁぁぁぁ――――!!」




*リーズやロン・ティボー

 共に著名な国際ピアノコンクールの名。コンクールの格付けのあり方には緒論あるが、概して「ショパン」「チャイコフスキー」「エリーザベト王妃」を三大コンクールとしてSクラスとすると、それに次ぐAクラスとして十前後のコンクールが知られており、リーズとロン・ティボーはそこにランクされている(二〇二四年現在の業界情勢)。「地中海国際ピアノコンクール」は、それらに仲間入りできるかどうかのランク、という設定。まあ日本だと、入賞すれば三面記事できちんと写真入りで紹介してもらえるぐらいの格付け。










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