第9話 星空の上
「せっかくだから、少し寄り道をしよう」
「寄り道ですか?」
「うん。とっておきの場所があるんだ」
緊張の糸も解れ、ゼナは屋敷に戻るつもりでいたところ、アロイスはそう言った。
ゼナはそのまま宮殿の二階に連れていかれ、人気のない最奥の方に位置するバルコニーの前までやって来る。
「ここだ」
そして、アロイスがバルコニーのガラス戸を開けた瞬間、飛び込んできた涼しい夜風にゼナの髪がふわりと靡く。
「わっ、きれい……!」
そこには、きらりと輝く三日月と、宝石が散りばめられたかのような満天の星空が広がっていた。
アロイスは優しくゼナの手を取り、バルコニーの縁まで導く。
見上げれば夜空が、見下ろせば美しい薔薇の庭園が一望でき、そこはまさしく"とっておきの場所"だった。
「俺はここから見る夜空が好きなんだ。なににも遮られずに、綺麗に見渡せるだろう?」
「はい! こんな素晴らしい場所があったなんて……! わたしも、星空を眺めるのは好きです!」
「それはよかった。せっかく宮殿に来たんだから、ここを紹介したくてな」
得意げな笑みを浮かべるアロイスに、ゼナも興奮気味に頬を緩める。そして、バラスターに手をかけて、アメジストの目を輝かせながら星空を眺める。
「──ゼナはこの空の上に、なにがあると思う?」
「空の上、ですか?」
この質問は、宇宙とかそういう物理的な話ではないのだろう。アロイスは案外、概念的な話が好きなのかもしれない。
「そうですね。天があり、神様がいるんじゃないでしょうか。天界、天国みたいな場所があったり……!」
ゼナはこの夜空の上に広がる世界を自由に想像してみる。ゼナ昔から、夢物語を空想するのが好きだった。
アロイスはなにかを考え込むかのような、真剣な表情でゼナの考えを聞いている。
「……あ、そうだ。天使も!」
「え?」
「宮殿に天使の絵画が飾られてありますよね。とても美してくて、見蕩れてしまいました」
「っ、なにか思い出したか!?」
あの天使の絵画を思い出しながら語っていると、突然、アロイスが表情を変えてゼナに詰め寄る。
「思い出す……?」
「わからない、か……」
ゼナは問いの意味か分からずにきょとんとすると、アロイスはハッとして額に手を当て、「なんでもない、気にしないでくれ」と首を横に振った。
「俺も、空の上には天界があると思うんだ。……そこには人間と同じように、神と天使が住んでいる。俺たちが今いる世界は一部に過ぎない」
そして、アロイスはバラスターに腕を乗せて夜空を見上げる。アロイスの語りに、ゼナも「そうですね」と頷いた。
「そうだ、三日後にメルンド建国記念パーティーがある。父上がゼナも招待するように……と言っていたが、どうだ?」
「建国記念パーティー、ですか……?」
ゼナは目を瞬かせる。それは、自分にはまるで馴染みのない単語だったからだ。
(お姉様は何度か参加していたけど……)
パーティーに参加してみたいという気持ちはある。だが、招待されるであろう子爵家の人々と顔を合わせるのは気が進まない。
「パーティーに参加できるなんて、光栄ですけど……お邪魔ではないでしょうか」
「そんなことはない。おそらく、婚約者の披露も兼ねているのだろう。俺としても大勢の場は好きじゃないんだが、今後ののためにも、パーティーには参加しておいた方がいいと思う」
「そうなのですね……!」
紹介のためと言われれば、ゼナには断る理由はない。
(お父様たちが居ても、きっとなんとかなるわ。逃げないって決めたんだから)
家族のことはその時になってから考えよう。そう考えて、ゼナは頷く。
「それでは、お供させてください! 今日みたいに、また緊張してしまいそうです」
「パーティーの最中はずっと俺の隣にいてくれるだけでいい。少しは安心できるだろ?」
「それはもう! 少しどころか、すごく心強いですよ!」
「そうか」
アロイスが常に傍に居てくれると聞き、ゼナの不安はすっと消えていく。社交の全てを任せるなどという無責任なことはしないつもりだが、その存在はとても頼もしく感じられた。
***
「ゼナ、今日も一緒に眠らないか?」
宮殿から屋敷に戻ったその日の夜、ゼナが自室に戻る前に、アロイスが少し照れたようにそう言った。
ゼナは驚いて何度か瞬きをする。実のところ、ゼナ自身もこの提案をしたかった。昨夜はアロイスの隣にいたためか、ぐっすりと眠れたのだ。
その日の夜、昨日と同じように二人並んでベッドに横になった。
***
ゼナは夢を見た。自分が夢の中にいると認識できる明晰夢だ。
夢の中で真っ白なドレスを身に纏ったゼナの身体は、血に濡れていた。
(どういう、こと……?)
