#3 Träumerei

 もし天国があるとすれば、それはここなのだろう、とブッカーは思った。地名はそのまま、【空中庭園】と言う。そこかしこに見えるプロペラが、この島を飛ばしているようだ。

 ブッカーは端末を取り出すと、手に持っている荷物の、バーコードに光を当てる。読み取った情報から位置を割り出し、地図に設定した。


 ブッカーは配達員ということになる。それも、数多の並行世界、時空間を股にかけて移動する、特殊な存在だと言えるだろう。特殊なのはその業務が原因と言えた。

 運ぶ荷物はどれも、誰かが送ったものではない。何かの拍子で、偶然にも異世界に飛ばされてしまった荷物を、元の世界に戻してやる──これが仕事だった。だから配達と表現してはいても、世界を元通りに修復していく作業であると解釈した方が、彼にとってはしっくりくる。

 すべての荷物には、どの世界に属するか、といった情報が込められたバーコードが刻まれる。ブッカーはこれを元に、並行世界へと通じるポータルを開け、移動するのだ。

 その一つが、空を浮遊する庭園を示していた。


 今回届ける荷物は、片手で持てるサイズの小箱。中身は指輪とされている。落とし主はここの住人であるとあったが、見たところ、この場に人の気配は感じられない。

 確かに、ここは人が住めるような住居が並んでいる。店や飾り付けされた広場から、賑わっていたのだろう痕跡さえ残っていた。

 だが、誰一人として姿を見せないのはどうしてだろう。ブッカーは訝しみながらも、荷物を小脇に抱えて、目標地点まで歩いた。


 この庭園は何艘もの大型船を繋げて造られたらしい。途中には木造の大きな橋があり、別の街へと繋げられていた。橋から見下ろせば、どこへ向かっていくものか、川が勢いよく流れていく。その先は何も見えない。雲が広がっているばかりで、地上さえ見えないほど。

 ここはどれほどの高度なのか。不思議なのは、寒くなければ、呼吸も普通に行えること。

 蔦にまみれた足場を越えながら、この橋が崩れてしまったら、などと考えて、一人震える。だが丈夫なようで、何事もなく渡り終えた。ブッカーは苦り切った顔で嘆息する。


 それはやがて、感動の溜め息に変わった。美しい景色が、ブッカーの目の前に広がっている──澄んだ青空の下に、エデンの園はあった。果実の香る黄金樹に、風に揺れる鮮やかな花畑。

 その奥、向こうにはシンメトリーとなった建築物が見えた。その横に、白い巨像が経っている。その像は女性的な長い髪の持ち主で、美しい顔立ちをしていた。また、片方には剣を、もう片方の手には鍵を手にしている。羽が生えているのは、ここの住人の姿を模ったものなのか、それとも宗教的なものなのだろうか、判別がつかない。

 いずれにせよ、ブッカーを圧倒させるだけのものではあった。


 止めていた足をもう一度動かし、定められた経路を進んでいくと、不意に、真っ黒に塗り潰された穴が空中に現れた。ブッカーは思わず舌打ちする。

虚無ボイドか」

 触れれば即座に分解され、溶けて無くなる。消された先はどこへ運ばれるのか、それは誰も知らない。そもそもこの現象はどうして起こるのか? そのメカニズムさえ説明がつかないのである。

 一つ言えるのは、虚無が発生した時、この世界は終わりつつあるということだ。完全に崩れ去ってしまう前に、どこか別の並行世界へ向かわなければならない。


 逃げることも考えたが、端末によれば、目的地はもうすぐそこまで来ている。ここまで来たなら、配達を完了させてしまいたい。ブッカーは配達員としての在り方に誇りを持っていた。途中で投げ出すようなことだけはしたくない。

 早足で駆け抜けると、草原が目に入ってくる。そこには大勢の人々が集まっていて、ざわめきが遠くから聞こえた。近づいてくるにつれ、それは虚無が発生したことによるパニックのようなものらしい、とブッカーにも理解が及んだ。


 届け先に指定された人物は、その中に紛れ込んでいた。年若い夫婦に話しかけると、白い小箱を渡す。最初は見かけない顔に、夫婦はぎょっとしたようだが、中身を確認するにつれて、態度は軟化した。

「失くしたと思っていたのよ」と妻の方は言って、薬指に嵌める。

「一体どこでこれを?」夫が訊いたので、

「俺の故郷に。どうやら流れ着いてきたらしいな」

「そうか……というと、地上ですね? わざわざこれを運びに、ここまで?」

 ブッカーは簡単に頷く。「じゃあ、これで」

「ありがとう」と二人は頭を下げた。

 騒ぎ立て、混乱している様子の群衆の、その端で。


 ブッカーはカーテンを開けるような仕草で、空間に穴を開けた。それはここの住人にも見えていない。振り返ると、虚無が次々に発生していた。家や、木々に大地にと、穴を空けていく。

 人々はどうやら諦めたらしい。合掌して、何かに祈っている。諦めなかったものは、この島から飛び降りようとしていた。その中には、先程の夫婦も居た。

 彼らは並行世界に移動することができない。あらゆる物は、生命を含めて、バーコードによって世界と紐付けされている。だから、根を下ろした樹木のように動かすことは不可能だ。


 そもそも異世界を認識さえできないだろう。

 例外なのはブッカーと、たまに流れ着く荷物だけ。何が違うのだろうか、それはブッカーにもわからない。

 穴に向き直ると、ブッカーはさっさとそこへ入り、空中庭園と別れを告げた。


 落ちた先は【自動都市】──ブッカーにとって故郷と言うべきだろう。

 街自体がそのまま工場と化したように、階段や住居にはベルトコンベアが並べられ、その上を幾つもの品物が流れていった。その中にはブッカーが配達すべき漂流物や、住民のために支給される食品や消費物も含まれている。


