【閑話】微睡みの記憶(1)

 その日、アイシャはいつもより遅く眠り、いつもより早く目を覚ました。伝書梟グーフォが届けた一通の手紙に浮かれてしまったのだ。「感情を表に出すのははしたない」と家庭教師から毎日言われているのに。だがどうしたって頬が緩んでしまう。聖都レトに来て半年。こんなに待ち遠しい朝があっただろうか。

 寝台から飛び降り、窓辺に座って曙色に染まる早朝の空を眺める。タウンハウスの門の外に人影はない。到着は今日の夜になると聞いていたので当然だ。わかっているのに目を凝らしてしまう。それくらい早く会いたかった。


「お父様たち、もう丘を抜けたころかしら」


 故郷からレトへ繋がるなだらかな丘陵を駆ける騎馬隊を思い浮かべれば、寝不足なんて忘れられた。懐かしい蹄鉄の音が今にも聞こえてきそうで、普段はきゅっと引き締まった口元が淡く綻ぶ。


『降誕祭でしばらくレトに滞在する。早くアイシャの顔が見たい』


 降誕祭とはメリューがレティガント大陸を海から引き上げた始まりの日を祝う聖祭である。一週間前にルーカスから手紙が届いてから、白桜騎士団を引き連れた父が門へ現れるのを毎日待ち侘びていた。

 シオンと婚約してから単身レトに移り、半年。グリツェラ家に良く仕えてくれている使用人たちに囲まれているが、全く寂しくないと言えば噓になる。レトに暮らすのはメーヴェ教会の中枢に食い込む上級の信者たちで、平たく言えば多額の献金をつぎ込んだ貴族などの富裕層が多い。彼らはメリューの加護を少しでも多く独り占めしようという思想があるため、余所者には排他的だ。加護と言っても皇室と密接に繋がる教会からの特別な贔屓なわけだが、それを口にすることはタブーとされている。七聖家も各国では信仰の象徴とされるが、聖下のお膝下であるレトでは田舎貴族も同然。つまり、ここ半年でアイシャの交友関係は冷え切っていた。後ろ盾のないレトで唯一頼れるはずの婚約者は、政務が忙しいことを理由にタウンハウスへ近づこうともしない。はっきり言うと避けられている。さすが「形だけの婚約」だ。


 腰かけた窓辺にぽつんと置かれた空の花瓶を見て、浮足立っていた胸が切なく軋む。先月迎えた十一歳の誕生日にシオンから届いたカスミソウの花束は、もう枯れてしまった。毎日アイシャが手ずから水を替えて手入れをしても、永遠に咲き誇ることはできない。それが寂しくて、やるせなくて。急激に心細くなり膝を引き寄せて縮こまるが、婚約に前向きだった父を思うと、そうも言っていられない。


(こんな情けない姿を見たら、お父様ががっかりしてしまうかも)


 父の期待を裏切らないためにも、心細くなっている弱い姿を見せるわけにはいかない。目覚めた時の胸の高鳴りは、一気に緊張へ変わった。


(第二皇子の婚約者として相応しいレディに成長してるところを、ちゃんとお見せしないと)


 そうと決まれば、甘えた心は不要だ。窓辺から降りて姿見の前に行く。磨き上げられた鏡に映ったのは、不安を押し殺した気丈な顔の少女。硬く冷たい無表情がまるで氷みたいだと思って、無性に泣きたくなった。それでも震える胸を張って顎を引く。ミオ聖下が直々に手配してくれた皇室お抱えの手厳しい家庭教師の指導を思い出して、叩き込まれたカーテシーの所作を何度も確認した。




 ⚜




「道中は円滑だったようですね、ルーカス王。ご到着は今夜と聞いていたのに」

「娘の顔を思い浮かべながら馬を走らせていたら、予定よりも早く着いてしまった」


 出迎えた初老のハウスキーパーの女性・サリアと軽く挨拶を交わし、ルーカスは旅用の外套を預けた。その後ろに控えた白桜騎士団の重鎮ドルトン・ラドクラフトが豪快に笑う。


「ルーカス様ときたら、顔に人参をぶら下げた馬のような勢いでしたぞ!」

「ラドクラフト卿、言葉を選らばないか」

「構わないさ、ダリオ。それにアイシャは人参なんかよりもずっと魅力的だ! 駿馬になるのも当然!」


 興奮気味に目を輝かせて語る主に、ダリオ・ブラント侯爵がやれやれと肩をすくめる。これでは女神の降誕祭の方がついでのようだ。

 久々に顔を見せたタウンハウスの主に、使用人たちは自然と笑顔を浮かべる。外套を受け取ったサリアも、目元のしわをより深くした。ルーカスは家臣たちに各々休むよう伝えると、彼女の案内でアイシャの待つ応接間へ向かった。


「あんなに小さかったルーカス様が今や一国の王で、しかも人の親だなんて。私も年を取ったわけです」

「サリアも息災のようで何よりだ」

「引退して故郷に戻った乳母を呼び寄せて『娘と一緒に聖都へついていってくれ』だなんて。我が王直々の頼みでなければ、耳が遠いふりをしていたかも」

「良かった、耳も健在で。あなたほど信頼できる人がどれだけいると思う?」

「いるではありませんか。あなたの背後に、たくさん」


 サリアが柔らかく目配せしたのは、晴れやかな笑顔の忠義の家臣たち。彼らの父のそのまた父の父――長らく続いた忠誠は衰えることなく、今日まで紡がれている。二階へ続く階段からその光景を見渡し、ルーカスは薄氷の瞳を細めた。


「……聖妃のお膝下では表立って白桜騎士団を動かせない。あの子をここで守ってやれるのは力ではなく、優しさだけだ」


 レトの第二皇子とグリツェラ領国の姫君の婚約を承認する条件として、聖妃マグノリアはアイシャが成人するまでレトで暮らすように申しつけた。皇家に相応しい素養を身に着けるためだと言ったが、監視の目が届く範囲に置いておきたい、といのが本音だろう。人質の意味も込めて。


「マグノリア様はシオン殿下が兄君の立場を脅かすのではないかと必要以上に警戒している。アイシャとの婚約も、白桜騎士団を手に入れることが目的だと思われているようだ」

「我が子が一番に可愛い母の気持ちは私にもわかります。乳飲み子のまま死んだあの子を未だに夢に見るのです。きっと死ぬまで忘れない……」

「サリア……」

「ですが自分の子と同じくらい、今はあなたたち親子のことを心から大切に思っています。騎士のように剣を握ることはできませんが、私も持ちうる限りの愛を尽くしましょう」

「……やはりあなたに頼んで正解だった。ところでアイシャは元気だろうか? 桜の館ではお転婆すぎて使用人たちもよく手を焼いていたが、苦労をかけていないか?」

「姫様が、お転婆……?」


 ルーカスの記憶よりも小さくなったサリアの背中が応接間の扉の前でくるりと反転した。


「私は半年前にこのタウンハウスへ来て初めて姫様にお会いしましたが、今日までずっと物静かでお淑やかなレディでいらっしゃいましたよ」

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