第6話 果たされた約束

 ルーカスの遺体と共にグリツェラ領国の屋敷へ戻ったアイシャを、ニネミアは涙を浮かべながら出迎えた。獄中にいた娘よりも酷い顔色で、その憔悴ぶりが窺える。


「お母様、体調が優れないと聞きました。休んでいなくて平気ですか?」

「アイシャとルーカス様が帰って来たのに、寝込んでなんていられないわ。お帰りなさい、二人とも……」


 ニネミアはぼろぼろにされた娘を抱き締め、騎士団が運んできた夫の棺に唇を落とした。


「奥方様、埋葬場所は御神木の隣でよろしいですか?」

「ええ。終わりを迎えたら先祖の英霊と共に眠りたいと言っていたから……」


 ダリオはニネミアに恭しく頭を下げ、息子のロイと部下数人を引き連れて庭園へ向かった。埋葬用に土を掘り返してくれるらしい。ちなみにテンとは聖都で別れた。クーパー家の跡取り候補を当主に無断で連れ出すわけにはいかない。


「ねぇアイシャ、準備が整うまで湯浴みをしてはどうかしら。綺麗な姿でお見送りした方が、ルーカス様もきっと喜ぶと思うの。あなたのことを目に入れても痛くないってくらい、本当に愛していたから」


 聖都を出立してから休みなく馬を走らせたアイシャの格好は投獄されていた時のままで、血や汚物に塗れて酷い有り様だった。確かにこれでは父もがっかりするだろう。母の提案に素直に頷いて浴室へ向かった。そこで待っていたのは――。


「アイシャちゃん!!」

「ソフィア――っわぁ、ちょっ……!?」


 侍女の制服を着た桃色の髪の少女がアイシャに飛びつく。倒れ込みそうなほどの抱擁を足腰を使ってどうにか受け止め、力強く抱きしめ返した。


「うううぅ、お帰りぃ~ッ! ほんっと無事でよかったぁああ!」


 涙ながらに出迎えてくれた侍女のソフィアは、ルーカスが戦場から連れ帰った孤児だ。以来姉妹同然で育った二人は、人目のない場所だとこうして言葉が砕ける。


「ああもう、こんなに薄汚れて! お城の奴ら、あたしのお姫様を何だと思ってるのよ! 酷いことされてない? 『くっころ』とか言わされなかった!?」

「くっころ……? 衛生面は最悪だったけど、何もされてない」

「うぇええん、よかったぁ……! 湯浴みの準備はばっちりできてるから、おいで!」


 ぐいぐいと手を引っぱるソフィアに浴室へ連れ込まれる。あれよと言う間に布切れ同然のワンピースを剥かれた。


 大きな鏡に映ったのは、艶をなくしてパサついた銀髪。目の下は隈で黒ずみ、唇は皮が剥けてささくれ立っていた。四肢には埃やルーカスの血がこびりついて、酷い有り様だ。


 現実を思い知らされたような気がして、唐突に不安が押し寄せる。ここ数日の処遇で骨が浮いた貧相な身体で、本当に成し遂げられるのだろうか。運命に抗うと決めたのは自分なのに、誰とも共有できない重責が肩に重くのしかかる。


 湯をかけられた足元を流れる汚れを見ながら、スンと鼻が鳴った。

 痩せた頬を伝う涙に気づかないふりをして、ソフィアは傷だらけにされた愛しい宝物を隅々まで磨く。戦場で泣いていた自分を拾い上げてくれた恩人の棺の前まで、綺麗になったこの子を送り届けなくては。きっとそれが、今できる精一杯の恩返しになる。そう信じて、これまでで一番丹念に指を滑らせた。




 ⚜




 湯では流しきれない不安を抱えたまま浴室を出たアイシャは、そのままニネミアの待つ両親の寝室に通された。

 そこで目にした光景に、足が止まる。


「お母様、これは……」

「ルーカス様がずっと前から用意していた物よ。あなたが木剣を振り回し始めた頃だったかしら。どれくらい背が伸びるかもわからなかったのに、待ちきれなかったみたいで」


 ニネミアは懐かしそうに微笑んで、トルソーに飾られた純白の騎士服の元へアイシャを導いた。

 父が着ていたのと似たデザインで、白くまばゆい生地に群青色のインナーと銀の装飾がとても良く映える。家紋の白桜が刺繍された左肩のペリースと、狼の意匠を施した銀製の留め具――幼かったアイシャが父にねだった代物だ。


