第4話 婚約破棄と別れ道

 失神したニネミアがグリツェラ領国へ一時的に帰された代わりに、アイシャは城の牢へ投獄された。

 反逆は当主が死ねば無罪放免になるようなものではない。要は一族への処分が決まるまでの人質である。


 そしてなぜか、シオンも同じ牢へ入れられた。


(悪趣味……)


 リヒトのことだ。二人が慰め合い啜り泣く様子でも期待しているのだろう。

 狭い牢の隅で両膝を抱え、なるべく小さく縮こまる。彼を視界に入れないように固く目を閉ざした。

 

 一度目の人生の通りに事が進むのなら、アイシャはこれから婚約破棄を告げられる。


「……アイシャ、これからのことだが」


 ほら、やっぱり。

 重いまぶたをうっすら開いて、反対側の角に座るシオンを恐る恐る見やる。


 罪状を読み上げられた父もこんな気持ちだったのだろうか。抗えない現実と自分の無力さに打ちひしがれ、理不尽に屈し――どれだけ無念だったことか。


「シオン様はご自身の地固めのために白桜騎士団が欲しかったのでしょう? だから私と婚約した」

「は……?」


 前触れのない言葉に、普段はあまり感情を表さない菫色の瞳が見開かれる。アイシャ自身も、そんな考えが自分の口を衝いて出たことに驚いた。

 だがこれは、死ぬ以前から頭の片隅に抱いていた疑念。「そんなはずない」と自分に言い聞かせ、目を向けないようにしていた暗部だ。


 シオンは否定していたが、仮に彼が聖下の座を狙っていたのが事実だとして。リヒトに対抗するために白桜騎士団を利用しようとするのは、自然な流れだ。

 それを裏付けるように、シオンは没落していくアイシャとの婚約を破棄して、メーヴェ教会の聖女と呼ばれたロザリアを妻に選んだ。瓦解した白桜騎士団からメーヴェの聖兵に戦力を鞍替くらがえしたと言うのなら、全ての辻褄が合う。最初から愛のない関係を望まれたことも。


「利用価値のない私のことは、もう捨て置いてください」

「……それは、婚約を解消したいということか?」

「そうです。シオン様もそれをお望みでは?」


 捨てられる前に、惨めな恋心と一緒にこちらから捨ててしまおう。その方が傷つかずに済む。もう二度とこの人を愛したりしないと誓って死んだのだから。


「…………」

「……シオン様?」


 突如、ゾッとするほど冷やかな威圧が広がる。当然それはシオンから発せられるものだ。


 困惑するアイシャへ、シオンは一歩ずつ距離を詰める。後退ろうとするが、最初から背後は石壁だ。逃げ場のない恐怖に、無傷の腹部がまた痛みで疼く。


 シオンは身体を縮こまらせて怯えるアイシャに近寄ると、銀髪のすぐそばの壁に手をついた。今までにないような至近距離から見下ろされて、ひゅ、と喉が鳴る。


「望むなら婚約を解消してもいいと言ったのは俺だ。君の気持ちは尊重したい」

「なら……」

「婚約を破棄する。それに俺の方から一方的に申し出たことにすれば、君の審判に情状酌量の意思が働くだろう。上手くいけば一家断絶は避けられるかもしれない」


 言われてみれば、前回もそうだった。

 問答無用で婚約を破棄されたアイシャへ同情の声が高まり、一族への処分は多額の税収が見込める肥沃な領地を没収されただけで済んだ。まさか、それを見越しての婚約破棄だったのだろうか。


「だが、さっきの言葉は取り消してくれ」

「え……?」

「俺は君との婚約を何かの足掛かりとして考えたことは一度もない。これだけは信じてほしい」


 傷ついた顔で嘆願するシオンに、頭の中がカッと熱くなる。


 それならどうして自分は愛されることなく捨てられたのだろう。なぜ、彼はロザリアを選んだ?

 あんなに傷ついて、憎めないほど愛して。いったい何のために死ななければならなかったのか。

 わからない。目の前の男の考えていることが、何一つわからない。


「――何を今さら……私のことなんて少しも愛してなかったくせに!」


 堰を切ったように溢れ出した激情を抑えきれず、シオンを突き飛ばした。


「っ、アイシャ……!」

「公務以外で私と顔を合わせようとしたことがありましたか? 一度でも二人でダンスを踊ったことがありましたか?」

「だから、必要以上に親しくしないと最初に言って――」

「外ですれ違っても、私はあなたの目に映らない空気みたいだった。それなのに社交場では婚約者の立場を強要する。あなたが欲してたのはグリツェラ家の跡取りって肩書きだけよ。私じゃなくても、同じ立場なら誰でも良かったんでしょう!?」


 自分で言って胸が痛むなんて、なんて馬鹿らしいんだろう。

 頭が内側から壊れるような耳鳴りがする。涙と嗚咽が止まらない。言葉を取り繕うことすら忘れてしまった。こんなの、惨めで仕方がない。


 汗と涙で汚れた酷い顔を両手で覆って俯いてしまった華奢な肩に、シオンの手が触れる。びくりと震え上がるが、それだけだった。か細い身体を抱き寄せて、静かに背中を撫でる。

 壊れ物を扱うような繊細な手付きに、また勘違いしてしまいそうになる。アイシャはシャツの肩口を涙で濡らし、恨めし気に啜り泣いた。


「きらい、嫌いです。シオン様なんて大嫌い」

「それでいい。俺なんかを好きになるな」

「お父様が死んだのは、あなたのせいよ」

「そうだ。ルーカスが死んだのも、君がこんな所で泣いているのも、これから起きることも……全部、俺のせいにしてしまえばいい」


 外の世界から隠すように隙間なく抱きすくめられる。背中に回された腕が震えていることに気づいて、それ以上彼を責める言葉が出てこない。


 いっそ反論してくれたらいいのに。

 酷い言葉を吐いて、徹底的に傷つけて。

 そうすればこの悲しみを全て彼にぶつけて、心の底から憎むことができるのに。


 懺悔する咎人のように全てを受け入れようとするシオンの真意がわからない。

 今までで一番近くにいるのに、どこまでも心が遠く感じた。




 ⚜




「……私は、私のすべきことをします」


 散々泣き腫らした目で、曙色に変わった小さな窓の鉄格子を見つめた。

 あと数時間後には審判が始まる。肩を寄り添いあって朝を迎えた二人はこれから正式に婚約解消を申し出て、別々の道へ背を向けて歩き出す。もともと最後まで交わることなく歩いていた平行線だ。惜しむようなものではない。


「戦うのか? 相手は女神の子だぞ。勝ち目なんてない」

「勝ちたいのではなく、守りたいんです。もうこれ以上、何も奪われないように」


 もしかしたら、そのために地獄へ戻って来たのかもしれない。


「民には導く者が必要です。真に彼らを愛し、未来を思いやれる者が……」


 それはきっと、血に固執しすぎて歪んでしまった女神の子ではなく――。


 アイシャは祈るような気持ちでシオンを見た。


「だからシオン様もどうか、成すべきと思ったことを貫いてください」

「……もしその時が来たら、君は一緒に戦ってくれるか?」

「それはその時になってみないとわかりません。騎士には剣を捧げる相手を選ぶ権利がありますから。我々もまた、誰に仕えるかを見定めなければ。ただ……」


 膝を抱えていた両手を開く。厳しい剣の稽古で肉刺が潰れて表皮が硬くなった、淑女らしからぬ手だ。同年代の令嬢たちに影で笑われようと、この手を恥じたことは一度もない。


「――私の剣はあなたのために磨いていた。この事実だけは、偽りようがありません」

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