第10話 敗者の帰還

 望んだ結婚ではなかった。アイシャとのことではなく、ロザリアとの関係だ。


 南部戦線の激戦地へ飛ばされたシオンに、メーヴェの聖兵を率いていたスロウ大司教が囁いたのだ。「血に固執して狂ってしまった皇家は、もう滅ぶべきである」と。


 繰り返された近親婚で濃くなり過ぎた女神の血は、身体だけでなく人間性をも蝕むとスロウは言った。

 事実、リヒトは虚弱体質が祟って幼少期に何度も死にかけたし、重い遺伝病を抱えたミオももう長くはない。ヒビが入ったガラス板のような皇室には、傲慢な疑心と非人道的な思念が常に暗く渦巻いている。リリを呪い殺したマグノリアや、噂に踊らされ七聖家の当主の首を刎ねたリヒトが良い例だろう。


「シオン様も我々と同じ思いと存じます。殿下が立ち上がるのなら、メーヴェも力をお貸ししましょう。その代わり……」


 一蓮托生であることの証に、聖女ロザリアを娶ってほしい――後ろ盾が一切なかったシオンは、スロウの申し出を断ることができなかった。

 リヒトとマグノリアに対抗するには力がいる。あの狂った母子の息の根を止めるためなら、望まぬ婚姻だろうと受け入れなければ。


 そうして南部を平定して二人が結ばれた直後、まるで当てつけのようにアイシャがリヒトの側妃に召し上げられたことで、兄弟の決裂は決定的なものになった。



「強く気高くあれと育てられた大陸一の美姫が怯えて許しを乞う姿は極上だぞ。隅々まで痛めつけたくなる。惜しいことをしたな、シオン」



 城内ですれ違うたび、リヒトはシオンに毒を吐いた。時には涙に濡れた彼女の声を扉越しに聞かされることだってあった。


 婚約を破棄したのは、これ以上アイシャを巻き込まないようにするため。

 そうまでして守ろうとした存在が、憎い男の手で汚され、壊されていく様子を、手の届かない場所からただ見ていることしかできない。自分の役割を果たそうと腰を跨いだロザリアの下で、アイシャへの狂おしいほどの恋情とリヒトへの憎しみだけが募っていく。


「シオン様お願い、助けて」


 リヒトの暴虐に追いつめられたアイシャと二人で、誰にも言えないことをした。

 赤い切り傷や生々しい絞痕がそこら中に残る痩躯に、唇で触れる。こんなことは気休めに過ぎないと頭ではわかっていても、今にも自死を選んでしまいそうなほど徹底的に壊された彼女を繋ぎ止めるには、こうするしかなかった。


 もうすぐ、あと少しで助け出せる。

 ロザリアが無事に出産を終えたら蜂起すると約束したスロウの言葉だけが、シオンの唯一の希望だ。


 そうして時は過ぎ――夕暮れ時に始まったロザリアの陣痛が、夜明け前にようやく終わりを迎えた。

 望んだ結婚ではなかったが、我が子には違いない。それにロザリアも命がけで使命を果たした。労わる気持ちは当然ある。

 慌ただしく行き来する大勢の医官たちの間を縫い、シオンも産声が響く部屋へ足を踏み入れる。


 だがそこで見た光景は、予想だにしないものだった。


「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳、ございません……っ!」


 何が起きているのだろう。

 お産を終えたばかりのロザリアが冷たい床に突っ伏し、赤子が入った籠の前で立ち呆けるスロウ大司教へ、泣きながら何度も頭を下げている。

 生まれたのは男児で、母子共に健康な安産だったと産婆から聞いていた。一般的に見れば、ロザリアは第二皇子の妻としての役目を見事に果たしたのだ。それなのに。


「これはどういうことだスロウ、説明しろ!」


 詰め寄るシオンの声も届いていないのか、スロウは聖典の一説をブツブツ囁きながら仄暗い瞳で虚空を見上げている。明らかに様子がおかしい。

 すると不躾に部屋に押し入った教徒の一人が、彼の耳元で何かを囁いた。とたんにスロウは蛇のようにギョロリと目を見開き、泣いて懺悔するロザリアに背を向けて足早に去って行く。


 スロウが向かったのは、シオンが幼少期に母と過ごした荒れ果てた離宮――今は、側妃になったアイシャが暮らす監獄だ。


 急いで彼の後を追ったシオンは、周囲の様子に眉をひそめた。普段は誰も寄り付かないはずが、今日はやけに人が多い。衛兵に文官、末端の使用人まで。その誰もが蒼白な顔をして声を潜める。


 まともな雰囲気じゃない。それに扉が近づくにつれて漂って来るのは、血の匂いだ。


 焦燥感に駆られたシオンはスロウを追い越し、野次馬を押しのけて扉を開け放った。そこにいるはずの最愛の人を求めて――。




 ⚜




 日も昇らぬ薄暗い早朝にシオンが目覚めたのは、原因不明の魔力欠乏症を起こし、生死の境を彷徨さまよった三日目の出来事だった。

 まだ魔力の底が浅いせいで指先まで重く、ろくに動くこともできない。玉の汗をかいた顔で視線だけを巡らせ、情けない顔をしたルフを見上げる。


「ここは……?」

「トライノーツの首都にあるロシャノワ城です。この期に及んでふざけていらっしゃるのですか、殿下」

「いや……ところで今は何年だ」

「大陸歴一六二八年ですが……まさか魔力と一緒に記憶まで失ってしまったのですか!?」

「違う、うるさい、騒ぐな」


 慌てふためくルフの無駄に大きな声が脳に響く。

 大陸歴一六二八年――トライノーツに留学という名目で追放されて、二年。

 徐々に頭の中が整理されてクリアになっていく。そしてようやく実感した。


「アイシャは――」


 その名を口にしただけで、勝手に涙が溢れた。仰向けになった目尻を伝う雫を見て、ルフが目を点にして言葉を失う。ようやく静かになったと言ってやりたいのに、溢れてくるのは彼女への想いばかりだ。


 我が子と一緒に冷たくなった無残な姿が、今も鮮明に思い浮かぶ。


「アイシャに、会いたい」


 会って、手を引いて、抱き寄せて。

 今度こそ、ちゃんと目を見て「愛してる」と伝えたい。


 らしくなくさめざめと泣き出した主人に困惑しつつも、ルフは膝の上に置いた手を固く握り締め、意を決したように口を開いた。


「ならば会いに行きましょう」

「ばか言え、彼女はいま南部に……」

「殿下が倒れている間に本国のスパイ小鳥から伝書梟グーフォが届いたのです。無事、南部平定が成されました」


 潤んだ目を見開いたシオンは、魔力不足で鉛のように重い身体を押して寝台から起き上がった。


「それで、アイシャは!?」

「ご無事です。深手を負うこともなく、全戦全勝のたけき狼であったと。今ごろ白桜騎士団と共に帰路に着いていることでしょう」

「そうか……よかった、本当によかった……」


 安堵で目頭を覆った主人から見えないのを良いことに、ルフは表情を柔らかくする。


「殿下、アイシャ様からの御伝言をお忘れですか?」


 ――次は直接会いに来い、腰抜け。


「ああ……そうだったな」


 大切な人を堂々と愛する。そんな当たり前のことすらできず手をこまねいていた腰抜けには、もう戻らない。


 マグノリアに打ち込まれた杭が抜けた傷痕から、押し込められていた恋情が堰を切ったように溢れ出した。


 今度こそ心に従って彼女を愛し尽くす。もう二度と失わないよう徹底的に、それこそ溺れてしまうほど深く――。

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