第18話 白の書典

 学術都市ハロスポリス――あらゆる学問を追求する学者たちが集う、赤レンガの街。

 南部を治めるミクリ・フォートンのお膝元であり、密かに聖都レトを離れたミオの療養場所でもある。


 アイシャとシオンがミオに接触するのはもちろん極秘事項だ。そのため二人だけでハロスポリスへ馬を走らせた。今の白桜騎士団は動くだけで目立ちすぎる。アイシャの留守をリヒトに悟られないよう、祝勝会の続きと称して飲んで歌っての大宴会を続けるよう指示してきた。


 そうして現在、二人は黒塗りの立派な馬車に揺られている。病床で待つミオの名代として迎えに来たミクリ・フォートンと共に。


「七聖家の当主を使用人のように寄こすとは、父上は思ったより息災なのか?」

「それが聖下という存在であらせられます、シオン殿下。ですが今回ばかりは私の方から申し出ました。グリツェラ家には大きな借りがありますゆえ……」


 向かいに座るミクリは、グレーの老眼をアイシャへ向けた。たっぷりとした白髭の束を手で撫でつけ、二年前の法廷とは違う柔らかな表情を見せる。当時は長引く自国領の内乱とリヒトの凶行で冷静さを失っていたが、本来の彼は、今のように穏やかで聡明な賢王だった。


「姫君よ、まずは二年前に礼を欠いたことを謝りたい。そしてそなたを軽んじた老いぼれとの約束を果たしてくれたこと、礼を言う。グリツェラ家と白桜騎士団の活躍で、南部に平穏が戻った」

「ミクリ様……叡智の王にそのようなお言葉を頂けて、光栄です」

「帰路を行く間も、カッセルに焼かれた村々へ手を差し伸べてくれたそうだな。そなたを称賛する声が民や軍部から次々と舞い込んでおる。本当に、お父上に劣らぬ立派な当主になられた」


 ミオとルーカスが並び立つかつての後ろ姿を思い浮かべ、モノクルをかけた瞳がいっそう柔和に細まる。

 フォートン家が聖下の頭脳なら、グリツェラ家は間違いなく剣だった。まだ年若い主従が大陸に降りかかる脅威を退けていく勇姿は、新たな神話の幕開けのようにも思えたほど。当時の皇家と聖七家の蜜月は隆盛を誇った。


 それが今となっては、もう……。


「ミオ聖下はご自身が旅立たれた後の世界をずっと案じておられる。先日もロベルト王がリヒト殿下に異を唱え、家臣一同の絞首刑が執行されたばかりでな。皇家と七聖家の溝は深まるばかりだ……」


 ミクリの言うロベルト王とは、大陸の南西部を治める七聖家の一門である。七聖家の進言を蔑ろにして独裁を推し進めるリヒトに一声反論しただけで、長く仕えた家臣たちを一度に失った。


「だからこそシオン殿下からの手紙は、ミオ聖下にとって僥倖だったことでしょう。早くお会いしたいとしきりに私めをせっつかれました」

「どうだろうな。死ぬ間際になって己の罪を懺悔したくなっただけかもしれない」

「死は誰にでも平等に訪れるものです。それは女神の血族とて避けられぬ宿命。なればこそ、死を待つ間は誰もが最も純真で在れるわずかな時間なのかもしれませぬ。老い先が見えている私も、そのように思うことが多くなりました」


 生前に固執していた地位や名誉も霞むほど、心から望むものを純粋に求められる。そういった意味では、死も救いだ。

 齢八十を超えるミクリは、年若い北東部の統治者を見据えた。


「義を尽くされたからには、フォートン家も義で返さねばならぬ。シオン殿下と二人、成すべきことを成すと良い」

「ミクリ様……」

「二人の歩まれる覇道の殿しんがりは、この『白の書典』が務めよう」


 それは中身のない白地の書物。知識の全てが当主にあることを表す、フォートン家の家紋だ。

 シオンとアイシャがミオと接触して何を成そうとしているのか、叡智の王にはお見通しらしい。思わぬ助力の申し出に、二人は顔を見合わせた。


「しかし先のとおり実戦ではてんで役に立たぬゆえ、いざという時は守ってもらえると助かるのぅ」

「まぁ……ふふっ」


 ちらりとウインクを送る老王の茶目っ気に、アイシャは思わず笑みを零した。

 すると瞬時にシオンが外套を広げて、その笑顔を隠してしまう。


「何の真似ですか、シオン様。ミクリ様に失礼ですよ」

「そんな愛らしい笑顔を他の男に向けるな。ずっと俺にだけ微笑んでいてくれ」

「…………」

「ああ、まるでゴミを見るようなその仏頂面もすごくそそられる」


 笑顔とは正反対の顔ですらそのように見えるとは、救いようがない。

 がくりと項垂れたアイシャの様子に、今度はミクリが朗らかな笑い声を響かせるのだった。

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