第一話

 四月も半ばを過ぎ、日の入りが遅れ始める春この頃。

 夕陽差し込む橙色の教室で、僕と女子とが二人きり。

 僕の人生に、僕自身が当事者として、こんなロマンチックなシチュエーションが訪れるとは夢にも思わなかった。と言ってもいじめの現場から僕を救ってくれた彼女が荷物をまとめるのを手伝ってくれているだけなのだけれど。

「ありがとうございます…」

「いいっていいって。アタシがここに来たかったんだ」

って、この教室…?」

「そ、アタシの教室」

「同じクラス…ですか?」

「そだよー。って、アタシも今知ったんだけど」

 この二週間ほど、クラスメイトにもかかわらずお互い認識していなかったということか。まぁ、僕は人の顔や名前なんか覚えてないし、彼女にしてみれば僕なんか眼中になかったということだろう。

「…何か用事が?」

 見たところ荷物を持ってなさそうだし、和佳奈さんも僕と同じくこれから帰るところで荷物を取りに来ただけなのだとは思うが。

 因みに和佳奈さんという呼び方は彼女自身からの強制だ。平さんと呼んだら『タイヤ館みたいで嫌だ』とか変な理由で無理やり下の名前で呼ばされた。タイヤ館に失礼だと思う。

「用事といえば用事かなー。アタシの通うクラスを見てみたかっただけ」

「来たことないんですか…?不登校…とか?」

「ビンゴ。半分正解」

「半分ならビンゴじゃないです…」

「じゃあリーチで」

 ツッコむ余裕はあるが、半分正解していたことに動揺はしていた。

 お互い認識していなくても無理はない。和佳奈さんは居なかったのだ。

「…何かあったんですか」

「せっかくリーチなんだから当ててみてよ。アタックチャンス」

「ええっと…じゃあ、学生は表の顔、裏の顔は殺し屋で、この二週間香港を拠点に活動していた…とか」

「なにそれ面白。アニメの見過ぎじゃん?ボッシュート」

「ゲームが変わってます…」

 ゲームというより番組だが。

「アタックよりふしぎ発見派なんだよねーアタシ」

「別にその二つの派閥は同じ土俵で対立していません…。あと前者はビンゴじゃなくてオセロです…」

「詳しいね蔵月。もしかしてテレビっ子?」

「テレビはよく見ますけど…話しをそらさないでください。言いたくないならそれで良いですけど…」

「あははー、ごめんごめん。蔵月の反応が面白くてさ、つい。別に話したくないことでもないし、そらしたつもりもないんだよ」

 顔は笑っているし態度も一見明るいが、どこか無理をして取り繕っているようにも見える。

 和佳奈さんは軽く咳払いをすると、少しだけ真面目で、暗い表情になる。

「…入学式のときにさ。蔵月みたいにいじめられてる子がいて、助けたんだ」

 入学式から人助けとは和佳奈さんらしいと思う。が、そこから先の展開。僕にはもう何となく読めていた。

「遅れて騒ぎを聞きつけた先生が駆けつけてきて…事情を聞いたらその子、怯えながらアタシを指差したんだ。それで現場には実際にアタシが痛めつけた不良が転がってたわけで…」

 停学処分、といったところだろう。彼女は人助けの果て、誰かを助けたことよりも人を痛めつけたことを評価されてしまい、今日まで姿を見せなかったのだ。

 僕はその騒動を知らなかった。当然だ。緊張でトイレに籠っていたのだから。それが原因で僕はいじめられる羽目になった。

 悪目立ちの有名人同士がお互いの不幸を知らずに引かれ合い、こうして縁ができたわけだ。奇縁と言わざるを得ない。

「…裏切られたんですね」

「別に見返りを求めてるわけじゃないんだけどねー。…アタシはあの時指差されたことより、そのことにショックを受けてる自分の方が嫌かも。アタシの正義はまだまだブレブレだなーって」

 見返りを求めないのなんて、人助けをしたくてやっている人ではない。仕方なく、自分の都合で、そうするしかなかったから、何となく成したことが結果として誰かを救ってしまった時、その人は英雄となるが見返りはいらないという状態になるのだ。

