第6話 凍てつく孤独

 アロイスに就寝の挨拶をした後、ゼナはネグリジェを着て、ぽすんとベッドに横になる。

 この可愛らしいホワイトのネグリジェは、「奥様のために急いで用意しましたの!」と、メイドのルミナスが用意してくれたものだ。

 彼女と話している間は、"奥様"などと呼ばれるのが気恥ずかしくて、ゼナは赤い顔で縮こまるばかりであった。


「ダメだわ、全然眠れない」


 優しい香りのアロマに包まれながら瞼を閉じるが、脳がやけに冴えていて眠れない。昨日と今日で、突然世界が変わったような気分だ。

 枕元に置いた母の写真を見ても、心は落ち着かない。子爵家から持ってきたものは、最小限の手荷物とこの写真だけだった。


(やっぱり、不安なのかも)


 住み慣れない部屋で一人寝をするというのは、こんなにも孤独を感じるのか。

 これはやはり夢なのではないだろうか。起きたらまたあの灯りの少ない部屋に戻っているんじゃないだろうか。未だにそんなことばかり考えてしまう。悲観的な性格を一日で変えてしまうことは、無理そうだった。


 ゼナは柔らかな絹の布団を手繰り寄せて抱きしめる。ベッドの寝心地はまるで雲に浮かんでいるようで、ふわふわとゼナを包み込んでくれる。


(この向こう側に、アロイス様がいらっしゃるのよね)

 

 ゼナは身動いで横向きになり、薄いクリーム色の壁をじっと見つめる。

 アロイスの寝室はゼナの部屋の隣だ。この壁の向こうで、あの御方も眠りについているのだろう。


「アロイス様」


 ゼナは小さく呟き、背を丸めて自分の身体を抱きしめる。

 アロイスとは初めて会ったはずなのに、今日一日だけで、信じられないくらい惹かれている。この先もずっとずっとこの人の傍にいたい、なんて思ってしまう。


(わたしったら変ね。今まで、こんなにも胸が苦しくなることなんてなかったのに)


 アロイスのことを想うと、胸が苦しくなる。

 いつもなら、父のことや姉のことを考えて惨めな気持ちになっていたけれど、今はそれとは正反対の苦しさがある。柔らかで、それでいて鋭い痛みだ。


『やっぱり、覚えてないんだな』


 ふと、ゼナはアロイスの言葉を思い出す。

 同時に、広間でそう呟いたアロイスの悲しげな表情が脳裏に浮かんだ。


 あの時はなんのことだか分からず聞き流してしまった。けれど、なにか大事なことを忘れている、そんな気がしてたまらない。


(わたしはアロイス様と会ったことがあるの? いいえ、そんなはずないわ)


 ゼナは姉のライラとは違って、社交場には顔を出させてもらえなかった。王子と接する機会なんて、花嫁選定まで一度もなかったのだ。


「うーん……」


 ゼナはごろんと仰向けになり、額に腕を乗せて頭を悩ませるが、結局どれだけ考えても分からなかった。


(少しだけ、外の空気を吸いたい)


 そう思って、のそりとベッドから起き上がり、ネグリジェのまま、部屋の扉を開ける。

 すると、廊下の薄明かりが部屋の中に差し込んできた。その際にギィッと大きな音がなってしまい、ゼナの心臓が跳ねた。


「こんなに広いから、迷子にならないように気をつけないとね」


 勝手に人の屋敷を出歩くなんて行儀が悪いと思いつつ、ゼナは部屋を抜け出す。


「ゼナ」

「へっ!?」


 すると、突然腕を後ろに引かれて、背中に微かな衝撃が走る。

 ゼナが驚いて背後を見上げると、そこには黒のリネンシャツを見に纏ったアロイスの姿があった。


「アロイス、様……?」


 夜闇のような黒髪が彼の目元を覆って、隙間からルビーの瞳がちらりと覗いている。

 その赤は、たしかにゼナを捉えていた。


(冷たい……)


 昼間とは異なるアロイスの様子に、ゼナはゾクリと背が冷える。掴まれたままの腕が痛い。

 アロイスはゼナをその胸の中に収めたまま、もう一度「ゼナ」と囁く。


「──どこに行くつもりだ」

「す、すみません、外の空気を吸いたくて」


 低いトーンの問いかけに、ゼナは身体が強ばるのを感じながら謝る。


 すると、アロイスはゼナの腕を離し、肩を押して、ゼナを廊下の壁まで追いやった。

 そして、ゼナの顔の横に手を付き、逃げ場を無くされる。


「っ!?」

「どうして、俺から逃げようとするんだ」

「え……?」

「まさか、また俺を置いていく気じゃないだろうな」


 そう囁くアロイスの表情に色はなく、ただ暗闇のようだった。アロイスはゼナよりずっと背丈が高く、彼の影がゼナの身体を包み込む。


(突然どうしてしまったのかしら……? なんだか、様子がおかしいわ)


 ゼナはドクドクと早鐘を打つ胸を押えて、なんとか呼吸を整える。


「アロイス様、どうしたのですか……?」


 ゼナは混乱しながらアロイスを見上げる。

 すると、アロイスは凍ったような表情でゼナを見つめ返した。緊張感が漂う沈黙の後、やがて、アロイスは壁に当てていた手をずるりと下ろして、おもむろにゼナをきつく抱きしめた。


