第38話 ケガレのかげり

 今でこそけがれてしまったケダモノ。うごめく闇に覆われた、実態のつかめぬ狂気。そんな状態であってなお、ケガレ・・・は信じていた――主人の帰還を。



 落ちぶれた神獣はかつて神に仕える気高き存在であった。神に危険が及ばぬようおそばでお守りし、神に危害を加える者あれば速やかに排除する。そうして神獣は神がこの国の人々を見守るのを陰から支えていた。



 ケガレと小国天の出会いは激しい吹雪の夜に遡る。



 いまにも消えそうな儚い命は、路地に放置され、飢えと寒さに震えていた。親猫らは脆弱な仔猫が長くないとみるやほかのこどもたちを連れて拠点を変えた。天敵の少ない人里付近であったが餌も乏しく出産をべつにしては育児に向いてない場所だったのだ。立て付けの悪い廃墟を寝床にしていたため、仔猫もまた、その場所でにゃあにゃあと鳴き声も出ぬ喉で必死に母乳を求めていた。


 育むものなきちいさな命。自然の流れに従って、そのまま死ぬかと思われたソレは、意外なことにさすらっていた神に拾われた。自分の召し物の長い袖を使い、人の親のように仔猫を抱きしめる。そっとおくるみに包むようにしてその仔を社殿に持ち帰った。


「こういうのは本来あたくしの仕事ではないのだけれど――」とつぶやくと弱っている猫に少しだけ神力を分け与えた。


 神の力は薬だ。けれど強すぎるそれは弱った命には効き過ぎるようで、仔猫は指先から与えられる神力に拒絶反応を示した。

 困ったような八の字の眉の彼女。

 抱きしめた体を支えながら頭をやわらかく撫でる。


「大丈夫。なにも心配せず、お前はお生き。神力これは最初はびっくりするが慣れれば空腹も満たされるから」


 水面の光を受けて輝く魚のうろこのように。きめ細かい肌で滑るように猫をさする女神の手。


 安心したのか、女神の手が撫でるごとに仔猫の寝息は落ち着いていった。


 神といえど人のまつりごとのようにそれぞれに権能が分れている。得手不得手のある力で、本来の領域でない力を使って猫の仔を助けたのが小国天であった。女神は権限を用いて、新たな神獣を生んだのだった。



 それから幾年月が過ぎた。

 助けられた仔猫は立派に現世の理から外れた気高き獣となった。恩人である彼女は誇らしげに使いを呼んで膝の上で愛でていた。仔猫とは呼べない大きさになったことで頭だけをちょこんと膝上に。主の手を満足げに受け入れるのが神獣にとってなによりの褒美であった。



 ――人間によってそのしあわせな日々が壊されるまでは。



 小国天は神の子らを愛していた。彼女からすれば人はすべからくこどもであったから。神からすれば共通の見立てではあるが彼女にとっては目に入れても痛くないといった入れ具合である。非礼無礼な態度でも参拝する者に悪人はいないという盲信っぷりである。


 ただしその甘さが行き過ぎたせいだろうか、はたまた時代の流れだろうか。小国天のいる神社からは次第に参拝客が減っていった。彼女と親しくしていた村の者まで谷の方までは降りなくなった。


 そうこうしているうちに神獣ですら守り切れないほどの悪意の形が出現するようになった。神経がすり切れるような出現量に神獣は力を奪われていった。澄んでいた境内の気配が曇っていくのを神獣は肌で感じる。


 なにも異形が悪さをしているのではない。

 形ある人間たちが神社を裏切っていた。


 過ぎた悪戯が積もり積もって数を増やしていっただけのことだ。そうなっても、神の宮の重要性を、多くの人は意識していなかった。


 さらに新手の新興宗教やテクノロジーの進化がもたらした文化の発展によって地域に根ざした信仰心を人々は忘れていった。


 そうして廃れていく神社にあって一番のあおりを受けたのは神そのもの。


 神はそれでも人を見守る道を選んだ。


「もうあたくしの出番はないと思うの。それって人が成長したってことなのでしょう? ああ、こんなにうれしいことはないはずなのに、なぜでしょう。どうしてあたくしは、また、子らに手を合わせてもらいたいと思ってしまうのでしょうか。だめですよね、お前もそう思うでしょう。ちゃんと、彼ら、に、……はなむけ、を――……」


 どんどんうつろになる瞳。神力で栄えていた神社がすさんでいくのを叫び出したい気持ちでみていた彼女の神獣。弱っていく力に薄まっていく気配。遠ざかる彼女の手をつなぎ止めようと神獣は必死でつかまえる。その爪で手についた傷からは余計な神気が漏れ出す。それが分かっていてなお手放せない。


