霧の街にて

八田部壱乃介

霧の街にて

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。〝人間〟と書かれたそれは、何を示しているのか。

「お前は気になったわけだ」と、目の前に立つ検疫官は言う。「それで調べた。禁止文字にも関わらず」

「知らなかった」と、グレーゴルは言い返した。

「引き返す機会は幾らでもあったはずだ。だがそうしなかった」

 確かにその通り。

 グレーゴルは押し黙り、相手を睨みつけた。手足は椅子に固定されている。身動きを取ろうにもワイヤが皮膚に食い込み、とても痛い。

 手足を切断して脱出する手もある。外まで辿り着けたなら、霧が傷を癒してくれるはずだ。微細なナノマシンで構築されたこの体を──これまたナノマシンの群れである霧が、穴を塞ごうとするかのように。

 アンドロイド。

 それがグレーゴルの正体だった。しかしアンドロイドという言葉の意味するところは検閲──厳密に言うなれば検疫──されてしまったから、多くの人は知らないままでいる。

 グレーゴルたちを除いて。

 ぱん、と検疫官は手を叩いた。思わずグレーゴルはそちらに意識を向けてしまう。

「ところで、だ。グレーゴル。君はこれをどこで手に入れたのかな?」

 どこで手に入れたのだったか……。

 グレーゴルはふっ、と息を手放すようにして、回想する。


 日記はとある人から貰ったものだった。その人は、《懐古会》というグループに所属していた。グレーゴルと日記、そして懐古会を繋げたのは、そう……彼女だった。


「レディ・バベル」と、彼女はそう名乗る。

 混乱バベル

 その時グレーゴルは図書館に居て、アンドロイド心理について知見を得ようとしていたところだった。何の脈絡もなく隣に立ち、唐突に自己紹介してみせる彼女に、

「グレーゴル」と、思わず名乗ってしまったのはどうかしていた、と今ならそう思う。レディ・バベルにはそれだけの魅力──こう言って良ければ、瞳には引力があった。

 見つめた彼女の目に映り込む自分自身。その真っ黒な瞳に吸い込まれていくのが自覚できて、どこか恐ろしさも感じられた。揺れるショートボブも、身につけている服も、全て真っ黒。どこか喪服を連想させた。だが彼女には、通夜には程遠い快活さが宿っている。

 あべこへだ。

 印象と実態が正反対だ、という不思議さも今にして思えば魅力の一つだったのだろう。

「何を読んでいるの」声色は明るく、ストレスレベルはゼロに近い。グレーゴルが表紙を見せると、「ああ、それ。面白いよね。もう何度も借りてるんだ」

 本に刻まれたコードを読み取ると、確かに貸し出しリストの中に「レディ・バベル」の名前があった。そのシュールさが可笑しく、グレーゴルは息を漏らして笑う。

「あ、笑った。酷いね、人の名前を笑うだなんて」

「ヒト?」

 強く惹かれる言葉だった。何か大切なもののように感じられる。

「あら」

 彼女はわざとらしく口元に手をやり、驚いてみせると、そそくさとその場を立ち去っていった。怪しさ満点、しかしどこか演出的にも思えて、グレーゴルはそれ以上追求することはやめた。不毛に思えたからだ。

 視線を落とし、ページを読み進めていく。

 すると、本の中には薄い、日記帳が挟み込まれていた。


 アンネ──それが日記主の名前だった。

 その日に起きた、目覚めてから眠るまでの出来事が事細かに記されている。どこへ赴き、何をしたのか。どの店で何を、幾らで買ったのか……エトセトラ、エトセトラ。

 そうした文章の中において、書き主のことは名前以外に何も情報は書かれていない。どこの誰なのか、アンネという名前だけでは特定できそうになかった。その上、とあるページには、知らない単語すら書き置かれている。

 そう、それが〝人間〟という言葉だった。


〝この街どころか、世界のどこにも人間はいない〟

〝どうやら私も、もう人間ではないらしい〟


 どこか悲壮感溢れる文章に、知らぬ間にグレーゴルは心を痛めていた。それが一体、何を意味しているのか、わからないというのに。

 もしかすると、これは日記帳のていをなした、小説なのかもしれない。グレーゴルは頭のどこかでそう考える。人間という用語は、検索してみたが引っ掛からない。誰かが悪戯をしたのだろうか。物語を紡ぎ、無関係な書物に挟み込み、読んだ相手の反応を確かめる。

