第2章

第15話 奇妙な食事会

 目が覚めるとアロイスの姿はなかった。シーツの乱れから、彼が隣で眠っていた名残りは感じられるのに。

 慌てて身を起こして周りを見渡しても、綺麗に整えられたテーブルやチェストが目に入るだけで、彼はどこにもいない。


(今まで見ていたのは、ただの夢じゃないわ……)


 奇妙な夢を見た。

 夢の内容を鮮明に覚えているのは、ゼナにとって珍しい。いつも、何か大切な夢を見ていたと思うのに、全く思い出せないのだ。


 完全に覚醒しきらない頭のまま、ゆっくりと立ち上がる。

 まだ昨夜挫いた足首の痛みが残っているが、歩けない程ではなかった。少し捻った程度なので、一晩で回復できたのだろう。

 ゼナは畳んでいたアメジストのドレスに着替えて、立てかけられた鏡の前で髪を整える。


(アロイス様はどこに行ってしまったのかしら)


 ゼナの心に燻る一抹の不安が拭えない。

 ──さっきの夢。その中で、白髪のアロイスがゼナを抱えながら涙を流していた。あまりにも鮮明で、本当の出来事かと見紛うほどの質感だった。


(……この痣となにか関係があるの?)


 神殿に佇むアロイスは、その背中から天使のような羽を生やしていた。あまりに空想的な夢物語だ。羽の形をした痣があるとはいえ、夢の世界と結び付けるのは現実的ではない。


 けれど、本当に似ていた。絹越しにアロイスの痣を見たあのときの衝撃が、今も身体に残っている。こんな偶然があるのだろうか。そういえば、突然睡魔に襲われて夢に誘われたのも、彼の痣を目にしてからで……。


 考え込んだせいか、少し頭が痛くなってきた。ゼナはふう……とため息をつく。

 ひとりで悩んでいても仕方がない。また今度、アロイスに相談してみよう。


「ん……?」


 ふと、鏡越しに見えたテーブルの上に、紙が置かれているのが目に入った。ゼナは鏡に背を向けて、実際にその紙の前に立つ。

 紙の上には洗練された筆跡が残っていた。ゼナはそれを手に取り、目を滑らせる。


 ──すまない。今日は朝から急な公務があるため先に出る。目覚めたら、屋敷に戻っていてくれ。シュテファンが書斎にいるから、帰るときは彼に尋ねるといい。くれぐれも気をつけて。


「これは……アロイス様の字だわ」


 署名はなかったが、内容と文字の特徴からしてアロイスが書き置いたものだろう。

 その隅々から、ゼナを気遣ってくれているのがわかる。彼はゼナを起こさないように、こっそりと部屋から出ていったのだ。


 ゼナは身なりを整え、手にちゃんとルビーの指輪が嵌っていることを確認する。これは大切なもの。ずっと身につけていようと決めたのだ。


 扉を開けて、廊下に出る。足首を庇いながらになるので、いつもより歩く速度が遅い。

 左側の天井まで伸びる大きな窓から、明るい日差しが差し込んでくる。部屋から出る前に時計を確認したところ、今は昼前だった。随分と遅くまで眠ってしまっていたらしい。


 アロイスの書斎はゼナがいるこの部屋と同じ階にある。以前にシュテファンに案内してもらったので、大体の場所は把握していた。

 向かい側からカッチリとした服装の護衛騎士がやってきた。花嫁選定の広間で見かけたことのある男だ。


「こんにちは」

「ゼナ様、こんにちは」


 ゼナが挨拶をすると、護衛騎士もこちらのことを知っているようで、深く頭を下げてくる。

 昨日のお披露目により、ゼナがアロイスの婚約者であることが多くの人々に広まった。こちらとしても、それに恥じない振る舞いをせねばと、自然に背筋が伸びてくる。


 書斎に着くと、扉が締まりきっていないのか、少し開いた状態だった。中から微かに話し声が聞こえるので、シュテファンの他に誰かいるようである。

 ゼナは覗き見は良くないと分かっていつつも、その狭い隙間に吸い込まれていく。

 そして、周りに人が居ないのを確認してから、壁の傍で息を殺して、こっそり中をうかがう。


(まあ、カイン殿下……?)