 やさしい主と春を待った縁側で。

 もうすぐ終わる冬の気配を感じながら。

 桜前線の訪れも、人の賑わいも知らぬまま、その神はひっそりと消え去った。


『早く春にならないかしら。今年はちゃんとお花見をしましょうね。きっと、みんなも来てくれる。そうだわ! たくさん、花を咲かせたら――……』


 樹木に芽吹いたつぼみまで落ちる。椿の花のように首ごともがれたつぼみを拾う神獣。さっきまで主の体があった場所には、もう、彼女はいない。


 無くなる間際まで、主が力を使い続けていたことを、神獣は知っていた。

 ただただ昔のように我が子と語らいたかっただけの彼女はそうして逝ってしまった。


 ――哀れな神を思って神獣は泣いた。


 涙がどす黒い怒りで黒く染まるまで泣き暮れて、そうして神獣だったものは人を恨み人を呪い人を憎むことでしか自我を保てなくなった。

 本来なら小国天とともに、その力と一緒に尽きるはずだった魂は、怨念だけの存在になり果てた。


 ケガレの負の感情がますます強い厄を呼ぶ。災いを招く汚れた心だけになってなお、ケガレは主人を求めてさまよっていた。人々に疫病神のように恐れられて、神々からも貧乏神のように忌み嫌われて。石のような言葉を投げられようとどこかへいってしまった主を求めて徘徊はいかいする。


 力さえあれば彼女を守れると思い込んでいるケガレはより強い力を求めてさすらった。



 なごり雪が忘れられない、かりそめの春のなか。永遠のように思えた主人との暮らしを思い出して、ケガレは嘆きをかみ殺す。引き裂かれた絆の代わりにあるのは傷だらけの心だけ。



 無意識によぎった長い髪に目がゆくのは、ケガレにこびりついていた最後の理性、なのかもしれないとツキガミは愚かな獣の顛末てんまつおもんぱかった。


 静かに黙祷もくとうとを捧げたツキガミが目を開ける。


「……――しまいじゃ。ここでお前の妄執を終わらてやる。我がともがら小国天に、その殻捧ぐぞ!!」





 ツキガミが独白を終えたところでケガレが動き出した。


「げ、GEUGEEEEゲェェェェェェ!!」


 すでに我を忘れて復讐の鬼と化したケガレ。

 見境無く人を襲い神を襲い力を蓄えていたケガレの強烈な咆哮ほうこうが交差点に響き渡る。


 本来なら衝撃をともなったその攻撃だが、ツキガミが和らげて音だけに無力化することに成功していた。


 続いて、ケガレが信号機から飛ぶ。

 降りた先はツキガミの目の前。

 だが、待っていたようにツキガミは不敵笑った。


「いざ推して参る!!」


 ツキガミが突如衣装を改める。まばゆい光が収まると、赤と白が主体の巫覡ふげきの格好はそのままに、後ろ髪を一本に結わえ、刀を携えている。下半身もすっきりとして動きやすくなった。


 ツキガミはケガレの挑発に真っ向から応じていた。反射神経を活かして受けた攻撃に返す刀で応戦する。ケガレの視線を誘導し、あえて受け、のれんのように流す、しなやかな戦いぶりを披露する。


 ケガレはもともと単なる仔猫であったが、すでに猫又ねこまた化し、出で立ちだけなら獅子ししのようになっていた。生物としての爪や牙での攻撃はもちろんだが、魔法じみた神の力も使い、加えて太陽が味方している。時間経過で照るという表現は焼くに近くなっている。気温がぐっと上昇し、見守る仲間たちもはやくもめまいを起こしてきた。


 ツキガミが光の網を飛ばすがうっとうしいとばかりに鼻をひくつかせて羽虫のようにはたき落とすケガレ。ツキガミの底が見えたのかケガレはほくそ笑み、強引にツキガミの結界を退けて突進していく。


 白熱している戦場を固めている交差点内部の人々。瑞穂も含めて、そこにはただの観衆は一人もいなかった。あるのは交戦の備えをしているものたちだけ。彼らは神と神の使いが戦う舞台を静観しつつ、隙を探す。


 変身したツキガミに驚かされるも防戦一方でまともに仕掛ける暇がなさそうなことに、瑞穂は気づいていた。まだまだパワーが足りない神を補う方法を必死で探し出そうとしていた、矢先。


 ツキガミの着衣のりを破く、ケガレのトゲ。


 それは瑞穂が犯した過ち、ツキガミの消失を想起させる、絶対的な攻撃――。

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