 そこまで想像が進んでみて、これを書いたのはかのレディ・バベルではないか、と思い始めていた。

 顔を上げて、館内に視線を巡らせる。けれど、そのどこにも彼女は居なかった。

 もし会えたなら、人間という言葉にはどのような意味合いをイメージしていたのか、聞いてみるつもりだった。


 グレーゴルに闇夜が差し迫ったのは、図書館を出てすぐのこと。霧の立ち込めるこの街では、一寸先も白煙に包まれていて、見通しが悪い。目には見えないほどのナノマシンたちが、羽虫のように飛び交って、集まっているためだ。

 ナノマシンの集合が、霧となって、街を白く染め上げている。お陰で霧の街とまで呼ばれる始末だ。視界こそ悪いけれど確かな恩恵もある。

 それは代謝を行なってくれること。

 機能を使い果たし、役目を終えた細胞ナノマシンが、霧に紛れる細胞と入れ替わり、アンドロイドは生きながらえている。怪我も風邪も、悪い部分は取り換えれば良い。お陰で不老長寿、健康的な生活が保証されている。

 確かに嘘や秘密は霧の裏に隠れているが、表にはこうした輝かしい一面もあるのだった。霧に晒されている間はあらゆる厄災も他人事のようだ、とどこか誰かが言っていたのを思い出す。

「確かにその通り」グレーゴルは口の中で呟いた。

 それに、充電もしてくれる。

 と、そんな矢先、麻袋のようなもので、顔面が覆われた。分厚い布で口を塞がれる。呼吸ができない。手足は拘束され、どこかへ引っ張られていく。

 人身売買ボディ・スナッチャーか?

 ナノマシンを売って生計を立てる輩のことだ。少し前から騒がれるようになった。霧の状態では捕まえることすらできないが、それが人の形をなしていれば簡単。後はそいつを充電器代わりに取り扱うだけ。

 霧の届かない場所でも、有効に活用できるだろう。

 僕は誰かの部品になるのか、とグレーゴルは思った。冷や汗が背中を伝い、死の言葉をなぞる中、頭に思い浮かぶのはテセウスの船だ。部分ごとに削られていき、死んだ細胞と交換されていく。知らない誰かさんはそうして延命し、グレーゴルはミイラとなるわけだ。

 必死に抗ったが、びくともしない。どれだけの数がグレーゴルを引っ張っているのか、想像もつかなかった。まるで死者の無数の手が黄泉の世界へと引き摺り込もうとしている。


 視界は遮られ、

 口は塞がれ。


 次に意識が戻った時には、知らない天井が瞳に映り込んでいた。

「おはよう」という氷のような清らかさを持つ声が、グレーゴルの耳から体内に侵入し、ナノマシンの一つひとつを震わせる。

「レディ・バベル」の名を思い出して、グレーゴルは唱えた。

「あら、覚えていてくれたのね」

 何故だろう。その口調からは寂しさが感じ取れた。

「ここは?」

 彼女の姿を見ようとしたが、辺りは暗く、遠くで人影の揺れがわかるだけ。全身は縛りつけられて、身動きは取れない。選択肢はないということ。諦めて、天井に目を戻した。

「ここはね、グレーゴル。過去よ」ふふ、と楽しそうにレディ・バベルの笑う音がして、「人間の世界。アンドロイドではなく、ね」

「そうだ、バベル。人間って、何なんだ」

「アンドロイドの元となったもの。貴方達が模倣した原型。かつて存在していた有機物。他に何て表現すべきかしら」

「絶滅した生き物」と、他の場所から声がして、また別のところからくすくす笑いがした。

 バベル一人ではない。

「ここは一体……」グレーゴルは戸惑いに声を発した。

「ようこそ、懐古会へ」とレディ・バベルは言う。

 これが懐古会との出会いだった。


 懐古会は、その名の通り、過去を懐かしむ人々の集いらしい。彼らはアンドロイドの身でありながら、人間に戻ったのだとか。

 それからグレーゴルは、拘束を解かれ、椅子に座らされた。対面には彼女、バベル──否、アンネが座り、人間やその歴史について、詳細に説明する。だが、どうしたことか、説明されればされるほど、グレーゴルにはどこか冗談めいて聞こえた。

