コーヒー、タバコ、それから

惣山沙樹

コーヒー、タバコ、それから

 また、夏期講習をサボった。

 涼を求めて駆け込むのは地元の図書館だ。ここなら自習をしているフリができる。リュックは参考書でパンパンだし。まあ、実際はそれに手を付けずファンタジー小説ばかり読んでいるわけなんだが。

 両親には悪いけど、僕は私立中学なんて受からないだろう。五年生の時点で志望校の判定はD。ここから巻き返さねばならない、と周りは火をつけようと躍起になっている。

 その日も自習スペースの一番端に座り、小説の続きを読んでいた時だった。


「よっ、少年。いつもここにいるね」

「えっ……」


 黒髪をショートボブにした、二十代前半くらいの女性に声をかけられた。トップスは何かのロゴが左胸に入った白い半袖Tシャツ。ショートパンツから伸びる健康的な足。それは太ももまで黒い靴下に覆われていた。


「何読んでるのさ」


 女性は僕が読んでいる本をさっと取り上げた。


「あっ、ちょっと」

「へぇ……モモか。タイトルしか知らない。面白い?」

「面白い、ですけど……」


 いきなり何なんだ。僕はこんな人知らない。抗議するように睨みつける。女性は本を机の上に置いた後、ヌーディー・ピンクの唇で囁いてきた。


「ねえ、隣の喫茶店行かない? 奢ってあげる」

「そんな、悪いですよ。初対面の人に、そんな」

「あたしは君のこと何度も見てたよ。初対面じゃない。さっ、行こう」

「そんな屁理屈……」


 女性は僕のリュックを強引に持った。


「わっ、重っ」

「ちょっと……」

「ねぇ、そろそろ喉渇いたでしょ。行こう行こう」

「じゃあ、まあ……」


 僕は女性からリュックを取り返して背負い、後について行った。喫茶店の存在は知っていたが、入ったことはなかった。図書館からそこまでの短い道のりでじんわりと汗をかいた。今日も蝉は元気だ。

 席に通され、女性と向かい合ってメニューを広げた。


「少年。なーんでも頼んでいいよ」

「お弁当は持ってるんで……飲み物だけ。アイスティーでいいです」

「あたしはアイスコーヒーにしようっと」


 女性が店員を呼び、注文してくれた。

 僕の頭にはいくつもの疑問が浮かんでいた。こうして小学生に飲み物を奢ることで女性に何の得があるのか。なぜ僕なのか。平日だというのに図書館に現れた彼女は何者なのか。

 どれから尋ねるべきだろう、と唇を噛んでいると、向こうから聞かれてしまった。


「本、好きなんだね。リュックの中も本ばっかり?」

「その、そっちは本じゃなくて参考書なんです」


 僕は説明し始めた。中学受験をすること。勉強のやる気がしなくて、夏期講習をサボっていること。周囲の期待には応えられないであろうこと。

 話しているうちに、注文したものが届いて、時折飲み物をストローですすりながら全て言い切った。女性はタイミングよく相槌を打ってくれていた。


「あたしバカだから、勉強はよくわかんないけど。親にお金かけてもらってるわけじゃん。スッパリ諦めて塾やめるか、勉強やり直すか、どっちかにしたら?」

「ですよね……」


 女性が髪を耳にかけた。小ぶりなゴールドのピアスがついていたことにその時気付いた。

 僕だって、僕だって、わかってはいる。それを初めて会ったばかりの女性に真正面から言われて、平静でいられるはずがない。

 それなのに、女性はなおも心を乱すことを言うのだ。


「コーヒー、飲んだことない? 挑戦してみる? ほら」


 そして、ぐいっとグラスを僕に近付けてきた。コーヒーのストローの先は薄いピンク色に染まっていた。


「その、何度か飲んでみたんですけどダメで」

「今日は飲めるかもよ? ほら」


 ぐい、ぐい。ストローがどんどん近くなる。ダメだ。そんなのはさすがにダメだ。僕ができたのは、自分のストローを取り出して紙ナプキンで拭き、コーヒーに入れて飲むことだけだった。


「うっ……無理です」

「あはっ、そっか。ブラックだしね」


 それから、女性は続けた。


「いつか飲めるようになるよ。苦いのが美味しいって思えるようになる。あたしだってそうだったもん」

「そう、ですか……」


 せめて、女性の名前でも聞くべきか。そう迷っているうちに、彼女はコーヒーを飲み干してしまい、僕も慌てて自分のを飲んだ。


「さーて、あと一つだけ付き合ってよ少年」

「はぁ、何でしょう……」

「図書館裏行こう」


 会計をしてもらい、ぐるりと図書館の裏までまわった。ここは日陰になっており、雑草がまばらに生えていた。


「児童に受動喫煙させるのはダメだって箱にも書いてあるんだけどね」


 そう言って、女性が取り出したのは、白地に星の柄が描かれたタバコだった。僕は言った。


「その前に、ここは禁煙だと思いますけど」

「携帯灰皿なら持ってるし、いいのいいの。コーヒーの後はタバコ。タバコの後はコーヒー。これセットね」

「無限じゃないですか」


 さぞかし気分がいいのだろう。薄く微笑みながら煙を吐き出した後、女性は言った。


「まあ、少年。決めるなら早い方がいいよ。時間は有限」

「ですよね……」


 リュックがずしりと重い。この肩の痛みは、自分自身が動かないと取れない。それはわかっているのだ。

 タバコを吸い終え、吸い殻をケースのようなものに入れた女性は、あっと声を出した。


「記念にいいものあげようか」

「いいもの……?」


 そして、あろうことか靴下を脱ぎ始めたのだ。


「えっ、あの、ちょっと」

「んー、ニーハイは時間かかるな。待っててね」

「えっ、えっ、えっ、えっ」


 僕は後ずさった。雑草と砂を踏んだみたいで、ジャリッと音が鳴った。今すぐここから逃げ出すこともできたはずなのに、僕の目はあらわになっていく女性の足に釘付けになっていた。


「はい、これあげる。気にしなくていいよ。いくつか持ってるから」

「ありがとう……ございます……?」


 僕はニーハイを受け取ってしまった。ほんのりと温かい。


「じゃあ、少年。またね!」

「あのっ、そのっ!」


 女性は颯爽と立ち去ってしまった。タバコの香りとニーハイを残して。




 あれから僕は夏期講習に行くようになり、無事に志望校に合格した。大学は法学部。それから財務省に入ることができた。

 コーヒーとタバコの永久機関を理解したのは大学生の時だ。女性が吸っていたタバコがセブンスターだと突き止めてからはそれしか吸わないようになった。


 ――またね、って言ってたのにな。


 あれから女性に会うことはなかった。残されたのは、あのニーハイだけだ。とっくに彼女の温もりは消え、匂いも僕の部屋のものになってしまっているだろう。

 けれど、もう僕はニーハイでしか興奮できなくなったし、あの女性の面影を追い続けている。ずっと。ずっと。

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コーヒー、タバコ、それから 惣山沙樹 @saki-souyama

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