#2 Nocturne

 立ち込める霧に手を伸ばし、指先に煙草を掴んだ。宙空そらから生まれたそれを口に咥えると、勝手に火が付き、紫煙がくゆる。

 JBは相手が建物から出てくるのを待っていた。この間の喫煙タイムは、これから起こるかもしれない可能性に対する準備でもある。即ちバックアップだ。

 霧は、人間がそうであるように、ごくごく小さなナノマシンから出来ている。霧から生まれたこの煙草も、そして吸い口から噴き出す煙もまた、ナノマシンなのだ。肺の中にナノマシンを溜め込んでいると、男が一人、ビルから姿を現した。


 真名は知らない。知っているのは、JBと同じく暗号名だけ。彼の名はQ。自分と同じ統制機構の捜査官だった。だが今は少しばかり事情が異なるらしい。


「彼は銘記されたようだ」と言ったのは、直属の上司であるMという男。彼もまた、真名は知らない。

 どこにでもあるようなオフィスを模したこの部屋は、あらゆる盗撮・盗聴、考えられる様々な墓暴き的行いに対するセキュリティ装置が施された秘密の部屋だ。

 それもそうだろう。

 何故ならここは、JBのの脳内──意識上からアクセスされた、仮想の空間なのだから。今やここ、通称〝記憶の部屋オンライン・サーバー〟も、現実空間の延長線上に存在している。完全なるプライベートルームならば、脳の中にしか存在し得ない。だからこうして、私的な集まりにはここを使う。

 Mはデスク越しにJBを見据えて微笑した。だから少しばかり構えてしまう。彼が微笑むのは、問題が面倒な時だけ。つまり厄介ごとを押し付けようとする交渉スマイルだ。


Qは自らをグレーゴルと名乗っているようだ。調べてみたが、それは真名ではない」

「真名を知らしめるような真似だけはしないでしょう」

 真名とは個人を特定する一つの情報だ。一流のハッカーになると、名前一つでナノマシンに刻まれた記憶ファイルを自由にできるとのこと。だから我々のような秘匿を第一とする人種は、誰にも知られてはならない。知られてしまえば情報が奪われてしまう。

 今や記憶が意味するのは魂一つではなく、情報としての武器、道具をも意味していた。

「もっとも、これが彼なりの戦略──任務中、相手に隙を見せるための方便という可能性を除きますがね」JBは冗談めいた口調で言う。

「私もそれを願いたいよ」Mは微笑を貼り付けたまま、「だが、彼は何ら任務にも就いていない。もちろん、それまでの行いに対するアフターケアとしても意味が成立しない。あらゆる意味において無意味なんだ」


 だからまずは、彼の身に何があったのかを調べて来て欲しい。どうしてこんなことをするのか、これから何を果たすつもりなのかを……。


 Mと別れた後になって、〝例えば〟をJBは思いついた。

 人類は今や、容貌を──統制機構捜査官は、種族を超えて姿形を──自由に変えられるのだから、複数人が同じ一人Qを演じている可能性もあるのではないか。その理由は思い当たらない。単なる想像だ。けれど、面白い可能性であるとJBは思う。

 即ち、今回のことは、演者の一人がボロを出しただけのこと。演者の名がグレーゴルだったのかもしれない。

 

 JBは男を注視すると、相手の身体情報と接続コネクト、彼が統制機構捜査官であると確認した。登録名はQ。彼に間違いない。Qは黒の外套を揺らしながら、彷徨うように歩いていく。その背後から、一定の距離を保ちつつ、追いかけた。

 グレーゴルの名はどこから来たのだろう。何者で、どこへ行くのだろうか? JBはそんなことを考えながら、未来を予想する。

 Qの人物像プロファイルは頭に入っていた。

 常に冷静で、非感情的。論理を重んじ、人情や心理を犠牲にしやすい。職人気質かたぎ、機械的、完璧主義。その他趣味嗜好、思考パターン、過去の実績、経歴、機械化以前(つまり人間だった頃)の同情報も仕入れている。

 ここから分析し、行動を予測しつつ観察してみたが、どうもその範疇を超えていった。


 今、目の前を歩くのは全く知らない人物だ。

 あらゆる推測とかけ離れた人格を持った存在。

 人物像のことは忘れ、見えていることを基に、予測し直す。Q──それともグレーゴルと言うべきか──の新たな性格分析によると、

 不安症。臆病で慎重。狡猾。すべての可能性に脅威を感じる。優柔不断なために結論を出せず、行動にもまとまりがない。……何かしらの心理的外傷トラウマがある?