 その点彼女は人助けがしたくて、英雄になりたくて、善行に勤しんでいる。だから見返りがないと少し落ち込んでしまう。けれど、そういう人の方が僕は信用できる。

「そういえば…さっきはありがとうございました」

「ちょっ、今はやめてよ。言わせてるみたいじゃん」

「僕が言いたいから…です。和佳奈さんが誰かを助けたいように」

「…そか。ありがと」

 そんな冷めた反応でそっぽを向いてしまう。本当に言わせていると思ってしまったのだろうか。僕が和佳奈さんを信用していることをもっと伝えておこう。

「見返りは…求めていいと思います」

「…どうして」

「…その方が信用できます。無償は怖くて…怪しいです」

「でも、なるべく安い方が人気が出るじゃん」

「人気が欲しい時点で無償の善行は向いてないような…」

「落ち込むなーそれ。アタシが目指してるのは仏とか菩薩とかそっち系なのに」

「あのアルカイックスマイルは一見無害ですけど…ちゃんと銭とお供え物ふんだくるじゃないですか」

「まぁ…確かに?」

 割とゴリ押し気味の理論展開だが、もう少しで押し切れそうだな。まぁ、押し切って何がしたいわけでもないのだけれど。とりあえずは落ち込んでいる和佳奈さんを慰めてあげたい。それが、僕が彼女にできるせめてもの恩返しだ。

「僕らが人である以上…見返りを求めてしまうのは当然です。本能に近い…」

「じゃあ何。ちゃんと対価を貰えって?」

「そうは言いません。欲しいなら…僕がそれを提供します」

「どういうこと?」

「和佳奈さんが人助けをしたら…いっぱい褒めます」

 彼女は不意に噴き出し、目尻に涙を浮かべるほど笑い出す。

「えっと…だめ…でしょうか」

「はははははっ!自意識過剰じゃんって!」

 確かに。久しぶりの楽しい会話にテンションが上がって別人のようにはしゃいでしまっていた。明日から僕はまた学校中の汚物なのに。少し調子に乗りすぎたかも。

「でも…」

 和佳奈さんがこちらを向く。

「…悪くないかも」

 そう言う彼女の表情は落ち着いた、優しい、迷いを晴らした良いものだった。

「ところでアタシの席ってどこ?」

「さぁ…」

「さぁってアンタ、クラスメイトでしょ?」

「すみません…空席があることすら知りませんでした…」

 薄情者と罵られても文句は言えない。

「まぁ、蔵月は自分のことで精一杯だったろうしねー。ドンマイ」

 それでも和佳奈さんは許してくれた。今は彼女の寛大な御心に感謝する他ない。

 和佳奈さんは笑顔のまま教卓の方に歩いていくと、卓上に置いてある座席表をしばらく眺める。そして…

「あっ」

 とだけ声を出すと、一変して表情を曇らせこちらを向いた。睨んでいるようにも見える。

「おい蔵月」

「…はい」

 若干の怒気を孕んだ声に緊張が走る。つい素直に返事をしてしまった。一体何をやらかしてしまったというのだろうか。

「隣」

「…え?」

「隣ですけど」

「……………」

 返す言葉もなかった。衝撃の事実だ。隣がいないことぐらい気づけよと我ながら思う。

「流石にないわ」

「…すみません」

「いやまぁ良いんだけど、授業とか大丈夫なわけ?明日から授業に付いていけるようにノート借りようと思ってたんだけど」

「ああ、それなら…」

 僕はリュックから適当なノートを取り出し、机上に広げる。

「ちゃんと板書はしてんじゃん。安心した」

「これは…自習です。ある程度先まで予習してます…」

 正直毎日授業を受けられる精神状況ではなかったので、その措置だ。家なら人目も陰口も気にせずに勉強ができる。

「それ学校来る意味ある?」

「ない…ですね」

 予習して授業で復習という形であれば学校という場は意味を成すのだが、僕の場合授業を聞いていないことが前提なので本当に意味がなかった。

「即答すんなし。じゃあこのノート借りたとして、アタシはどこまで勉強すればいいの?」

「分からない…です」

 授業を聞いていないので本当に分からなかった。

「…あー、つまりアタシは詰み?」

「いえ…一晩でこのノートを全て暗記すれば…まだ…」

「無茶言うな」

 筒状に丸めたノートで頭を叩かれ、ポコンと間の抜けた音が教室中に木霊する。そんな音が響くほどの無音の教室。そこで同級生と談笑する。大したことじゃないのに、これがたまらなく楽しい。先程学校に来る意味はないと答えたけれど、今この瞬間は学校に通うことの意義を感じていた。

