第二話

 彼を見送った、もとい見失った後、僕は校舎に駆け込んで和佳奈さんを探した。元居た教室にもトイレにも見当たらなかったので、他学年の教室も探そうと階段を上がる。そのとき、アドレナリンでどうにかなっていたのであろう足の痛みが安堵からか復活し、突然の激痛となって僕を襲った。踏み外す階段。軽くなる僕の体。遠くなる天井。僕は落ちた。割と上の方から。助けを呼ぶ暇もない。景色はスローでも、流れる時の速さは変わらないのだ。思考を巡らせる時間はあっても行動する時間がない。僕の脳みそは考えに考えた結果、死を覚悟する。僕の意識はそこで途切れた。

 揺られている。ゆっさゆっさと。ゆりかごにいる心地だ。あのまま死んで赤子に生まれ変わったのだろうか。僕は確かめるために目を開ける。

 最近知り合った見慣れた顔がそこにはあった。僕の方ではなく、真直ぐ前を向いて歩いている。和佳奈さんの目の先が前方なら、僕の顔は上方を向いている。天井と、和佳奈さんの顔が見える。天井は流れ、僕の体が揺れている。ゆっさゆっさと。

 …あ、お姫様抱っこだこれ。

「和佳奈さん…大丈夫…ですか…?」

「こっちの台詞。どう見たってヤバいのは蔵月じゃん」

 自分が重くないのかを訊こうとしたのだが。まぁ、確かに僕が満身創痍であることは事実である。揺れに合わせて体中が痛むし、疲労で体は動かない。自分では確かめられないが、見た目もボロボロなのだろう。

「でも…今回は助けを呼べました…」

「へー。成長したじゃん」

「和佳奈さんのおかげです」

「照れるなー。もっと讃えてよ」

 なんて言っているが、照れている様子などなく、ただただ嬉しそうだ。

「でもアタシは間に合わなかった。ごめん」

「いえ、実際助けが来て…命も助かりました」

「他にも誰かいたの?」

「はい…和佳奈さんが話してくれた赤いヒーローが」

 そこまで口にすると先ほどまでの笑顔が和佳奈さんの顔から消える。

「…夢でも見てたんじゃない」

「まぁ…たしかに夢みたいでしたけど…」

「…いや、夢だよ」

「でも僕は確かにあの時…助けを呼んで…」

「…あー、それね。階段から落ちそうになってるとき、助けを求めてたよ。そうそう。そうだった。アタシはそれを聞いて助けに来たんだ」

 なにか様子がおかしい。先ほどまでの話だと僕の成長は知らないはずなのに。今になって言っていることが矛盾している。

「いえ…落ちたときは助けを呼ぶ余裕が…」

「呼んでたんだよッ!」

 怒気に悲鳴が入り混じったまさに怒鳴り声。僕の体は大きく震え、肌寒さを覚えた。

「その…ごめんなさい…」

「…なんで蔵月が謝んの。ヤバいのはアタシの方だ。…ごめん」

 恐怖と安堵は寒気と気抜けとなり、僕は強烈な眠気に襲われる。再び意識を失うのだろう。目を閉じ、その意識が闇に沈む前。最後に残った聴覚が拾った和佳奈さんの呟きを聞きながら、僕は眠りに落ちた。

「ごめん。でも……いるわけがない…」

 目を開けるとそこは黒かった。暗くて、寂しくて、虚しい、まさに暗闇。その暗闇に一つ、スポットライトのような明かりがあり、その下で幼い少女が一人蹲って静かに泣いていた。一体誰だろう。心当たりなど無い。だが何となくその後ろ姿には和佳奈さんの面影があった。

 娘…ではないだろうから妹さん…かな?話しかけようと試みるが、声が出なかった。夢の中で上手く走ることができないような、そんなもどかしさ。僕は今、この暗闇の世界においてこの少女をただ眺めるだけの傍観者でしかないのだ。慰めることも、近づくことさえできない。ただ泣いている少女。聞いている僕。泣き声はしないのに、どこか悲痛だ。どれだけ辛いことがあったのか想像もつかないほどに。

 やがて少女は顔を上げ不意にこちらを向く。そして目が合うのだ。一傍観者であるはずの僕と。その表情はどこか恨めしそうで、恨みきれていない。何とも言えない表情をしていた。突如スポットライトが消え、真っ暗闇となる。慌てて辺りを見回すと、今度は僕の背後でスポットライトに照らされたあの赤いヒーロー、コア・ブラッドが立っていた。彼はこちらに近づくと、僕の胸に拳を当て、じっとこちらを見つめる。声を発することも無く彼は軽く頷くと、僕の頭上に明かりを残し、暗闇の中へと消えていった。

 このスポットライトのような明かりがこの世界の傍観者たる僕、言ってしまえばモブだけを照らすことがあるだろうか。否。足元に気配を感じ、下を見ると、主役はそこに居た。さっきの少女が再び蹲り、未だ悲しみに肩を震わせている。僕は何をすれば良いのだろう。

 …どうすれば良かったのだろう。

 徐々に体が浮くような感覚を覚えて、やがてその意識は現実世界へと覚醒しようとする。この暗闇にこの子を残しては置けない。そう思って、無理やり体を動かし、少女の手を掴もうとする。掴もうとして、僕は目覚めた。

 目を開けるとそこは白かった。白いけれど明るいという印象はなく、どこまでも清潔であった。殺菌、滅菌、抗菌が施され、必要以上に清潔が保たれている空間。それは匂いで分かる。少しも不快な臭いがしないのだ。逆にそれが不快に思えるほどに。死を遠ざけるために死に近い香りとなってしまった空間。嗅いでいるだけで、風邪を引いた日のことなんかを思い出す、僕の苦手な香り。苦手な場所。

 いつの間に運ばれてきたのだろう。運んでくれたのはきっと和佳奈さんだが、その間の記憶は全くない。

 和佳奈さんと言えば、さっきの夢の中に出てきた彼女そっくりの少女。掬い上げて、救ってあげられなかった。夢だと言うのに、それが悔やまれる。あの少女はあのまま暗闇の中に沈んでしまったのだろうか。

「蔵月…」

 傍らから声がして、驚きながら目線を移す。和佳奈さんが座っていた。

「…良かった」

 和佳奈さん安心したように僕の安全を喜んでくれる。だがその表情はどこか複雑で、あの暗闇の少女の表情が思い出された。

「和佳奈さんも…無事で何より…です」

「ん。ありがと」

「つかぬことをお尋ねしますが…」

「なに?」

「和佳奈さんって妹さんいますか…?」

「いや一人っ子だけど」

「じゃあ娘は…」

 眉間に親指を押し付けられ、そのままぐりぐりと捻じるように力を込められる。穴が開くんじゃないかと思うほど痛く、なんだかモヤッとする言いようのない不快感もあってすごく嫌だ。

「いるわけないっしょ!」

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 悶え、暴れ、体の不自由に気付く。足がギプスに固定され、宙吊りにされていた。

「折れてたんですね」

 少し捻っただけだと思っていたが、あの時は必死で痛みなどほとんど分からなかったのだろう。動かそうとしても全く動かないほどに固定されたギプスがその怪我の程度をよく表していた。

「…ごめん。蔵月が助けを求められるようになっても、アタシは結局守れなかった」

「助けてくれたじゃないですか。階段から落ちた僕を受け止めて」

「だってあの時は…」

「助けを求めてましたよ。それで和佳奈さんが駆けつけてくれたんです。…それで良いじゃないですか」

「それは…」

 和佳奈さんが何かを言いかけて黙る。あれだけもう一人のヒーローの存在を否定しようとしていたのだから、今この話の流れに乗れば都合が良いだろうに。今度はそれをまた否定しようとして…よく分からない。