 以上、得た人物像を頭の中で試運転はしらせると、次の行動が容易に理解できるようになった。JBはこう結論する。

 相手はこちらの尾行に気づいている。

 気づいた上でどこかへと誘導しようとしている。


 JBは小さく溜め息を吐いた。細胞ナノマシンの一部を切り離し、いつでも目覚められるように、複製バックアップを残しておく。と、肺の中に溜まった煙が、その部分を修復した。

 煙草を吸い続ける。肺が満たされると、空へ投げ捨てた。霧と交わると輪郭を溶かし、そのまま消失。代わりに拳銃を一丁、手に入れる。

 Qは路地裏へと駆け込んでいった。

 JBもまた追いかける。


 扉の閉まる音。

 Qが入ったのは、マンションの一室だった。入ってみると、空き家だったのか、部屋の中は何も置かれていない。殺風景な室内に一人、Qが片手を挙げる。挨拶のためではない。

 手には拳銃。

 一瞬のうちに、霧から作成したようだ。

  挨拶には挨拶を。

 二つの乾いた破裂音とともに、胸元に衝撃が走る。

 JBは後方に倒れ込み、Qを見上げる形になった。


 と、Qもまた胸部には風穴が空いている。もたれる形で窓から外へ身を乗り出し、宙に浮いたかと思えば、指先からは蛍がそれぞれの帰路へと着くかのように別れては消え、霞と共に薄れていった。やがて全身は塵となってばら撒かれ、霧と一体化する。

 跳躍ジャンプだ。

 彼は瞬間的に別の場所へと転移テレポートした。

 胸元に空いた風穴を、肺に溜まった煙が補填する。立ち上がると、ふうと一息。窓から飛び降りた。

 どこへ向かったのか探るため、JBは右腕を空に掲げると、分離させる。右腕は即座に鷹となって空を飛び、地上へと鋭い眼差しを向けた。目を瞑ると、共有されてくる視界を元に、Qの姿を探す。

 問題なのは、相手の姿が変わっているかもしれないこと。職務上の技能として、幾らでも変身できるから、見た目で判断してはならない。目に映る全ての人々から身体情報を読み取り、取捨選択していく。

 見つけたのは、甲虫となって四方に分かれていく場面だった。


 JBは小さく舌打ちすると、どうすべきか、思案する。と、鷹の目に一人の女が手を振っているのが見えた。認識名:県多アガタ・クリスティ。本名だろうか? わからない。

 彼女は跳躍テレポートしてビルの屋上へと立つと、

「捕まえるの、手伝ってあげようか?」

 そう言うなり、肉体が溶けて零れ落ちていく。返答する間もなかった。JBは鷹を切り離し、虚空から右腕を再構成すると、彼女の居た場所へ転移。


 霧の中に、微かな動きが感じられる。

 アガタという名前が波のように広がり、風のように揺れていった。そのうち、走り行くQを一匹、また一匹と拾い上げていく。濃霧の中に訪れた混沌に眩んだのか、Qは大人しくなすがままにされていた。

 アガタは吹き上げる突風となり、ビルの屋上、JBの元へ。七匹の甲虫は、木枯らしの渦に回されている。風がたなびいたと思えば、人間の輪郭となって女が立ち現れた。アガタは悪戯っぽく笑みを浮かべると、

「今度は逃がさないでね」と言って、小さく舌を出す。


 JBは無言のまま、内ポケットから小さなカプセルを取り出した。これを目を回している虫たちに投げ込むと、一瞬にして彼らは統合され、分解。カプセルにナノマシンの一部を残して、霧になった。


「君が何者かは知らないし、知るつもりもないが……ご協力感謝する」JBはにこりともせずに言う。

「そう」つまらなそうにアガタは首を傾け、「じゃあ、また。後で会いましょうね」

 地上を背に、後ろから倒れ込むように落下した。

 ビルの屋上から見下ろしてみれば、彼女はもう、どこにも居ない。

「また後で……か。それは光栄だ」JBは誰にともなく呟いた。


 カプセルを手に、Mの部屋に向かう。ただ目を閉じるのではなく、実際に会うのだ。

 開け放たれたままの廃棄された工場に足を踏み入れ、その深奥まで突き進む。壁の前に立つと、JBを認識したナノマシン達が、壁からその姿を露わにし、地下へ続く階段を作った。

 薄暗い中降りていくと、目の前には見慣れた扉。この秘密結社じみた在り方には苦笑を禁じ得ない。ただでさえ濃い霧が街を隠しているのに、これ以上、何から身を隠そうと言うのだろう?