「もういいよ。明日はこのまま授業出るから」

「大丈夫ですか…?」

「大丈夫じゃない。だから協力して」

 ────明くる日、ホームルームは停学から復帰した和佳奈さんの自己紹介から始まった。美人なギャルのクラスメイトが復帰とあって教室は大盛り上がり…とはならず、入学式での暴力事件の犯人とあって、クラスメイトは当然怖がっていた。昨日の件が広まっていないのは不幸中の幸いであったが…あの三人組は告発しなかったのだろうか。今日は三人揃って欠席のため本人たちの意思を知ることはできない。女に負けたのが情けないとか、そんな前時代的プライドが許さず教師に相談するに至らなかった、と考えるのが妥当だろう。

 ホームルーム後、和佳奈さんは当然のように隣の僕に絡んできた。傍から見れば異様な光景だろう。浮いた者同士が絡んでいることより、ギャルが汚物と絡んでいるという光景が異様だったはずだ。実際その異様さに耐えきれず、和佳奈さんに話しかける女子たちがいた。僕がいかに汚い存在であるか、悪意にまみれた善意で教えに来たのだろう。和佳奈さんは終始シカトを決め込んでいたが、空気を読んで僕を虐げ、クラスメイトたちと仲良くなれば良いのにと考えてしまう。まぁそれをしないのが和佳奈さんで、だからこそ信頼し、感謝しているのだが。

 そうこうして始まる一限目。教科は日本史。早々に和佳奈さんは手を上げてこう言い放った。

「教科書忘れたんで隣に見せてもらいまーす」

 そして、今に至る。

「…忘れるわけないじゃないですか」

 入学式から停学処分で教科書諸々の受け取りは今日だったはず。今日学校からもらうものをどうやって忘れると言うのだろうか。

「シーッ…先生に聞こえちゃう」

 今は授業中。私語は厳禁。話したいのであれば小声でバレないように話す必要があるが…他人の小声ってなんだかこそばゆくて緊張する。体温の上昇に発汗、異常なまでに激しい動悸。医者が診察したら病気だと疑われそうだ。

「…蔵月が悪いんだからね」

「何故ですか…」

「自分のことばっかり考えてアタシに授業の範囲教えてくれないから」

 だってこうなるとは思わなかったし…とは言えなかった。日ごろから授業を聞いていない僕自身にも責任の一端はあるのだから。

「そこ、喋るな」

 早速私語がバレて注意されてしまった。

 和佳奈さんは教師に軽く謝ると、ノートの隅に何かを書いてこちらに寄越す。

『おこられちゃったね』

 こういった授業中のふざけたやり取りはアニメや漫画でこそ見たことがあったが、現実で僕がやる事になるとは思わなかった。罪悪感はあるけれど、ちょっと楽しいかもしれない。

 僕はそのメッセージの少し上に返事を書いて渡す。

『授業に集中してください』

『りょか。当てられたらおしえてね』

 やり取りはそれを最後に、授業は進行していく。和佳奈さんは当然初めて受ける高校の授業であるが、僕にとっても、ちゃんと見て、聞いて、理解する本物の授業というのは新鮮であった。

 そして授業も中盤に差し掛かった時、ついにその時は来た。

「ああー、764年に藤原仲麻呂が起こした叛乱を何というか分かるか。えー…平さん」

 あのじじい、今日復帰の和佳奈さんを当てやがった。停学を知らないのか、嫌がらせか、忘れているのか…まぁ、良い。僕が教えれば良いだけのことだ。

 764年は確か…そう、恵美押勝の乱だ。だが、彼女が自然と答えられるようにするには漢字まで細かく書いている時間はない。平仮名で書いて渡しても良いが一つ懸念点が…。

 そうこう悩んでいる間にも沈黙は続き、和佳奈さんが縋るような目で見つめてくる。そろそろ答えないと不自然な間だ。僕はその視線と授業の厳かな空気に耐えられず、やむなく平仮名で書いたまま渡す。

『えみのおしかつの乱』

 読み方だけならこれで正しい。このまま読んでくれれば正解のはずだ。…和佳奈さんが懸念した通りにならないよう、間違えないように祈るしかない。

「えっと…エミの推し活の乱…?」

 僕は全身の力が抜けたように机に突っ伏す。昔のギャグ漫画みたいな動作だと自分で思った。そんなベタな反応をしたくなるほどにベタベタな間違い。懸念した通りの間違いを和佳奈さんはしてくれた。ある意味期待通りだ。

