第2話 夜明け前に眠る

 正式に婚姻するまでの間、アイシャは聖都のタウンハウスへ単身移ることになった。

 生まれ育った屋敷が馬車の窓から遠ざかっていくのを眺めるのは寂しかったが、当主の娘の義務だと自分に言い聞かせる。それからは慣れない聖都で乾いた婚約生活に甘んじた。


 用もないのに頻繁に会いに来たり。

 理由もなく贈り物をもらったり。

 予定を合わせてどこかへ出かけたり。


 令嬢たちが茶会でうっとり語るような交流など、二人には皆無である。


 プライベートでほとんど顔を合わせることがない代わりに、アイシャは多くの時間を剣の稽古と淑女教育に費やした。いずれシオンの伴侶となった時、強さと聡明さの両方が必要になる。聖都の社交界の知識も頭に叩き込まなければならない。遊ぶ暇などもちろんなかった。


 だがシオンも、一応婚約者としての体裁を保つ努力はしていたようで――。


 婚約してから初めての誕生日には、カスミソウの花束をもらった。

 大きな熊のような見た目に反してほかほかした笑みを浮かべたシオンの護衛騎士が届けてくれたのだ。「せめて自分で届けに来い腰抜け」と思ったのを「来年は直接頂けるともっと嬉しいです」と見事に変換して伝えられたのは、日々の淑女教育の賜物だろう。

 そのおかげかは知らないが、翌年からはカスミソウの花束と一緒に手書きのカードが添えられるようになった。結局シオンは顔を見せてくれないし、後日別の場所ですれ違っても、改めて「おめでとう」の一言もない。嫌味なほど綺麗な字で添えられた一言、二言の当たり障りのないバースデーカードを何度も繰り返し読んで、ちりみたいな恋情を必死にかき集めた。


 面と向かって顔を合わせる機会があったのは、七聖家や貴族が集まる社交場くらいだ。

 通例よりもだいぶ早い十四歳でデビュタントを急かされてから、アイシャはあらゆるパーティーへ連れ回された。婚約者がいる場合は二人で入場するのがマナーであり、それは皇族と言えどシオンも例外ではない。

 肌の露出が多くて苦手なイブニングドレスを着て、何度も彼の隣を歩いた。だがお世辞でも「綺麗だ」の一言すら言われたことはない。

 入場の義務さえ終えれば、アイシャはお払い箱だ。彼は有力者とコネクションを持つために、すぐに談話室へ行ってしまう。メインの舞踏会が始まっても戻ってこない婚約者を差し置いて別の男性と踊ることなどできず、アイシャはいつも壁の花。第二皇子の婚約者と七聖家の肩書きがなければ、社交界の笑い者だったに違いない。



 最初に宣言された通り、本当に形だけの婚約だった。


 義務で贈られる花束。

 求められるのは婚約者の役割だけ。

 こんな関係が一生続くのかもしれない。


 それでもアイシャは、剣と愛の両方を手放そうとはしなかった。




 ⚜




 死の匂いが漂う寝台の上で在りし日の記憶を辿り、乾いた目尻から涙が伝う。


「あいさなければよかった」


 血と共に吐き出したかすれ声は、ちゃんと言葉になったようだ。

 聖典に描かれたメリューと同じ金糸雀色の髪をした男がぴくりと反応して、振り返る。


 持病で倒れたミオが崩御し、その座に就いた新しい聖下、リヒト。

 異母兄弟だがやはりどことなくシオンに似た面影をした彼は、片手にを持ち、臨月の腹を無残に裂かれて死に瀕するアイシャに近づいた。


「酷い女だ。僕の側妃のくせに、死ぬ間際でさえ僕ではない男を見ている」


 死が近づいてくる。乾いた靴音を立てて、一歩ずつ。

 父を処刑台に送り、母を壊し、家臣たちを吊るし首にして、アイシャの大切なものを何もかも奪った悪魔が。


「死ぬ前にいいことを教えてやろう。昨夜ロザリアが産気づいたんだ。君を捨てて聖女を娶った弟は、忌々しいほど元気な男児を授かったそうだぞ」


 ひゅ、と血だらけの喉が鳴った。


 政敵であるシオンに子が、しかも男児が生まれたら、未だ世継ぎに恵まれないリヒトの立場がますます危うくなる。

 だからこの男は夜明け前に突然現れて、アイシャの膨らんだ腹を皇家の宝剣で切り裂いたのだ。さっさとを取り出すために、ためらいもなく。

 だが凶行に手を染めてまで欲したそれは、彼の望むものではなかった。


「僕の目を盗んで不義の子まで孕んだのに、憐れだな。――ほら、返すよ」


 凍りつきそうなほど冷たい微笑みを携え、リヒトは片手に持っていたものを引き裂かれた腹の中へ投げた。

 べしょッ、と血に濡れた音を立てたのは、つい先ほどまでアイシャが身籠っていた我が子で。

 でも今は、温もりも、鼓動も、吐息も、何も感じない。寝ているところを無理矢理引きずり出されて、産声を上げることすらできなかったようだ。


 この子の髪がリヒトと同じ金糸雀色だったら、いや、せめてアイシャと同じ白銀だったら、子どもだけでも助けてくれたのだろうか。の髪がうっすらと生えた小さな頭に手を伸ばし、また涙が溢れる。




 事の始まりは今から四年前、アイシャが十六歳の頃。シオンと共に聖下の座を簒奪さんだつしようとした反逆罪に問われ、ルーカスが処刑された。


 名誉を失って没落していくグリツェラ家と運命を共にしようとしていたアイシャに「七聖家の血を絶やすわけにはいかない」ともっともらしく囁いて彼女を側妃に迎え入れたのが、父の首を刎ねた張本人であるリヒトだった。




 剣はもうない。「罪人の娘には不要だ」と奪われてしまった。今はまっさらだった身体を暴かれた、ただの女だ。

 

 愛なんてあるはずもない。あるのは言葉と暴力で支配しようとするリヒトへの恐怖だけ。



 与えられた側妃の部屋監獄で、毎晩手酷くいたぶられた。だが幸か不幸か、懐妊の兆しがないまま地獄の日々が無意味に過ぎていく。誰もがアイシャを不良品を見るような目で見たが、聖下の子を宿せないのは他の妃たちも同じ。こうなると原因はどちらにあるのかは明らかだったが、それを指摘するような命知らずはここにいない。

 生まれるはずのない世継ぎの産声が上がるまで、何度でも恐ろしい夜はやって来る。


 そんな時にすれ違ったかつての婚約者にすがってしまった自分の弱さが、アイシャは憎い。

 シオンはアイシャの手を引いて人気のない部屋へ押し入ると、過剰なほど優しく触れた。恐ろしい記憶しかない行為を上書きするように、丁寧に、慎重に。身体中にできた傷痕へ、何度も唇を寄せてくれた。


 そうして愛されていると錯覚してしまいそうな熱に溺れて不義を犯した結果が、これだ。悪魔に腹を引き裂かれて、愚かにも愛してしまった人の子どもと共に死に行くのだ。


(最初から、愛さなければよかった……)


 血まみれの寝台の上で母子共々息を引き取るさなかにも、脳裏に浮かぶのはシオンの後ろ姿で。伴侶と赤子を抱き締めて微笑む彼を思い浮かべたら、心臓に剣を突き立てられた気分になった。それでも憎むことすらできない。ただただ悲しくて惨めだ。


 涙で滲んだ視界が暗くなる中、アイシャは心の底から誓った。


 もし、来世なんてものが存在するのなら。

 その時はもう二度と、彼を愛したりしない。

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