 コンコン、と音を立ててノックすれば、返事を受けて、入室する。中は外界から遮断されたような、孤独感が身体を包み込んだ。

「セキュリティだよ。霧との接続を切り離したんだ」

 困惑するJBに対して、Mは喜びとも悲しみともつかない曖昧な笑みを浮かべて言う。

「座ってくれ」

 そう促され、JBは椅子に腰掛けた。

 カプセルを手渡すと、目を走査はしらせたMは結果を曰く、

「Qは身体情報を上書きされている」

 真名は消され、代わりに別の個性を銘記されていたとのこと。このことから、Qは本当の意味でグレーゴルなる人物に成り代わっていたわけになる。

「何者かがこれをやったとして、その目的はなんでしょう」と、JBは訊ねた。

「何を言おうと、全て可能性の域を出ない。仮説よりも事実だ。それに──」

 これから言わんとすることを理解して、JBはうんざりとした気持ちになる。任務は恙なく達成した。しかし、

「こんなことがあってはならない」と、Mは言う。

 確かに民間人を巻き込んだだけならず、助けられるというのは反省点。しかも、どこかで情報が漏れている。これはこれは、控えめに言っても大問題と言えよう。


「アガタ・クリスティは、どこか機関の密偵スパイかテロリストである可能性がある」

 と語るので、JBは笑いを噛み殺した。先ほど、仮説より事実だと言っていたのは誰だったか? 

 とは言え頭を切り替える。

 アガタの正体──それは、見知らぬ同僚ということでもないらしい。ならばどうやって姿を変化させたのだろう。

「何者なんでしょう?」と訊けば、

「さあ、ね。アガタなる人物はどこにも登録されていない。そもそもそんな人物は存在しない」

「個性を銘記された……」即ち、架空の人物キャラクターなのか。

「そう。彼女もその可能性がある」

「狙いは?」

「情報だよ。私も君も、何もかもが霧が生んだ情報なのだからね」

 やけになっておられる。

 JBは肩を竦めてみせた。

「少々、悲観的になられていますね。Qの捕獲は完了しました。彼女──アガタが協力してくれたことを思えば、今のところ敵対する意思はないように思いますが」

「君は少し楽観的過ぎるな」Mは鼻息を漏らして、「次の指令だが、アガタのことを洗ってくれ。どこから情報が漏れたのか、何が目的なのか……」

 JBは鷹揚に頷いた。「了解しました、M」


 目蓋を開ければ、現実が待っている。通りを覆う霧によって、向かい側は視界不良。これでは通り行く人々とぶつかってしまいそうなものだが、そうはならないのだから、とても不思議だ。これも、自然と身についたものなのだろう。文化的素養とでも言うものか。

 JBは意味もなく煙草をふかす。

 アガタはまた会おうと告げた。別れたその場所に向かえば、きっとまた、会えるだろう。

 煙草を捨てると、跳躍した。


「来たね」

 アガタは手すりに頬杖を突いて、街を見下ろしていた。彼女の目には何が見えるのだろう。少なくとも、JBには白一色に秘匿されて見えた。

 アガタは振り返るなり、笑顔を作ってJBを見上げる。JBは目を細め、見つめ返した。

「見事な手際だった」

「そりゃどうも」興味を失くした様子で、アガタは再度、街を見下ろす。

「どうして私が彼を追跡していると知っていた?」

「観察していればわかるよ。〝ああ、追いかけているな〟ってことくらいは。それだけ派手だったものね」

「それで手伝った? 理由わけを知りもせずに」

「そうだね。確かに、早計だったかも」アガタはこちらに顔を向け、口角を持ち上げた。「……あんた、良く見りゃ強面だし、追いかけられてた彼──末路は悲惨だったし」

 怯えるような台詞に対して、その口振りはどこか面白がっているように見え、あべこべに感じられる。そう思うのは、彼女が人格を銘記されていて、心身が乖離しているのだと、そんな先入観のせいだろう。

「君は何者だ?」JBは単刀直入に訊いた。

 アガタが息を漏らす。恐らく、笑ったのだろう。

「あたしのことが気になる? なら、おいで。うちに案内してあげる」


 そこは壊れたナノマシンを寄せ集めて作られた、一軒の家だった。壁や家具、座るようにと指し示されたソファでさえも──あらゆる物が廃棄されるべきナノマシンで出来上がっている。これを、〝記憶の棺桶〟とアガタは呼んでいるらしい。

