第2話 優しい眼差し

 令嬢たちが退出し、広間は静まり返る。

 ゼナはアロイスに抱き寄せられたまま、ぎゅっと両手を胸に当てて、放心状態で固まっていた。


(これは、夢かしら……?)


 予想外の展開に、ひどく目眩がする。


「ゼナ、大丈夫か?」

「は、はひ……」

「……本当に大丈夫か?」


 口を半開きにしたまま不明瞭な返事をするゼナを心配してか、アロイスは先程よりもゼナをぎゅっと抱き寄せ、顔を覗き込んでくる。

 すると、その深いルビーの瞳がぐんと近づき、ゼナはますます動揺してしまう。

 

(ち、近いっ! こんなに近いと死んでしまうわ……!)


 というか、王子の婚約者に選ばれて、王子に抱き寄せられているなんて、とても信じられない状況だ。

 もしかして、アロイスはゼナを誰か他の人と間違えてるんじゃないか。これはなにかの策略で、ゼナを罠に嵌めようとしているんじゃないか。なんて、おかしな妄想さえしてしまう。


 ゼナは色々考えた結果、おずおずとアロイスに切り出す。


「あ、あの……、本当にわたしが殿下の花嫁に選ばれたのですか? なにかの間違いとかではなくて……?」


 すると、アロイスは驚いたようにぱちぱちと瞬きを繰り返す。そして、悲しげに眉を下げて「やっぱり、覚えてないんだな」と呟いた。


「え?」


 ゼナは言葉の意味が分からずに首を傾げるが、アロイスはそれには返さずに言葉を続ける。


「いいか、俺はゼナを選んだんだ。もちろん、メルンド第三王子アロイス・フレンツェルの花嫁として」

「……本当に?」

「もちろんだ。いますぐにでも正式に結婚したいんだが、こればっかりは伝統が許してくれない。ひとまず、今日より俺とあなたは、婚約者となる」

「わたしが、婚約者に……」

「そうだ」


 直接アロイスの口から、"婚約者"という言葉を聞き、ゼナは呆然とする。

 どういう理由かは分からないが、どうやら、アロイスは本気でゼナを選んだらしかった。


(わたしが殿下の婚約者だなんて、本当の話なら光栄だわ。けれど、わたしなんかが……)


 ゼナはどんどん暗い思考の闇に落ちていき、底に辿り着く寸前でハッと目が覚める。何事もネガティブな方向に考えてしまうのは、自分の悪い癖だった。


(だめよゼナ、くよくよしないの! いつもそうやってぐだぐだ考えて、辛い想いをするだけじゃない。きっとこれは、神様が与えてくれたチャンスなんだわ)


 ゼナは悲観的な思考を振り切るように、頭を振りかぶる。


『ゼナ、必ず花嫁に選ばれろ。どんな手を使ってでも王子の目に止まるのだ。さもなくば、この家におまえの居場所はないと思え!』


 父はゼナの肩を強く掴んで、必死の形相でまくし立てた。

 ゼナに召集がかかることは、父にとっても予想外であったらしい。彼は招待状にゼナの名を見た瞬間、突然態度を変えた。今まで散々粗雑に扱ってきたのに、こんなときだけ……とゼナは歯がゆく思う。


『穢らわしい。わたくしの視界に入らないでちょうだい』


 次に、ゼナを蔑む継母の声が脳裏に浮かぶ。

 彼女は父の後妻だ。元々は妾であったが、ゼナの母が死んだ翌年に、正式に子爵家へ迎え入れられた。


『アンタなんかが選ばれるわけないでしょう!? せいぜい、恥をかくといいわ!』


 最後に甦ってくるのは、顔をしかめてゼナを見下ろす義姉の声。その瞳には明らかな憎悪がこもっていた。

 義姉はゼナよりひとつ歳上で、継母の子だ。妾の子のため、昔は屋敷の外で暮らしていたが、今や正室の子として子爵家のみんなから愛されている。

 

 子爵家にゼナの居場所はない。死ぬまで、あの息苦しい場所で生きていくのは辛すぎる。


(みんなを見返したい……。わたしだって、意味のある存在になれるんだって……!)


 ゼナは心の中で決意して、アロイスを見上げる。そのとき、ゼナの目元に影を落としていた前髪がさらりと流れて、視界が広がった。

 ゼナの表情の変化に、アロイスは少し驚いたように眉を持ち上げる。


「ゼナ?」

「わたし、殿下の婚約者になることができて、とても嬉しいです。ふつつか者ですが、よろしくお願いします……!」


 ゼナは明るく微笑み、気丈に取り繕う。

 すると、アロイスは「こちらこそ」と嬉しそうに口角を上げた。


(殿下に気に入られなければ……。なにも持たないわたしにできるのは、殿下に嫌われないようにすること)


 ゼナはごくりと固唾を呑み込む。

 この婚約がただの気まぐれなら、ゼナはすぐに捨てられるかもしれない。それならば、その気まぐれを少しでも長く続けてもらわないと。


(それに、もしかしたら、わたしを本当に愛してくれるかもしれない……)


 そんな思い上がったことを考えてしまい、ゼナはひとりで顔を赤くし、唇を噛み締める。


(殿下はわたしを選んでくれた。それだけで幸せなのに、なんて自惚れたことを……!)


 ゼナは脳内で自分を叱責する。

 そんな葛藤を知る由もないアロイスは、ゼナの手を握りながら安堵の息を吐いた。


「よかった。もしも婚約を断られたら、どうやって俺に繋ぎ止めようかと必死に考えていたところだ。だが、そんな心配はいらなかったな」

「へ?」


 流れるように言ってのけたアロイスの言葉に、ゼナは首を傾げる。


(ん、んん……? なにか、すごい言葉が聞こえた気がするのだけど……)


 ゼナは戸惑うが、アロイスがそれはもう綺麗に微笑むので、頭に一瞬浮かんだ違和感もすぐに忘れてしまった。


「ゼナ。婚約者とはいえ、将来は伴侶となるのだから、すぐに君をこの屋敷に迎え入れようと思ってるんだが、どうだ?」

「は、はい。殿下におまかせします」

「なら決まりだ。さっそく、子爵家に挨拶をしにいこう」


 そう言って、ゼナの手を引くアロイスはやけに上機嫌である。つられて、ゼナの心も晴れやかになってきた。


「シュテファン、馬車の準備を」

「かしこまりました」


 アロイスが告げると、シュテファンは颯爽と広間の外に出て行く。

 ゼナはアロイスの隣で、シュテファンを見送りながら考える。


(この御方は、本当にあの黒王子なのかしら。聞いていた噂とは全然違うのね……。とても優しくて、あたたかい感じがするもの)


 冷淡な黒王子。彼の笑ったところを見たことがある人はいない。地位に目がない令嬢たちは皆、彼に気に入られようとするが、いつもそっけない態度で一蹴される。

 ゼナがアロイスについて知っているのは、そんな噂ばかり。とても、目の前にいる穏やかな笑みを浮かべる人と同じには思えない。


(でも、本人なのよね? この屋敷も、側近の方や騎士様も、ご令嬢方もこの御方をアロイス様と認めていたわ……)


 ゼナがぼんやりとアロイスを見ていると、その視線に気がついたのか、アロイスは「ん?」と小首を傾げてゼナを見る。

 まるで、愛おしいものを見るように、その目は細められていた。


(こんな眼差しを送られたら、都合のいい勘違いをしてしまう)


 アロイスに見つめられたゼナは、頬を赤く染めて、ゆらゆらと瞳を揺らす。そして、胸の甘い痛みを感じるのだった。

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