第7話 天使の微笑み

 目を開くと、目の前には少し乱れた黒髪とその下に隠されている幼げな寝顔があった。


「っ!?」


 ぼやけていた頭が完全に覚醒し、ゼナはバッと飛び起きる。


(そうだった! 昨夜はアロイス様と一緒に眠って……!)


 ゼナは昨夜のことを思い出して、ぶわっと顔を赤く染める。

 婚約者になったとはいえ、いきなり添い寝をしてしまうなんて。孤独にあてられて、とても大胆なことをしてしまった。


 時間差の羞恥心に襲われていると、隣からすやすやと小さな寝息が聞こえてくる。アロイスのものだ。普段とは違い、眉の垂れたあどけない寝顔である。


(まあ、可愛らしい)


 その珍しい表情にゼナが夢中になっていると、アロイスは「ん……」と身動ぎ、そして目を覚ます。


「ゼナ、おはよう……。もう起きてたのか」


 アロイスはまだ微睡みの中にいるのか、話す調子がゆったりとしている。


「おはようございます。すみません、起こしてしまいました……」

「いや、構わない。目を覚ました時に誰かが居てくれるというのは、なにか特別な安心感があるな」

「わたしも、おかげさまでよく眠れました!」

「こちらこそ」


 アロイスは枕元に肘をついて、にこりと笑った。

 ゼナも釣られて口角を上げる。勝手に気まずい雰囲気なるかと思っていたがそんなことはなく、自然体で話すことができて安心した。


 その後、朝食の準備が整ったことを知らせに来たレドラーが、二人揃ってアロイスの部屋にいるのを見て「おやおや」と意味深な感嘆を漏らした。


 そして、ゼナはネグリジェからドレスに着替えて、ダイニングテーブルにつく。アロイスも同様に腰掛けた。


「わあっ、美味しそう!」


 テーブルの上には暖かいポタージュとポーチドエッグ、ライ麦パンが豪奢なプレートに並べられており、ゼナは両手を合わせて目を輝かせる。どれも好物ばかりだ。


「へへっ、奥様はポタージュが好きってんで張り切りましたよ」

「ヴェンダルさん、ありがとうございます!」


 ゼナが喜ぶと、壁際に控えていたヴェンダルが得意げに笑った。

 昨日、アロイスとの会話の中で好きな料理について話した。その場にヴェンダルは居なかったが、アロイスが彼に伝えてくれたのだろう。

 ゼナがちらりとアロイスの方を見ると、アロイスは目を細めた。


「アロイス様も、ありがとうございます!」

「ん? 俺はなにも」


 お礼を言うと、アロイスはしらを切る。

 そんなアロイスに、ゼナはつい「ふふっ」と笑みを漏らしてしまう。すると、アロイスは「どういたしまして」と頬を緩めた。


***


 アロイスは先に宮殿で用事があるそうで、朝食の後にすぐに屋敷を出ていった。そのため、ゼナは午後からひとりで宮殿を訪れる。

 初めて来たので、いったいどこから入ればいいんだろう……とオドオドしていると、シュテファンが迎えてくれた。どうやら、彼がアロイスの代わりにゼナを案内してくれるらしい。


「こんなことを私の口から申し上げるのは恐縮なのですが……殿下はきっとゼナ様を大切にしてくださいます」


 少し雑談を交わした後、ふと、シュテファンがそう零した。ゼナは「え?」と目を瞬かせ、彼の話に耳を傾ける。


「突然申し訳ありません。どこか不安そうにしておられたので」

「……すみません、顔に出ていましたか」

「私のお節介かもしれませんね」


 ゼナを安心させるように優しく微笑むシュテファンに、ゼナは恐縮する。

 シュテファンがいつのことを言っているのかは分からないが、屋敷に来てからの不安な気持ちが外へ溢れてしまっていたのだろう。


「これまで貴族から他国のご令嬢まで、幾人から縁談の申し出がありましたが、アロイス殿下はその度に断ってこられました」


 シュテファンはゆっくり歩きながら、アロイスについて話してくれる。

 ゼナはその横を歩き、相槌を打つ。


「一度、どうして婚約者を作らないのかと聞いたのですが、一向に教えてはもらえませんでした。ただ、ある人の写真を見た時に『この人じゃない』と呟いたんです。……まるで、誰かを探しているかのように」