「あたしがかつて捨てた過去たち──その成れの果てに住んでいるなんて、素敵だと思わない?」

 JBにその感覚はなかったが、曖昧にも同意と受け取れる頷きを示した。


 一歩足を運ぶたびに、彼女の記憶がホログラムとなって立ち上る。アガタの一人は、横たわっている他のアンドロイドと臍の緒で繋がり、相手の精神状態を文字に起こし、確認していた。彼は心理状態に問題を抱えており、著しい身体障がいを引き起こしている。アガタは、これの治療のために、心理療法を行なっていた。

 また別のアガタが記憶となって流入されてくる。彼女は、宙空に浮かぶ文字列を操作して、プログラムを形成していた。それを一目で作り物とわかる程には拙い、或いはデザインされた人形に銘記する。瞬間、人形は魂を得たように動き出し、喜びをその動きで表現した。

 成る程、ここは彼女も思い出せない過去の彼女と邂逅できる場所──黄泉の世界なのだ。

 ホログラムを見据えながら、アガタは言う。


「あたしは元々、ソフトウェア技師だった。それが今や機械心理士──つまり、アンドロイド専門の精神科医ね」

 いわばゴーレムに生命を吹き込む仕事を、かつてはしていたのよ。もう、覚えていないけれど──アガタは他人事のようにそう語る。

「アガタ──それはアンドロイドであり、人間の亜種を示す亜型でもある」

「それは君の真名かい?」

 JBの質問にアガタはくすくすと笑い、

「まさか」かぶりを振って否定した。「これは会社名から取ったの。自分の真名なんか、誰も覚えてやしない」

「覚えていない?」

「そ。誰だってそうだよ。あんたは? 思い出せる?」

「いや。職務上、私は真名を取り上げられている。だから好きな時に参照することはできない」

「ふうん?」彼女の声色は、可笑しいと言わんばかりだった。「ってことは、警察? それとも軍人さん?」

 答える代わりに、JBは眉を上げて見せる。

 アガタは片目を瞑り、「怒らせた? でもね、あんたの言うその理由は真実じゃない。本当のところはね──あたしらはあまりに長いこと生きてきたせいで、霧の記憶容量が一杯になった。だから新たな記憶は古い記憶を上書きして保存するしかなくて、結局過去のことは、誰も、何も思い出せなくなったってわけ」

 まるで前向性健忘症のように。

 JBは改めて室内を観察した。

 ここは確かに廃棄すてられるべきだった、消されるべきだった記憶の寄せ集めと言える。しかし、もはや思い出せない、見知らぬ過去となった彼女自身さえも、上書きされた新しい彼女。原典オリジナルとは言えない。


「ただ……それにも別の真実があるみたいなんだよね」アガタはにっこりと笑って、「誰かが全人類の記憶を上書きしたんだって」

「陰謀論だ」JBは顔を顰める。

「そうかな? そう教えてくれた男と知り合いなんだけど……これから、話を聞きにいかない?」

 それが自分とどう関係あるのだろう。例えば、これはアガタからの密告なのだろうか。彼がやりました、という。

「彼はどこに?」確保すべきなら、相応の準備を済ませなくてはいけない。


「図書館の地下」と、彼女は言う。「元々、秘密会議を行う場所だったの。……数世紀前まではね」

 指定された場所である図書館前まで跳躍すると、入り口を開けて、彼女を先導させた。JBはアガタの話を聞きながら、後をついていく。

 図書館の図面なら、道中にて参照してみたが、地下らしきものは存在しなかった。見当たらない以上、勝手に増築したのだろう。

「集まったのはどんな奴らだったんだ?」JBは訊いた。

 アガタは本棚から一冊、本を取り出すところだった。かちり、という音を立てて、本棚が動く。アガタはJBをちらと横目に、本棚を引っ張った。その奥には階段が下へと続いている。まるで記憶の部屋と同じように見えた。


「人間としての心を持っていた、種族同一性障がい者たちよ。彼らは自分たちを〝人間擬き〟と呼んでいた」

人間擬きアンドロイドか」JBは繰り返す。

 二人は階段を降りながら、どこまで続くものか、光も通らぬ仄暗い底へと足を運んでいく。

「そう。彼らにとって、人間の心を保つことはとても重要だった。アンドロイドの体は、全てが制御されているでしょう──呼吸や血液の循環も、人間にとっては無意識の領分だったものは、どれも意識的に行わなければならなくなった」

「それが普通だろう」

 JBは事も無げに言った。細胞の一つひとつを把握し、どれがどのように働いているのかを管理する。そうすることで、あらゆるエラーを自力で対処できるわけだ。

 それを踏まえると、

「むしろ、人間の体こそ不便じゃないか。意識的に全体を把握できないから、病が遅れて見つかったりするという。そんなことは考えられない」

「ええ。それには同意する」アガタは首を傾げるように頷き、「でもね、人間の体に慣れてしまった意識にとって、アンドロイドの体は違和感を覚えるものだった。というより、重労働だったのよ。今までは日常生活を送るのに、ただ手足を動かしていただけだったのが、内臓やら神経なんかも機能させなきゃいけなくなったからね」