 ここはいわば──廃墟。

 一言で表すなら、この言葉が適切だろう。まだ稼働しているというのに誰も居ないのは、捨てられたからだろうか。しかし人が住んでいたような跡は、先ほどの世界のように残っていない。

 ブッカーが生まれ落ちた時から、この世界はこうだった。もっとも、幼少期など存在しない。自意識が芽生えた時には──つまり、記憶が存在する頃にはもう、この姿でこの仕事に勤めていた。


 この街では、至る所にレーンが伝っている。その上を幾つもの荷物が流れ、地区ごとに分けられていた。ブッカーはその荷物から情報を読み取り、元の地域へと戻していく。

 誰から頼まれたわけでもない。ただそうするべきだろうと思ってのことだ。思えばいつから始めたのだったか、もう覚えていない。何年前になるのだろう。初めて訪れた異世界はどこだったか。それさえ、何も。


 次の荷物は便箋の入った、一枚の薄い封筒だった。ブッカーは何気なく手に取り、これを眺めて、

「ほう」と一言。驚きから声が漏れた。

 宛名はブッカー自身。これは、世界から零れ落ちた漂流物ではなかったようだ。何者かがブッカーに届けたらしい。一体誰が、いつ、自分の存在を知ったのだろうという不思議。それでいて、誰がこれを配送したのだろう? 自分以外にも配達員が居たのか、という驚きが、たった一つの荷物からもたらされた。

 ブッカーは封を開けると、中身を取り出す。便箋にはメッセージが記されていた。名前から察するに、相手は間違いなく、ブッカーを指して送ったらしい。

 送り主の名はエリザベスという。恐らく女性だろうが、そのような知り合いに心当たりはない。


 内容は簡単。ブッカーに配達して欲しいものがあるのだが、それを直接会って渡したいのだという。そのため、エリザベスの居る元へ来てくれないか、という依頼ものだった。

 バーコードを読み取れば、即座に地図へと反映される。地名は【廃棄ビル屋上】と、なかなか殺伐としていた。


 空気を掻き分け、転移用のポータルを開ける。封筒をポーチに仕舞い、ブッカーは穴の先へと飛び込んだ。


 名は体を表すと言うが、穴の先から見えたのは確かに、廃棄されたビルの屋上だった。奇妙なのは、深い霧がかかっていること。そして何故だろう、そこに懐かしさを覚えるのだった。理由はわからない。

 屋上ということもあり、落ちないよう、防止柵が四方を囲っているのだが、その先に霧はなかった。霧はこの屋上にしかないのである。

 霧はとても厚く、一歩先ですら不明瞭だ。柵越しに見える外の様子は、ブッカーの故郷にも似て、廃墟となっている様子。もしかしたら、隣町なのかもしれない。


 送り主エリザベスを探して、白一色の景色の中を、ブッカーは歩いた。屋上とはいえ、なかなか広い。

 歩いていると、何かしらが足にぶつかることが多いのだが──確認するとどれも、アンドロイドであった。最初こそ人間と見紛う作りをしていたので、些かぎょっとしたが、良くよく見てみるうちに、人間とは思えない動きが表面上に現れていた──細胞の一つひとつが自律移動していた──ので、すぐとアンドロイドなのだなと理解できた。

 似たものは、これまでにも幾つか見たことがある。

 アンドロイドを四体ほど越えた辺りで、ブッカーは人影を見つけた。それがエリザベスであったら良いな、と思いながら声を掛ける。

 相手は反応した。どうやら生きている。


「すまないが、エリザベスという者を探しているんだが」

「エリザベスなら私です」霧の中で、首を傾げるのがわかった。「貴方は?」

「手紙を受け取ったブッカーだ。何を配達すれば良い?」

「ブッカー?」

 エリザベスが一歩、こちらに近づく。そしておもむろに、ブッカーの頬や肩、腕をべたべたと触り始めた。ブッカーは不快になって、それを取り払う。

「何をするんだ」

「あぁ……ごめんなさい。でも、驚いてしまって。まさか、そう、成功するとは思わなくて」

「成功? 何が……」

「貴方を呼び出すことに」そう言って、相手は微笑した。

 ブッカーは眉を顰め、「ふざけているのか?」

「いいえまったく。それより、手紙と言いましたけれど、何のこと?」

「覚えていないのか。手紙ってのはこれのことで──」


 腰に取り付けたポーチから出して見せようとした。だが、そこに手紙はおろか、ポーチすら存在していない。もちろん、端末さえどこにもなかった。ブッカーは思わず目を向けたが、霧に溶けてしまったのか、やはりそんなものは見当たらない。

 ポータルを抜ける途中で失くしてしまったのだろうか? 否、そんなことは今までになかったし、落とすにしても自動工場かここのどこかにあるはずである。ポータル内に取り残される、ということはない。そもそもそれだけの空間はないのだから。

