鼓動連弾 コア・ブラッド

雌雄カスミ

プロローグ

 人は人生の何時、何処で強さを獲得するのだろう。

 中学でいじめに遭って、それを必死に考えた。

 皆はどうしていじめられないのだろう。皆と僕の違いは何だろう。その違いが強さだと言うのなら、皆はどうやってそれを獲得したのだろう。見た目だけは巨漢のそれなのに、力が比例していない僕には分からない。

 結局、高校に上がってもその答えは分からなかった。

 だからまたいじめられている。

 僕の顔なんか知っている人のいない遠く離れた高校に入学して最初の入学式、緊張からお腹を下してトイレに籠った。あまりに緊張して嘔吐もした。そこを誰かに見られていたのか、その事実は瞬く間に学校中に広まって、汚い、臭いと罵られるようになった。

 僕は弱い。今回はお腹が弱いのが悪かったのだと思う。

 今日も今日とて登校し、アルコールの刺激が鼻を刺す席に着く。毎朝綺麗にされているのはもはや善意のように感じられるが、それが悪意によって行われていることを僕はよく知っている。今日は特に入念に消毒されていて、揮発したアルコールが体内に入り、具合が悪くなった。まただ。僕は弱い。

 一限が終わったらトイレに行こう。それまで我慢だ。そう思いはしたが、具合は次第に悪化し、ついにはその場で嘔吐してしまった。悲鳴と罵詈雑言が飛び交う。女子生徒のすすり泣く声まで聞こえた。申し訳ない。僕が弱いせいで、迷惑を掛けてごめんなさい。

 その後どうなったのかは覚えていない。気が付けば保健室に運ばれていて、休まされていた。実家が遠く寮に一人暮らしのため、迎えに来てくれる人もいない。放課後までここで過ごすこととなった。日が傾き、外はオレンジ色。担任の先生が寮まで送ってくれる予定だったが、お手を煩わせるのも悪いので、体調は快復したと言って自力で帰ることにした。実際嘘ではない。

 荷物をまとめに教室に戻ると、そこにはまだ生徒が残っていた。男子生徒が三人。身なりの特徴で少し不真面目な生徒であると分かった。そんな彼らが残っていた理由。それは、僕を待っていたのだ。

 見つかるや否や僕は男子トイレに連れ込まれ、強者の振るう暴力に屈していた。殴られ、蹴られ、洗剤泡や消毒用アルコールを噴射される。病原菌の駆除なのだと彼らは言った。殺菌しなければならないと、金属バットまで取り出して、振りかぶった。

 強者と弱者の関係は捕食者と被食者だ。被食者は自然の摂理に則って、捕食者の餌食になる。弱者も強者の暴力の餌食となるべきだ。それが正しいはずだ。抵抗なんかしちゃいけない。拒んじゃいけない。それが弱者なりの、被食者なりの、プライドだ。

 死を覚悟して目を瞑って待っていたのだが、打撃は降って来なかった。もう終わったのか?僕は既に死んだのかもしれない。そう思って恐る恐る目を開けると床に伏す二人の男子生徒と、美しいまでに整ったフォームの上段蹴りの形のまま静止する金髪の女生徒、その蹴りで壁にめり込んだのであろう三人目の男子生徒が順番に目に入った。

 女生徒はゆっくりと脚を降ろし、こちらを向く。

「で、なんで助けを呼ばなかったわけ?」

 きっと怒られている。これも僕が弱いからだ。

「喋れないの?」

「あ…いえ…」

「喋れんじゃん。じゃあ答えなよ」

 全校生徒に汚いと周知されている僕と会話を試みるだなんて、余程の変人か僕のことを知らないのだろうか。

「…僕を…知らないんですか…?」

「知らねーし。自意識過剰すぎてウケる。てか質問の答えになってなくない?」

 確かに。久しぶりの会話で受け答えのノウハウを忘れてしまっていた。質問は…何故助けを呼ばなかったのか…だっけか。僕はこれに答えで返せばいい。

「えっと…ですね。強者と弱者の関係は捕食者と被食者…で、被食者は自然の摂理に則って、捕食者の餌食になるからですね…その、弱者も強者の暴力の餌食となるべきでありまして。抵抗なんかしないのが弱者なりのプライドと言いますか強さで…その…です」