 書斎の中にいたのは、シュテファンと第二王子のカインだった。二人は大きなデスクの前で、向かい合って立っている。デスクの上には火が点っていない燭台が、壁際には本棚がいくつか置かれていた。


「アローは………やって………したんだ?」

「それは…………ただ……………本当です」


 いったい、何を話しているのだろう。声を潜めているのか、二人の会話が上手く聞き取れない。

 しかし、うっすらと笑みを浮かべるカインに対して、シュテファンは険しい表情を浮かべている。楽しい話ではないのだろう。


 そういえば、昨夜のパーティーでもアロイスとカインは少し険悪なムードだった。どうやら、弟が兄に対して、やや一方的に苦手意識を持っているようだ。


「……くしゅんっ」


 二人のやり取りを思い返していると、突然、鼻がむずむずしだして、ゼナはくしゃみを漏らしてしまう。薄着で寝てしまったため、風邪でも引いたのだろうか。


「あっ……!」


 しまった……と思うが、時既に遅く。部屋の中から、「誰だ?」と言って、こちらに向かってくる足音が聞こえる。

 そして、ゼナが身を隠す間もなく、書斎の扉が完全に開かれる。扉の向こうから、麗しい貴公子が姿を現した。


「おや、ゼナ嬢。こんなところで会うなんて奇遇だね」


 貴公子──カインはゼナを見つけると目を丸くして驚くが、すぐにふわりと微笑みかける。相変わらず美しいが、腹の中が読めない笑顔だ。


「す、すみません……勝手に覗いてしまって」


 ゼナは慌てて頭を下げて謝る。すると、カインは「そんなの気にしなくていいよ」と笑った。


「殿下、言ったでしょう。私は彼女をお待ちしているのですと」


 カインの後ろから呆れ顔のシュテファンが歩いてくる。彼はゼナに視線を移すと、ふっと顔をやわらげた。


「話し込んでしまって申し訳ありません。昨夜はよく眠れましたか?」

「はい、おかげさまで……」


 ゼナは二人が怒っていないと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。


「そうだ、お腹は空いてるかい? いっしょにランチでもどうかな」


 カインは軽い口調でゼナを誘う。そこへ、シュテファンが割って入った。


「お待ちを。私はゼナ様を屋敷へ無事にお送りしなければなりません。寄り道はしないようにと仰せつかっております」

「相変わらず、おまえは堅いなぁ。大丈夫、責任は僕が取るから」

「ですが……」

「昔は僕もおまえの主だったろう?」


 そう言って片眉を上げるカインに、シュテファンは難しい顔になる。

 ゼナには二人の関係性は分からないが、カインの言いぶりからして、シュテファンは昔、彼ら兄弟どちらともに仕えていたのだろうか。


「ほら、堅物はおいて行こう!」

「えっ!?」


 カインはゼナの手を取り小走りに駆け出す。後ろから、シュテファンがぎょっとした顔で「お待ちを!」と制止の声をかけてくる。

 しかし、王子は止まることなく、ふふっと楽しそうな笑い声を上げるだけだった。



 ゼナはされるがままにカインに連れられ、陽の光が差し込む長い廊下を進み、角を何度か曲がった。シュテファンは追ってこなかった。

 途中、ゼナは手を振り払うこともできず、恐縮しながら「アロイス様から、目覚めたら屋敷に戻るようにと言われているのですが……」と声をかけた。

 しかし、カインは「別に大丈夫さ。そんなに長くは拘束しない」と笑うだけである。第二王子は、予想外に奔放で無邪気な王子のようだ。


「この宮殿には、僕ら王族だけのプライベートルームがあるんだ。僕はよくそこで食事をしている。シェフの腕がいいからね」


 カインが歩きながら説明してくれる。どうや。廚房と隣合ったダイニングルームが設けられているらしい。


 案内されるがまま目的地にたどり着き、二人は中へ入る。

 そこには、燭台や花瓶が飾られたロングテーブルが中央に鎮座していた。微かにガラス類の触れ合う音や調理音が聞こえるのは、隣に厨房があるからだろう。