「俺から離れるな。一生、俺の隣にいてくれ……」

「……っ」


 そのアロイスの泣きそうな声に、ゼナは息を呑む。その言葉は、ゼナを縛る命令などではなく、むしろ、懇願に近かった。


 どうして、アロイスがゼナに向かってこんなことを言うのかは分からない。

 しかし、アロイスの心の底に触れて、ゼナはたまらなくなり、ぎゅっと抱きしめ返す。

 そして、腕を精一杯伸ばして、彼の黒髪をそっと撫でる。


「わたしは……わたしは、どこにも行きませんわ。今日から殿下の婚約者なのですから。殿下に命令されない限り、貴方のそばに居ます」

「そう、か。それならいいんだ……」


 ゼナが心の内を打ち明けると、アロイスは先程までとは異なり、安らかな声を漏らした。

 落ち着いたアロイスの様子に、ゼナも安堵する。


「突然悪かった。怖い思いをさせてしまっただろ」

「いいえ……これは、わたしの戯言なのですが、殿下もわたしと同じように孤独を感じていたのでしょうか」

「孤独……ああ、孤独。そうかもしれないな」


 アロイスはどこか納得した様子で呟いた。


(わたしと同じなのかも……。殿下の過去になにがあったのかは分からないけれど、あんな悲痛な表情をしてほしくない)


 抱きしめられた身体からアロイスの温もりを感じて、余計にそう思う。

 少し前までは冷たい人に違いないと思っていたのに、こんなにも温かい人だなんて知らなかった。


(アロイス様に抱きしめられると、なんだか安心するわ)


 思い返して見れば、こうして抱擁されたことがなかったように思う。父も義母も、ゼナを抱き上げてはくれることはなかった。


「ゼナ、一緒に寝てもいいか?」

「はい」


 アロイスに囁かれ、ドクンと胸が跳ねる。

 一人寝にもの寂しさを感じていたゼナにとって、その誘いは、天から差し伸べられた救いのようだった。


***


 アロイスに誘われ、彼の部屋のベッドに並んで横になる。新しい部屋で眠るのはお預けだ。


「ゼナ、さっきはどこに行こうとしていたんだ?」

「色々なことがあったので、少しだけ不安で、眠れなくて。でも、アロイス様がそばにいてくださるおかげで、今日はよく眠れるような気がします」

「俺がゼナの不安を拭えるのなら、それは嬉しいことだ」

「ええ……。本当に、今日だけでたくさんのものをいただきました」


 アロイスはゼナの欲しい言葉を、温もりをくれる。

 先程のアロイスの嘆きは、彼の孤独から来るものだったとしても、その言葉はゼナの不安を消してくれた。

 自分は、この人の傍にいていいのだと、この人に求められているのだと分かった。


「本当は今回の花嫁選定でも、誰も選ぶ気はなかった。父上が名のあるご令嬢たちに召集をかけたんだ。そこに俺の意思はない。──だけど、あなたがいた」

「それは……以前から、わたしのことを知ってくださっていたのですか?」

「ああ」


 ゼナが不思議に思って尋ねると、予想外にアロイスは素直に頷く。

 対して、ゼナは驚いた。ろくに社交場へ出向かなかった娘を、いったいどこで知ってくれたのか。


「それでは、アロイス様とわたしはどこかでお会いしたことが?」

「それは……」


 ゼナの問いに対して、アロイスは言い淀んだ後、ゆるゆると首を横に振った。

 その後、質問に答えることはせずに、別の言葉を続ける。


「……だが、俺がゼナのことを愛しているのは本当だ。信じてくれ」

「信じます。わたしが信じたいのです……! 今まで、わたしを愛してると言ってくださる人なんて、いなかったから……」


 アロイスの言い方に引っかかりつつも、ゼナはアロイスを信じることにした。

 彼の不安定な心に触れて、不信になるのではなく、むしろ近づけたような気がしたのだ。


(殿下はわたしに居場所を与えてくれた。だから、わたしは殿下の心の拠り所になりたい)


 そんなゼナの想いを知ってか知らずか、アロイスはゼナの額にそっと唇を落とす。


「っ……」


 ゼナは擽ったくてぎゅっと目を瞑る。

 男の人にキスされたことは初めてであったが、全く嫌な感じはしなかった。むしろ、心臓が跳ねて、喜んでいる。


「ゼナ、もう二度と俺から離れないと誓ってくれるか?」


 アロイスが囁く。

 ゼナはその声につられて瞼を持ち上げると、赤い瞳と目が合った。途端、ゼナはどくんと心臓が脈打ち、身体が熱く火照るのを感じる。


『それに殿下の瞳って、どこか言い知れぬ魔力があるから逆らえないし……』


 仕立て屋のマスターの言葉を思い出す。

 その通りだ。この光の強い瞳には逆らえない。ゼナの中に、逆らおうという気持ちもない。──背中が、あの羽の痣がひどく熱い。


「はい、誓います」


 ゼナは酔ったような心地のまま、こくりと頷いた。そして、アロイスの腕に抱かれて、静かに眠るのだった。

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