 一体エミちゃんに何があったと言うのだろうか。エミの推しかエミが推されかは分からないが、どちらにせよロクな叛乱じゃない。推しはもっと大人しく推せ。

「…ん?まぁ、イントネーションは少し違うが…正解か。普通に藤原仲麻呂の乱で良かったのだがね」

 そうして教師は黒板に『764年…藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)』と書く。

 言われてみれば最初に名前を言っていたのだから、そこに乱を付ければ良かったのだ。予習しているときに恵美の推し活とか面白がって覚えていたのが完全に仇となった。

 まぁ、正解とは認めてくれたし、それに…

『ありがと!』

 …結果オーライか。

 一日の授業を終え、放課後。グラウンドでは部活動に励む血気盛んな声が響き、音楽室からはまだ拙い楽器の演奏が微かに聞こえる。そんな教室。昨日よりも真っ赤な夕焼けが教室を濃い橙色へと染め上げ、一日の終わりを惜しんでいた。

「今日は助かったよ、蔵月」

 助けられたのは僕の方だ。今日は和佳奈さんがいてくれたおかげで僕が罵詈雑言を浴びせられることは無かった。無論、僕の汚物扱いが完全になくなったわけではない。和佳奈さんの評判が僕を守ってくれたのだ。傍から見れば虎の威を狩る狐。気に入らない生徒が大多数であろう。ではそう考えた者たちは次にどう動くだろうか。

 僕が考えるに、彼らは狐を追うのをやめる…のではなく、虎ごと追い込もうとする。和佳奈さんがいくら強い一匹の虎であっても、群れを成し、数の利がある生き物には勝てない。

 だから次は僕が頑張らなければいけないのだ。和佳奈さんは助けを求めろと言った。でもそれは、虎の威を借りることとは少し違う気がする。後ろに隠れているだけじゃダメなんだ。せめて弱者に成り上るためにまずは助けを求める。そして、いつかは強者を目指す気概でなきゃいけない。和佳奈さんを守れるように。お互い助け合えるように。

「なんか難しいこと考えてる?」

「い、いえ…別に…」

 いつの間にか顔を覗き込んでいた和佳奈さんに動揺してしまう。こうして見ると、綺麗で細くて壊れそうな女の子だ。華奢とさえ言えるこの体のどこからあんな力が出ているのか、甚だ疑問である。

「教えてくれてもいーじゃん。アタシら友だちっしょ」

「とも…だち」

 思わず呟くそのフレーズ。我ながらそういう類の寂しいバケモノのようだ。

「…和佳奈さんを、友だちを守れるかな…って、いつかそうなりたいって…思っただけです」

 和佳奈さんは満面の笑みを見せると、僕の頭に手を置いて、グラグラと揺らし始めた。

「なんですか…?」

「撫でてるんだよ。良い子だなーって」

 子ども扱いで気恥ずかしい。ふと、昔母に褒められた記憶が甦り、僅かな安らぎを覚えた。

「…蔵月ならなれるよ。アタシのヒーローに」

「和佳奈さんの…ヒーロー?」

「そ。一人いるんだけどねー。この夕陽みたいに真っ赤で情熱的で、正義感が強くて、力も強くて格好良くて…とっても優しいアタシのヒーロー」

 何となく察した。おそらく和佳奈さんはそのヒーローに憧れて人助けをしている。彼を語る彼女の目はとても憧れに輝いていて、恋する乙女のようだった。実際、恋しているのかもしれない。