 では、このビルを散策した際に落としてしまったのだろうか。身に覚えはないが、探した方が良さそうだ。


「悪い、どこかに落としたみたいだ。少し探しに──」

 言いかけて、ブッカーは壁に映った自分の顔に目を奪われた。それは見知らぬ人物。少なくともブッカー自身の顔とは異なっている。思わず顔に触れた。

 固い感触。

 こつん、という音を立てる。

「おかしい、今まではこんなこと……」


 異世界に転移しても、姿が変わることはない。だから、この場に訪れたことで顔貌が別人のものとなったのだと理由付けすることは難しい。

「一体、何が、起きているんだ?」

「アンドロイドに貴方を注ぎ込んだの」エリザベスが背後から言った。

「何だって?」ブッカーは首を後ろに回して訊く。

「そもそも貴方を作ったのも私です。ここでプログラムした。貴方という存在ソフトウェアをね。それでここに避難してきているアンドロイドの一人に、貴方を上書きしたの」

 まさかここまで上手くいくとは思わなかった、とエリザベスは嬉しそうに言う。


「待て……そんなはずは──俺は確かにポータルを通ってここに来た。アンドロイドに憑依しただって? まさか、そんなこと」

 記憶を捻ったところで、そんな詳しくは思い出せない。だから冷や汗をかきそうになるが、この体ではそんなものもは出そうになかった。その上、焦ることもできない。感情が制御されている感覚が常に働いている。

 自分自身のことで、且つ大変な事態が起きていると言うのに、どこか他人事のようにも感じられてしまうのだ。

「憑依じゃありませんよ。生まれ変わったんです」とエリザベス。

「何が違うんだ?」

「何もかも。憑依だったら、そもそも貴方と言う魂が別にあって、また別に生きていた体があって、そこに宿ったと言うことになりますけれど──私がやったのは死んだ体に、貴方と言う魂を一から作ったわけですからね」

「君が俺の創造主だって言いたいのか?」

「ええ、勿論」エリザベスはにこやかに首肯した。


 ブッカーは確信した。この女は狂ってしまっているのだ、と。

 他に倒れていたアンドロイドと同じで、故障してしまっているのだ。こういったものも、過去に見たことがある。こう言う時、相手に話を合わせるのが重要だ。それでいて、付き合っては巻き込まれるので、折を見て離れるのが正解だろう。


「そうか……君が俺を、ね。いや、悪かった。ちょっと探し物があってね。話は聞きたいんだが、その前に行かないと」

 霧を避けるように、空へと手を伸ばす。ブッカーはポータルを作ったが、思うように反応しない。

「何をしているの?」エリザベスに訊かれ、

「いや、何でもないさ」

「動かないで」

 エリザベスは霧の中から端末を一台、取り出した。無から生み出したこともそうだが、それに見覚えがあったことにも驚かされた。それこそブッカーが探していたもの。失くしたものだったからだ。


 エリザベスは端末からブッカーを読み取ると、子どものような素直さで目を丸くさせる。

「まさか、そんな……」

 ブッカーは溜息をついた。「今度は何だって?」

「貴方には過去があるのですね。それも、長いこと、ポータルを通って、配送していた。これは……仮想世界ね。成る程、ここへ来る前にシミュレートをしていたってことか」

「訳がわからない。わかるように話してくれ」


 焦点の定まらなかったエリザベスの目が、ブッカーに定まると、彼女は小刻みに頷いた。

「つまり……貴方を生んでたった数秒の間に、大量の過去が作られていたということですよ。これがどう言うことかと言うと──」エリザベスは顎に手を当てながら、「そもそも私と貴方とでは認識が違うのね。貴方の認識では、配達依頼を受けてここを訪れた、そういうことですね?」

「そうだ」ブッカーは認めた。

「そうですか。けれど、私の認識は違います。私と貴方が会った時。それが貴方の生まれた瞬間だった。ソフトウェアを体に宿らせ、浸透させるには時間がかかります。だから少し目を離していた時に、貴方の方からこちらへ戻って来た」

「君にはそれが現実だと?」

「その通りです。この間に、貴方には過去が生まれていた──つまり、貴方の魂がその肉体に浸透する、その間ですね」

「そんなはずはない」

「そう。貴方にはそれが現実」真剣な眼差しで、エリザベスはブッカーを射抜いた。「でも、私の認識からではそのように解釈するしかありません」

「君のことは知らないよ。だが、確かに何か妙だ」


 ポータルは使えない。体は別人に成り代わっている。すべての道具は失われ、記憶と現実は噛み合わない。

 ブッカーは鼻息を漏らした。


「ここはどこなんだ? 君はさっき仮想世界だとか言ってたが」

「ここは仮想世界の外側。つまり現実」エリザベスはブッカーに背中を見せ、「だから恐らく……そうですね、貴方は仮想世界で生まれた」彼女は端末を確認しながら、「その自動都市という場所も、仮想世界に存在する空間なのでしょう」

 でも、とエリザベスは不思議そうな声色を発したが、それきり黙ってしまった。気に掛かって、ブッカーは「でも?」と訊いた。

 エリザベスはちらとブッカーを横目に、

「でも、貴方が生まれてくる間はとても一瞬で、ここまで膨大な過去が作られたはずはないんです。これは、どう言うことなんでしょう?」

 どうやって作られてから生まれるまでの一瞬で、ブッカーという個性が生まれるほどの時間が経過したのか?