「……そうだね。それでいい。ありがと」

 半ば諦めるように彼女はそう言った。彼女が折れた結果、当初の彼女の意見が肯定されるという何とも奇妙の状況だが、僕が目覚めるまでの間に何か心境の変化でもあったのかもしれない。もしくは、あの後彼女もあの赤いヒーローに会って存在を確認した、か。

「あれから何十分経ってますかね。結構寝ちゃってた気が…」

 話題をそらす。彼女は今、僕には言えないこと、言いたくないことを抱えているに違いない。話を終わらせたいという気持ちは彼女の態度から明らかだった。

「丸二日経ってるよ。お医者さんは心配ないって言ってたけど、もう起きないかと思って心配した」

 予想よりも遥かにぐっすりだったようだ。窓の外はあの時と同じような夕焼けで、まだあの日のままであると勘違いしてしまった。

「ご心配をおかけしました」

「いいえー。ご無事で何よりです」

 和佳奈さんは素っ気なくそう答えると、目を細め、聖母のような温かな笑みを浮かべ、僕の頬にそっと手を触れる。

「…慣れないことして疲れたんだね。強くなったじゃん。ありがと」

「和佳奈さんには程遠いです」

「でも近づいてるよ。負けないようにアタシも成長しないとね」

 彼女に伸びしろがあるのだろうか。僕からすれば強者の象徴である彼女がこれ以上成長するビジョンが、弱者の視点からではとても見えない。あのヒーローは別格だが、彼を除けば僕の知り得る限りの誰にも負けない強さを持っている。

 強いてあげるとすれば勉学…かな。強さに関係あるか分からないけれど、彼女に残された課題でまず思いつくのはそこだろう。

「和佳奈さんは学校帰りですか?」

 外は夕焼け。時刻は日没頃。彼女は制服姿であった。

「ま、そんなとこ」

 今日も勉学に励んでいたようで、安心とは別にどんどん遠く離されていくことへの焦燥感が芽生える。彼女はこうして自分の苦手を克服して強くなっている。僕も頑張らないと。

「退院したらノート、見せてくださいね」

「アタシのでいいの?聞いてない時もあるから約束はできないなぁ」

「生憎、和佳奈さんしか頼れないんです。予習範囲に漏れがないか確認するだけなので、お願いします」

「ん、分かった。不出来でも怒んないでね?」

「怒りませんよ。最悪白紙でも大丈夫です」

「そ。なら良かった」

 何が良いのだろう。最悪それでも何とかなるという話で、白紙で良いとは言っていない。

 期待はしていないが、和佳奈さん自身のためにノートは取ってほしい。

「…ちゃんと授業は受けてくださいね」

「ちょっと無理かなー。だって退屈なんだもん」

「退屈なのはお互い様です」

 何もない病室。動かない体。今日までは昏睡状態だったので良いが、これからどうやって暇を潰そうか、内心気が気でなかった。備え付けのテレビはあるものの…昼間の番組なんてたかが知れてるしなぁ。

「なんにもないね」

「ええ」

「スマホは?」

「たしか鞄の中に」

 和佳奈さんは近くにあった僕の鞄を漁り、スマホを取り出す。

「ありゃ、充電切れ」

「六年選手ですからね。バッテリーも弱りきってます」

「引くわ。機種変しなよ」

「お金があんまり…。一人暮らしで仕送りもお願いしてますし、学校はバイト禁止。機種変更は当分先ですかね」

「一人暮らしなんだ。まぁ、機種変は無理でもバッテリーの交換ぐらいはしなよ。いざというとき困るよ」

「現に今困ってます…」

 本当に明日からどうするか。可能であれば自宅まで諸々取りに行きたいのだが、この足では無理だろう。

「蔵月一人暮らしなんでしょ?鍵渡してくれればアタシ取ってきてあげるけど」

 嬉しい提案ではあるが、あの世紀末のような汚部屋に和佳奈さんを招き入れるわけにはいかない。彼女が可哀想だし、何より僕自身あれを見られるのが嫌だ。

「すみません…勘弁してください」

「まぁ、そうだよね。誰だって他人が勝手に入るのは嫌だよ」

 そう言うことではないのだが、和佳奈さんの価値観に救われ、あの惨状を目撃される危機は回避された。退院したら真っ先に片付けよう。

「蔵月のスマホはアタシのやつの旧型だし、アダプタとコードは貸すとして。他に欲しいものがあればアタシの方で揃えるけど」

「そこまで甘えるわけには…」

「遠慮しないで助けを求める!弱者に成り上がったんでしょ?」

 それとこれとは話が別な気もするが…。いっそ無理難題を言って諦めてもらうか。竹取物語作戦だ。

「ではお言葉に甘えて…『ピリ辛うぃっちハニーハニーマスタード も~っと辛口♡』のDVD全巻セットをお願いします」

「おっけー」

 ん?今承諾をしたのか?

 そんな軽い感じで??

「おっけーなんですか?」

「…?蔵月がお願いしたんじゃん」

「そうですけど…レアものなんですよ?用意できます?」

「そうなんだ。多分大丈夫だよ」

 その自信は何なんだろうか。

「まさか持ってたりします…?」

「多分あったと思う。アタシもハニマス好きだし。蔵月も意外とオタクなんだね」

 どうして、という言葉が出かけて留まる。ハニマスは約10年前の女児向けアニメ。ニッチなオタクしか知らないアニメだと勘違いしていたが、和佳奈さんは女性、放送当時は女児。即ち、ド世代のターゲット層なのだ。タイトルと放送時間帯からは考えられない陰鬱な内容で子供ウケが悪く当時は人気のなかった作品だが、好きだった子も勿論いるだろう。彼女もその一人ならば、知っていて、好きでいて当たり前だ。

 それが収録された当時のDVDも、現代で作品が高く評価され今でこそプレミアの付いたレアものだが、放送当時はそう入手困難なものでもなかったはずで、その当時買ったものが今も残っているというのなら持っていても不思議ではない。

「他には何かある?」

 完敗だ。自分のオタク知識が遥か高みにあると思い込み、一般人にマウントを取ろうとした愚かさが恥ずかしい。

「…イヤホンとDVDプレイヤーをお願いします」

 それからしばらく、ハニマスのことや一昨日のことを話した。少々無理をして元気を取り繕っている様子の彼女を心配していたが、時折見せる素の笑顔に僕はほっとする。

「っと…、そろそろ行かないと」

 和佳奈さんはスマホで時間を確認すると、帰り支度を始める。

「門限でも?」

「…うん。今日からね」

 和佳奈さん曰く一昨日の出来事、あの地獄の光景を思い出す。

 ご両親が心配して当然だろう。

「送って行きますよ」

「はいはい、気持ちだけね。ちゃんと寝てな」

 慣れない冗談を言って軽くあしらわれる。少しショックだ。

「お気をつけて」

「お大事に~」

 彼女の背を見送り、言われた通り寝ることにする。空腹感もあるが、今は寝ていたいという欲求の方が上回っていた。

 次の日の朝、僕は看護師さんに起こされて、『やれやれ、やっと起きやがったよコイツ』みたいな顔をされる。『先生!患者が目を覚ましました!』と大慌てで伝えに行く展開を期待していた身としては少々がっかりだ。

