第一章 剣と愛

第1話 形だけの婚約

「最初に言っておくが、君と必要以上に親しくするつもりはない」


 満開の一本桜が咲き誇る木陰の下。

 レティガント大陸北東部一帯を治めるグリツェラ家――その庭園の一角で見つめ合う少年少女が、二人。


 初対面の婚約者から開口一番にそんなことを言われ、まだ十歳のアイシャは、ガラス玉のように透き通る目を何度も瞬かせた。


 屋敷の応接間では、聖都レトから足を伸ばしたミオ聖下とアイシャの父ルーカスが婚約の取り決めなどの難しい話をしている。「二人で遊んでおいで」と庭園に送り出されたものの、アイシャより三つ年上の物静かな第二皇子はろくに目も合わせようともしない。挙句、さっきの言い様。


 着慣れないドレスの裾を握って、淡い唇をきゅっとすぼめる。


「シオンさまは、わたしがお嫌いですか?」

「は? どうしてそうなる」


 どうしても何も、それ以上の理由があるだろうか。

 大きな瞳を潤ませてうつむいてしまった幼い婚約者を前に、シオンはぎょっと目を見開く。


「君に不足があるとかじゃない。むしろ俺なんかにはもったいないくらいで……」


 しどろもどろになりながら言い訳がましく口を衝いた本心に、二人の頬がじゅわっと赤らむ。

 嫌われているわけではないとわかって涙も引っ込んだ。でも、それなら余計にどうして――。


「とにかく、これは形だけの婚約だ。公の場でなければ自由に振る舞ってくれてかまわない。いずれ君に想い人ができたら婚約を解消してもいい」

「え……」

「だがこれだけは覚えておいてほしい。――幸せにすることはできないが、君だけは絶対に守る」


 子どもながらに均整の取れた真剣な顔で何と言ったのか、この第二皇子は。

 アイシャの脳内は情報が前転後転側転し、まるで大運動会だ。


 形だけの婚約?

 解消してもいい?

 幸せにはできないけど絶対に守る?


「――はぁ?」


 片目がピクッと痙攣して眉頭がつり上がる。皇族への返事としてはあまりに無作法だった。だが淑女教育と並行して父から剣術の英才教育を受ける七聖家しちせいけが一門・グリツェラ家の一人娘には、気の利いた上手い返しが何一つ思い浮かばなかったのだ。




 ⚜




 レティガント大陸の中央に位置する聖都レトを治める皇家は、女神メリューの血を引く最も尊い血族だ。

 女神と皇家は表裏一体。互いが互いの存在を象徴し、神格化をますます増長させる。その結果、女神信仰は大陸全土へ広がった。


 そして民衆の信仰心をさらに強くさせるのが、七聖家の存在である。

 大陸を七つに分けた領国を治める七聖家は五爵の貴族たちが仕える直接的な王であり、一方で皇家の絶対的忠臣でもあった。つまり、七人の王が皇家に忠実な限り、大陸全土の信仰は揺るがない。


「いいかいアイシャ、我々七聖家は女神と共に悪しき存在と戦った『始まりの七人』の末裔だ。その忠誠は皇家が続く限り損なわれない」

「はい……」


 婚約の取り決めを交わしたミオとシオンが聖都へとんぼ返りしたその日。

 グリツェラ家の当主ルーカスは、ぶすくれた娘の寝台に腰かけ、一族の証である白銀の短い髪を抱えた。

 丸っこい頬を膨らませて全力で「不機嫌です」と表現する娘、可愛すぎる――じゃなくて。


「今回の婚約はシオン様の立場を明確にするための政治的な意味合いが強いが、あの方は幼いながらに聡明で思慮深い。聖下になれなくとも賢王の才がある。魔力だって皇太子殿下に劣らない逸材だ。そんな素晴らしい方の伴侶に選ばれるなんて、特別な名誉なんだぞ?」


 皇家が最も危惧するのは、自分たちに流れる女神の血が薄まること。そこで慣例となったのが近親婚である。

 今代の聖下であるミオ・セントソルジュ・レトと聖妃マグノリアは実の姉弟だ。側妃も何人かいるが、最高位である聖下の座を継ぐことができるのは皇族同士の子に限られる。現在継承権を有するのは、ミオとマグノリアの間に生まれた第一皇子のリヒトのみ。

 外国から嫁いだ側妃の子である第二皇子のシオンに聖位継承権はなく、異母兄の側近として一生駒使いの人生を送ることが定められていた。つまり、皇家の忠臣たる七聖家との婚姻は、これ以上ないほどおあつらえ向きと言える。

 さらに付け加えるなら、内戦や魔物の襲来など数々の国難を共に乗り越えたミオとルーカスの間には、主従関係を越えた確かな友情があった。しかもシオンとアイシャの年齢も近い。言葉を選ばずに言えば都合が良いのだ。幼い彼女にだってそれはわかっている。


 だからこそ。父から渡された彼の肖像画を見た時に高鳴った胸が、今はただ痛い。


「一体どうしたんだ? 殿下とお会いするのをあんなに楽しみにしていたじゃないか」

「現実をかみしめています」

「そんな味のしない兵糧みたいなもの、ペッてしなさい! 二人は絶対に幸せになれるから! ほら、こっちを見て?」


 ルーカスはぶすくれた愛娘をひょいっと横抱きにして、膝の上に乗せた。

 大陸中のレディが必ず一度は見惚れて頬を染めると言われる端正な造形美の父を、特等席から不安げに見上げる。


「皇族の行く道は覇道だ。アイシャが鍛えた剣と無償の愛が必要になる時が必ず来る」

「剣だけじゃいけませんか?」

「剣と愛、その両方を持ちなさい。どちらかだけでは二つともすぐに折れてしまう」

「お父さまも、ふたつ持ってる……?」

「もちろん! アイシャとニネミア、ロイやテンに白桜騎士団はくおうきしだんの皆、そしてグリツェラ領国の民を心から愛しているよ。だからパパは強いだろう?」

「――うん」


 いくつもの勲章が飾られた騎士服の首にぎゅっと抱きつく。

 父のような立派な武人に、そして母のような素敵なレディになりたい。そのために自分で蓋をした幼心が顔を覗かせて、珍しく甘えた態度を取ってしまった。呆れられていないだろうかと心配になってちらりと父を見る。すると……。


「どっ、ドレスを着た娘が、ぎゅって……! か、かわっ、可愛いすぎる……!」


 グリツェラ家の臣下たちで構成される白桜騎士団を率いて戦場の一番槍を駆ける勇猛な姿から『銀狼ぎんろう』と呼ばれ恐れられる父が、真っ赤な顔であたふたしている。どうやら無用の心配だったようだ。普段は男の子のような訓練着ばかり着ているが、たまにはドレスも悪くないかもしれない。きっと母のニネミアも喜ぶ。


 アイシャは少しだけ軽くなった胸の内で、何を考えているのかわからない婚約者の顔を思い浮かべてみた。


(お父さまがそう言うなら、あいしてみようかな)

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