「だがそれも昔のことだろう。いずれ人は慣れるものだ」

「確かに、それが大半だった。適応して、アンドロイドとして心が生まれ変わった人も居る」

 それは過剰適応だったかもしれないけど、とアガタは付け加える。


 階段を降りた先は、広間になっていた。そこにも本棚が幾つか、壁沿いに置かれており、脇にはベンチも並べられている。その一つに、何者かが座っていた。彼は本を熱心に読んでいて、JBたちの気配に気づいているのかいないのか、こちらには全く目をくれる様子もない。

 アガタはここを集会所だった場所と称したが、今や読書スペースにも、談話スペースにも見える。ただ、上の階では案内されていなかったため、一部の者のみが知っている、または入れる場所となっているのかもしれない。

 階段から見て前方にはステップが一つ置かれていた。恐らく集会が行われていた跡だろう。その上に立って、演説をしていたのかもしれない。


「適応した人たちは地上で暮らした」アガタは本棚の前で、JBへと振り返った。「けれど、適応出来なかった人も居た」

「その通り」と言ったのは、ベンチに座っていた男。彼は本を閉じると、首を回してJBを見やる。「そうした人々は皆、ここに集まり、別の在り方を模索した」

 立ち上がると、男は自らをストーニイだと名乗った。

「かつての集会に参加していた者だ。もっとも、今は開かれていないがね」

「別の在り方と言ったが、それは一体どういうものだったんだ」JBは腕を組み、二人を見つめる。

 アガタは口をつぐみ、ストーニイへと視線を向けた。彼は首を縦に振り、

「霧から独立しようとしたんだ。霧は常に体の状態を一定に保とうとする。もちろんそれは、人間意識──即ち精神にまで干渉する。心もまたナノマシンだからな……。だがその影響が及ぶ範囲は外部だけ。屋内にまでは入ってこない」


 JBは首肯して先を促す。ストーニイは口を開いてから、言葉を吟味するように数秒ほど沈黙し、それから遅れて紡いだ。

「ここは実感するのにうってつけの場所だった。まずどうしてアンドロイドの社会に人間意識が芽生えたのかを調べた。……すると、簡単な話であることがわかった。元々、人間は〝とある何か〟によって機械の身になる必要があった。だが問題が──」

「さっき言った、重労働よ」アガタが横から口を挟む。

 ストーニイは人差し指を伸ばして、「そう、それが問題として立ち上がった。だから一度、人間意識を記憶したナノマシンを封印し、代わりに人間の暮らしを模倣した、この体に相応しい精神を記憶させたナノマシンと交換したらしいのだよ」

 人間とアンドロイド用に構築プログラムされた記憶を入れ替える。アガタ曰く、

「それはあたし達がやったみたいね。記憶の棺桶に残されていたわ。全然覚えてないけれどね」

「簡単に言うが、それは可能だったのか?」JBは訝しんだ。

「ああ、簡単だとも。ナノマシンへアンドロイド意識を記憶させるのは屋内で行われた。これを霧と干渉しないよう、カプセルに包む。そうしてこれを──霧の発生装置というものがあるんだが、その中身と変えてしまえば良い」

「成る程。そうして、人間からアンドロイドの社会に変わったわけだ」

「話が早くて助かるよ」


 だが、その後に人間意識が芽生えた。それは何故だろうか。先ほどの工程を経なければ、普通、精神の入れ替わりは起きない。

 JBは考えた末に、

「ある一定の期間が経過したら、また同じ工程を再現するよう、アンドロイドに刷り込んでいたのか?」という仮説を生み出した。

 が、ストーニイは口を綻ばせて、首を横に振る。

「そうじゃない。もっとシンプルな理由だよ。つまり、一部の者は、そのまま人間意識を保って暮らしていたんだ」

 例えば私がそうだったらしい、と他人事のようにストーニイは言う。


「もう長いこと生き続けたせいで、記憶も何度か入れ替わっている。だから詳しいことは、自分自身覚えていないんだが──私の役目は、アンドロイドから人間へと、意識をもう一度切り替えるのとにあった。アンドロイドが体を自在に動かしていることや、社会が安定したと見ると、あの工程を経て、交換しようとしたんだな。