 質素で味気ない食事を終え、看護師のバイタルチェックを終えると、早速暇になる。仕方がないので購入したテレビカードで備え付けのテレビを視聴しながら時間を潰す。和佳奈さんが諸々持ってきてくれるのは放課後だろう。それまでこうしてボーっとテレビを眺めながら寝ることしかできない。再びベッドに戻ってくることを考えると、立ち上がってどこかへ行くのも億劫だ。

 怠惰で無気力な生活には慣れているつもりだったが、娯楽ありきであったことを思い知る。一日が、一時間が、一分が、一秒が、長い。

 時刻は未だ午前11時。寝すぎたためか眠気を一切感じず、見ているテレビももはや映像ではなくその画面の表面の傷や汚れに注目しだしている程の退屈。そんな中、病室の扉が開き、僕を囲うカーテンが軽快に開け放たれる。

「蔵月心くん。目が覚めたようだね」

「はあ…」

 拷問のような退屈の中にいた僕は、そのまま気の抜けた返事をしてしまう。

 僕の親よりもやや年上に見える初老の男性が白衣姿でそこに立っていた。

「当院の医師、忍野八海だ」

「あ…山梨県の」

「はは。字面まで全く一緒だよ」

 この人の両親は半ばふざけて名前を付けたんだろうな。可哀想に。他人事とは思えない。

「えっと…何か…?」

「うん。回診」

 白衣の初老、忍野八海さんは僕の診察を始める。最初は誰が来たのかと身構えたが、二日も眠りっぱなしだった患者が起きたのなら医師が様子を見に来て当然だ。

「特に異常はないね。足以外にどこか痛むところは?」

「特にない…です」

「そうか。じゃあこちらから一点ほど」

 そう言って忍野さんは封筒を手渡してくる。

 開けると、几帳面に折りたたまれた紙が入っていた。

「君の心臓だ」

 紙の独特な薄さから察するに心電図ということだろう。

「こんなものまで…いつの間に」

「和佳奈くんがうるさくてね。隅々まで検査しろって」

 忍野さん、和佳奈さんと知り合いなのか。しかも和佳奈さんは顔が利くと見える。

「でも、検査して正解だった」

「と、言うと…?」

「見れば分かると思うが、はっきり言って異常だ」

 見れば分かるのは医学の心得がある者だけではないだろうか。僕みたいな素人に分かるわけがない。

 …と、紙を広げてみるまではそう思っていた。

「これは…」

 僕や世間一般の人々が想像する心電図は、ほぼ同じようなもののはずで、絵に描いてみろと言われたら、波形は違っても、大きく尖った波と丸みを帯びた波が何となく一定の間隔で連なる似たり寄ったりな図を描くだろう。僕の心臓はそんな世間一般の認識からはかけ離れた可愛らしいハート形をしていた。

「ずいぶん可愛らしい形ですね」

「見た目ほど可愛いものじゃないさ。君が今こうして生きているのが不思議なほどに悪質だ」

 不思議と言われても、今こうして生きているのだからその事実を受け入れて欲しい。

「散々言いますね…」

「全く同じ波形で無事ではなかった人を知っているからね」

 息をのむ。そこまでのことなのかこれは。というか他にこんなふざけた心臓の持ち主がいるのか。

「その方は…?」

「死んだよ。そのまま心臓がダメになった」

 忍野さんは天を仰ぐ。天に居るその人を見つめるためか、涙を零さないためか。

 その様子から分かる、亡くなったその人と忍野さんの関係性。忍野さんはその死を今なお引きずり、僕のことを本気で心配している。

「僕も死ぬんでしょうか…」

「まぁ、君の場合彼とは違って治療しなくてもこうして元気だからね。彼だけが不幸だったのか、君だけが特別なのかもしれない」

「急に悪化したらどうするんですか…」

「治療してやりたい気持ちはあるのだが…肝心の治療法が未完成なうえに順番待ちでね。もうすぐ完成するからそれまで待っていてもらえるかな」

「はあ…」

 怖がらせるだけ怖がらせといて結局放置かよ。この先こんな爆弾を抱えたままちょっと怯えて生活しなきゃならないじゃんか。

「では私はこれで。次の診察があるのでね」

 忍野さんが退室し、しばらくした後思い出す。

「和佳奈さんとの関係、聞きそびれたな…」

 まぁ、彼女の行動を振り返れば頻繁に怪我をすることも考えられるし、かかりつけ医か何かなのだろう。そうではないにしても、この関係性の追究は大して重要ではない。

 お昼の健康的な食事を終え、暇を持て余す。先程心臓の爆弾を伝えられてからうっすら体調が悪い気がして最悪だ。少しでも胸に違和感を覚えると不安で仕方がない。

 目を開けた死体のように過ごしていれば、冒頭から見ていたワイドショーもいつの間にか終わっており、夕方のニュースが流れていた。画面右上を確認すると時刻は放課後。白かった天井は薄く橙色に変化していた。

『本日新たに三名の行方不明者が────』

 何とはなしにニュースを見ると、そんなことを言っていた。まったく物騒な世の中だ。『新たに』ということは昨日も、一昨日も居たのかもしれない。いや…一昨日は実際に居たのか。クラスメイトの不良が三人が実際行方不明になっている。

 最近は多いのだろうか。と、考えながら一昨日の光景を思い出す。

 行方不明者…その原因はあのバケモノの群れが関係しているのではないのか?

 赤いヒーローが倒しきれていなかったか。あるいは別の何かが発生したか。現場に居合わせ、実際に襲われた身としては聞き流すことのできないニュースだった。

『行方不明者はいずれも阿鼻尾町内在住の10〜20代の女性で、事件の関連性を』

「嘘だろ…」

 思わず声が漏れる。ここ数日の行方不明者、その全員が僕らと同じこの町在住であると流れていた。ほぼ間違いない。僕と和佳奈さんが遭遇したアレが今なお人を襲い続けている。

 そう言えば和佳奈さんがまだ来ていない。事件に巻き込まれたのではないだろうか。不安が募る。病室を飛び出したい。だができる状態じゃない。

 悩んで、悩んで、悩んだ末、ギプスを外そうと手をかけたところで、病室のドアが開く。遅れて、再びカーテンが開け放たれた。

「やほー。起きてんじゃん」

 見覚えのある金髪と制服。聞き馴染みのある声。安らぐ香り。

 無事に来てくれたことに安心する。

「…良かった」

「アタシの顔見るとそればっか言うじゃん。そんなにアタシの顔が良いの?」

「え…と、その…」

「困らないでよ傷つくな~」

 和佳奈さんの顔立ちが整っているのは事実で、僕はそれを否定した訳ではない。反応に困ってしまったのは、真顔で他人を褒められるほど、僕がコミュニケーション慣れしていないからだ。

「…あー、このニュースね。アタシのこと心配してんだ」

「…はい。町の人たちのことも」

「良い子だね~蔵月くんは。でもね、町も、アタシ自身も、アタシが守るから大丈夫」

 確かに和佳奈さんは強い。だが、それは対人間である場合の話だ。これは持論だが、全ての生物は、その大きさが均等になった場合力の強い種から体を小さくされていると考えている。だから昆虫は小さく、木々は大きい。データや資料といった根拠が何もない全くあてにならない意見だが、大体そんなものだと納得は出来る。