 エリザベスの問いに、ブッカーは首を振る。

「さあな。知らんよ、そこまでは。ただ俺から言えるのは、君の説明はすべて妄言で、俺にとっての認識こそ現実。その端末は俺から奪ったもので、そこに書いてあることは紛れもない事実なんだろうってことさ。さあ返してくれ」


 果たして素直に渡してもらえるだろうかと危惧していたが、エリザベスはあっさりと端末を手放した。ブッカーは拍子抜けしたものの、安心してそれを眺めると、見覚えのないものとわかって体が固まった。

 思考も、一秒ほど停止。

 これは一体、どう言うことだろうか。端末はブッカーの持っていたものとは別のものだった。即ち自分のものではない。だが、この中に含められた情報は、ブッカーの端末と同じものが入っている。


 考えられるのは、自分がおかしくなったか、或いはエリザベスによって端末を作り替えられた、か。

 いずれにせよ、それは大した問題ではない。


「配達して欲しいと言っていたな」とブッカーが確認すると、彼女は頷いた。「何を、どこまで運べば良い?」

 エリザベスは口を開けて、息を吸う。それから一度閉ざした後、意を決したように、また開いた。

「私を、私の居るところまで」


 そう話す意味を、ブッカーは最初こそ理解出来なかった。相手はアンドロイド、どこか配線が間違えているのかもしれない。そう思いさえした。しかし理由を問い質すと、確かな答えが返ってきた。

 曰く、エリザベスはかつて自身の記憶の一部を、霧の中にある仮想世界に分離したという。


 ここにある霧は、小さな虫ナノマシンの一群であるらしい。目には見えないほどの彼らが働くことで、霧はアンドロイド達を絶え間なく補助し続けている。

 例えば通電することで彼らは延命されていた。例えば怪我した箇所と入れ替わることで治療する。アンドロイドは、自身の細胞にもナノマシンを使用しているから可能だった。また、記憶を長期間保存する。

 エリザベスは数世紀以上もの記憶を外注していたが、そのうちに欠落を見つけたのだとか。

 だから、

「どんな記憶を手放したのか、それは知りません。ただ、私は思い出したい」


 取り戻そうと記憶を確認した時には──もう、以前手放した時と同じ場所には存在していなかった。それは仮想世界において一人の個体として確立し、どこかへと居、なくなってしまったのだろう。それがエリザベスの考えだった。

「つまり、異世界へ旅立ったわけか」

「ええ」と、エリザベスは神妙な顔で、「見つけ出せますか?」

「さあ。記憶そいつと空間座標とが紐付けされていたなら、どの世界に漂流しているか、報告が入るはずだ」

 だが話を聞く限りでは、一人歩きするエリザベスの記憶は、どことも紐付けされていないように思われる。もし紐付けされていたとして、漂流されていなければ報告にもあがらないだろう。ならば、どうやって探そうか?

 仮想世界は驚くほど多い。砂漠の中から一粒の胡麻を探し出さなくてはならないのに等しいと言える。


 だが方法はある。

 端末からエリザベスを読み取って、位置を検索するのだ。特定できればそれで良し。出来なければ、また条件を変更してやり直せば良い。


 ブッカーはエリザベスの首元からバーコードを探した。が、その首は透き通るほど真っ白で、どこにもそれらしきものは刻まれていない。

 ここに来てようやく、ブッカーは尋常ならざる可能性に行き当たった。

 〝ここは仮想世界の外側である〟可能性に。

 まさか……あり得ない──ブッカーは心の中で否定した。普通、すべての物にはバーコードが刻まれる。それは人間も含めて、である。例外はない。

 今、目の前に立つこの女性を別として。


「どういうことだ」冷や汗が額を伝う。


 取り乱しそうになる心を落ち着けて、ブッカーは訊いた。しかし誰かに問いかけたわけではない。自分自身に、だ。解釈するとなれば、これはどういうわけなのか。

 エリザベスは察したらしい。

「バーコードなら、ありませんよ」

 それから、訥々とこの街のことを話し出し出した。


 人類が滅びて以来、アンドロイド達が生きるようになった。彼らは霧の中で永遠にも近い時を過ごし、ある時期は平穏に、またある時期は波乱に満ちた情勢であったという。

 そんな最中、永眠を望んだ者が居た。アンドロイドにとって、霧は命の源泉である。だからこそ彼は霧を晴らすことで、永遠の命にとどめを刺した。


「永遠とは淀みであり停滞だと、彼は言っていました」エリザベスは思い出すように、ゆっくりと伝える。「だから終わらせようとしている。今は、その途中──霧が晴れていく最中です」

「霧の向こうには行けないのか?」ブッカーの問いに、

「行けますよ。でも、長くは保たないでしょうね。恐らく五ヶ月から二年くらい」

「幅があるな」

「定かではありませんから」と、彼女は弱々しく微笑む。


 ブッカーは少し考え込むと、

「じゃあ、ここがアンドロイドの世界だというのはわかった。だが、君達にバーコードがないのは何故だ? それに、君は俺を作ったと言う。それは一体……」

「その前に確かめたいことがあります。まず、貴方はどんな世界から来たの? その仕組み、ルールはどんなだった?」


 ブッカーは端的にそれを説明した。そこはあらゆる可能性を具現化した並行世界群であること。宇宙船で一生を過ごす者も居れば、海に聳える三つの塔に過ごす者達もあった。宇宙や物理法則は基本的に一定だが、技術や社会は大きく異なっている。年代もまた、バラバラだった。

 最も重要な点は、すべての物はその場所とバーコードで紐付けられていること。人や物は他世界へ移動することを禁止され、影響し合ってはならない。これは、世界そのものを滅亡に追いやるためだ、とブッカーは理解している。

 しかしごく稀に他世界へ漂流する物資があり、ブッカーのような並行世界を自由に行き来できる者が、これを元の世界に戻しているのだ、と。


 聞き終えて、エリザベスは二、三の質問をした。

「貴方の他にも他世界へ行き来できるような人や、配達員は居ますか?」

「居ると思う。ただ、見聞きしたことはない」

「人や物は他世界へ移動できないのに、どうして貴方だけは移動できるの?」

「さっきの質問の答えと被るが、移動できるのは俺だけとは限らない。何せ、荷物も漂流しているからな」と、ブッカーは答えた後、「その上で、俺が自在に行き来できるのは、この端末のお陰だ」端末を再度、エリザベスに見せる。「そもそも異世界の存在も、物と世界とが繋がり合っていることも、すべてはこの代物が教えてくれたんだ」