「すごい方なんですね」

「アタシの生涯の憧れ」

「なら…僕は必要ないですね」

 デコピンされる。長い爪が刺さって痛い。

「守ってくれるんじゃないの?」

「既にそんなすごい方がいるなら…僕なんか…」

「だから蔵月ならなれるって言ったじゃん。同じくらいすごいヒーローになれるよ」

「何を根拠に…」

「だって似てるもん」

 どこがだよ。と思わずツッコんでしまうところだった。

 臆病で、いじめられていて、弱くて、太っていて、他人に優しくしている心の余裕もない僕と、和佳奈さんの憧れるヒーローさんとでは、悲しいほどに全くの真逆だ。

「そのお世辞は…傷つきます」

「お世辞じゃないって。今は全然違くても、根が似てるから、そのうち同じ花が咲くよ」

 曇りなき眼でそんなことを言う彼女の言葉を、僕は素直に受け入れられなかった。

 けれど…

「…頑張ってみます」

「ん。待ってる」

 目指すべき場所は定まった気がする。

「そういえば静かになったね。みんな帰ったみたい」

 いつの間にか部活の掛け声や演奏は聞こえなくなっていた。外はまだ明るい。この時期は文化部でさえ18時頃まで部活に励んでいるはずだが。

 教室の時計を見ると16時。しかし秒針が動いていない。いつの間にか壊れていた。

「思いの外時間が経っていたみたい…ですね。僕たちも帰りましょう」

「そうだねー。蔵月といると時間があっという間」

 少し不自然なまでの静寂に、得も言えない不気味さと不安を感じ、少し寒気がする。

 その寒気に身震いし、尿意を覚えた。

「…すみません。少しお手洗いに」

「いいよー。待ってるね」

 和佳奈さんはスマートフォンを取り出し、ポチポチといじり始めた。彼女が暇を潰す手段を持っているのならそんなに急ぐこともないのだが、僕はなるべく急ぎ足でトイレに向かった。

 用を足しながら、窓側の壁に目を遣る。穴が開き、少し崩れた壁。和佳奈さんと初めて会った場所だ。僕はここで不良の三人組に襲われていた。

 あの日のトラウマからか、ふと彼らのことを思い出す。特徴的な三人だったから顔をよく見ていなくても、その姿は覚えていた。一人は髪が長くて、リーダーっぽいというか知的なイメージがある。あとはやたらと筋肉質で体がでかいのが一人と、もう一人はアクセサリーをたくさん身に着けていた。全員和佳奈さんにボコボコにされて、今日は休んでいるが…復帰したら僕たちはどんな報復を受けるだろう。和佳奈さん一人では対処できないかもしれない。僕が強くなるのはかなり急がなければならなそうだ。

 用が済んだのでトイレを後にしようと扉に手をかけたとき、ぬるりとした感触が手の平から脳へ伝わる。

 気味の悪い感触に嫌な予感がし、おそるおそる手を見てみる。

「…ヒル?」

 一匹のヒルが僕の手の平から一所懸命に血を吸い上げ、その身を肥大させていた。山でもないのに血吸いヒルなんて珍しい。

 生き物は嫌いな方ではないのだが、血を吸われているのが不快で、つまんで引き離す。不思議と痛みはないが、手の平から流れる血液を見て少し具合が悪くなった。

 早く戻って保健室から絆創膏でも貰おう。そう思って再び扉に手をかけると、今度は温かいものが頭を直撃し、頭頂から後頭部、側頭部、額に垂れ落ちた。小学生の頃、家の前で烏に糞をかけられたことを思い出す。温かいというよりも若干熱いくらいの液体。生命の体温を感じられるほどに新しい絞りたての体液。その不快な温かさに酷似していた。天井裏に巣を作った鳥の糞だろうか。確認するのが怖かった。けれど、確認しなくても液体であるそれは重力に従って顔を伝って床に落ちる。確認するのが怖かったのは、既に分かっていたからだ。これが鳥の糞ではないことが。そして、これが大量の血液であることが。

「うわああああああああっ!!」

 声を出して尻もちをつく。見上げると、赤く染まった天井が血を滴らせていた。やがてその天井を突き破り、その原因が顔を出す。

 茶色に黒い縦縞の体をうねらせ、その牙をこちらに向けて伸びて来る物体。おそらくは生物。僕の目が確かならこれはヒル。だが、この大きさのヒルを知らない。目は認めても脳が否定する、僕の背丈ほどはあろう巨大なヒル。

 そいつが開けた天井の穴からガチャリと音を立てて何かが降ってきた。太く重い派手なチェーンの付いた学生服のズボン。見覚えのあるアクセサリーだらけの制服。彼らは休んでいたのではなく…。

「和佳奈さん…っ」

 こいつは危険だ。そしてさっきの小さい個体を見る限り、複数いると考えるのが自然だろう。和佳奈さんが心配だ。しかし目の前の扉はこいつに阻まれている。教室に戻るには外から回り込むしかない。背後の窓に駆け寄り開けようとするが、鍵が劣化により変形しているようで、固く動かない。こうしている間にも巨大ヒルは僕に牙を近づけている。和佳奈さんも徐々に追い込まれているかもしれない。