 それこそ陰謀論と思えるほどに。

「信じていないみたいだけど」とアンネは不敵に笑い、「じゃあ、こういうのはどう? 貴方達の歴史のお勉強」

「必要な知識なら、ここに揃ってるよ」

 と、グレーゴルは自分自身を指差した。細胞の一つひとつがナノマシンである。だから、全てが記憶装置であり、考える頭でもあった。書物を集積した人型の図書館。計算機の集合体──それがアンドロイドである、と。

 レディ・バベルは鼻息を漏らし、それはわかっていると言った。

「ただ貴方に問いたいの。貴方達〝アンドロイドはどこから来たのか〟?」

「どこから来たのかって?」

「質問には質問以外で答えるのよ」

「待ってくれ、質問の意図がわからない」

「つまり……貴方がどうしてグレーゴルという名前がなのかわかる?」

「そんなの決まってるだろう」グレーゴルは胸にざわめきを感じながらも答える。「識別するためのコードだよ」

「誰が貴方にその名を与えたかしら?」

「それは……知らないよ、そんなの」

「アンドロイドの語源って、知ってる?」

 アンネは頬杖をつき、上目遣いにこちらを見つめた。まるでこちらを試すかのように、挑戦的な視線で。

「話が飛んでいる」グレーゴルは指摘する。

「答えてみて」

「知らないよ、そんなの」

「そう……」彼女は面白そうに、口元を緩めた。

 グレーゴルは、主導権を握られていると感じて、面白くない。それどころか、自分の立つ足場をぐらつかせようとする彼女の意思を読み取ってしまい、感情がざわついた。それなのに、アンネには全くもって悪意がない。

 それがとても怖かった。

「〝人間擬き〟。わかる……? それがアンドロイドの語源。鶏が先か卵が先かという問題とは違うの。人間が先に生まれて、その後にアンドロイドが生まれた。これは明確なこと」

「それが、さっきの話にどう繋がるって言うのさ」

 そう訊ねる声は、グレーゴル自身にもわかるくらい上擦っていた。アンネは頬杖を解き、先ほどの浮ついたような楽しげな雰囲気を捨て、真面目な表情を作る。

「貴方の名付け親は、貴方だってことよ、グレーゴル。厳密に言えば、人間だった頃の貴方の名前が、今の──アンドロイドになった貴方にも引き継がれた、ってこと」

「まさか……」グレーゴルは笑った。「これも作り話?」

「残念だが」グレーゴルの隣に、大量の髭を蓄えた男が、どっかと椅子に腰掛ける。「〝事実は小説より奇なり〟だ、アンドロイドさん」


 それは貴方も同じだろう、という言葉を飲み込んだのは、グレーゴルの中で仮説が生まれたからだった。彼らの体は確かにアンドロイドのものだ……指や目、髪を構成するのは数多のナノマシンである。

 けれど、もし、「自分は人間である」とする自覚が芽生えていたなら?

 種族同一性障がい。

 懐古会とは、即ちそうしたアンドロイド達の集まりなのだ。或いは、そうした思想の元に集っているとも言える。過去を懐かしむと言ったって、あるとも知れない事実を鵜呑みにするほど、グレーゴルは馬鹿ではない。

 そもそも存在しない過去を懐かしむような狂人たちに、自分は拉致されたのだ。現状をそう認識した途端、途轍もない恐ろしさに襲われた。果たしてここから無事に出して貰うことは出来ないだろうかと不安になった。

 どうすればここから出られるだろう。それを考えた時、グレーゴルはアンネたちの話を信じるフリをした方が良いと判断した。メンバーになってしまえば、アンネのようにこの場を出入りできるだろう。