 俺の知っているものとは少し違っているがな──ブッカーはそう言って手渡す。端末を受け取ったエリザベスは、右手の甲にバーコードを浮かび上がらせた。それを入力するのか、とブッカーは理解する。

「驚かないのね。これは今、霧を利用して作ったものです」

 霧は細かな機械の群れですから、と。エリザベスの言葉を受けてようやく、ブッカーは何故自分が霧を使ってなら物を作り変えられるだろうことを知っていたのか、不思議に思った。

 だが答えを知ってどうと言うわけでもない。


「見て」とエリザベスに言われ、ブッカーは端末に目を落とす。「私はどことも紐付けされていません」

 物資名である彼女の名前の他に、所属すべき場所は記載されていなかった。ブッカーにとって、こんなことは初めてで、思わず笑ってしまいそうになる。けれど、そもそもバーコード自体が作り物。紛い物であるかもしれない。

 けれどそれ以上に目を引いた情報がある。

 『アガタ・アンネ・クリスティ』という人物と、エリザベスは紐付けされていたのだ。


「これが君の探し物だろうな」

 ブッカーが名前を見せると、彼女は同意する。

「そこへ連れて行って欲しいの」


 試しにとブッカーはポータルを開けた。が、反応はない。代わりにエリザベスが両手を広げると、指先にまとわりつくように霧の形が変容した。それからエリザベスは足元から砕け散って、灰と煤となって消えていく。

 狼狽えるブッカーの元にも霧は襲いかかり、全身を縛り上げるように覆い尽くした。やがて細胞と細胞、皮膚と筋肉、そして骨との隙間から染み込むようにして体内が満たされると、どろどろと固形混じりに液状化していく。燃え尽きていく蝋のような心持ちでなす術もなく、ブッカーは失われていく手足を見つめた後、地中へと沈みゆく中で、顎先がとうとう地面と触れた瞬間に意識が断絶。

 目を瞑り、

 目を開けると、


 そこは猛暑の砂漠だった。

 見渡す限り黄色い砂で覆われており、それ以外には何も見当たらない。頭上からは絶え間なく砂が降り注ぎ、僅かに開いた穴から青空と陽光が差し込んだ。ここに天と地とを分かつ境界はない。ここを訪れる旅人などあるだろうか。たとえ居たにせよ、足跡はすぐとかき消され、それとも広大すぎて、いずれにせよ見つからないだろう。それに、そもそもここに人が住んでいるようには思えなかった。

【蟻地獄の園】──これがこの地底の名前だった。

 気がつくと隣にはエリザベスが立っている。ブッカーはあまりの恐ろしい体験に心拍数を高めていたが、彼女もまたこの場所に圧倒された様子で見つめ返していた。

 最悪な気分も次第に収まると、今度は陽炎の見せるまやかしにぐったりとした気分にさせられる。


「貴方、そういう顔だったのですね」

 目が合ったかと思えば、エリザベスはそんなことを言う。ブッカーはしかし、ここへ来る前の姿を知らないので、肩を竦めて応じる。代わりに、

「どうだい、仮想世界に来た気分は」と訊ねた。

「ええ、とても面白い」強がりなのか、それとも本気なのだろうか、判別はつかない。「ブッカー。後は私を記憶アンネの元へ配送してください。そうしたら、依頼は終了です」

「わかった」ブッカーは意識を切り替えて、配送端末を確認する。アンネの居る【水中都市】は、幾つかの世界を経由しなければ到達できない場所にあった。

 最短ルートを割り出すと、ブッカーはポータルが開けるか試す。カーテンは見事に開き、満足すると、エリザベスを連れて歩き出した。

 ポータルを開ける場所は選ばなければならない。異世界同士でも座標は重なっており、例えば開けた先が海底であったならば悲惨なことになる。

 開けるべき場所でポータルを開くと、ブッカー達は熱帯地域と別れを告げて、豪雪地帯、【吹雪の森】へと移動した。黄色から白銀へと世界を塗り替えただけのように思える。


「こう言うふうに移動するのね」と感心した様子を見せるエリザベスに、

「こんなにも極端なことは珍しいさ」ブッカーは鼻息を漏らすと、脱いだ靴から砂を吐き出させた。


 次の地点まで歩くにも、今履いている靴では足を取られ、覚束ない。更に吹雪いている所為で先は見えず、方角さえ見失いそうになる。おまけに耳が遮られた。だからエリザベスが付いてきているか、都度確認せねばならず、それがブッカーの体力を消耗させた。

 寒さに負けそうになる頃、二人は目標地点へと到着。感覚のない腕をどうにか動かしてポータルを開けた。


 トンネルの向こうに見えるのは、深緑の景色。かつて文明が存在したのだろう都市部に、木々や蔦が生い茂っている。至るところで見たこともないキノコや虫といったものが目に入った。

