桜桃忌の頃に

磐長怜(いわなが れい)

桜桃忌の頃に

「先に行ってるよ」

 水無月、三鷹みたか、十三時。文豪の石碑を見たいと言ったのはAなのに、十五分も遅れるというので私は駅を出ました。

文豪ゆかりの場所なら小平こだいらの方に行きたかったのですが、少し待てば、ごめんと走って来るであろう、済まなそうなAの顔を思うと憎みきれなくて、少しだけ先に紫陽花でも楽しんでやろう、そんなつもりで玉川上水たまがわじょうすいに向かいました。


 その文豪の言った青葉のトンネルは、雨の止み間に鬱蒼うっそうとして、足元のどこまでが土なのか、谷の深さも分かりません。

目尻の緊張が取れないのは、木の間を流れているらしい川のせいでしょう。昔は人喰い川とも呼ばれたその水は、今は緑が勝って紫陽花もぼうぼうと風情なく見えるようでした。

 思ったより車が多く騒音とガソリンの臭いに閉口しながらも、そこにあった出来事をぬぐおうと歩いていると、先に信号があるのか、車がとぎれました。

水の音がかすかに聞こえました。

見るとちょうど草花の隙間、清水が底も見える浅さで流れていました。思わず柵に近寄って、眺めました。


見る影もない――


後ろで何か軽い音がしました。

ハッと振り返ると、布が落ちています。手に取ると、珍しいことにタオルではなくて手ぬぐいでした。何度も洗われたであろう柔らかさが、しんなりとなじみました。

落とし主を探すと、左に着物を着た男性の後ろ姿が見えました。他に人もありませんでしたから、きっとその人のものに違いありません。

「落としましたか」

声をかけると、その人はゆっくりと酩酊めいていの危うさで振り返りました。麻の着物はしわが多く出て、良い生地なのに着崩れがひどいようです。遠慮のない胡乱うろんげなまなざしは、落とし物の主ではなかったのかとこちらが身構えてしまうほど不躾で攻撃的でした。何かよほどいやなことでもあったのか。

 たっぷりと嫌悪を与えてから、その男は口を開きました。

「ああ、僕のです。」

声だけやけに陽気なのが一層不気味でした。細い縞模様の袖から青白い手がぬっと出てきました。腕は濡れており、指先でも触れ合おうものなら嫌な冷たさが伝わりそうで、私は声をかけたことを後悔しました。

 私の躊躇ちゅうちょにしびれを切らした溜め息が聞こえて、つい顔をあげ――目が、合いました。


異様なほどに濡れた、全てを拒絶するような、不安の目。

目が合ったまま、私はり人形のようにぎこちなく手を伸ばして、突き出された手に手ぬぐいを乗せました。

 途端、何かあふれるものがありました。思考は暗く、ところどころだま、、になって流れてきました。

ああ、厭だ。Aが厭だ、この男が厭だ、私が厭だ、誰も彼も厭だ。厭だ厭だ。知らぬふりをして食って寝て、希望もなく、夢は承認欲求の餌、どうしてこんな自分が生きていられよう。なにかある振りで生きるふてぶてしさ!


目の前の男が、大変優しく笑ったようでした。

そうか、私はそんな自己を胸襟むなえりに隠して、今日までおめおめと生きてきたのか。

すっかり道理がわかってしまうと、その手をとれば本当になれる気がしてきました。



「大丈夫!?」

大声と衝撃に振り向くと、Aが私の肩を強く叩いていました。力強さに少しよろけました。

 私は、何をしようとしていたでしょう。体がやけに冷たく重く感じました。

あの男の方を向くと、そこには誰もいませんでした。

「ごめん、遅れて。……顔、蒼いよ?ごはん食べてる?」

私は力が入らなくて、Aに倒れかかりました。

「駅のお店まで、戻れる?休んで、できたら何か食べよう」

その言葉に私はAの腕を何とか掴みました。走ってきた腕は熱を帯びていて、この人が生きていることが切なくなりました。

 この人は、何かを殺して、食べて、寝て、自己承認だとかそういった欲求に折り合いをつけて、明日に向かっていく人だ。そうして、生きていくことができてしまう人だ。

 説明しようのない心地で、暗くなっていく視界の中意識を手放しました。

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桜桃忌の頃に 磐長怜(いわなが れい) @syouhenya

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