 その考え方で言えば、ヒルも、蚊も、コウモリも、人間より小さな生き物で、それがあの時僕たちを襲った巨大な姿で発生し、この町を襲っているというのなら、強いといっても人間である和佳奈さんに勝ち目はないだろう。同じ人間の中でも、僕の知り得る限りのトップはあの赤いヒーロー、コア・ブラッドのみだ。彼以外には、たぶん解決できない。

「和佳奈さんは手を出しちゃダメです…」

「どうして?」

「あの日のバケモノどもが相手だったらどうするつもりですか」

「戦うよ」

 真直ぐで澄んだ視線。その眩しさに恐怖すら覚える。

「待ちましょうよ…誰かが解決してくれるのを」

「蔵月はそれでいい。でもアタシはそうはいかない」

「…どうして」

「強者だから」

「あのバケモノから見たら和佳奈さんですら弱者かもしれないじゃないですか」

「相手から見てアタシが強いかどうかなんて関係ない。アタシは、助けを求める弱者にとっての強者であればそれで良い」

「死んじゃいますよ。もっと強い人に頼みましょうよ。それだって、弱者なりの強さのはずでしょう。何をそんなに拘ってるんですか」

 僕は子どもだ。何を言っても和佳奈さんの正義が留まることはないと分かっているのに、自分の正義を押し付けてしまう。

「拘ってるってのはそうかもね。アタシにはね、正義の味方でありたいって信念と同じくらい、強者の中でも最強になりたいって野望がある。だから信じてよ、アタシが人間の中で最強だって。それなら安心でしょ?」

「そんなわけ……」

 コア・ブラッドの戦いぶりを見た僕は、すぐには頷けなかった。次元が違いすぎる。彼を差し置いて最強になんかなれっこない。そのことを口にして否定しようとした。けれど寸前で思い出す。僕は、彼を認識していない。正確には、和佳奈さんの前では認識していないことになっている。そう約束してしまった。

「何か言いかけた?」

「…いいえ。何も」

 全て分かりきった顔でニヤニヤと笑みを浮かべる和佳奈さんと、諦めて肩を落とす僕。この言い争いは僕の自滅により、敗北に終わった。

「それじゃ、これ置いていい?」

 和佳奈さんの手元に視線を動かすと、両手に大きな紙袋が下げられていた。それが床に置かれると、地面が揺れたと錯覚するほどに鈍く重い音が病室に響く。

 一つあたり何キロになるだろうか。僕との会話中、ずっとこれを持ったまま平静を保っていたのなら、たしかに和佳奈さんは人類最強かもしれない。と、半ば無理やり自分を納得させた。

「まずはこれ、はい」

 和佳奈さんは紙袋を漁ると、中からスマホの充電器を取り出す。受け取りながら紙袋の隙間から中身を覗くと、見覚えのある絵柄が目に入った。

「ハニマス…本当に持ってたんですね」

「ああ、うん。ちゃんと全巻揃ってるよ。未開封で」

「未開封…え?」

 取り出されたDVDは購入特典付きで少し日焼けしたシュリンクに包まれており、パリッとしたその質感から再包装品でないことが窺える。それが全巻分揃っていた。開封済の中古品でさえ数万円する代物がこんな状態で残っているなんて…一体どれだけの価値があるだろう。

「カッター持ってきたから今開けちゃうね~」

「わーーーーーーーーーっ」

 僕はたまらずそれを抱え、庇う形になる。

 僕なんかがここで消費してしまうより、このまま何でも鑑定してくれる団体にでも持ち込むべきだ。こんなものはもはや文化財か何かだ!

「いや、何してんの」

「こんな貴重なもの…開けちゃダメです…」

「開けなきゃ見られないじゃん」

「それはそうですけど…」

 ハニマスがサブスクリプション配信されてない以上、視聴方法はこのDVDしかない。僕の部屋に取りに行ってもらうわけにもいかないし…どうするか。

「あの…僕は他のアニメとか…ほら、他に漫画も入ってるじゃないですか!そっち読みますから、それは持ち帰ってください」

「えー?せっかく持ってきたのにー。それにアタシも久しぶりに見たい」

 確かに、自分で頼んで持ってきておいてもらって持ち帰れというのは酷だ。

「なら僕がレンタルビデオ店まで走って借りて来るのでどうにか…」

「えいっ」

「あっ」

 和佳奈さんの持つカッターはその切れ味で薄いシュリンクを容易く、静かに裂いていく。目の前の文化財は呆気なく、開封済みの品となってしまった。

「どうして…」

「その足で走っていくとか馬鹿なこと言い出すから。やりかねないし」

「…すみません」

 怪我のことなんて忘れていたので危うく本当にやる可能性があった。

「それにこの子もずっと閉じ込められて可哀想じゃん。生まれてきた目的を、ちゃんと果たさせてあげないと」

 そう言われると…確かに。DVDとして生まれてきて文化財に祀り上げられるなんて、荷が重いかもしれない。僕が汚物として扱われていたことに嫌気がさしていたように、人が神として崇められるのは、きっとウンザリすることなのだろう。命を持たない物に対して何を感情移入しているのかという話ではあるが、人間に当てはめて考えればそういうことになる。

「そう言えば、さ」

 突然、パッケージを見つめながら和佳奈さんが切り出す。

「どうしました?」

「ハニマスは好きだけど、アタシ1作目を見たことがないんだよね」

「1作目…?」

 逆に2作目以降なんてあるのか?

「うん。だってこれ『も~っと辛口♡』でしょ?」

「?…ああ、それは元からそういうタイトルですよ。無印とかはありません」

 僕は慣れていたから気にしていなかったが、これは正真正銘の1作目で、それ以前もそれ以降も存在していない。タイトルが誤解を招きやすいのは、元々おもちゃの販促アニメだったから原作となるおもちゃ本体とはタイトルで差別化を図りたかったとか何とか。

「『どっきどき』みたいに、3作目ぐらいかと思ってた」

「まぁそんなタイトルしてますよね。内容の辛口具合からの注意喚起かもしれません」

「あ~確かに。まさかあんな序盤で主人公の恋人が死んじゃうとは思わなかったもんね」

「その後もずっとほの暗い雰囲気ですからね。拠点のメンバー間でギスギスしてますし」

 語っていて、よくも朝からあんなもん流してくれたなと思う。僕はリアタイ勢ではないけれど、和佳奈さんはもろにその被害者のはずだ。

「…和佳奈さんはこの作品のどこが好きだったんですか?」

「んー…なんとなく朝やってたの見てただけだしなぁ。強いて挙げるなら、戦い方がMMAベースだったところが格好良くて好き」

 ハニマスの欠点であり魅力と称される、制作陣の無駄な総合格闘技の知識。

 その熱量はどこから来るんだと疑問に思うほどのマニアックな戦法や技の数々、描写、演出。女児向けアニメにも関わらずそれらに全力を注いだ結果、男児向けアニメ顔負けの熱い戦闘シーンが毎話描かれることとなり、現在多くのアニメファンのみならず格闘ファンまでをも虜にしている。魔女を謳っておきながらの肉弾戦なので当時は批判が多かったようだが。

「総合格闘技はよく分からないですけど、あのバトルシーンは圧巻ですよね」

「ね!早く見よ見よ!もう待ちきれなくなってきた」

 まるで少女のようにはしゃぐ和佳奈さんの姿を見て思う。彼女は昔から、それこそ少女のときから少年のように闘いというものが本能に刻まれているのだろう。だからこんなリアルファイトに近いバトルアニメの昔からのファンであり、本人自身も強いのだ。おそらく、格闘技の心得もある。

