第20話 口付けと弔鐘

 ミオの葬礼儀に際し、シオンに帰還命令が下った。それがトライノーツ経由で届いたということは、皇家が彼の動向を掴めていないという何よりの証拠。七聖家も葬儀参列のため聖都へ招集された。事は予定通りに進んでいる。


 そして、現在――。


「私も、あなたにちゃんと愛してほしかった」


 葬儀会場である城の聖堂から少し離れた人気のない別館の一室で、秘めやかな愛が育まれる。アイシャはシオンの腕の中で、深い口付けに身を委ねた。


 恐怖とか、後悔とか、建前とか。

 アイシャの本当の気持ちを押し込めていた堅牢な扉の鍵を、触れ合う唇が一つずつ解いていく。


 もう二度と愛さないと誓うくらい、本気で愛していた。今も、ずっと変わらず。


「ん……ふふっ、もうぶたないのか?」

「っ、意地が悪いです、シオ……ふ、んぅッ」


 唇の隙間から吐息混じりに揶揄からかうシオンに向けた抗議も、そのままぱくりと食べられてしまった。


 重なり合う鼻先。

 混じり合う吐息。

 吸いつく唇の凹凸。


 痛いことは、彼ではない男にたくさんされた。数えきれないほどの傷も負わされた。

 こんな風に、ただ愛情を注ぎ込まれるようなキスは知らない。立ったまま溺れてしまいそうになる。身体の全部を砂糖に変えられて、爪先から甘い熱で溶かされていくように。


「んっ、アイシャ……」


 少しずつ角度を変えながら何度も唇が重ねられ、愛おし気に名前を呼ばれる。夢みたいだった。以前なら期待するのが怖くて遠ざかってしまっていたに違いない。それこそ平手打ちをしてでも。だが、今はもう違う。


 自分一人では取り戻せなかったであろう全てを、シオンが手繰り寄せてくれた。「共に戦おう」と手を取り、導いてくれた。時を遡った世界で一人奮闘していたアイシャにとって、それがどれだけ心強かったことか。


 だからもう一度だけ――これで最後だと自分に言い聞かせて、愛してみようと思った。


「す、き……すきです、シオン様が、好きっ……」


 熱に浮かされた譫言うわごとのように、溢れる想いが言葉を形作る。

 狂おしいほど求めていたその全てを取りこぼさないよう、シオンは甘く色づいた唇に舌を這わせた。


「ふっ、んぅ、ぁ……ッ、んン!?」


 唇の隙間から入り込んだ熱くて柔らかいものに、より深くを愛でられる。驚きで目を見開いた先で、菫色の瞳がいっそう美しく細められた。夢中になっていた顔をずっと見られていたのかと思うと、とんでもなく恥ずかしい。だけどそれ以上に、一瞬たりとも離れたくなかった。


 ――ずっとこのまま溶け合っていれたらいいのに。


 互いにそう思った時、日が落ちた聖都に弔鐘が鳴り響いた。一般の弔問が終わり、ミオとの最後の別れを行う準備が整ったことを告げる合図だ。それはつまり、二人が用意したが放たれるということ。


 澄んだ鐘の音が消えかけた頃、ようやく唇が離れる。最後に震える舌先をじゅっと吸われて、ぞくりとした熱が尾を引いた。


「名残惜しいが、時間だな」

「は、い……」

「そんな物足りなさそうな顔をするな。離れがたくなってしまう」

「ッ、してません!」

「そうなのか? 俺は全然足りないが」

「ひゃぁっ!?」


 赤くなった耳元へ寄せた唇がわざと低い声で囁く。それだけで腰砕けになってしまった最愛の人を満足げに抱き留めたシオンは「さっさと終わらせて、続きをしような」と言って、妖美に微笑んだ。




 ⚜




 聖堂に集まった皇族、七聖家、有力貴族たちを天井に描かれた創世の壁画が見下ろす。聖堂の外では、中に入りきらない平民たちが祈りを捧げていた。


 小部屋でシオンと別れたアイシャは、白桜騎士団の諸侯たちを引き連れて厳かな正面扉をくぐる。

 それに目敏く気づいたリヒトが、尊大な笑みを浮かべて歩み寄った。


「城内はお前の噂で持ち切りだぞ、。戦場ではなくしとねでの切れ味のことだと語る声もあるが、本当か?」


 不遜な足音を響かせて主君を侮辱する仇敵に、背後の騎士たちに殺気が走る。


 だがアイシャは、自分でも不思議なほど心が凪いだままだった。顔を合わせたらもっと取り乱すものかと思っていたが、かつての恐怖を塗り潰すほどの愛情をその身に受けたばかりだからだろうか。凛とした表情を崩さず、胸に手を当てて一礼する。


「リヒト殿下、この度はお悔やみ申し上げます」

「ほぉ、二年も戦場にいてずいぶんと厚顔になったようだな。その美しい顔を剥いでやりたくなる」

「ご冗談を。それに剝いだ中身が望み通りのものとは限りません。試してみましょうか?」


 毅然とした態度で美貌に笑みすら浮かべられ、リヒトはわずかに後退った。


 今のアイシャには牙がある。背後に控える忠義の騎士たちが。

 それにもうなぶられて泣くだけの無力な女じゃない。この男が望む泣き顔も、許しを乞う言葉も、弱さも、何一つ与えてやるものか。


(私が一度目の人生で犯した最大の罪は、戦わなかったこと)


 父の首が飛んだ光景を目の当たりにして、大切な人を次々と奪われて。立ち直れないほどの絶望に屈し、ただ流されるだけの人形になってしまった。

 剣は奪われたんじゃない。自分で手放してしまっていたのだ。だから愛を貫くこともできず無様に負けて、死んだ。奇跡的にやり直す機会に恵まれたが、三度目があるとは思っていない。


 今生で必ず、その首に食らいついてやる。


「強がっていられるのも今のうちだ。僕が聖下になった暁には、まずその不相応な騎士服を脱いで跪いてもらうからな」

「衣装が人を作るのではありません。たとえ生まれたままの姿にされようと、私はグリツェラ家の当主で、聖下のつるぎです。それをお忘れなく」

「……フン、可愛げのない女め。つまらんな」


 そう吐き捨てて、リヒトはきびすを返した。

 ほっと一息吐いたアイシャの視界の隅に、皇家の末席で目頭を押さえて俯き震えるシオンの姿が映る。父の死を悼んでいると見せかけ、躾の悪い子どもを追い払うようにあしらわれた異母兄の無様な姿に爆笑を堪えているのだ。よくやったと言わんばかりに指の隙間から視線だけを寄こされて、アイシャも人知れず笑みを浮かべる。


 全ての参列者が揃うと、遺言執行人のミクリが前に出た。女神像の彫刻が施された厳かな階段付の講壇へ上り、懐から遺言書を取り出す。しっかり押された金の封蝋が見えるように参列者の方へ一通り掲げて見せてから、封を開けた。


「これより読み上げるは、ミオ・セントソルジュ・レトが現世うつしよに残した最後の言葉である。女神メリューの御許へ招かれ神の一柱に名を連らねし者の言葉は、何人なんぴとたりとも覆すことはできぬ。よろしいか?」


 女神が住まう世界へ身罷みまかられた聖下の遺言は、生きた権力者が発するどんな命令も凌駕するほど絶対的な効力を持つ。

 自信たっぷりに頷くリヒトを横目に、アイシャも深く黙礼する。異を唱える声がないのを確認して、それはついに読み上げられた。

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