怖いもの

佐々井 サイジ

第1話

 激しい勢いで床を弾くシャワーのなかに頭をくぐらせた。固く目を瞑り、最近繰り返し聞いている流行りのアップテンポな曲を歌う。でもうろ覚えの箇所が目立ち、ワンフレーズ歌ってすぐにまた同じ歌詞をなぞることを繰り返した。流行りの歌についていけなくなったのはいつからだろう。体の凹凸は年齢というやすりに角を削られ、今ではすっかり丸みを帯びてしまっている。彼女と別れてから六年か、三十を過ぎてから彼女はできていないし、できる気配もない。

 短く息を吐いたあと、瞼を開けて鏡を見た。だらしない体つきになった僕が映っているだけだった。もう一度息を吐いて、すりガラスの扉を見る。ここも何も映っているわけではない。

 風呂に入る前に、うっかり動画サイトで心霊映像の動画を見てしまった。いや、わざわざ検索して違法アップロードされた動画を怖いもの見たさで自ら視聴した。

 昔から心霊番組を見たあとのトイレや風呂には憂鬱なものがある。こういうときに前の彼女に早々にプロポーズしておけばよかったという後悔はシャワーでは流せない。

 ただ、気になるのは最近会社の同僚が会話している最中、時折僕の頭の向こうに視線が外れることだ。一人や二人ではない。同期、後輩、先輩、上司。誰かと喋るたびに視線が外れるのだ。私は相手の視線が外れたときにその先を追って振り返るのだが、幽霊のような恐ろしい怪異はいない。僕だけ見えない何かが僕の後ろにいるのだろうか。会社や自宅、鏡があるたびに僕は鏡を見ないようにする。

 リンスを手のひらと指の間まで広げたあと、髪の毛になじませていく。再びシャワーでリンスを流しているときに、怪異の手が自分の頭を触らないように両手で頭を覆う。手のひらで自分の頭を叩く。濡れた髪の毛を叩いた音が浴室に響くだけだった。

 頭をシャワーから避難させ、指の腹で優しく髪を梳く。指の間に細い髪の毛が十本ほど絡みついている。亡霊の髪の毛だろうか。亡霊の髪の毛と思いたい。しかし、曇った鏡越しに映る僕の頭頂部はすっかり頭皮が透けていて、幽霊などではないことを無慈悲に証明していた。

 本当は全部わかっている。三十五歳で独身の僕が急激に薄くなり出して透けた頭皮をみんなが見ていることを。僕に悪霊も背後霊もついていないことなどとっくにわかっている。僕と関わる全ての人から“可哀想”という心の声が身体からにじみ出て僕に染みこんでいく。僕はそれに気づかないふりをして心霊現象のせいにしているだけなのだ。

 浴室から出て鏡と向き合わないように体を横向けながらドライヤーで髪を乾かす。床下には細い毛がみるみる落ちていく。側頭部と頭頂部の指通りが全然違う。頭頂部の髪の毛はだんだん細くなり、このままだと赤ちゃんの産毛と大して変わらない程度になってしまうかもしれない。

 避けていた鏡と向き合う。確認などしたくないのに、櫛でセンター分けにしてハゲ具合を調べてしまう。櫛の間にも細い毛が絡まり、取るのに時間がかかる。風呂から上がりたての頭皮は赤みを帯びている。こんなに赤みを帯びるなど五年前まで知らなかった。一年後にはどうなってしまうのか。

 頭頂部の将来を考えると心霊現象など怖くとも何ともなくなった。

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怖いもの 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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