 先の小さいのであの出血量だ。この巨体に噛まれれば、失血死は免れない。あんなのが他にもいたら、いくら和佳奈さんでも対処ができないはずだ。

 僕は考える。何とかしてここから出る方法を。記憶を辿り、探り、そして…見つけた。

 個室の横に設置された掃除用具入れを開け放つ。開いた扉でヒルの牙を防ぎつつ、目的の物を探す。

「あった…っ!」

 やはり置きっぱなしになっていた。一度は僕を殺そうとした金属バット。昨日の時点では人目もあり野球部まで返しに行けなかったので、一先ずは教師に見つからないようここに隠しておいたのだ。

 僕はそれを手に持ち、窓ガラスを打つ。

 …思ったよりもとげとげしい危ない穴になってしまった。通るとなればいくらかの傷は覚悟しなければならない。しかし覚悟を決めている余裕すらなかった。ヒルの牙は1秒もしないで僕に届くだろう。覚悟なんて決まっていない。だが、傷ついて和佳奈さんを助けに行くか、何もせずここで大人しく殺されるか、考えなくても答えは出ていた。

 僕は首や頭などの急所は守りつつ、割れた窓から半ば転がるように外へ出る。幸いここは一階であるため、落下の心配はなかった。しかし、ガラスの破片が背を刺し手足を傷つけ、体中に激痛が走った。内臓には届いていない自信がある。太っていて良かったと初めて思えた。だから大丈夫だと自分に言い聞かせて、和佳奈さんのいる教室まで向かう。向かおうとする。向かおうとして顔を上げて、僕は声を失った。

 地や壁を這う夥しい数のヒル。

 不快な羽音を立てて群れを成す蚊。

 黒い龍を形作り舞うコウモリ。

 橙色の夕焼けが赤い地獄に映るほどに、酷く、醜く、悍ましい光景が広がっていた。

「なんだよこれ…何なんだよ…ッ」

 訳が分からなかった。異常な大量発生か?にしては生物としてのカテゴリーが各々で違いすぎている。蚊に至っては季節外れもいいところだ。

 今は街中がこうなのだろうか。この学校だけなのだろうか。皆、襲われて、その生き血を啜られ、命を奪われてしまったのだろうか。

 そうだ、三種類には共通点がある。全部血を吸う生き物なのだ。血を吸うのが目的で発生したのか?血を吸う生き物だけが目的もなく発生したのか?それとも─────

「…行こう」

 考えるのをやめた。どうせ分かりはしない。今はただ和佳奈さんを助けに行こう。僕が彼女のヒーローに近づくために強くならなくちゃ。

 立ち上がろうとして、足の違和感に気付く。窓から転がり出た際変な方向に曲がったらしい。そんな痛みが僕の歩行を邪魔する。でも歩けないことはない。走るのは無理だが、そもそも走ったところでそんな速い足じゃないんだ。

 片足の痛みを庇いながら教室の方へ歩みを進める。背後から何かが這いずりながら近づいてくる音も、痒みに襲われる無数の患部も、僕を取り囲むようにして飛ぶようになった黒い影も無視して、一心不乱に教室へ向かう。やがて背中に重い衝撃を感じ、そのまま倒れ込む。不思議と痛くはないが不快な感覚。あの巨大ヒルに追いつかれたか。耳元の羽音は数が増え他の音の侵入を許さなくなり、視界は黒い影が覆い尽くした。

 僕は死ぬ。

 僕の終わりはここか。守りたい人を守れず、弱者のまま死んでいく。ごめん和佳奈さん。助けに行けなかった。和佳奈さんは怒るだろうか。何て怒るだろう。

 ───どうして助けてくれなかったの?

 違う。和佳奈さんは誰かに助けを請い、果たされなかったことに文句は言わない。

 じゃあ何て言う。そもそも怒らないか。いや、このまま死んだら僕は確実に和佳奈さんに怒られる。

 ───どうして助けさせてくれなかったの?

 近いけどこれも違う気がする。和佳奈さんは自分が助かりたいわけでも、自分が助けたいわけでもない。彼女の一番の渇望は…誰かが助かること。それは自分の手によるものでもそうでなくてもいい。見返りも人気も欲しいけれど、目指すところは仏や菩薩で、誰かが無事ならそれで良いという優しい人なのだ。だから正解は…

 ───どうして助けを求めなかったの。

 僕は残る全ての力を振り絞って、息を思い切り吸い込み、できる限り大きな声で叫ぶ。

「誰かああああッ!!助けてくださああああいッッ!!」

 声を上げないのは弱者ですらない。たとえ助けが来ないと分かっていても、最後まで諦めずに助けを求め、生きようとするのが和佳奈さんの言う弱者だ。僕は和佳奈さんを助けたい一心でいきなり強者になろうとした。弱者の段階をすっ飛ばそうとした。

 危うく、弱者にすらなれずに死ぬところだった。

 ありがとう和佳奈さん。あなたのおかげで、僕は成り上がって死ねる。

「良く吠えた、少年」

 そんな声が耳に入ったと同時、轟音とともに発生した衝撃波のようなものに僕の体は飛ばされる。そのおかげで纏わりついていたヒルや群がっていた蚊やコウモリも体から剥がれたわけだが。僕は…助かったのか?