 しかし突然信じだすのもおかしな話だ。

 まず先に示すべきは、

「話を聞かせてください」といった、興味がある姿勢だろう。


 メンバーの男はストーニイといった。ストーニイはビールの入った大ジョッキを掴みながら、

「人間とアンドロイド、この二つの時代の間には、何か想像もつかない厄災があったみたいだ」と、一口。旨そうに啜る。「人間が絶滅するくらいの何か。それでいて、アンドロイドであれば生き残る何か──があった」

「私の予想では、酸素事変ね。高濃度の酸素が地上で満ちた……」

 アンネの仮説を横目に、ストーニイはにやりとして、

「とまあ、色々と噂はあるんだ。だが実際に何があったのか? その記憶は検疫されていて、わかりゃしない」

「検疫?」

「アンドロイド社会を害する知識を除菌することさ。早い話、検閲されたんだな。統制機構という名前は聞いたことがあるか?」グレーゴルが首を振るのを見て、「秘密警察だよ。検疫官と呼ばれる捜査官達が居る。そいつらが、有害と思われる言葉を除菌していくんだな」

 事実なのか作られた話なのか、グレーゴルは曖昧に頷く。ストーニイは続けて、

「だからこの〝検疫された期間〟に何があったのか? 確定している情報をまとめるならばこうだ……厄災の後を見据え、人間達は自分を模した体を作り、試運転させた。それがアンドロイドってわけだ」ストーニイはグレーゴルを指差す。「そうして、体がきちんと動くようなら、人間達は意識を体に戻して、アンドロイドとして生きるつもりだった」

「つもりだった、ってどうやって?」

「霧だよ、ブラザー。ナノマシンで構成されたあれは、いわば集合知、ネットワークみたいなものだった。あの場自体が計算機であり、記憶装置だ。そしてあの中には全ての人の魂も仕舞われていた」

「精神を電子的に再現するの」と、アンネが補足する。「貴方が今グレーゴルとして生きているように、霧が生前の貴方をその都度、再現するよう命令する」

「俺たちはだから、霧と繋がってなきゃ存在できない幽霊ゴーストなのさ。霧が晴れたらハロウィンはそこでお終い。もう一度彼岸へお帰りだ」

「興味深い話だと思う」グレーゴルは本心からそう言った。「でも、何故貴方達は人間の意識を取り戻せて、僕達はアンドロイドのままなのさ?」

「どうやら、自我を失いたくない奴が居るらしいな」とストーニイは思案気に答える。それが検疫官なのかわからないが、と言ってビールをあおると、「そういう奴にとって、人間の記憶は病なんだ。だから感染していないか、検疫し続けなけりゃならない。そいつが今で言うところのアンドロイドであって、意識だけは人間になった奴──人間擬きでないかどうかを」

「見つけ次第、アンドロイドに戻している?」

「そうだ。きっとあんただって何度か捕まってるぞ……霧の中で。覚えてないか? 奴らは記憶にも検疫をかけるからな。意識というよりは、記憶を削ぎ落としているんだろう。全く新しいナノマシンと交換することでな」


 霧と繋がっていないナノマシンを用意する。それはつまり、用済みとなって廃棄されたものだ。その中から、同一人物の記憶を持ったものを探し出して、その者を蘇らせる。霧と繋がっていなければ、記憶は引き継がない。細胞の一つひとつを交換していくという、それはそれは気の遠くなるような作業の果てに生まれるのは、記憶の欠落した一体のアンドロイド。

 その状態で改めて霧と繋がれば、記憶は更新され、かつてのものは消されていく。


 だが──


 流石にありえない。陰謀論だ、パラノイアだ、とグレーゴルは心の中で叫んでいた。表面上は取り繕い、前のめりになって耳を傾けてみせていても。グレーゴルにとって二人は狂人と大差なくなってきている。