 もちろん、そう上手くはいかない。何度か失敗したようだ。記憶の欠落は、その時から生じている。お陰で私に当事者としての意識は無いんだよ」

 はっはっは、と彼は乾いた笑い声とともに、寂しそうな表情を作ってみせる。


 JBは困惑した。

「それで……結局のところ、それは成功したのか?」

「成功したし、失敗してもいた」と、ストーニイ。「まず、人間意識へと切り替えるためには、アンドロイド意識にある、〝この体への慣れ〟を記憶として手に入れる必要があった。このために、アンドロイドから一匹ほどナノマシンを手に入れて、人間意識を記憶したナノマシンの群れに放り込み、混ぜ合わブレンドしたんだ」

「不定形の状態──要するに人や物として個性を確立していなくて、霧のままの状態──では、混ぜ合わずに記憶を補正してしまうの」と、アガタが補足を入れる。


 霧は常に一定を保とうとする性質がある。これは、細胞を入れ替えることで古くなったナノマシンを捨て、健康を維持していくためだ。けれどもこの時、前の細胞が持っていた記憶を引き継がなければ、他者と魂が混同してしまう。

 これを避けるべく、記憶は同一性を保持するわけだ。


 しかしこれは、霧としてナノマシンが群生している場合に限る。屋内にあって、ナノマシン同士の接続が切られている場合、記憶の補完は不完全となるのだ。これは、新たな経験を記憶する方を優先するからで、古い記憶は忘却されていく。

 ストーニイはこの仕組みを利用したのだろう。

 アンドロイドの体を制御する、その術を機能として人間意識に上書きしたわけだ。手動的な進化と言って良い。

 ストーニイはこの点について、成功したと言う。


「だが、統制機構によって、この行いは社会に対する反逆だと見做された。まあ、それも順当なところだろう。記憶と言えば、もはや我々にとっては魂に近い。私は魂に手を入れたわけだからな……」

「でもアンドロイド意識だって、あたしの手によるものだけど」アガタが茶々を入れたので、

「まあそれはそれ、だ」ストーニイは息を漏らすように笑う。「少なくとも彼らはそのように考えなかった。何度も妨害を行ったせいで、こちらは不完全な上書きしか出来なかったんだ」


「不完全な上書き?」不穏な響きに、JBは眉を顰めた。

「その反応から察するに、まだ何が起きているのか、わかっていないようだ」

 ストーニイは重い溜め息を吐くと、アガタに目を配る。彼女は仕方なさそうに二、三回頷くと、

「この点については、話すよりも見てもらった方が早い。じゃ、ついてきて」

 言うが早いか、アガタはさっさと階段を上っていった。呆気に取られて、JBはストーニイを見ると、彼は疲れたような穏やかな笑みを浮かべると、

「急いだ方が良い。彼女に置いてかれるぞ」

 悲しみを瞳にたたえてそう言った。


 向かった場所は中央広場と呼ばれる場所エリア

 そこでは皆が皆、自由奔放に振る舞っている。まるで夜の墓場の髑髏しゃれこうべのように見えるのは、そのどれもが楽しそうにしていながら、生きた心地を味わっている、そんな雰囲気が見出せないせいだろう。

「ここなら観察にうってつけね」とアガタはベンチに座り、JBに隣を指し示した。

 JBは腰を掛けて適当に目を散らす。

「どこも不可思議な様子は見当たらないが」

 アガタはくすっとして、「一目でわかるようなものじゃないもの」


 それら現象について詳しく観察するために、「一日で区切るべき」とアガタは言う。「霧の中じゃ、昔で言うところの朝も夜もないから、二十時間を一日と定義してみて」

 その通りの定義によって、約七日間ほど、JBは観察に費やした。


 個性を銘記された人々がどうなったのかと言えば、それは一見しただけでは分かりにくい。外の様子を眺めてみれば、霧の中とは言え、普通の暮らしが広がっているように思われる。

 ただしそれも、繰り返し繰り返されていく日常の中に溶け込めるほどの普通ではなかったらしい。違和感は徐々に、しかし確かに、JBの中にも芽生え始めた。


 現象には二つの工程が存在した。

 実行と停止、である。


 例えば一人の暮らしを追ってみるとわかりやすい。


 とある中年の女は、朝(これはカウントを開始して六時間半ほどを指す)に広場を訪れると、他の客と一緒になって歌い踊った。これが昼まで続く。それから予定を思い出したように広場を去り、道路を渡った先で立ち止まった。