「急に早口だし、何言ってるのか分からん。でも最後の部分、それが強さってのは違くない?」

「違いますか…?」

「いやだって食べられちゃったら終わりっしょ。弱者の強さは無抵抗じゃなくて、声を上げることだよ。今朝見た野良猫だって触ろうとしたら威嚇してきたよ。シャーって」

 爪を立てて小さくシャーっと鳴く素振りを見せる。威嚇の真似事だろうか。

「結局さ、助けを求めれば勝てるんだよ。今は社会が弱者を守ってくれる時代なの。それなのになんで声を上げなかったの?」

「頼れる人なんて…いませんから…」

 実家が遠く親もいない。兄弟も居ない。学校中からは嫌われていて、先生たちだってこんな小さな問題に構ってられるほど暇じゃない。頼れる人なんていないし、僕が誰かを頼るなんておこがましくて、煩わしい。

「自分で解決できるからいらないんだ」

「いえ…そうは一言も」

「アタシにはそう聞こえたよ。自分は強いから誰かを頼ることなんてしませんって」

「ふざけないでくださいッ!僕は弱者だ!誰よりも弱いから…そんな奴が僕より強い人たちの時間を奪っちゃいけないんだ…ッ!」

「アンタに助け求められたぐらいで煩わしいと思う奴は強者でもなんでもない、ただのクズだよ。弱者以下。そんな奴らに遠慮して声を上げないアンタも」

 そう言って胸倉を掴まれ、顔を寄せられる。殴られると思って反射で目を瞑るが、次に聞こえたのは怒号ではなく、優しい声だった。

「弱者に成り上がりたきゃアタシを頼りなよ。アタシは本物の強者だから」

 手を離され尻もちをつく。良いのか。僕が、誰かを頼っても。迷惑じゃないのか。

「わっ、ごめん。そこばっちぃから早く立ちなって」

 そうして差し伸べられる手は、まさに救いの手のように感じられた。僕の信じて憧れた、強者の、ヒーローの手だ。

「爪…長い」

「ネイル、かわいいっしょ。それよりお尻汚れてない?大丈夫そ?」

「ええ…まぁ、あんまり気になりません…」

 触れた手は熱いほどに温かい。血が通う生命力と活発で膨大なエネルギーを感じた。

「手冷た。ホントに生きてんの?」

「…死んでいるかもしれません」

「こわ。そういう詩的な冗談はいいって」

 冗談を振ってきたのはそっちじゃないか。

「あの…手…触ったから…その…」

「なに?言いたいことは結論から言ってよ」

「汚い手で触ってしまってごめんなさい…」

「ああ、そういうこと。洗うに決まってんじゃん」

 やはり、僕のことを知らなくても汚くて臭いのは事実なのだから、触れたら誰しもが汚らわしいと思うのだ。この人なら違うかもしれないと淡い期待を抱いたのが馬鹿らしい。

 そう考えていると不意に手を引かれ、足がもつれそうになる。

「どうしたんですか急に」

「だから、トイレの床触っちゃったから手洗うんでしょ。一緒に行こ」

 僕の視界は開け、明瞭になる。世界にかかった靄が突然晴れたのだ。そうして見える彼女の顔。はっきりと人の顔を見たのは久しぶりだ。それを認識し、記憶したのも。

 この人は本当に僕のヒーローなんだ。

「あの…そう言えばお名前は…」

「今このタイミングで?まぁ良いけど、アンタから名乗りなよ」

「僕は…」

 名乗って良いのか。キモがられないだろうか。…今までの僕ならそう思って名乗るのを渋るだろう。名乗るのをやめて逃げてしまうかもしれない。

 でも、この人なら大丈夫だ。僕は、自分を変えるために、強者の彼女に倣って一歩前へ進むために、彼女を信じて頼ってみることにした。せめて、弱者に成り上るために。

「僕は…蔵月 心です。酒蔵の蔵にお月様の月、名前はハートの心です」

「良い名前じゃん。アタシは平 和佳奈。漢字は平和な佳作の奈良県」

 彼女、平和佳奈はニカッと笑う。太陽のように眩しい笑顔は僕の凍結した心をゆっくりと、けれども確実に溶かした。

 平和佳奈…美しく、優しい名前だと思った。ご両親はさぞかし正義感の強い方なのだろう。娘である本人とよく似て。

「…いい名前です」

「ありがとっ」

 これが僕らの出会い。そして、僕の始まり。

 向かう先には一体何が待つのだろうか。

 僕は弱者に、そして最後には立派な強者になれるだろうか。

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