【閑話】微睡みの記憶(2)
「お淑やか……? ははっ、まさか! つい最近まで木剣を持って家臣の子を追いかけ回していたんだぞ? ニネミアの淑女教育をサボってよく怒られたりして……」
「ミオ聖下が手配して下さった家庭教師殿曰く、聖都育ちの御令嬢に引けを取らないほど優秀だとか。普段から言葉数も少ないので元から大人しい性格なのだと思っておりましたが……本当に木剣を振り回していらしたんです?」
「街の子どもにちょっかいをかけた子息を漏らすまでボコボコにしていた」
「それは本当に姫様なのですか?」
「サリアが言っているのも本当にアイシャなのか?」
「……会えばおわかりになるでしょう。さ、どうぞ」
ギィ、と開けられた扉の奥から午後の光が差し込む。眩しさで一瞬目を細めたルーカスの視界に、見覚えのあるドレスが映った。ミオとシオンが婚約の取り決めで桜の館を訪れることになって、急遽ニネミアが仕立てさせた一着だ。時間のかかる採寸や生地選びに飽きてしまって、最後は肌着のワンピースのまま窓から逃げ出してしまった我が子を、使用人たちと一緒に慌てて追いかけた。「ドレスなんていらない!」と言って騎士団の訓練所へ逃げ込んだアイシャなら、一目散にルーカスの胸へ飛び込んでくるはずなのだが。
「アイ――」
ルーカスが言葉をかける前に、見慣れぬレディは右の爪先を後ろへ引くと、ドレスの裾を軽く摘まんで膝を曲げた。一本の線のようにしなやかな背筋に、下ろされた銀髪がさらりとかかる。ぶれがなく芯のある美しいカーテシーを見せた娘に、ルーカスは息を呑んだ。
「お父様、お久しぶりです。こうしてお顔を拝見できたこと、心より嬉しく思います」
「あ、ああ……」
慎ましやかに父の前に出たアイシャは爪先に力を入れて背伸びすると、呆ける頬に軽く挨拶のキスをした。目が合って微笑みかける娘に、留守を頼んだ愛しい妻の顔が重なった。背後のサリアは「ほら見たことですか」とでも言わんばかりだ。
倒れ込むような全力のハグも、無邪気な笑顔も、元気な笑い声も。ルーカスの記憶にあったお転婆な姿はまるでない。そこにいるのは徹底的に教育を受けた高貴なレディで、きっと誰もが「第二皇子の婚約者にふさわしい」と手を叩いて賛辞するだろう。
だがルーカスは、淑女の証である手袋を纏った指先が微かに震えていることに気づいた。
「……出迎えご苦労、アイシャ。すっかり見違えて驚いたな。よければここでの話を聞かせてくれないか?」
「もちろんです。こちらへどうぞ。サリアに美味しいお茶の淹れ方も教わったんですよ。お父様に振舞いたくて」
「それは楽しみだ」
たった半年会えなかった間にまるで別人のようになってしまった娘の横顔を見つめる。それが彼女の覚悟と努力だと思えばこそ、ルーカスは父ではなく王として振舞おうと決めた。せめて、今だけは。
⚜
その日の夜。湯浴みを終えたアイシャは、寝室で髪を梳かすサリアへ鏡越しに尋ねた。
「わたし、上手にできたかしら」
「ルーカス様のお出迎えのことですか? 王は姫様の成長をとても喜んでいらっしゃいましたよ。立派なレディになられて、きっと誇らしいことでしょう」
「そう、よね……喜んで、くださったわよね……」
「姫様……?」
どこか寂し気に見える少女の様子に、サリアは思わず櫛を止める。そこへ外からノックが響いた。もう遅い時間に何事かと扉へ急げば、そこにいたのは丁度話題にしていた人物で。
「ルーカス様……? このようなお時間にいかがなさいました? 姫様に御用なら私からお伝えしますが」
「せっかくだから親子水入らずで話がしたくて。悪いが外してもらえないか、サリア」
「ですがまだ御髪の手入れが途中で……」
「ニネミアの手伝いで慣れてるんだ。任せてくれ」
「まぁ……」
それはそれで一国の王としてどうなのか。サリアは一瞬顔をしかめたが、彼の愛妻家っぷりは領国内では有名な話だ。妻と過ごす時間が少しでも多くなるよう作使用人の真似事をしていたとしても不思議じゃない。
サリアは渋々一礼し、寝室の外に出た。ルーカスは慌てて立ち上がった娘の肩を押して再び鏡台に座らせる。櫛へ伸ばされた父の手に、アイシャはぎょっと目を見開いた。
「じ、自分でできます! お父様にそのようなことっ……」
「俺がしたいんだ。いいだろう?」
「あ、ぅ……」
借りてきた猫のようにすっかり大人しくなってしまった銀髪に櫛が添えられた。気が動転した表情を見られないように、両手で顔の下半分を覆う。
(どうしよう、昼間はせっかく上手くできたのに……!)
本当は今すぐ振り向いて、大好きな父に思い切り抱きつきたい。半年も会えずにいた寂しさが胸の奥から強烈に込み上げる。だけど立派なレディになったことを喜んでいる父を失望させたくない。どちらも本心で、だからこんなにも苦しい。抑えきれない感情が涙に変わり、うっすらと目が潤む。
一方でルーカスは、少しも引っかからない滑らかな髪を梳かしながら、鏡に映る娘の本心に気づかないふりをして、穏やかに語りかけた。
「アイシャがレトで頑張っていることはよくわかった。桜の館にいた頃とは見違えたよ。ニネミアもきっと驚く」
「あ、ありがとう、ございます……」
「だが、少し心配だな」
「え……?」
自分は何か失敗してしまったのだろうか。不安になって背後を振り返る。すると待ち構えていたように頬へキスをされた。啄むように何度も振れる唇がくすぐったくて、温かくて。今朝、鏡の前で「氷のようだ」と思っていた表情が解けていく。気づけば頬を涙が伝っていた。
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