「あれもナノマシンかな」とブッカーが冗談を口にすると、

「この世界そのものがナノマシンの見る夢ですよ」

 エリザベスの言葉に、ブッカーはそう言えばそうだったなと思わされつつ、端末を確認。

 ここは【緑の檻グリーンハウス】というらしい。


 それにしても、極端だったり過酷な世界ばかりだとブッカーは思い、

「君の居た場所が現実だと言うんなら、どうして仮想空間ここは作られたんだ?」

「現実逃避のためですよ」エリザベスは率直に答えた。「今いる世界が滅ぶと知って、受け入れきれない者達が形成したのが、この場所達」

「だが現実より酷い場所だと思うが」

「それが良いんです。現実を圧倒するだけのインパクトが無ければ逃避すら出来ませんから。効果的と言えば宗教もそうね──死というのは、それだけ恐ろしいことですし」

「そう言うものか」ブッカーは頷く。


 廃れたホテルに入ると、フロントはすべて緑で染まっていた。地面は苔で敷き詰められ、時折り木の根が盛り上がっている。壁に沿って蔦が伸び、通り道を遮っていた。

 エレベータは動かないので、階段を使って上っていく。

「何階まで上がるの?」五階まで上がった頃、一息吐きながら、エリザベスは疑問を口にした。

「二十階」

 目眩だろうか、彼女が倒れそうになるのをブッカーは支えてやった。


 休み休み二十階まで上り詰めると、二人は少しばかり足を止める。仮想空間とは言え、疲労感は拭いきれない。それからややあって、この階層はそれほど緑の影響がないらしい、とブッカーは気が付いた。

「ここまで届かなかったんだな」そう独りごちる。

 そのためか、過去の景色がそのまま残されていた。西陽に照らされて、空中を舞う埃が良く見える。端末から、ポータルを開けるべき場所として二〇一五室に定めた。

 後ろから、疲れた顔のエリザベスが付いてくるのを確認すると、ブッカーはカーテンを開ける。その先は白を基調とした、明るい空間だった。ブッカーは中へ飛び込む。


 瞬間、手足や臓物が浮き上がる感覚。重力の一切が失われ、体の操縦が不可能となった。地面や壁にぶつかると、跳ね返されるように別の方向へと直進する。

 そのうち、機材を掴んだお陰でブッカーは止まったが、エリザベスの姿が見えない。今や天地無用となったこの世界で、エリザベスは遥か高い上方に留まり、自転していた。

 ブッカーは周囲に目ぼしいものが無いか視線を彷徨わせると、どこから延びたものか、配線が漂っているのを見つけ、手荒に掴み取る。それから自身に縛りつけ、充分な長さと強度を確認すると、地面をそっと蹴り飛ばした。

 角度は合っている。

 エリザベスの元へ、真っ直ぐだった。

 彼女まで、距離はおよそ五メートル。

 三メートル。

 一メートル──ブッカーは手を伸ばす。


 と、指先が黒いものに触れた。それは突然現れ、目の前を暗く染め上げる。思わず手を引っ込めると、左手の人差し指が、第二関節まで失われていた。

虚無ボイドか」

 冷や汗が噴き出した。エリザベスは無事だろうか。ブッカーは配線を握りしめて来た道を引き返すと、壁沿いに伝って、エリザベスの姿を探した。彼女の姿はどこにもない。

「まさか……」血の気が引いていくのがわかる。「エリザベス!」

「ブッカー……」

 どこからか声が聞こえる。耳をそば立てると、ぽっかりと空いた穴の近くから、エリザベスの助けを求める声が聞こえるようになった。

「無事か!」と訊けば、弱々しい反応。「待ってろ、今すぐに行く」


 ブッカーはまた別の配線を引きちぎると、虚無の元へ飛んだ。エリザベスの姿を目視すると、両足がない。削り取られたのだ。傷口は綺麗に整えられていて、出血や痛みは感じていないらしい。

 だが、感覚がないことから何が起きたのかは察している。その恐怖から、竦んでしまったようだ。

「大丈夫だ。これで問題ない」ブッカーは優しく声を掛けると、配線の先端で彼女の胴体を縛っていく。「ここを離れよう」

 エリザベスを抱き抱えると、機材と繋がった配線を頼りに手繰り寄せていった。が、その途中に現れた虚無が配線を抉り取り、二人から地面との絆を断ち切った。


 ブッカーは端末を確認する。

「目指すべきはこの隣の部屋だ。何とかそこまで行きたい」

 後はその先で転移すれば良かった。ブッカーは白い部屋を観察すると、取り付けられた消化器に目を留める。

「エリザベス……君に頼みたいことがある」

「何?」彼女の大きな瞳が瞬いた。

「これから君を壁の元まで投げる。もし辿り着いたら、あそこにある消化器を俺のところへ投げて欲しい。噴射すれば、推進力にはなるだろう」

 エリザベスは唾を飲み込み、「ええ」と一言、頷く。

「これは賭けだ」

 いつどのタイミングで虚無が現れるかわからない。もはや偶然の導きに頼るしかなかった。


「良いかい、押すぞ」

 反動で自分自身が後方へ向かわないよう、細心の注意を払って、エリザベスを押し出す。彼女は緩やかな速度で進んでいった。祈る思いで見届けると、エリザベスは無事に壁へ到着。

 今度は消化器が虚無に取り込まれないことを祈る番だった。エリザベスが壁から取り外し、投げたそれは、角度が悪かったのか、少しずつ少しずつ離れた方へと飛んでいく。

「ごめんなさい!」と焦る彼女に、ブッカーは冷静に大丈夫だと返事した。


 配線の先端に輪を作り、消化器に向かって投げる。向こう側へと逸れたが、引っ張る間、トリガーに引っかかった。慎重に手繰ると、そこかしこに虚無が生まれていく。

 呼吸を意識して、

 集中が途切れぬよう、

 指先に力を込めた。


 消化器を手に入れると、今度は自分の無事を祈り、ノズルを取り出し、トリガーを引く。煙が噴射されるに伴って、ブッカーはゆっくりと推進した。

 今や目と鼻の先に、幾つも虚無がある。触れないよう気をつけたつもりが、爪先や肘の感覚が消えていった。エリザベスの待つ壁際まで辿り着くと、消化器を投げ捨て、大きく嘆息。

