第22話 クチナシが運ぶメッセージ

 白い月は昇っていなかった。塗料を塗りつぶしたような重い空が広がっている。そんな山の中を携帯のライトをたよりにふもとを目指しているのは瑞穂と大路だった。


 心臓は脈打ち、瑞穂の体は自分を生かそうと必死だ。Tシャツのすそを握りしめるほどのやり場のない感情。もし自分がケガレの怒涛の攻撃を受けていれば、まともな状態であったかは難しいところだったろうと頭では分かっている、そんな瑞穂。

 現に、大路とて、無事ではすまなかった。

 肋骨か、あるいは腹部を痛めたのか、時折脇腹をさすっては前に進んでいる様子からみて無事とは言い難いだろう。

 なんせ彼はあのケダモノに吹き飛ばされているのだ。腕にはかすり傷が目立ち、スラックスの膝頭にいたっては糸がほつれていた。痛みなど、瑞穂とは比較にならないだろうと思った。


 大路に諭されて夜の始まったばかりの暗い斜面を下りていく。彼に誘導され、慎重に一歩一歩進む。ところが瑞穂はそんな彼の親切に礼も言えぬほど気を取り乱していた。

 森の湿った空気がまとわりつくのも、自分が出す嗚咽さえうっとうしかった。

 

 ツキガミが消え去ったことが、瑞穂には未だに、受け入れがたい。

 けれどもその目で見たことも起きたことも変わらない。

 自分の失態でツキガミの消失という事態に陥ったことには。


 懸命に足を動かすふたりを闇にうごめく獣たちだけが知っていた。



「ごめんなさい、……」

 すすり泣きながら謝る瑞穂。

 静寂の中、鳥の鳴き声がした。風でざわめく木々がいっそう不気味に笑う。

 大路は振り向かないままずんずん歩く。

 瑞穂は精一杯の自分の気持ちと落ち度を口にして謝罪し続けた。

「……だから、あたしっ」

 「それ以上謝らないでくれ!!」

 吐こうとした次の言葉はしまい込んだ。

 とうとう大路は声をかけることもなくなった。彼の態度に瑞穂は唇を噛んだ。

 それでもボロボロとこぼれる涙を乱暴に拭いながら足を前に出す。重たい足運びでも、これ以上自分ばかり被害者ヅラをしているのはだめだと言い聞かせて、必死に大路のペースに合わせてけもの道を下った。



 結局、大路とは駅近くのバス停で分かれてそれきりだ。帰宅したルームメイトの様子に心配そうな声音で話しかける友人を避けて、瑞穂は自室に閉じこもる。ベッドの掛け布団をかぶると、泥のように眠った。


(もうなにも、かんがえたくない――)





 週が変わった月曜日、瑞穂は大学を休んだ。

 ゆうどきのチャイムが鳴り響く頃まで寝ていた瑞穂。その後は高い空を窓の内側から眺めるだけだった。

 ベッドから這うように起き上がる。睡眠は十分だったが疲労感は抜けていなかった。

 一度冷蔵庫に向かったが食欲もわかなかった瑞穂はペットボトルのジュースを一本持って、部屋へ戻った。


 うとうとと、気付いたら眠っていたらしい。起きると、なぜか、部屋に男がいた。


 大路だった。


「蕪木さんが休んでいると聞いて。具合が悪いのか?」

「違う、けど……、ええっ!? なんでいるの!!」

 居てはまずいかと首をかしげている大路。瑞穂は慌ててぼさぼさ頭を直すように手ぐしで整える。

(っていうかいつからここに?)