 2人で、大抵は静かに、時に語り合いながらアニメを観る。こんなに語り合える仲間がいることが堪らなく嬉しくて、時間が過ぎるのがあっという間だった。

 第一話が終わり、主人公が善良な市民たちにモンゴリアンチョップをかましていくシュールなエンディングの途中で、面会時間の終わりが来た。

「…じゃあ、そろそろ行くね」

 和佳奈さんは少し名残惜しそうに席を立つ。

「ハニマスは持ち帰って和佳奈さんが見てください。他に持ってきてくれたとかで僕は十分です」

「それじゃあ何のために持ってきたの、アタシ。蔵月が見なって」

 まぁ、主にお願いしたのはハニマスだしそれもそうか。

 この量をたかだか一週間という入院生活中に消化しきれるかは不安だが頑張ろう。

「…またね」

「はい」

 病室を去る彼女の背中はどこか寂し気だった。やはりハニマスは和佳奈さんが持ち帰るべきだったんじゃないだろうか。

 そこからの入院生活が過ぎるのは早いものだった。むしろ、もっと時間を下さいと思うほどに退屈せずに済んだ。それもこれも和佳奈さんのおかげだ。感謝してもしきれない。借りた漫画も消化しきれていない。

 退院して、病院を後にする。そのまま帰路につこうとするが…そう言えばここがどこだか分からない。位置情報アプリを起動して、現在地から自宅のルートを確認する。

「………遠いな」

 通常なら歩いて帰れなくもない距離なのだが、今は足を固定された状態で松葉杖をついている。タクシーを呼ぶにも入院費を払って財布は空っぽだし…バスでも待つか。

 幸いこの町には市が運営する無料のシャトルバスがある。最寄りのバス停から自宅までも結構歩くが、乗らないよりかは幾分かマシだろう。そう思ってバス停に向かおうとしたとき、漆で塗ったようなピカピカの黒い高級車が一台、ローターリーに入って僕の前で停車した。

 ゆっくりと窓が開いて見えた顔には見覚えがあった。

「八海さん」

「人を日本酒銘柄みたいに呼ばないでくれたまえ」

「すみません…」

「謝らなくてもいい。それより、乗ってくかい?」

 手触りの良いシート。爽やかな香り。揺れない静かな車内。

 車なんて値段によって大した違いはないと思っていたが、実際乗ってみると上流階級の乗るものはこういうものなのかと思い知らされる。

 窓を開けて入り込む風さえも、どこか高級感のあるものに感じられた。

「心臓に大事ないかい」

「あるかないかで言えばありますよ。あんな波形の爆弾を抱えているんですから」

「はっはっはっ。そりゃそうだ」

 笑い事ではない。本当に医者なのかこの人。

 本当は大して心配してないな。

「…仕事は良いんですか。患者さんは大勢いるのにこんなドライブなんて」

「私は戻っても構わないが、君は良いのかい?」

「…いえ」

 楽に帰ることの出来るまたとないチャンスだ。捨てるには惜しい。

「私一人があの病院を仕切っている訳ではない。他にも頼もしい医師たちがいる。今は、君もとい君の心臓専属の医師だ」

 その頼もしい医師たちがあなたの所為で忙しくなっているのでは…?

 まぁ、本人が良いというのなら良いのだろうが。

「随分と僕の心臓に興味があるみたいですね」

「前にも言っだろう。同じ症例の友を、私は救えなかった。君を助けることはその償いでもある。それに…」

「それに?」

「君の命が失われれば、私が和佳奈くんに殺される」

 元々心電図は和佳奈さんが忍野さんに頼んでという話だったが…頼んだという態度ではなさそうだ。

「…ときに尋ねたいのだが、君と和佳奈くんはどういった関係だ?」

「恩人で、クラスメイトで、…友だちです」

 改めて口にすると少し気恥ずかしい。

 けれど、和佳奈さんが友だちと言ってくれた。だから、彼女は僕の友だちなのだ。

 改めて考えると少し嬉しい。

「友だち、か。和佳奈くんが君に向けている感情は本当に友情なのかな」

「どういう意味ですか…?」

「言葉そのままの意味だよ。君は何をもって、彼女を友人と言っているんだい」

「和佳奈さんが言ってくれたんです。アタシらは友だちだって」

「そうか…」

 この人は何を言いたいのだろうか。まるで、僕と和佳奈さんが本当の友だちではないと言いたそうだ。

「…蔵月くん」

「なんでしょう」

「…和佳奈くんの、友だちになってやってくれ」

「…?だから既に友だちですって…」

「彼女は君を友と言っているかもしれない。君はそれを認めているかもしれない。けれど、彼女は君を友と認めていないかもしれない」

「口だけで感情が伴っていない、と?」

「決してネガティヴな方向にではない。が、良い方向とも言えない。彼女は君に、もっと偏愛的な感情を向けている」

 そう…か?そんな感じは一切しないが…。

「どうして言い切れるんですか」

「…君は、『彼』によく似ている」

「彼?彼って一体─────」

「着いたよ」

 気がつけば僕の住むアパートの前に車は停まっていた。忍野さんは助手席側のドアを開けて、僕が降りる手助けをしてくれる。

「ありがとうございます。ところで忍野さんの言う彼って…」

「すまない。先ほどは構わないと言ったが、私も医者という身だからね。急がなければならないんだ」

 やはり少し無理をして僕を送迎してくれていたのだ。ならば、他の患者さんや医師たちのためにも僕が彼を引き止めてはならない。

「…蔵月くん。もう一度言う。和佳奈くんの、『友だち』になってくれ。…彼女のために」

 忍野さんはそれだけ言い残し、去って行った。

 友だちになる…か。忍野さんの言う和佳奈さんの偏愛的な感情を友情にしてくれという話なのだけは理解したが、和佳奈さんが僕に向けている感情が偏愛的かどうかは僕自身には分からなかった。

 松葉杖をつきながら部屋の前まで向かい、鍵を開ける。1階の部屋で良かったと心から思う。

 ドアノブを回し、扉を開け、中の惨状を見て絶句した。元々僕の部屋は汚い。本棚に一度は収納した漫画類は引っ張り出されて積み上げてあるし、ゴミ箱は意味を成さないほどに溢れかえっている。脱ぎ散らかした衣類で床は見えないし、埃や抜け毛が部屋の隅を縁どっている。しかし、今見えている光景は見慣れているその惨状ではない。壁、天井、床、部屋の至る所に生物が張り付き、蠢いていたのだ。僕はこれに見覚えがある。忘れるわけがない。記憶に新しいのもあるが、それははっきり言って僕のトラウマなのだ。

「ヒッ…」

 おびただしい数のヒルを目の前にして僕はたまらなくなって扉を締める。

 どうして、どうして、どうして…。

 どうして僕だけがアレを目撃するんだ。初めて目撃したあの日も、僕は一人だった。その場に和佳奈さんは居なかった。なら、まだ病気の可能性もある。このおかしな挙動の心臓が僕の脳に作用して幻覚を見せている。または、イジメが原因で精神的な病にかかって幻覚を見ている。きっとそうだ。そう信じたい。そうであってくれ。

「そんな怯えんなよゲロオタク〜」

 とにかく不快で、おぞましい声が、背後から耳に囁かれる。もう二度と聞くことはないと思っていた声。もう二度と聞きたくないと思った声。

 再び聞くことができて、絶望と安堵が同時に押し寄せる奇妙な声。僕を表立っていじめていた三人組、行方不明中の男子生徒、その一人の声であった 。

「どうして…」

「どうしてとだけ言われても、何を問われてんのか分かんねーよ」

「じゃあ…どうして無事なの」

 彼らはあの日、僕が異形に襲われた日に行方不明となった。彼もその被害に遭って、殺されたのだとばかり思っていた。けれど、こうして生きている。僕より元気そうにしている。空っぽの制服まで僕は目撃しているのに、何故生きているのだろう。