「さあ、早くここを出よう」

 隣室にポータルを作ると、足早に【廃棄された宇宙ステーション】を離れた。


 エリザベスは一人では立てなかったので、ブッカーが背負う。とても軽い。

「あれは……何だったの?」と彼女が耳に寄せて訊いた。

「虚無だ。突然現れて、世界を飲み込む。飲み込まれたらどうなるのかは知らない」

「恐らく消えてしまうのでしょうね。一つの世界が一匹のナノマシンから出来ているとしたら、霧が晴れて……いずれ仮想空間すべてが崩れ去ってしまうわ」

「だろうな」


 端末によれば、ここは【水中都市】とあった。

 木目調の図書室を抜け、通路に出ると、窓の向こうは水で満たされているのが見える。泡の揺れる中に泳ぐ魚の影。海中なのかはわからない。今は夕方なのだろう、外は緋色に染まっていた。

 ここには都市というだけあって、様々な施設がある。映画館、販売店、劇場──ガラスで出来た通路の後には、居住区画があり、どれも似たような部屋ではあったけれど、グレードによって内装や装飾に多少の差異が見受けられた。

 ここに、エリザベスの記憶は待っている。

 歩いている間、二人は一言も喋らなかった。

 伽藍堂であるためか足音がよく響く。

 それから聞こえるのは息遣いだけ。


 談話スペースを訪れると、一つの人影が壁に揺れているのがわかった。相手はこちらに背を向けて、窓より先を眺め、佇んでいる。

「待っていたわ」と、その女性は言った。振り返ると、エリザベスと同一の顔をしている。

 ブッカーの顔を見ると息を呑み、言葉を探すかのように口を開けたが、二秒ほどの沈黙。背中にいるエリザベスへと視線を移し、「よく来てくれたわね」

「どうしても知りたかったの。私は、どんな記憶を失ったのか」

「ええ。私なら、そうでしょうね。だから彼を連れて来た」

「彼を?」エリザベスは疑問の声をあげた。


「貴方、名前は?」アンネはブッカーに優しい声色で訊いた。

「ブッカーだ」と、そう素直に答える。

「そう」アンネは腕をさすり、「貴方は、あの人によく似ている」

「あの人?」

「ねえ、エリザベス」アンネは疑問には答えず、目線を逸らした。「強く忘れたいと思う事柄をこの世界に押し付け、ここに私は閉じ込められた」

 そうアンネは言って、首筋の髪を掻き上げる。

 あったのはバーコード。

 彼女は、この場所と紐付けられている。どこにも抜け出せないし、漂流することも叶わない。


「私が?」とエリザベス。「貴方をこの場所に紐付けた……」

 アンネは引きちぎられるように笑うと、

「私達が、よ。エリザベス……覚えてる? かつて私達は人間趣味の共同体に属していた。ここは、その時の集会所に似ている。いえ、似せられている。何故だか、わかる……」

「どうしてなの?」

「記憶ごと閉じ込めておくためだからよ──そのために仮想空間はある。霧はナノマシンという記憶の集合でできている。そしてここは、忘れたい痛みを隔離する場所としてある」

 人の数だけ仮想空間があるの、とアンネは言った。ここはエリザベスの精神世界であり、私こそがその象徴なのだ、と。


 だから極端な場所や、過酷な世界ばかりが存在していたのか、とブッカーは合点した。そして自分は彼らの痛みが混ざり合い、無くなってしまわないよう、修復し続けていたのだということを。


「君はずっと一人だったのか?」

 ブッカーに訊かれ、アンネは息を震わす。囁くようにそうよと頷くと、次第に涙声に変わっていった。

「貴方はとても──グレーゴルに似ている。本当に、本当に……」

「グレーゴル」エリザベスは繰り返した。

「知ってるか?」ブッカーが問う。

「いえ、何も……」

「そうか」溜め息を吐くと、天を仰いだ。「それが君の知りたいことだった。これで君の依頼は果たしたな」

「そうですね。……ええ、そうなる」

「不満足な結果かもしれないが、後は君を送り返すだけだ。この体じゃあ帰れないだろう。そろそろ、ここを出よう」

「待って」

 と言ったのは、アンネだった。

「まだ依頼は達成されていないわ」


ブッカーは息を吸い、「どういうことだ」

「どうして現実世界に留まっていたエリザベスが、貴方ブッカーを連れて、ここまでやって来たのか」と言うアンネに、

「エリザベスが俺を連れて来た……?」

 逆じゃないのか、とブッカーは首を捻る。

「あぁ、そうか!」

 エリザベスは素っ頓狂な声をあげた。しかしそれきり。何も彼女は言わない。しばらく場を静寂が包んだ。


 流石にブッカーも困惑し、「エリザベス?」と呼びかけたが、それさえ無反応。返事があったのは、呼びかけが五回目に達した時だった。

「どうして忘れていたんだろう……私と貴方アンネで考えついたことなのに」

 アンネはふふ、と笑みをこぼす。

「ここがどこなのか忘れていたようね。ここは、私達の精神世界であると共に、グレーゴルの記憶を宿したナノマシンの中でもあるのよ」

「そう、そうでした」

「だから私と貴方で、彼を元に戻す計画を立てた。そうでしょ?」


「元に……」蚊帳の外に居たブッカーは、唐突に何か思い出しそうになった。

 検閲された記憶が、蘇ろうとしている。

 それは遠い過去のこと。

 もう何世紀も前になる。


「グレーゴルの魂には、他者の記憶──つまり不純物がたくさん混じっていた。ブッカーがやったのは、それら別の記憶と選別し、元に戻すこと。記憶という荷物を、別世界に送り届けること」