 砂埃が晴れ見えるのは、見るも無残な校舎とグラウンド。壁は朽ちてひび割れ、地面には巨大なクレーターができていた。その穴の真ん中に立つ一つの影。

 赤い。それが最初に抱いた感想だった。フルフェイスのヘルメットのような頭、全身を覆う硬い鱗のような肌、首に結ばれ風に靡くスカーフ。その全てが赤い。

『そ。一人いるんだけどねー。この夕陽みたいに真っ赤で情熱的で、正義感が強くて、力も強くて格好良くて…とっても優しいアタシのヒーロー』

 彼だ。彼が和佳奈さんの言っていた憧れのヒーローだ。

 彼は僕に歩み寄ると、手を差し伸べる。あの日の和佳奈さんのような頼もしい手だ。

「君が呼んでくれたおかげで、君を助けられた。ありがとう」

 妙なことを言う人だ。お礼を言いたいのは僕なのに。

「ありがとう…ございます」

 握った手は熱かった。火傷しそうなほどに。けれど、嫌ではなかった。その熱に触れていれば、僕まで力を貰えるような気がしたから。

「さぁ、逃げろ少年。それも弱者の仕事だ」

 僕は頷かない。彼のようなヒーローの言うことでも、僕自身の正義を否定しては聞けなかった。

「中にまだ和佳奈さんが…友達がいるんです…。助けに行かないと…」

「和佳奈が…?」

 彼の体が一瞬固まる。やはり知り合いなのだ。和佳奈さんが言っていたのはこの人で間違いない。僕とは似ても似つかないけれど。

「心配だが、今は…」

 彼はグラウンドの中心の方を向く。衝撃波で吹き飛ばされたはずのヒルと蚊とコウモリが集まり始めていた。

「そこの物陰に隠れていなさい。すぐに片付ける」

 先の衝撃で倒しきれなかったあの数の生物を相手に一体どうやって…。そう考えているうちに彼は呼吸を整え、集中し始めた。

 ドッ…ドッ…ドッ…ドッ…

 身体を芯から震わせる太鼓のような音が聞こえる。

 ドドッ…ドドッ…ドドッ…ドドッ…

 発生源は彼だ。彼の周りだけが震え、彼だけが静止している。

 ドドドッ…ドドドッ…ドドドッ…ドドドッ…

 静かなのに激しい。静かなのに轟く。

 ドドドドッ…ドドドドッ…ドドドドッ…ドドドドッ…

 悪を滅する正義の鼓動。その音だ。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ

 その速さが最高潮に達したとき、地が揺れ空気が震える。辺りを包む熱気に僕の体はじんわりと汗ばんだ。

 その鼓動に共鳴するかのようにヒルと蚊とコウモリたちはざわめき、…共食いを始めた。

 目的なんか分からない。だが、生命の根源に存在する生存本能が生きるために最適な行動としてそれを選択させたのだろう。やがて三種の生物は、各々の巨大な一個体へと統合され、次はその三匹で共食いを始めた。

 共食いというより、これは融合だ。無数の個体で争う中で最強の個体が生き残り、そいつをベースに最後の一匹になるまで融合し続け、目の前の危険分子に立ち向かう個体へ進化を遂げようというのだ。

 最後に残ったのはヒルでも、蚊でも、コウモリでもなかった。巨大なうねる牙を無数に持ち、コウモリの羽と蚊の目を持ったキメラ。長く目にしていると精神的に参りそうな不快な見た目をしている。そして何よりでかい。その高さは校舎の屋上に届き、僕たちを見下ろしていた。

 あんなのが街に飛び立ったら終わりだ。そう考え不安に陥ろうとした矢先、鼓動を轟かせる赤い戦士が地を蹴り、飛び出した。蹴られた地面は抉れ、ひびが入っている。彼の姿は見えないが、大太鼓を叩くような大きな衝撃音と怯む異形の姿だけはハッキリと分かる。あの体格差で圧倒しているというのか…?