「ヒルと、コウモリと、蚊のバケモノ。君もそれに襲われて…死んだんじゃ…ないの…」

 否、答えは分かっている。彼があの日の被害者でないのなら、彼はあの日の─────

「俺がそのヒルだから」

 ──────加害者なのだ。

 首筋にひんやりとしたヌメリが這う感触。間違いなく、あの時味わったヒルの感触だ。

「どうして…僕を狙うんだ」

「ああ?キメェからだよゲロ野郎が」

「そういうことじゃないッ!!」

 何故僕をいじめていたかではない。

 何故、ヒルになったこいつが僕を狙うのかが疑問なのだ。近頃頻発している行方不明者のニュース。それを見る限り、行方不明者の特徴はこの町在住ということの他に、若い女性というのもがある。

 何故若い女性からは程遠い僕の命を狙うのか、疑問なのだ。

「チッ…急にでかい声出すなよキメェな」

「狙いは若い女の人なんだろ…?」

「ああそうだ。テメェなんか俺の崇高な目的の標的になんかするかよ気色悪ぃ」

「尚更どうして…」

「俺の標的は平和佳奈だ」

「和佳奈さん…?」

 あの日やられた恨みを晴らそうというのか。ヒルのバケモノとなり、力を手に入れた今なら倒せると…。

「テメェを餌に奴を釣る。そんで目的を果たす。それだけだ」

「やめろ…!僕はどうなってもいい。だから和佳奈さんに手を…」

「王子様気取りか?弱ぇクセに。餌らしくお姫様気取っとけよ。まぁ、こんなブス誰が救いに来るんだって話だけどな!ハハハハハハッ」

 そう、僕は弱者だ。だから、弱者らしく強者に助けを求めるのが筋だ。だけど…僕の知っている強者は…今呼んじゃダメだ。

「つってもまぁ、和佳奈王子はどういうわけかゲロ姫にご執心なようだし?餌としちゃ持って来いってわけだ」

「どういうわけか…?僕と和佳奈さんは友だちだ。だから来てくれるんだ。来てしまうんだ」

「友だちねぇ…。そんな風には見えねえけどな」

 こいつまで忍野さんと同じようなことを。

 こいつに至っては、和佳奈さんと僕の何を見てきたと言うんだ。

「そこに違和感があるのなら訂正する。彼女が僕を助ける理由は弱者だからだ。彼女は弱者を救うことを正義として戦う」

「ほーん。ま、どうでも良いけどよ。俺はテメェで奴を誘き出せればそれで良い」

 クソッ。何とか逃げ出さないと。

 と言っても、さっきから身動きが取れない。全身に何かがまとわりついて、強い力で固定され、動かない。

「じゃあ…少し寝てろ」

 一瞬、ヌメリが這った首筋に激痛が走り、僕の意識は途絶えた。

 ─────目が覚めるとそこは薄暗い場所だった。窓らしきところはダンボールか何かで塞がれており、その隙間から橙色の光が漏れている。もう夕方なのだろう。

「起きたか、餌」

「ここは…」

「廃工場だよ。ほら、学校近くに工場地帯があるだろ?その内の潰れた一つだ」

 機械や道具などはないが、確かに床を見てみれば色付きのテープやペンキで塗った線が引かれており、人の安全を第一に考えた策が施されていると伺える。廃工場というのは嘘ではなさそうだ。

「どうしてこんなところに…」

「興奮するだろ?」

 意味が分からない。廃墟の雰囲気が好きとかいうサブカル的な趣味だろうか。それなら分からなくもないが…。

「にしても平和佳奈は遅ぇな。お友だちのピンチだってぇのによォ…なぁ、ゲロ餌」

 そう言う彼の姿を、僕は今初めてこの目で認識した。人の形を成してはいるが、その肌の質感はヒルのそれだ。湿度が高く、ぬらりと光る。動くと言うより蠢いていて、丸い口に無数の牙が生えている以外は、目も鼻も耳も見当たらない。