 それ以来、その日は二度と動かなかった。翌朝となってようやく、広場に戻ったのである。


 別の一人に目を向けてみる──例えば彼は、朝から広場で寝ていて、騒がしい歌で目を覚ました。起き上がると、「うるさいぞ」と叫び、不快そうな表情で広場を出ていく。その後、夜時間になってようやく帰ってくると、また同じ場所で眠りについた。

 これら行動は、この日のみならず、連日続いている。問題なのは、それが単なるルーティンワークではないということ。彼の一挙手一投足は、前日と寸分違わず同じで、力学的演算によると、彼は毎日同じ座標上を移動していることが明らかになった。


 観察を続けて三日目までは、不死の世界における、混沌極まりない暮らしに見えたこの風景も、四日、五日と経つうち、不気味なループによって日常が繰り返されていることに気が付かずにはいられなくなっていた。

 その上、一部の人々は、一定の行動を取るとそれ以上動こうとはしなくなる。夜明けと共に元の位置に戻り、次の日のために備えるのだが、その顔つきや態度には意識があるようには見えなかった。

 そう、言うなればここは、夢遊病患者たちで溢れている。


「覚めない夢を見ているみたいだ」JBは思わず身震いした。「私は……もしかして、私もそうなのか……?」

「以前までは、ね。あんたも彼らと同じようなもんだったよ。毎日毎日、飽きずに同じ男を追いかけていた。あんたを見ているうちに、目的がわかるようになってきたんだ」

「何が起きている……?」深く息を吐いて、隣の女に顔を向ける。

「これが、個性を不完全に銘記したことによる副作用だね。つまりさ、皆には目的が与えられたわけ。それを実行しようとするんだけど、融通が効かないせいで、上手くいかない。すると自己矛盾パラドクスに陥って、何もかもを放り投げて、明日を待つってわけ」

「ああ……そこまではわかった。だがどういう理屈で、個性を銘記したらこうなるんだ?」

 呟きは半ば独り言に近いものだったが、アガタは既に仮説を抱いているらしい。というよりも、その瞳からは答えに限りなく近いだろうという確信めいたものを感じた。


「他者を認識できてないんだよ」アガタは乾いた、暗い笑みをこぼす。「一度、どんな心理が働いているのか、調べてみたんだ。ナノマシンを一匹捕まえて、テストさせてね。すると答えは単純だった。それぞれの意識は独立していて、互いに関わることはない。他者を尊重しないどころか、存在していることさえ、記憶できていない……」


「記憶か」

 その言葉によって、JBは自分なりの理解を得た。


 個性とは、その者の指向ベクトルを定めるものなのだろう。何者かであるということは、位置付けられた座標上を歩まざるを得ないようなものだ。

 記憶はそんな個性で満たされ、未来や周囲のことまでは新たに覚えられない。

 人々に上書きされた個性は、その者の目的を定義付けるものだった。だからこそ独善的になってしまう。否、自分一人で完成してしまうのだ。

 結果として、一人ひとりがそのように振る舞うことで、見かけ上は社会が動いているように見えたとしても。

 社会ではない。社会とは言えない。

 これは、個々人の寄せ集めでしかない。


「人間意識を植え付けた弊害が、まさかこんな形で出るとは、彼も思っていなかったみたいね」

 言われて、JBはストーニイを思い出す。

 アガタはどういうわけか、首を振った。

 それから、溜め息。

 二秒ほどの沈黙。

 世界は依然として無意味な連続をなし、そして停滞する。


「私はQを捕まえたことでこの輪廻から解放されたのか」と訊くと、アガタはそういうことでしょうね、と返答した。

「目的が消えた時、その人の精神は真っ新ニュートラルになる。記憶にも余裕ができて、やっと普通の暮らしができる──多分、そういうことね」

「なら、全員の目的を果たせば、夢から覚めるわけだ」

「理論上はね」


 と、不意に心の中でドアがノックされたので、JBは目を瞑る。夢を思い描くように、思考された部屋に入ると、椅子に座ったMがJBに笑いかけた。

「掛けたまえ」と彼は椅子を指差して、「君のお陰で、ようやく起きていることの合点がいった」

 これまでずっと、ループする日々を観察していたからね、とM。

「ありがとう。後は私に任せなさい」

「任せるとはどう言うことでしょう?」JBは眉根を寄せる。

「ここで休んでいなさい、ということだ。今度は君の代わりに私がこの体を動かす。だから──この名前も交換しよう、今度は君が独白Mだ。そして私は体だけJust Body

 そう言うなり、彼は行ってしまった。

 私は、扉から先へ行くことを許されず、この部屋に閉じ込められたらしい。


 何度もドアをノックしたが、彼は返事をしない。

 私は記憶であり、そして、独白となった。

 彼はそれを手放し、体の操縦権を手に入れた。

 私に出来るのは、自分のことを語るのではなく、彼のこと──もっと言えば、この肉体が何をするのか、それを再認識することだけ……。


 彼は──元MであったJBは──目を開けると、アガタにこう提案した。

「しかし解決するのにもう一つの方法がある。それは、この霧を晴らしてしまうことだ」と。

 駄目だ!

