第19話 紡がれた願い
三人を乗せた馬車は、赤レンガ街の外れにある屋敷の前に着いた。ミクリの本邸ではなく、彼が学問の研究に没頭するための仮住まいである。
口の堅い最低限の使用人が出入りする屋敷へ通されたアイシャとシオンは、先を行く老王の小さな背中を追う。鏡面のように磨き上げられた寄木細工のフロアを進み、やがて一番厳かな扉の前にやって来た。
(そう言えば、葬礼の儀が行われたのは桜が散った頃だった)
一度目の人生を振り返り、アイシャはミオに残された時間があとわずかであることを思い出した。おそらく、直接言葉を交わすのはこれで最後になるだろう。
ミクリの呼びかけに応じて部屋の中から扉を開けた従者は、そっと入室を促した。二人に続いて、アイシャも中へ入ろうとするが……。
「レディ、申し訳ありませんが、剣はご遠慮願います」
従者に目ざとく呼び止められてしまった。
非公式の場であるからこそ、聖下と謁見するのに帯剣はまずいということだろう。素直に応じようとベルトに手をかけた時、部屋の奥から芯のある低い声がそれを制した。
「そのままでよい。グリツェラ家の
深紅のビロードの天蓋が下りた寝台から骨の浮いた腕が手招きする。姿形は変わっても記憶のままの懐の広さに、胸が締めつけられた。
一礼して寝台に近づく。先に顔を合わせていたシオンがそっと場所を譲った。
そこで目にしたのは、起き上がる体力すら奪われた痩躯の男。女神の血族の証である金糸雀色の髪は白くくすみ、赤の瞳は錆を溶かした濁り水のよう。
「ミオ聖下……」
寝台のすぐ横で両膝をついて目線を合わせたアイシャに、ミオは死相が浮かぶ儚い顔を綻ばせた。
「おお……息災だったか、姫。ニネミアに似て美しくなったな」
「そうでしょうか。白桜騎士団の皆からは、父にそっくりだと言われます」
「きっと戦いぶりのことを言っているのだろう。南部では勇敢だったと聞いた。さすがは我が友ルーカスの娘だ」
「まだ、父を友と呼んでくださるのですか……?」
「もちろんだ。だがその友の首を刎ねたのは我が愚息に他ならない。無力な主君で、すまなかった」
ミオは盟友の面影を感じる銀髪からふっと目を逸らして虚空を見上げる。だがもう一人の息子であるシオンが、それを許さなかった。
「悔いる時間はもう残されていません。俺たちがリスクを冒してまでここに来たのはそんな弱々しい謝罪を聞くためじゃない。わかるでしょう?」
「シオン様、何もそんな言い方をされなくたって……」
「あなたは俺の母だけでなく、友のルーカスまで見殺しにした。民はあなたを死後も賢王と称えるでしょうが、俺にとっては自分の血を分けた
「シオン様!」
死に直面した父親に向けるにはあまりにも尖った言葉に、アイシャは堪らず声を張る。だが振り向いた先で悲しみと憤りに揺れる彼の表情を目の当たりにし、息を呑んだ。
「叶う事なら、あなたを恨みたかった。あなたが俺に与えたものが怒りと絶望だけなら、この世の全てを呪って何もかも滅ぼしていたかもしれない。でも……」
シオンは腰に下げた袋から小さな種を取り出すと、それに魔力を流した。成長を促された種は光を放ちながらすぐに芽吹き、瞬く間に一輪のカスミソウに変わる。
「あなたは俺に母を笑顔にする方法を教えてくれた。そしてアイシャとの
涙ぐみながらそう言って、カスミソウを父の枕元に置く。花へ伸ばされた震える指に、シオンが手を重ねた。
「俺の何よりも大切な二人に免じて、あなたを許します。だからどうか力を貸してください。最後くらい父親らしいことをしてくれたっていいでしょう? 俺が父上に何かを乞い願うのなんて、これが最初で最後なんですから」
穏やかに微笑む息子に見下ろされ、赤く濁った瞳から一筋の透明な雫が目尻を伝う。静かに頷いたミオは、そばに控えさせていたミクリへ目配せした。
「シオンから頼まれていたものを、急ぎここへ」
「ご安心を。すでにご用意しております」
ローブの内ポケットから書簡を取り出し、骨と皮だけの手にしっかりと握らせる。
聖下だけが押せる金の封蝋を震える指で開け、ミオは自分が書いた中身に改めて目を通した。
それは、次期聖下にリヒトを指名することを書き記した遺言書。妻である姉とその子どもに宝剣を突きつけられながら書かされた。当然ミオの意思など一つも反映されていない、偽りの言葉の羅列である。遺言執行人として保管を任されていたミクリも二人に脅され、その存在をひた隠しにしてきた。この瞬間までは。
何が始まるのか知らされていなかったアイシャの前で、ミオはそれをくしゃくしゃに丸める。そしてシオンの望み通り、火のついた暖炉へ投げ入れた。
「書卓を、ここに」
最後の生命力を燃やし尽くして筆を執る。病床の上だろうと洗練された文字が綴るのは、ミオ自身の言葉で紡ぐ本当の願い。かつてルーカスと二人で成そうとした、変革の道標だ。
「これって……」
書き終えた内容を見届けて、アイシャの頬を静かに涙が伝った。震える身体を抱き寄せたシオンの腕の中へ、か細い嗚咽が吸い込まれる。
「
「聖下にお願いするなら、他にもっと有益なものがあったでしょうに」
「これ以上の望みはないさ。地位も名誉も、君が隣にいないと意味がない。受け入れてくれるか?」
「……はい」
涙ながらに小さく、だがしっかりと頷いた銀髪を細い指が撫でる。幸せそうに微笑む息子にかつて愛した花籠の面影を見て、ミオも儚く目を細めた。
この新たな遺言書が読み上げられることになったのは、二人が謁見して半月も経たない春の終わり。
予想通り、桜が全て散った頃の出来事だった。
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