桜桃忌の頃に
磐長怜(いわなが れい)
「先に行ってるよ」
水無月、
文豪ゆかりの場所なら
その文豪の言った青葉のトンネルは、雨の止み間に
目尻の緊張が取れないのは、木の間を流れているらしい川のせいでしょう。昔は人喰い川とも呼ばれたその水は、今は緑が勝って紫陽花もぼうぼうと風情なく見えるようでした。
思ったより車が多く騒音とガソリンの臭いに閉口しながらも、そこにあった出来事を
水の音がかすかに聞こえました。
見るとちょうど草花の隙間、清水が底も見える浅さで流れていました。思わず柵に近寄って、眺めました。
見る影もない――
後ろで何か軽い音がしました。
ハッと振り返ると、布が落ちています。手に取ると、珍しいことにタオルではなくて手ぬぐいでした。何度も洗われたであろう柔らかさが、しんなりとなじみました。
落とし主を探すと、左に着物を着た男性の後ろ姿が見えました。他に人もありませんでしたから、きっとその人のものに違いありません。
「落としましたか」
声をかけると、その人はゆっくりと
たっぷりと嫌悪を与えてから、その男は口を開きました。
「ああ、僕のです。」
声だけやけに陽気なのが一層不気味でした。細い縞模様の袖から青白い手がぬっと出てきました。腕は濡れており、指先でも触れ合おうものなら嫌な冷たさが伝わりそうで、私は声をかけたことを後悔しました。
私の
異様なほどに濡れた、全てを拒絶するような、不安の目。
目が合ったまま、私は
途端、何かあふれるものがありました。思考は暗く、ところどころ
ああ、厭だ。Aが厭だ、この男が厭だ、私が厭だ、誰も彼も厭だ。厭だ厭だ。知らぬふりをして食って寝て、希望もなく、夢は承認欲求の餌、どうしてこんな自分が生きていられよう。なにかある振りで生きるふてぶてしさ!
目の前の男が、大変優しく笑ったようでした。
そうか、私はそんな自己を
すっかり道理がわかってしまうと、その手をとれば本当になれる気がしてきました。
「大丈夫!?」
大声と衝撃に振り向くと、Aが私の肩を強く叩いていました。力強さに少しよろけました。
私は、何をしようとしていたでしょう。体がやけに冷たく重く感じました。
あの男の方を向くと、そこには誰もいませんでした。
「ごめん、遅れて。……顔、蒼いよ?ごはん食べてる?」
私は力が入らなくて、Aに倒れかかりました。
「駅のお店まで、戻れる?休んで、できたら何か食べよう」
その言葉に私はAの腕を何とか掴みました。走ってきた腕は熱を帯びていて、この人が生きていることが切なくなりました。
この人は、何かを殺して、食べて、寝て、自己承認だとかそういった欲求に折り合いをつけて、明日に向かっていく人だ。そうして、生きていくことができてしまう人だ。
説明しようのない心地で、暗くなっていく視界の中意識を手放しました。
桜桃忌の頃に 磐長怜(いわなが れい) @syouhenya
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