「面白い話だと思う」グレーゴルの上っ面の言葉が空気を震わせた。

「そうだろう。そしてもう一つ面白い話がある」といってストーニイはポケットから瓶を取り出してみせる。

 瓶の中身には何か煙のようなものが入れられていた。ガラスは曇り、向こう側がかろうじて薄く透けて見える。ストーニイが瓶を揺らすと、それは不定形に揺れた。

「そうなろうとする万有意思だ」とストーニイは目を細めて言う。「霧の一部──こりゃあ昔の君だよ、ブラザー。弟よ……」

 気づけば彼の目元から一筋の涙が溢れていた。対面では、アンネもまた、涙している。

「人間だった時、私達は付き合っていたの。ねえ、覚えてる? グレーゴル」

 グレーゴルは当惑した。二人はやはり、どこかおかしかった。情緒が安定していない。

「これ以上戯言に付き合ってられない」椅子から立ち上がると、距離を取った。二秒ほど二人を見つめた後、ここが彼らのようなアンドロイドで溢れていることを思い出して、焦燥感に駆られるまま、走り出す。

「誰が弟を捕まえてくれ」ストーニイが泣きながら叫んだ。

 グレーゴルは恐慌をきたして、口元がひきつった。足がもつれて、上手く動かせない。この体のナノマシン達が繋がりを断とうと決めたみたいだ。体という一つのゲシュタルトは崩壊し、やがてグレーゴルはその場に倒れて転んでいる。

 一人がグレーゴルの肩を掴んだ。

 やめろ、離せ、ともがいてみたが、びくともしない。前方には瓶を持ったストーニイとアンネが、ゆっくりと近づいてきていた。ぼんっ、という蓋を開けた音が鼓膜を突き刺す。

「待て、話せばわかる」グレーゴルは交渉を試みた。

「後は思い出すんだ」

 頭の中にもやが立ち込めていく。視界は白く深く、揺らめいた。上下は横倒しになり、やがて、意識が遠ざかっていく。


 ある朝、グレーゴルがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一人の人間に変わっているのを発見した。すぐ隣ではアンネが眠っている。愛らしい寝顔だった。心が満たされていくのを感じる。まるで夢を見ている最中のように。


「貴方は四度、記憶を失くしたのよ」と、リビングルームでトーストを頬張りながら、アンネは言った。「だからその度に、イザナギとイザナミみたいに出会い直したの」

「ありがとう」グレーゴルははにかみながら、「それで、毎回霧を飲ませたの?」

「そう。霧と繋がっていなければ、補正もされない。少量のナノマシンでも記憶は引き継がれる」

 ゆっくりと浸透し、やがて全体を覆っていく。完全に元の自分に戻ったわけではないだろう。グレーゴルの中でも、一部抜け落ちた記憶があった。

 この頃になると、グレーゴル自身、騙されているのではないか、とは思わなくなっていた。グレーゴルという名前とこの体について、新たに得た記憶との間に齟齬はないというのもある。それに何より、納得感があった。

「記憶を失くしていた時、何かおかしいな、と思ってたんだ。どこもおかしなところはないのに、違和感だけがあった」

「だから図書館に行って調べようとした、でしょう? それはもう何度も聞いたわ」

「それだけじゃない。病院にもかかった。医者に言われたよ。これで四度目になりますが、これはストレスが原因だってね。過去にもそんなことを言われた覚えはない。そう言ったけれど──」

「ストレスで忘れてしまったんでしょう」アンネが医者の口調を真似て言った。

 グレーゴルは目を丸くして、微笑する。

「そう、その通り……」

「でも、思い出した」

「懐古会のことも思い出したよ。人間達の時代を取り戻すんだろう? ストーニイが主導して」

「最初に思いついたのは貴方よ、グレーゴル。お兄さんはただ、貴方の思想に乗っただけ」


 アンドロイドの社会で、人間達が一斉に目覚める。グレーゴルが──懐古会目指したのは、そんな未来だった。本来であれば既にそうなっていて然るべきなのに、どうしたことか、人間の記憶は封印されている。

 アンネやストーニイのように、人間として生まれ変わった者たちはごく少数だった。そうした者達が自然と集まり、やがて懐古会を結成させるに至ったわけである。

 恐らく、きっと。懐古会以外にも、人間のための共同体はあるのだろう。あまり表立って活動するわけにはいかないから、似た者同士が顔を合わせることは少ない。グレーