【閑話】カスミソウの邸宅にて(1)
ご褒美が欲しいとは言った。たしかに言った。言ったのだが――。
(息、できなっ……)
皿のすみまで舌を這わすように、歯の裏や
キスの経験が乏しいせいで息を吸うタイミングもわからない。酸欠で段々と頭がくらくらしてきた。
「ふ、ぁ……や、シオンさま、待っ……んぅっ!」
一度離してほしいとシオンの胸元を押しても、却って深くを愛されてしまう。
奥へ逃げる舌先にじゅっと吸いつかれ、その荒々しさに肩が跳ねた。
「ん……甘い味がする。酒を飲んだのか?」
「ぁ……て、テンが持って来てくれたのを、一杯だけ……」
「スーラの果実酒だな。ここ数年は桃が豊作だったらしい。葬礼の儀の後夜祭で振る舞うのに大量に運び込まれるのを見た」
「お持ちしますか?」
「いや、
「どこ……? ――んんっ!?」
そう言ったシオンがふっと笑ったと思ったら、再び唇を塞がれてしまう。もう風味しか残っていないだろうに、柔らかい舌が水音を立てながら丹念に口内を味わっていく。
(私は
惚れた弱みとでも言うのだろうか。弱さは一番憎むべきものなのに、どうにも彼を突き放せない。
月明かりの下、口紅まで残さず舐め取られてしまった唇がお互いの唾液で艶めく。
踊り疲れたのもあって、アイシャは急激にアルコールが回り始めたのを感じた。
「そろそろタウンハウスへ戻ろうか」
「ですが、ミオ様の
「父上はそこまで狭量ではないさ。それに、
「へ!?」
さっきまでの口付けが続きだと思っていたのに、違う、だと――!?
その先を想像してすっかり固まってしまった婚約者の肩を抱いて、シオンは人目を避けながら馬車の待機場所へ向かった。
⚜
グリツェラ家のタウンハウスへ戻った二人を、使用人たちは笑顔で出迎えてくれた。
桜の館からついてきてくれたソフィアに湯を沸かすように伝えると、シオンはアイシャをそそくさと主寝室に連れ去ってしまう。
手を繋いだまま長い足で廊下をズカズカ突き進む紫黒色の後頭部に、続きをねだった本人は内心で激しく目を回した。
(つ、続きって、そういう……!? ちが、私はふしだらなことをしたくて言ったわけじゃなくて!)
まだ婚約しただけで、婚姻を結んだわけではないのに。
いくら甘い雰囲気だったとは言え、軽率な言動をした自分が憎い。舌を切り落としたい気分だ。
それに――キスより先の行為に、アイシャは苦しい思い出しかない。
「シオン様、あのっ……」
どうにか考え直してもらおうと声をかけるが、シオンの手は寝室のドアノブを押した後だった。
最低限の燭台が灯る室内にはアイシャのための天蓋付きの寝台が一つと、グリツェラ領国の職人が作った質の良い家具が並ぶ。ワードローブにはいつもの騎士服と剣が提げられていた。
寝台の奥にある窓辺で来るはずのない婚約者を毎日待っていたかつての日々が鮮明に思い出される。見慣れた寝室のはずなのに、シオンがいるというだけで全く違う場所に思えた。
「アイシャ、どうした?」
閉ざされた扉の前から動けずにいると、手を取ってゆっくり引き寄せられる。蝋燭の淡い明かりが壁に映し出す異性のシルエットに、苦い記憶が蘇った。とたんに身体中の筋肉が萎縮し、震え上がる。
(違う、シオン様はあの人じゃない、違う、違う、違うっ……!)
揺らぐ視界にちらつく悪魔の影を目を閉じて追い払おうとするも、記憶の中の暗い世界から残酷な手が伸ばされる。
「お前の泣き顔は最も美しい」と恍惚に囁かれながら、悪戯にいたぶられた。
痛みと恐怖に怯えると金髪赤眼の悪魔はことさら喜び、その加虐性をさらに増長させる。
一国の姫君どころか人としての尊厳を徹底的に踏み潰され、嬲られて。
さっきまで公衆の面前に背中を晒していたと言うのに、その身に受けた仕打ちの痕が今も身体に残っているような気がした。
いくら未来を変えても、一度経験したものはなかったことにならない。
瘡蓋の下から血潮が噴き出すように、濁流のごとく溢れ出した凄惨なトラウマが目の前を塗り潰していく。
「アイシャ?」
「ひっ……!」
頬を滑った指先に、大げさに肩が跳ねる。
それまでの甘い雰囲気が嘘のように青褪めた表情をする愛しい人の様子に、菫色の瞳が見開かれた。
真っ白になったアイシャの頭には、最悪な展開がぐるぐると
このトラウマは欠陥だ。いくら婚前交渉を回避しようと正式に婚姻となればすぐにでも初夜を迎えるのに、まともに行為にすら及べないなんて。
きっと呆れられてしまう。もしかしたら不純を疑われるかも。今生ではもちろん誰にも身体を許したりはしていないけれど、刻まれた記憶は今も塞がらない傷になって残っている。
どうしよう、何か言わなければ。もう捨てられたくない。
だが焦るほど言葉が喉の奥に引っ込んでしまい、ひゅっ、と掠れた息ばかりが吐き出される。
すると、緊張で乾いた唇に柔らかいものが押し当てられた。
しばらく呆然としていたが、それが彼の唇だと理解して、壊れそうなほど早鐘を打っていた心臓が徐々に静けさを取り戻していく。
唇に、頬に、目元に。触れるだけのキスを何度も繰り返されるうちに、アイシャの視界から悪魔の影は消え去った。
「シオ、さ……ぁ……ご、ごめん、なさい、私っ……!」
「謝らなくていい。急なことでびっくりしたんだろう? 本当に嫌だと思ったら前みたいに引っ叩いていいんだ」
安心させるように冗談っぽく言って、額に唇が押し当てられる。軽いリップ音を立てて離れた温もりにつられて視線を上げると、柔らかな微笑みと交差した。甘く蕩ける菫色の瞳に見つめられると傷口が閉じていくような気がして、目尻に浮かんでいた涙がすっと消えていく。
「ちゃんと婚姻が結ばれるまで君が不安に思っているようなことはしない、絶対に。そんなことをしたらルーカスと夫人に合わせる顔がなくなる」
「でも、じゃあなぜ寝室に……?」
首をかしげるアイシャの手を今度こそ引いて、シオンは寝台ではなく猫足のカウチへ向かった。
座面に深く座った彼の膝の間に促され、恐る恐る腰を下ろす。
「シオン様、あの、これは……?」
「別にそういう行為に及ばなくても、君をとことん愛でたいと思うのは普通だろ?」
「そう、なんですか……? っ、ひゃ!?」
背後を振り返ろうとした
(くすぐったい……はずかしい……)
でも、嫌じゃない。
ちゅ、ちゅ、と唇が急所に吸いつく音が何度も響く。羞恥を
背中を覆うように幾重にもレースが重なった上質なヴェールが、二人の足元にするりと落ちていく。シオンは踏んでしまわないようにそれを拾うと、カウチの空いたスペースに寄せた。
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