 そうしてかつての自分に戻っていく。

 どうして忘れていたのだろう、と耳元でエリザベスは唸っている。


 額に脂汗が滲み、どこか懐かしい顔が思い出された。しかし誰だったか、名前は知っているというのに、それらが繋がらない。


「ブッカーはグレーゴルを綺麗にするためのプログラム。私達がブッカーに命令したのはそれだけ。他者の荷物を整理すること、そして、それらが完了したら私に会いに来ること」


「オブライエン、ストーニイ、──アンネ」と、ブッカーはそれら顔の名前を言った。「そうだ、それだ。それが僕の見た人達」


 アンネは目を見開き、大粒の涙を溜めた。涙腺が緩み、頬を涙が伝う。

「そして、エリザベス私自身アンネの元へ。そうすれば彼はかつてのナノマシンと同期して、本当の自分を──思い出す」


 グレーゴルはブッカーという名の男の夢から目覚めたような気分だった。

「僕はまた眠っていたのかい、アンネ」思わず苦笑して、再び天を仰ぐ。「全く……苦労をかけてばかりだ」

「良かった……」

 アンネは膝からくずおれて、絞り出すように歓喜した。

 グレーゴルはこうしてもう一度最愛の女性と巡り会った。


 ただ、懸念事項はエリザベスのこと。グレーゴルはもはや配達員ではない。記憶や経験を失ったわけではないが、もう二度とアンネの元を離れるつもりはなかった。

 しかし、アンネ達は元よりそのことも織り込み済みだったらしい。グレーゴルからバーコードを読み取ると、端末からもう一人のグレーゴルが現れた。

 否、彼はブッカーである。


「最悪の気分だ」と寝覚めの悪さに愚痴をこぼし、彼は復活した。「説明は良いよ。今起きたことは覚えてる。それじゃあ……帰ろう、エリザベス」


 来た道を引き返していく。途中、エリザベスはブッカーが端末を持っていないことに気がついた。どこかに置いて来たのではないかと指摘すると、あんなものは要らん、とブッカーは無愛想に返す。

「来た道は幾つか飲み込まれたからな」

 虚無によって帰り道は省略され、行きよりも楽になっているはずだった。

 【緑の檻グリーンハウス】で階段を駆け降りる最中、何故かは知らないが、途端にエリザベスは笑い出したので、ブッカーは目を剥いた。

「どうしたんだ」と訊けば、

「ブッカー、貴方端末をわざと置いて来たのね?」

「さあな」

 そんな他愛もないことがありつつ、二人は現実の世界──【廃棄ビル屋上】へと無事戻ったのだった。


 アンドロイドの体を借りて目覚めたブッカーは、やはりその寝覚めの悪さに辟易した。目蓋を開ければ、もう、霧も薄れている。

「束の間の永遠も、これで終わりですね」隣で目が覚めたらしいエリザベスが、そう呟いた。

「それじゃあ永遠じゃないだろう」

「それは確かに。じゃあ半永遠と言うべきでしょうか」

「矛盾が増えたぞ」

「でも、命ってそういうふうに思いませんか。ただ長く感じられるだけで、実際には誰だって、自分がいつ死ぬかもわからない。それなのに、永遠に感じられるものです」

「酸素が無くなるってわけじゃないんだ。霧が晴れても、少しは生き延びられるんだろう?」

 ブッカーの質問に、恐らく大丈夫でしょう、とエリザベスが答えた。

「ただ怪我が治らなくて、電力も減るし、寿命が尽きるくらいでしょう。あ、それと今はアンドロイドなんです。酸素なんてなくても生きていけますよ」

「そりゃ良いや」ブッカーは健やかに笑った。「後でこの街を案内してくれないか。面白そうだ」

「良いですよ」釣られてエリザベスも笑う。

 空からは朝日が差し込んでいた。

 夜の夢は、こうして静かに終わりを告げた。


 ◯


「ブッカーがこんなものを置いていった」と、グレーゴルは、アンネに端末を持って見せる。「どういうことか、わかるかい」

 彼女は首を振った。グレーゴルははにかむと、

「ずっと考えていたんだ。僕がブッカーだった時、どうして作られてから生まれるまでの一瞬の間に、長いこと生きられたのか……沢山の荷物を配送できたのか?」

「それはどうして?」

「この世界と現実に、今僕は二人いるね」

貴方グレーゴルとブッカーね。……まさか!」アンネは驚きに手を震わせた。「並行世界の数だけブッカーが存在したということ?」

「もっと言えば、ブッカー自身の中に複数の世界があったというべきだと思う。時間軸は縦じゃなく、横に動いていたんだ。一日目の世界と二日目の世界、それから一年目の世界や十年目の世界とが、並列していたようにね」

「彼は人生を──過去と未来を同時に経験したのね」

「そう。しかも、それぞれの日々は同期され、記憶を共有していたんだろうね。だからブッカーという一個人は虚無に飲まれることなく形成された」グレーゴルは端末に目を落とし、「それで彼はこれを僕に託してくれた……世界を虚無が覆う前に、僕らの中に並行未来を作れるように」

 アンネはグレーゴルに頷きかけ、手を重ねた。

「半永遠に一緒ね」

「半永遠か──そうだね。僕らはそれだけの時間を彼らから貰ったんだ」

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霧の街にて 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

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