 駆け、跳び、蹴る。殴る。その繰り返しの猛攻に異形は鮮血を吐きながら右へ、左へ、上へ、下へと向きを変えて怯み続ける。

 猛攻が止み、地に堕ちる異形。彼はと言うと、空に居た。真っ赤に燃える夕陽をバックに、その影だけを映して屋上よりも遥か高く跳躍している。彼から放たれている熱は太陽からの放射熱かと思うほど熱く、真直ぐに僕のところに届いていた。その熱は対流を起こし、彼の元まで上昇していく。彼の元に熱気が集まると、その影は力を凝縮するように一度小さく身を丸め、次にその力を解放した。

『コア・インパクト』

 刹那。彼の姿は消え去り、貫かれたように仰け反る異形が見える。

 血肉をまき散らしながら爆散する異形。遅れて割れる地面。舞う砂埃と石。届く轟音と爆風。

 僕は慌てて身を屈め、衝撃を堪える。身を隠している校舎の壁が壊れないことを祈りながら衝撃が止むのを待った。

 外の様子が落ち着いたことを確認し、校舎から出る。彼がこちらに向かってくる気配が一向にないので、こちらから歩み寄っていくことにした。

 先のクレーター状態よりもさらに抉れ、大きくひび割れてもはや修復不可能なグラウンドの地面。その淵に立つと、穴の最深、その中心で彼が手を振っているのが見えた。

 僕は足の痛みなど忘れ、斜面を滑って彼の元へと辿り着く。

「いやーごめん。足が抜けなくなっちゃって」

 よく見ると片足が地面に深く突き刺さっていた。

「締まりませんね…」

「ああ、全くだ。情けない」

 あれだけすごい力を出していたのに…。だが、こういったところに人間味を感じ、少しだけ親近感が湧く。

 僕は彼の片足を持って引き抜くのを手伝った。

「ふー、ありがとう。助かったよ」

「いえ…こちらこそ」

 命の恩人第二号だ。彼がいなければ僕はあのまま死んでいただろう。

「君が助けを求めたから助けに来ただけだ。助けを求めるのは弱者の強み。それができた君は強い。誰かにああすることを教わったのかい?」

「はい…和佳奈さんが」

「そうか」

 顔は見えないが、おそらく喜んでいるのだと思う。

 和佳奈さんの知り合いみたいだし、彼女の成長が嬉しいのかもしれない。そんな穏やかな声色だった。

「少年。君の名は何という」

「蔵月心です。酒蔵の蔵にお月様…ハートの心」

「ハート…逆から読めば心臓か」

 うちの親がそれを意識して名付けたことは知っている。子供の名前ぐらいもっと真面目に考えてつけてほしいものだが…まぁ、嫌な名前ではないので許している。

「ふざけてますよね…ほんと」

「はっはっはっ、いい名前じゃないか。私自身、心臓というものとは関わり深くてね。君とは妙な縁を感じるよ」

 確かに、先ほど轟かせていた音は鼓動のそれと酷似していた。彼の力の根源は心臓にあるのかもしれない。心臓と蔵月心。これもまた奇縁だ。

「蔵月心くん」

「は…はい」

 先程までの和やかな雰囲気とは違う真面目な呼びかけに戸惑ってしまう。彼は何か大事なことを言いたそうにヘルメット越しに真直ぐ僕を見つめている。

「和佳奈を頼んだよ」

 その言葉を聞いてハッとする。そうだ。和佳奈さんを探しに行かないと。

 赤い仮面のヒーローはそれだけ言い残すと、振り返って立ち去ろうとする。

「ちょっ…あなたは探さないんですか…?」

 彼は立ち止まり、答える。

「…少し疲れすぎた。情けないが休ませてくれ。和佳奈は君に任せた」

 彼は再び歩き出す。本当に立ち去ってしまうつもりだ。そう思った僕は、彼に最後の質問を投げかけた。

「最後に…お名前を…っ」

 命の恩人である彼の名前。それだけは認知し、自分が永眠るそのときまで感謝し続けなければならない。それが、僕が彼にできるせめてもの恩返しだ。

「コア・ブラッド」

 赤い仮面と装甲を纏った彼…ヒーロー、コア・ブラッドは沈みゆく夕陽とともにその姿を消した。僕は決して忘れない。僕たちを、学校を、街を救った英雄の名を。

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鼓動連弾 コア・ブラッド 雌雄カスミ @KasumiShiyu

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