 やめろ!

 JBは穏やかに微笑して、アガタを見据える。彼女は驚きの目で、こちらの顔を覗き込むように見つめ返した。やがて小さく首肯し、


「確かにそう言うやり方もある。でも、どうして?」

「淀みは穢れだからだ」JBは目を細めて何もない空を見た。「果たして全員を目覚めさせることができたとして、それで何になる? 人間意識、アンドロイドの精神。いずれにせよ、それは過去の模倣に過ぎない。永遠は単なる停滞、淀みでしかなく──いずれまた別の破綻を生み出すはずだ」

「例えば?」

「混沌だ」JBは足を組み、「耐えまぬ争いや、不死という肉体が生み出す不浄の倫理観、エトセトラ」

「時代が移り変わるんだから、そうなるかもね。でもその後には揺り戻しがある」

「つまり平和な時代が来ると?」

「そうよ」アガタは強く頷いた。

「たとえそれが今とそう変わらない、繰り返し、繰り返し、繰り返される日々であっても?」

「そうよ」彼女はもう一度、肯定する。

「いずれ退屈が支配し、自ら意識を捨て去ることになっても、かい?」

「え?」アガタの目が瞬いた。

「〝忘却の時代〟があったんだよ。ストーニイは、人間が肉体を作り変え、アンドロイドに意識を明け渡し、それから人間の心を上書きした──と言っていたがね。実際には、もっと前から機械の体で生きた時期があったんだ……これこそもう何度繰り返されたかわからないほどに」

「そんなの……記録になかったわ」

「そりゃあそうだ。誰も記憶していない。退屈とともに誰もが忘れようと努めたのだからね。もっとも、私でさえ断片的にしか覚えていないが」


 アガタは呼吸を止めて、数秒。

「あんた誰なの?」

 怯えた顔で訊ねた。JBは思わずといった風に笑い、そして言う。

「君の知る私とは別の、もう一人の私だよ。人間と、アンドロイドの、どちらの精神かは知らないがね」


 ふと、この体が不完全に途切れていることに気が付いた。私の意識が、全て彼の言葉に向かっていたせいだ。だからJBが今、体を切り離している部分が、霧の発生装置に干渉しているのだと遅れて知覚する。

 ドアをノックした。

 反応はない。

 何をするつもりだ?


「何が目的?」とアガタ。

「霧を晴らすんだ。そのために表に出た」


 私はどうにかしようとして、記憶の部屋を見渡した。JBはここでのことを何ら知覚できない。内部から外側へと、どうにか干渉できないだろうか?

 手元には、カプセルが一錠。

 何故ここに?

 ああ、そうか。と、遅れてわかる。

 現実だと思っていたあの場所でさえ、記憶の中だったのだ。何故といって、Mは私自身。現実には存在しないのだから。


「そんなことはさせない」アガタがJBを睨む。

「どうかな」JBは不敵に笑った。

「そんなことをして、ただで済むと思うの……」アガタは立ち上がり、JBを見下ろした。そうして気付いたらしい──体が半分ほど溶けていることに。「そんな……まさか!」


 私はドアをノックして、メッセージを伝えた。モールス信号。それが伝達の方法だった。これは彼にしか伝わらないだろう。

 〝私はもうMではない。君もまた、もはやJBではない〟

 私はカプセルを飲み下し、Qのナノマシンと一体化した。私のこの行いは、肉体にも影響が及んだため、JBも Qの一部と混ぜ合わされる。

 私の思考も、彼の行動にも、直ちに異変が生じるだろう。

 だが──

 もう手遅れだ。

 装置が破壊された手応えがある。目的は達成された。後は体の一部を捨て去り、残りを霧から構築、補充する。

 これを知るのは私しか居ない。

 これを行なった、他ならぬ私でしか。


 私に出来るのは、彼──もう一人の私の思想に革命を与えることだけ。それ以上は期待できそうもない。

 私はそっと息を吐いた。

 永遠とも思えるこの世界に、夜明けが訪れようとしている。時間は不可逆的だ。もう、夜は戻らない。

 だからせめて、その終わりが安らかであるよう祈っておこう。全ての人が眠りにつくその時を想って。

 夜に慰めがあるように、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る