【閑話】微睡みの記憶(3)

「ぁ……ごめ、なさぃ……こんなの、立派なレディじゃない……!」

「立派だよ。タウンハウスのみんながそう言ってる。頑張りすぎていないか心配になるくらいだ」

「でも、レディは人前で泣いたりしないって、先生がっ……」


 胸の奥底に必死に押し留めていた寂しさや甘えが、堰を切って涙と一緒に溢れ出す。表情で悟られてはいけない。要求を口に出して伝えてはいけない。感情に振り回されてはいけない。レトで生まれた生粋の淑女である良家出身の家庭教師に毎日復唱させられた。第二皇子の伴侶として生きるなら当然のことで、それがルーカスの評判にも繋がると。なのにこんな醜態を露呈するなんて。情けなくて、両手で顔を隠して俯いてしまう。


「ごめんなさい、わたし、全然だめです。本当はさみしくてたまらないの。お父様とお母様に会いたいって、いつも考えちゃう。ソフィアにも、ロイさんにも、みんなに会いたい……帰りたい、って……! でもそんなのだめ、だめなのに……ごめん、なさいっ……ごめんなさい、おとうさま……!」


 涙声で吐露された哀願と謝罪を受け止めたルーカスは、込み上げる狂おしさのまま震える背中と髪を何度も撫でる。


「先生が言っているのは他人の前での話だ。それともパパはもう他人かな?」


 手のひらに嗚咽と涙を吸い込ませたまま、小さな頭を何度も小刻みに横に振る。「よかった」と微笑み安堵するルーカスを、雪解けの瞳が鏡越しに恐る恐る見上げた。


「こ、こんなわたしに、がっかり、しませんか……?」

「するもんか! むしろ昼間は他人行儀で少し寂しかったぞ」

「……ぎゅってしても、いい……?」

「してくれたらとっても嬉しいな」

「……ッ」


 鏡台の椅子から衝動的に立ち上がって振り向いたアイシャがとん、と床を蹴る。飛びついた娘をしっかりと胸に抱き止めたルーカスは、ようやく愛する娘と再会できた気がした。

 その日、二人は数年ぶりに同じ寝台で夜を過ごした。身体を横にして向かい合わせになり、一人では広すぎた寝台の真ん中で寄り添い合う。「ニネミアには内緒だよ」と、ルーカスは悪戯っぽく笑った。年頃の娘と寝床を共にするのを、妻はあまり良しとしない。「私だってアイシャと一緒に寝たいのを我慢してるのに!」と柔らかな頬を膨らませて、愛らしく怒るのだ。だから、これは二人だけの秘密。


「もう少し温かくなったら身体の弱いニネミアでも丘を越えられる。そしたら今度は、ここで三人一緒に寝よう」

「お母様も、一緒に……」


 甘やかな母の腕の中を思い出し、夢見心地につぶやく。とても甘美な約束に思えて、噛み締めるように深く頷いた。


「アイシャは何かしたいことはあるか? してほしいことでもいいぞ? 何でも言ってほしい」

「……本当に、なんでもいい……?」

「もちろん! こう見えてパパも一国の主だからな。愛する娘の頼みなら何でも叶えてあげちゃうぞっ!」


 おどけて言うルーカスにつられて、アイシャの口元にも小さな笑みが浮かぶ。横になった顔の前で遠慮気味に握っていた手を解き、胸元へ置いた。


「剣の稽古がしたい、です」

「剣? ここではしてないのか?」

「先生が、レディには必要ないって」

「……その家庭教師はグリツェラ家のことを全く理解していないな。ミオ聖下に進言して、別の者に代えてもらおう」

「だ、だめです、そんなの。……やっぱり忘れてください。シオン様もきっと、剣を振り回すような婚約者は嫌でしょうし」


 空になった花瓶へ視線を送り、顔合わせからただの一度も会いに来ない彼を想った。レトには剣術を習う女の子はいないらしいし、もしかすると野蛮だと思われているのかも。ルーカスから教わったグリツェラ家の伝統と誇りでもある剣を否定されてしまうのは、とても悲しい。シオンの隣に並び立つ自信がどんどんなくなっていく。

 小さく縮こまってしまった娘を優しく抱き締め、ルーカスは柔らかく笑った。


「そうかな? シオン殿下はアイシャが強ければ強いほど嬉しいと思うぞ」

「……じゃあ、今より強くなったら会いに来てくださる?」

「ああ。そのためにもまた稽古しなくちゃな。よし、明日は久々にパパが相手になろう」

「ほんとに!?」


 ぱっと明るくなった顔が腕の中に咲く。

 ルーカスは破顔せずにいられない。


「降誕祭が終わるまでは毎日やるぞ。そうだ、戻ったらロイにも声をかけてみるか。きっとダリオの後継者教育を放り投げてブラントの屋敷から飛んで来るぞ、あいつ」

「め、迷惑じゃないですか? ロイさんがダリオ様に怒られちゃう……」

「アイシャのためならダリオも口うるさくは言わないさ。アイシャと同じように、ロイも、ソフィアも、みんなアイシャに会いたいと思っているんだから」


 そう言われると、胸の奥がくすぐったくなる。寂しい、恋しいと思っていたのは自分だけではないのだと知って、嬉しくないわけがない。


「ヴェルナー様の二番目の御令孫も降誕祭に来てるはずだから、稽古に誘ってみよう。剣術に興味があるらしいんだ。たしかアイシャと同い年だったかな。きっと良い友人になれる」

「楽しみです。でも男の子にだって負けませんよ、わたし」

「ああ、叩きのめしてやろう」


 二人でくすりと笑い合い、微睡みに身を委ねる。アイシャがレトに来てから一番温かな夜だった。

 夢見心地で瞼を閉じる前に、大好きな父の声が耳元で囁く。


「たとえ困難な道だろうと、剣と愛があれば切り拓ける。離れていようとアイシャの幸せを誰よりも願っているよ。ずっと、ずっと……――」

「ん……お父、様……」


 耳の奥で木霊する願いに誘われ、アイシャが再び目を開けると。

 一人で横になった広い寝台の上に、カスミソウの花が一つ、ころんと落ちていた。

 背中だけでは注ぎ足らず狂い咲いたシオンの愛情の証。寝室を埋め尽くすほどのカスミソウの山を使用人総出でようやく片付けたのだが、まだ残っていたらしい。

 夜明けはまだ先。ぼやけた薄暗い視界でシーツの上に落ちたカスミソウを摘まむ。その少し先にも一つ、また一つと落ちていた。視線を移せば、夢の中では空だった花瓶にもあふれそうなほどの量が挿してある。「屋敷中の花瓶を集めて飾ってもまだ足りませんね」と、老齢になったサリアが朗らかに笑っていた。その隣で気恥ずかしそうにしていたシオンを想うと、きゅっと胸が甘やかに軋む。


「――お父様……私、とっても幸せです」


 一度はたくさんのものを失い、望みは何一つ叶わなず、命さえも弄ばれたけれど。今はこうして、あれほど焦がれていたものに囲まれている。二度と花瓶が空になることはないだろう。そう素直に信じられるほど、今が愛しい。

 摘まんだカスミソウを手のひらに乗せて緩く握る。幸せな朝を臆せず思い浮かべ、アイシャは再び目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 20:05 予定は変更される可能性があります

死に戻り刃物姫の研ぎ直し~愛されなかったから剣を取ったのに元婚約者から溺愛されてます~ 貴葵 音々子 @ki-ki-ki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画