 カインは厨房に一言申し付け、テーブルの端の方にゼナと向かい合って座った。

 ゼナが知る限り、この男は常にご機嫌な表情をしている。


「一度、君と二人きりで話してみたかったんだよ」


 カインはおもむろに口を開き、目を細めた。その瞬間、ゼナの全身に少し緊張が走る。

 観察されている。もしかして、弟の花嫁に相応しいかどうかを見定められているのだろうか。


「ゼナ嬢は花嫁選定で、初めてアローと会ったのかい?」

「はい、アロイス様のお屋敷が初対面で……」


 斜め上から来た質問に、ゼナは一歩遅れて頷く。


「でも、アロイス様は以前からわたしのことを知っているみたいでした」


 あの時のアロイスの視線は、初対面のものではなかった。それにその日の夜、彼に問いかけたら、肯定も否定もしなかった。答えないということは肯定に近しい。


 ゼナはそのまま「わたしには覚えがないのですが」と続けようとしたが、神妙な表情のカインが問いかけてくる。


「それ、アローが言ってたの?」

「は、はい」

「へえ……おかしいな」


 訝しげに首を傾げるカインに、ゼナはあることに思い至る。


「あの、カイン殿下も以前からわたしのことを知っているのですか?」


 二人は歳の近い兄弟だ。アロイスだけでなく、カインもゼナを昔から認識していたのかもしれない。


「……いいや」


 すると、カインは言葉では否定しつつ曖昧に首を振った。上手くかわされた感じだ。


「アローとの初対面はどうだった? あの子、君を見てどんな顔をしてたのかな」

「とても驚いている様子でした」


 ゼナが素直に感じたことを答えると、カインはふふっと擽ったそうに笑う。その質問と反応に違和感を拭えない。


(二人とも、わたしが知らないなにかを知っているんだわ)


 もやもやとした霧がゼナの心を満たしていく。カインに詰め寄っても濁されるだけ。アロイスもきっと教えてはくれない。

 ……そもそも、自分からなにが欠落しているのかも分からない。ただ、それはゼナ自身が知っておかなければならないことのような気がしてならないのだ。


「君はアローのことが好きなの?」


 カインが身を乗り出して質問してきた。

 あまりにも唐突に聞かれたので、息が詰まりそうになるが、なんとか答える。


「……はい、好き、です」

「いつから?」

「その……アロイス様がわたしを……あ、愛していると言ってくださったときには」

「……初対面なのに?」


 俯いて小さな声で返すゼナに、カインは質問を重ねてくる。これではまるで尋問のようだ。


 あまりの恥ずかしさにゼナの顔には熱が集まり、緊張感にその身体は強ばっていく。


 この王子はアロイスと一見正反対なようでいて、よく似ている。時にこちらを竦ませるほどの強い眼差しを持っている。その視線を受ければ、誤魔化しは許されないことが本能的に分かるのだ。


「はい……毎日あの御方と過ごす中で、その、さらに……」


 そこまで言って言葉に詰まる。

 自分はいったい誰になにを告白しているのだろう。わけの分からない状況に、次第にのぼせてしまい、頭が回らなくなってきた。


「そっか、ありがとう」


 そこで、カインが助け舟を出すかのように言葉を挟んできた。その声色は明るい。


「おかしな質問をして悪かった。二人が上手くいくことを僕としても願ってる」


 ゼナがなにか返事をする前に、厨房からウェイトレスが二人分のディッシュを運んできた。


「今日はローストビーフだね。美味しそうだ」


 カインはそう言って顔を綻ばせる。

 その声に、ゼナも手前に置かれた料理を見る。ちょうどいい焼き目の付いた赤身の肉に、野菜が添えられたひと皿だ。


「とてもいい香りですね……!」

 

 食欲をそそる香りが鼻をくすぐり、思わず喉が鳴る。今朝起きたときから、ずっとお腹が空いていたのだ。


「さあ、食べようか」


 カインが呟いたその一言によって、彼からの奇妙な尋問は幕を閉じた。

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