「怯えるなよ。仲間じゃねぇか」

「仲…間?」

「今の俺は醜いだろ?バケモノだと思ったろ?俺がずっとお前に抱いていた感情だよ」

「そうか」

 僕はもう落ち込まない。受け止めない。

 それが嘘か真かなんてどうでもいい。弱者なりに抗う。受け流す。

「まぁ、それでもお前は人という枠の中にいるけどな」

「まるで君が人ではないみたいだな」

「そうだな。俺は人じゃない。人を超えた。進化の先の人間だ」

「進化の先の人間…?結局、それは人なんじゃないのか」

「人間は人間でも、奇怪な人間。…人を超えた、怪人だ」

 日曜朝のヒーローが戦っているアレってことか。確かに今の彼の姿はそれに酷似している。

「圧倒的な力を得るためには容姿は捨てなければならなかった。元の姿は気に入っていたが、力を持てば見た目など関係ない」

 怪人は僕に歩み寄ると、髪を掴んで顔を寄せる。

「力もないのに醜いお前は救いようがねぇな。ハハハハッ」

「例え強い力を持っても、僕は私利私欲ために暴力を振るわない」

「ああ?立場分かってんのか。殺すぞ」

 怪人は空いた手で僕の首を掴み、持ち上げる。

 足が浮き、全体重が首にかかり苦しい。

「カハッ…」

「平和佳奈は来ねぇし、お前と話すのは退屈しのぎにもなりゃしねぇ。俺もイライラしてんのよ」

 怪人は腕を触手のように伸ばし、ダンボールで塞がれた窓ガラスを叩き割る。

「餌を有効活用する時間だ」

「なに…を…」

「餌は餌らしく、針に通さねぇとなぁ」

 怪人の腕は伸びたまま捻れ、細く固まり、尖る。先端は本物の釣り針さながらカエシが付いており、一度刺されば簡単には抜けなそうだ。

「叫べ。誘え。醜い餌」

 右手のひらに尖ったものが突き立てられいると認識したのもつかの間、そのまま激痛が前腕、上腕、肩へと突き抜ける。

「ああああああああああああッ!!」

「いいねぇ。だが、まだ足りねぇ」

 今度は引き抜こうとする素振りが見える。だが、カエシが付いていて抜けない。肩に残るカエシが筋肉を裂こうと動き、痛みと違和感と気持ち悪さで脳が支配される。

「ああッ…!ああああアッ!!」

「もっとだ」

 動く。痛い。

 やめてくれ。もう死にたい。殺してくれ。この痛みから逃れられるなら。殺してくれ。それか…

「もっと鳴け。鳴け。鳴けッ!!」

 それか…助けて。

「たすけて────────和佳奈さん」

 呼んでしまった。苦痛のあまり、呼んではいけない助けを。最低だ。友だちを売ったも同然じゃないか。

 けれど、こんな涙と鼻水で震えて詰まった声で、その上小声で、彼女に届くわけはない。そう思ったから気休めで求めた助け…となるはずだった。

 正面の大きな電動シャッターがこじ開けられ、夕日をバックに一つの影が立っていた。長い髪。揺れるスカート。そして────

「蔵月ッ!!」

 ────安心するその声。

 頼もしい僕の友だちだ。

 彼女が…来てしまった。

「やっと来たか、平和佳奈」

 標的をおびき出すことに成功した怪人は持っていた僕を雑に捨てる。

 その際ズルズルと抜ける触手はカエシこそ無くなっていたものの、十分な苦痛を僕に与え、たまらず叫び声を上げてしまう。

「蔵月…ッ!」

「おおっと、待てよ平和佳奈」

 怪人は駆け寄ろうとする和佳奈さん制止し、立ちはだかる。

「誰だ。蔵月に何をした」

「何もしねぇよ。あれはあんたを誘き出すための餌だ。殺しはしない」

「でも、傷つけた」

 和佳奈さんの表情、鬼の形相?般若の面?そんなものではない。殺意に満ちた冷酷な睨みを効かせている。

「ごめん…和佳奈…さん。こいつの狙いは…和佳奈さん…なのに。僕…呼んじゃって…」

「蔵月は悪くない。弱者としての責務を果たした。蔵月の勝ちだよ」

「はっ。馴れ合いなら俺のいないとこでやってくれ」

「そうだね。まずはアンタを潰す」

「おー恐い。そんなになるほどコイツにご執心なのに、来るのが随分遅かったな」

「若い女性がターゲットってのは分かってたから、そっちをマークしてた。…アタシのミスだ」

「自分が若い女性って自覚は無かったもんかね」

 そうだ。こいつは若い女性ばかりを狙う。崇高なる目的…といっていたが、何のために。そして行方不明の女性はどこへ消えたのだろう。

「何故アタシを狙う」

「あんたが好きだからだ」

「は…?」

 腕の痛みに悶えながらも、リアクションをしてしまうほどに予想外の回答。全然崇高じゃない。拍子抜けだ。

「意味分からないんだけど」

「言葉通りの意味だよ。身長、体重、肉付き、筋肉量、骨格、全てが俺の理想だ。そして何より顔!顔が好きだ!」

「キモ」

「じゃあ…女性ばかり…狙ってたのは…」

「勿論みんな愛していたからだ。愛していたから全身で犯して、壊して、食った」

「食った…?」

 それじゃこいつはもう…人間なんかじゃない。怪人ですらない。正真正銘のバケモノだ。

「そして、次の本命はお前だ。ずっと気になってたよ…こうして目の前にしているだけで全身が勃起する」

「ゲスが」

「何と言われても結構だ。お前は力で俺に劣る。だから無理やり押さえつけてぶち犯してやるよ。廃工場で!美女を!仲良しの根暗オタクの前で!犯す!!…最高に興奮するシチュエーションじゃねぇかッ!!」

 先ほど発していた興奮するとはそういう意味か。強い力を手にしてやる事がこんな事とは…実に哀れだ。

「お前のそれは…愛じゃ…ない。性欲…だ」

「どちらが先かの話さ。性欲あっての愛はクズだが、愛あっての性欲は純愛だろ」

「アンタの話はもうどーでも良い。さっさと闘ろうよ。…待っててね蔵月」

 和佳奈さんはやる気満々だ。しかし、どう考えてもこの超人的な力を持つ怪人相手に生身の人間である和佳奈さんが適うとは思えない。

 和佳奈さんが強者であるというのは、やはり人間の枠内での話だ。弱者にとっての強者であれば良いと言っていたが、それで無謀にも立ち向かってどうなると言うんだ。枠外の存在、即ち災害からはどんな強い人間も逃げるべきなんだ。強すぎる力の前では皆等しく弱者なのだから。同じ立場なら僕を見捨てるという選択肢もある。許される。なのにどうして、和佳奈さんは立ち向かうんだ。

「そうだ!もう待ちきれない!さっさとヤろう平和佳奈!!俺の女になれ!!」

 和佳奈さんは親指を突き立てると、そのまま指先を下に向けた。

『地獄に墜ちな』…と。

「…残念だ」

「和佳奈…さん。逃げ…て!」

 怪人の両腕が触手のように伸び、和佳奈さんに襲いかかろうとする。助けなきゃ。でも僕に何ができる。足は折れていて、片腕は動かない。今から走っても間に合わない。

 僕の焦りとは裏腹に、和佳奈さんは落ち着いた様子でもう片方の手も、同じく親指下に突き立てる。両手で同じ形。挑発か?そう考えた刹那、和佳奈さんの両手中指にキラリと光る赤い何かが見えた。宝石の入った指輪のようにも見える。それらを合わせるように、和佳奈さんは胸の前で両拳をぶつける。その手で作られた形は、大きなハートのようにも見えた。

「『ブラッド・コアシステム─────起動』」

 響き渡る鼓動。辺りを吹き抜ける熱風。発生源は…和佳奈さん。

「まさか…そんな…」

 そんなわけない。とは言いきれなかった。

 確かに僕があの日彼を目撃したとき、彼女は居なかったのだから。

「なんだこれは…。平和佳奈…お前は何者だァ!」

 音が落ち着き、熱風が止み、砂煙が晴れ、そこに現れる一人の戦士。

「熱く轟く正義の鼓動─────」

 フルフェイスのヘルメットのような頭、全身を覆う硬い鱗のような肌、首に結ばれ風に靡くスカーフ。その全てが赤い。

 赤い戦士─────

「─────正義の味方。コア・ブラッドだ」

 コア・ブラッド。

 あの日、僕の命を救ってくれた戦士。

 異形を圧倒した、人の枠を超えた存在。

 彼女こそが、その正体だったのだ。

「ハハッ…ハハハハッ…そうかよ。お前もまた、人の進化の先…怪人ってわけだ」

「怪人じゃない。正義のヒーローだ」

 僕の懸念は既にどこかへ消えていた。和佳奈さんは人間の身で災害に立ち向かおうとしたんじゃない。決して無謀な勇気を見せていた訳ではない。

 立ち向かう力を、災害に対する強者たる力を、有していたのだ。

「男は狩猟…女は採集…」

 怪人が呟く。

「同じ力を持つからどうした…。土俵が同じなら、戦闘に向いてるのは男の身体なんだよォ!!」

 全身の筋肉を肥大させ、突進するヒルの怪人。

 見た目は1.5倍ほどに膨れ上がっている。それなのに、おそろしく速い─────

「…どうした。男の方が強いんだろ?」

 彼女は、その向かってきた巨体を片手で受け止めていた。

 あの体格差だぞ?一体どうやって…。弱者である僕には理屈がまるで分からないが、人の枠を超えた世界の中でも尚、和佳奈さんは強者であるということは分かった。

 距離を取る怪人。追わずに距離を取らせるヒーロー。今までは戯れ。ここから、本当の戦いが始まるのだと、雰囲気で察した。

 怪人は筋肉を肥大させたまま、低く構える。一見レスリングのタックルのようだが、相撲の立ち合いの方が近いように見える。先ほどの猛進とは違う、戦法を練った意味のある構えだ。

 対するヒーローは膝を立て、右脚を後ろへ伸ばす。両手の三指を前方の床へつき、臀を持ち上げる。クラウチングスタートの形だ。

 互いに低い。だが、明確に違う構え。前者はダンプカーのような力を発揮し、後者はスポーツカーのように速度を発揮するだろう。だが、それらがぶつかった場合どうなるか。スピードにもよるが、おそらくダンプカーに向かって走るスポーツカーが大破する。

 それが分からない和佳奈さんだろうか。否、理解した上であの形をとっているのだ。人の枠を超えた戦いに、人間の常識を当てはめてはいけない。

 ドンッという衝撃音と共に、両者の姿が消える。僕の目では捕らえきれないほどの速度。刹那、両者がぶつかり合い鳴ったと思われるパァンと弾けるような音に、思わず目を瞑る。