 当然の疑問であった。ベッドの脇には来客用に出したのか丸椅子が置かれている。大路はそれに座って瑞穂が起きるのを待っていたようだ。あの子のおせっかいだろうか、机には彼の文のお茶菓子と瑞穂のかんたんな食事まで用意されていた。ツナ缶まで置かれているのには思わず笑ってしまう瑞穂。

 気まずそうに大路は再度尋ねた。

「やはり調子が悪いのか」

「気分が最悪なだけ。へーき」

「……そうか」

 黙り込む大路。瑞穂もどう返したらいいのかわからなかった。

 所在なさげにさまよっていた視線が、瑞穂に戻ると、目が合った。意を決するように大路は拳を丸めて言った。

「それなら、でかけないか?」

「……ぇ?」

「すまない。俺はこういう場合のコミュニケーションが苦手で、どうしたものか……」

 さっぱりなんだとやみくもに頭をかく大路。照れたような赤ら顔で、困ったようにつぶやいていた。

 そんな大路の気遣いに触れて、瑞穂は。


「三分、時間ちょうだい」と返して大路を部屋から追い出した。



 ふたりは今、水森市のメインストリートを抜けた先にある市立図書館を目指していた。ちょうど大通りから外れた青海川上の橋を渡っている。夏の樹木には名前も知らない白く可憐な花が咲いていた。橋の上を涼しい風が吹き抜けて、瑞穂の黒髪が揺れる。

 向かう先を説明した大路は言った。

「この前のことだが、誤解させたと思う」


 大路のいう誤解がなにを示すかわからない瑞穂。それはそれとして彼は律儀にも、わざわざその誤解を解くために休んだ瑞穂のもとまで訪ねたらしい。女子寮まで来るとはおそれいったが、そも相手が大路なので女子たちの応対も色めき立つものであったに違いない。


「あれは自分の不甲斐なさに憤っていたんだ」、と大路は告げた。

「なんで大路くんが……?」

「俺としても感情のやり場がなく、頭で整理しようにも、なかなか熱がとれなかった。だから返事ができなかった」

 感情の整理をしていたのだろう。自分の中で消化しようと、必死で。

 瑞穂はそう思った。

 言葉が足らなかったことを彼は悔いている。

 瑞穂も口を開けた。


「わたしのほうこそごめんなさい。大路くんばかり振り回して」

「べつにいい。蕪木さんだって辛いだろ。あの場では動揺していたが、俺は慣れたから」


 思わず、足が止まっていた。


 慣れた、という表現。きっといなくなったキョー先輩のことだろう。

 白い花が風で散った。瑞穂の視界に入ったのは可憐な花びらと大路が浮かべる儚い笑み。

 自分だけではないことを、改めて痛感した瑞穂。


「あの時は受け止められなかったが、すべてが蕪木さんのせいではないよ。たしかに君にも落ち度はあるから反省も必要だとは思う。それでも全面的に悪いのはあのケダモノのせいだ。だからこれ以上自分を責めないでくれ」

 表面張力の限界を超えたように、膜を張っていた水滴が目からこぼれ落ちた。

 弱気と泣き言をいう瑞穂を大路が勇気づけている。

 擦り切れそうな神経なのは、彼も同じだろうに、と瑞穂は思った。

 人目から隠すように、彼は手持ちのタオルを瑞穂に頭からかけた。荒い手つきでぶっきらぼうに背中をさする。瑞穂にとってはただの介抱だが、通り過ぎた人にはどう映るだろうか。


「俺も……その、君が落ち込んでいるのをみるのはなんだか心苦しい、から……」

 大路は後半でトーンを落とし、最後はボソボソとつぶやいていた。

  瑞穂に語りかけた、彼のやさしさとつよさに。泣かせてくれる、その器の広さに。ツキガミを失って責任感で不安定になっていた精神がようやく凪いでいくのを感じた。


 泣き言をいってすっきりとした瑞穂。

 欄干らんかんにもたれかかかっていた大路は瑞穂を促して歩き出そうとしている。


「どうかしたか?」

「ううん、なんでもないの。あの夕陽が、きれいだなって」

「そうか」

 彼はそうつぶやいた。

 

 夕陽に照らされて潮騒のようにきらめく川の上で、瑞穂はそっと、まなじりを拭った。

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