「いつか家督を譲る時に作ってあげよう」と言われた、約束の品。まさかそれが目の前にあるなんて。


「戦装束より花嫁衣裳を作ってあげたいって言ったら『まだ早い!』なんて言って、私の膝に泣きついてしまったのよ? 女の子が剣を振るうのは大歓迎なのに、結婚するのは堪えられないなんてね。本当に純粋で、愛らしい人だった……」


 ニネミアは潤んだ目元を指先で拭った。「ごめんなさい」と小さく謝罪すると、愛する人を失った一人の女性から母の顔に変わる。トルソーから騎士服を外し、予期せぬ贈り物に呆然とするアイシャの細腕を袖に通した。


 たった一人のためだけに作られた衣装を着た娘は、父親の生き写しのようだった。

 それを喜ばしく思うのと同じくらい、普通の令嬢とは違う道を歩むことになった我が子を案じてしまう。でも、決して口にはしない。どんな戦場にも当主を信じて送り出すのが、グリツェラ家に嫁いだ女の役目だからだ。


「少し大きいけど、大丈夫そうね。アイシャはまだ十六歳だもの。これからまだ背が伸びるでしょうし、身体つきも変わるわ。きっとこの服に見合う、立派な当主になれる」

「お母様、私……」

「……もう。新しい当主がそんなに不安そうにしていたら、諸侯たちが心配してしまうでしょう?」


 剣の稽古でできた血豆が潰れた手で刺繍の練習をしても泣き言一つ言わなかった我が子が、重責に怯えている。

 ニネミアは震える娘を抱きしめて、父親と同じ白銀の髪に頬を寄せた。


(本当は、この子にドレスを贈りたかった……)


 初陣よりも先に結婚して、鍛えた剣を振るうことなく、シオンと幸せになってほしい――そんなニネミアの密かな夢は、夢のままで終わってしまったのだ。


 涙ぐむアイシャを鏡台の前に座らせて、艶を取り戻した銀髪へ丹念に櫛を通す。高い位置で一つに結った根元へ、ニネミアは自分の母から譲り受けた蒼玉の髪飾りを挿した。


「アイシャなら大丈夫。あなたには剣と愛がある。ルーカス様の教えを忘れないで」


 愛のない剣はすぐに折れてしまう。

 そして剣がなければ、愛するものを守れない。


 揃って持つべきその二つを、両親はアイシャに惜しみなく与えてくれた。ロイやテン、ソフィアや家臣たちも。


 愛する彼らを守るためなら、きっと狼にだってなれる。


 ペリースの雄々しい留め具を握って深く頷き、窓から見える桜の木に目をやった。


「お父様をお見送りします」




 ⚜




 騎士団の名前の由来となった樹齢千年を超える桜の木の周りには、神話時代から脈々と続く先祖の英霊たちが眠る。

 満開の桜が風に揺れ荘厳な息吹を奏でる下で、アイシャは父の大剣を持ち、紋章旗が掛けられた棺に近づいた。


(お父様の剣、こんなに重かったんだ……)


 柄まで含めたらアイシャの身の丈とさほど変わらない大剣を片手で軽々と振るい、銀狼は鉄火を駆けた。

 誰よりも勇ましく愛に溢れた英雄の旅立ちに愛剣を託す。父の安らかな眠りを守ってくれるように、願いを込めて。


 剣を乗せた棺が墓穴へ運ばれ、見送りをした白桜騎士団全員で砂を被せる。最後にアイシャとニネミアが桜の枝を供えた。白い花弁が散る時、父の魂を女神の御許までいざなってくれるだろう。


「行ってらっしゃい、お父様」


 享年三十五。愛する者たちに見守られながら、ルーカスは静かに眠りについた。

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