「誰かを?」

「ええ。その誰かが、ゼナ様だったのかもしれません」

「えっ……わたし、ですか?」

「はい。これは、私の憶測に過ぎませんが」


 思いもよらない話に、ゼナは動揺する。

 そんなの、まるでアロイスがゼナをずっと探してくれていたとでもいうように解釈できる。


「出過ぎたことを申しました。ですが、殿下は気まぐれで大事な決断をなさる御方ではないことを知っていただきたかったのです。それに、私たち屋敷の者は皆、ゼナ様を歓迎しております。これから、よろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします。わたしも殿下の誠意に応えられるように、隣に立つにふさわしい婚約者であれるように努力します」

「ふふ、そんなに気負わないでください。私たち屋敷の者は皆、ゼナ様を歓迎しておりますよ」


 ゼナが頭を下げると、シュテファンは目を細めた。彼の気遣いに感謝の思いでいっぱいだ。


(シュテファン様も優しい御方だわ……。それに、アロイス様は、みんなから慕われているのね)


 シュテファンだけではない。アロイスの屋敷の使用人たちはみんな生き生きとしていた。まだ昨日と今日しか過ごしていないけれど、その短い間だけでも、あの屋敷はあたたさがゼナを包んでくれる。

 側近から見たアロイスのことが知れてよかった。ゼナの直感はきっと間違いじゃない。アロイスは信頼できる御方なのだ。


(わたしを探しているって、どういうことなんだろう……)


 ゼナは頭を捻ってみるが、自分で納得いく答えは得られそうになかった。



 その後、シュテファンは丁寧に、庭園や書庫、劇場、礼拝堂などを順に案内してくれる。ゼナはその度に目を輝かせながら、宮殿を見て回った。


「謁見の間に陛下がいらっしゃいます。扉の前で殿下と合流しましょう」

「はい」


 そう言って、シュテファンは大広間へ導いてくれた。

 いよいよ陛下にお目にかかるのかと思うと、ゼナは緊張が高まってきた。


 そんなとき、通りがかった廊下の壁に飾られた大きな絵画を見て、ゼナは歩みを止める。


「天使?」


 それは、天使の絵画だった。

 幻想的な雲が浮かぶ大空を背景に、白く大きな翼を持った天使がこちらを向いて、柔らかく微笑んでいる。金の額縁が、この絵をより一層壮大にしていた。


「きれいだわ」


 美しい天使の微笑みに、ゼナも自然と頬を緩める。とても惹き付けられる天使だ。

 そして、ゼナはこの天使の絵画から、必然的に自分の背中の痣を連想した。


(この天使の羽は美しく自由に煌めいている。歪なわたしとは大違いだわ……)


 すると、突然立ち止まったゼナに気づいたシュテファンが振り返り、首を傾げる。


「ゼナ様?」

「すみません。つい、この天使様に見蕩れてしまって」

「ああ、『天使の微笑み』ですね。数世紀前の有名な画家が描いたものだとかで、とても貴重なものです」

「えっ、そんなに昔に描かれたものなんですね。すごい!」


 数世紀前の絵画にしては、全然色褪せることなく、輝きを保っている。


「ええ、こんなに綺麗に残っているのは滅多にありません。殿下もこの絵画を気に入っておられるのですよ」

「まあ、そうなんですね……!」


 そういえば、アロイスの屋敷にも天使の絵画があったことを思い出す。雰囲気が似ているから、もしかしたら、同じ画家が描いたものかもしれない。


「フフ、どこか、ゼナ様に似ておられるような気もいたします」

「ん……!?」


 シュテファンの言葉に対して、ゼナは驚いて間抜けな声を出してしまった。そんなゼナに、シュテファンはくすりと笑いを零す。


(えっ、わたしに似てるかしら……?)


 絵画をよく見てみると、たしかに、髪と瞳の色がゼナと同じだ。

 しかし、その美しさには天と地ほどの差があるように思えて、ゼナは複雑な心境になるのだった。

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