ゼナはその血はゼナの体内から流れ出たものだった。ゼナはタガーを逆手に握って、自分自身の心臓を突き刺していたのだ。
生暖かく鉄臭いものが喉元からせり上がってきて、ゼナはそのまま吐き出してしまう。それは、やはり赤い血だった。
同時に、立った状態を保てなくなり、ゼナは緩やかにその場に倒れ込む。
見慣れない高い石の天井。鼻につく血の臭い。
(ここは、どこなのかしら……)
痛覚が麻痺しているのか、痛みはない。ただ胸の底に、自分はこうするべきだったのだという不明瞭な満足感がある。
このまま血が流れ続ければ死ぬはずなのに、自然と恐怖を感じなかった。
(……? 誰か来るわ)
ふと、横たわったまま動けずにいるゼナの耳に、こちらへと駆けてくる足音が聞こえてくる。その音は焦りを宿していた。
ゼナが霞む視界の中なんとか頭を動かして、音の方を見ると、男のような影がゼナの方へ走ってくるのが見えた。
そのとき、つんざくような悲鳴が聞こえる。
その悲鳴はこちらへ近づいてくる男が発したもののようだった。男は、差し込む光に透ける金髪に、背中に大きな羽を生やして──。
「っ!?」
そこで、ゼナの意識は急速に覚醒した。反射的に上半身を起こすと、そこはアロイスの部屋のベッド上だった。
「ゼナ……?」
隣で眠っていたアロイスは、眠気まなこのまま心配そうにこちらを見上げる。
ゼナがアロイスのリネンシャツの裾をぎゅっと握り締めていたのだ。
「わっ!? す、すみません! 起こしてしまって……」
ゼナは慌てて手を離してアロイスに謝る。すると、アロイスは「大丈夫だ」と囁き、身を起こした。
「眠れないのか?」
「はい。少し、怖い夢を見てしまって……」
ゼナは胸に手を当てて深呼吸をする。
(今の夢はなんだったの……?)
見知らぬ場所で、自分の手で命を絶つ夢。こんな夢を見るのは初めてだ。しかも、いつもは夢の内容をすぐに忘れてしまうのに、今回は曖昧ながらも記憶に残っている。
「少し待ってろ」
「え……?」
アロイスはそう言って、おもむろにベッドから起き上がり、部屋を出ていってしまう。
取り残されたゼナは不思議に思いながら、シーツを胸元に手繰り寄せて身体を抱き寄せた。
数分後、アロイスは湯気の立つティーカップを片手に戻ってきた。その中にはミルクが入っている。
「ゼナ、これを飲むといい」
「ホットミルク? もしかして、殿下が作ってくれたんですか……!?」
「うん。俺でもこれくらいは作れるぞ」
王子特製に恐縮しつつも、ゼナはアロイスが手渡してくれたホットミルクをゆっくりと味わう。ミルクの温かさが心地よく、少しずつ緊張がほぐれていくのがわかった。
「美味しい……! 温かくて、ほっとします」
「だろ? 俺も昔、怖い夢を見た時に作ってもらったことがあるんだ。心が安らげば、悪夢も逃げ去る」
アロイスはゼナの隣に座って、ゼナの心を落ち着かせるように話してくれる。
「楽しいことを考えよう。この先も一緒にご飯を食べて、一緒に眠る。時々、あのバルコニーに訪れるのもいい。ずっと一緒に暮らして行くんだ。俺たちを阻むものなんて、この世界にはないんだから」
その言葉にゼナの心が安らいでいく。昨日からずっと、アロイスがゼナの孤独を癒してくれるのだ。
二人はホットミルクを飲み終えると、再びベッドに横になる。
「わたしが眠るまで、手を握っていてもいいですか?」
「もちろん」
ゼナがおずおずとお願いするとアロイスは微笑み、そのままゼナの手をぎゅっと握り締めてくれる。ゼナはその体温に安心して、穏やかな眠りに落ちていくのだった。
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