 再び目を開け映っていた光景は、位置が入れ替わり背を向け合う両者。怪人は首があらぬ方向へ曲がり、彼女は余裕の様子で佇んでいた。

「随分と優しいねぇ、ヒーローさんよぉ」

 怪人は首をすぐに元通りの位置に治し、喋り始める。人なら死んでいる曲がり方だったと思うのだが。

「次は切断する」

「ハハッ。できるかな?あんた、殺しをしたことがねぇだろ」

「……」

「図星か!ハハハハッ!!」

 ヒルの怪人は腕を伸ばし、彼女に掴みかかる。彼女はその腕を掴み、彼を引き寄せる。

「シャアッ!!」

 怪人は再び腕を縮ませ、彼女の想定よりも速く距離を詰める。構えたもう片方の腕が彼女を捕らえようとした時、彼女は地面に倒れ込み、その地に彼の体ごと落とした。

 ただ倒れ込むだけではない。その両脚で、持っている腕を肩ごと固定し、関節技に持ち込んでいる。一見デタラメな動きの戦いに見えるが、彼女の動きは柔道のそれに準拠している。腕挫十字固の形だ。

 完璧に決まった。しかし、彼女は首を傾げるような仕草を見せたあと、即座に技を解いて離れる。

「人じゃないね。アンタ」

「怪人だっつってんだろ。ヒルに骨や関節があるとでも思ったのか?」

 奴は怪人。そのベースはヒル。環形動物だ。

 人間と同じ形を成していても、その特徴は人とは異なる。そういう意味でも、戦術において対人を想定してはいけないのか。

 和佳奈さんは構えを変える。拳を握り、左手を顔の前へ。右脚を下げて、右手を顎の横に構え、足は軽くステップを踏む。打撃系の戦法に切替えるつもりだ。

「まだ俺を人間扱いかよ。効果があるとは思えないな」

「やるだけやってみるだけ」

 地を蹴り距離を詰める。そここは相手の間合いの外そしてそのままジャブを繰り出す。

 速すぎて見えないが、聞こえた打撃音は3つ。あの一瞬で3発のジャブを繰り出し、再び距離をとる。アウトボクシングスタイルだ。

 しかし、速度で分があるとはいえ、腕が伸びる相手を前にアウトボクシングは悪手だ。相手が速度に対応できていないのが幸いだが、乱暴に伸ばした腕を振り回されでもしたらその時点で敗北は必至。一体何故インファイトで一気に攻めないんだ。

 和佳奈さんは相変わらず間合いの外から相手をおちょくるようにジャブを打っては離れ、打っては離れを繰り返す。煽っているのか?この状況で?

 相手へのダメージはほぼ皆無だ。筋肥大しているときから薄々感じていたが、あれはヒルにしてヒトだ。ヒルの特徴を有しながら、一部の消化器や筋肉はそのまま人であった頃の物を受け継ぎ、戦闘において、生存において、非常に都合の良い構造となっているのだろう。それはまさしく進化と呼ぶにふさわしい。ヒルの伸縮に長ける特性で人間の筋肉を引き締め、鉄壁の鎧へと作り変えている。

 次に和佳奈さんがジャブを打ち、距離を取ったその時、ついに怪人の腕が伸びる。怪人は彼女の着地点を見極め、そこを潰しにかかる。まるで鞭だ。先端の速度は音速を超えるだろう。彼女の武器である速度を押さえ、圧倒するための策と見える。ただの不良だと思っていたが、ちゃんと考えて戦っている。

 爆音が響き渡る。音速を超えた鞭のソニックブームだろうか。否、音が一つではない。二つでもない。僕の耳が正しければ、ソニックブームが発生する前に六つの音が聞こえた。

 立っていたのは間合いの内で無傷の赤い戦士と、右頬と顎、右脇腹、胴体の正中線やや左側に縦三つ、それぞれに拳ほどの窪みができ、苦しむ怪人の姿であった。

「狙った…な…。畜…生…」

「身体が伸びる瞬間、筋肉が緩むことは分かってたからね」

 和佳奈さんの狙いが、一連の攻防が終わってからようやく分かった。

 ヒルと人の性質を持つ彼が筋肉の収縮により打撃に耐えていたことは当然和佳奈さんにも分かっていた。インファイトで一気に攻める手もあったが、あの硬さでは効果が薄いと判断したのだろう。彼女は、相手の間合いの広さを恐れて距離を取っていたのではなく、相手の間合いが広くなる瞬間、つまるところ、相手の防御が薄くなる瞬間を狙い、誘っていたのだ。

 伸びた場合の間合い、その時の柔らかさは、一度伸びた腕を掴んだ時に把握していたのだろう。

 狙いが分かったところで、実行するのが僕であれば確実に返り討ちに遭って終わるだろう。彼女の洞察力、戦術の多さ、切り替えの速さ、そして何より、あの距離からアウトボクシングを可能とする速度。その全てが無ければ成しえない芸当。

 彼女は紛れもなく、戦闘の天才だ。

「…なぜ…殺さない…」

「罪も償わずに死のうだなんて思わないで。アンタのやってきたことは、死で償えるほど軽くはない」

「違う…な。お前は俺を…殺せないん…だ。そうだろう…?」

「殺さないだけ」

「さっきも言ったが…お前…殺しをしたこと…が…ないだろ」

「アタシは無闇に生命を奪ったりはしない」

「それがたとえ…連続殺人の…極悪人…でも…だ…。なぜだ…?」

「…もう黙って。アンタを連行するから」

「怖いんだろう…殺しが。可哀想なんだろう…命が」

「そんなこと…」

「俺を…生かせば…また女を…襲い…犯し…殺す…と約束…しよう」

 和佳奈さんはそれを聞き、怪人に掴みかかる。

 そのままマウントポジションで拳を振り上げ…止まった。

「あと一歩だ…平和佳奈。その拳を…振り下ろせ。お前の初めてを…俺に…捧げろ」

「駄目だ…和佳奈さん」

 僕は止める。

 極悪人を生かすか、殺すか。そんな命題はどうでもいい。

 和佳奈さんに、人を殺してほしくない。ただ、その一心だった。

「…そうだね蔵月。アタシ、少し落ち着く」

 和佳奈さんはマウントを解き、怪人の背後に回る。

 このまま拘束するのだろう。

「邪魔なのは…お前か」

 和佳奈さんの離れた一瞬。

 怪人が、こちらに向かってくる。

「え…?」

 逃げられない。悲鳴を上げる暇もない。

 ただただ狼狽えて、抵抗する間もなく、僕はこのまま。

 死ぬ。

「…ッ!」

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ

 突如鳴る轟音。常軌を逸した、鼓動。

 この音は、あの日の彼と同じ。

 放たれるのは、文字通りの、必殺技。

「『コア・インパクト』ッッ!!」

 僕の方を向いていた怪人の口角は、それは嬉しそうに、上がっていた。

「…平和佳奈。新たな人殺しの…誕生だ」

 血の雨の中、彼女は虚空を見上げ佇んでいる。

「蔵月…」

「…はい」

 降り注ぐ鮮血が、フルフェイスのヘルメットを涙のように伝う。

「アタシ……殺しちゃった…ぁ…」

 僕はそんな彼女を、見ていることしかできなかった。

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鼓動連弾 コア・ブラッド 雌雄カスミ @KasumiShiyu

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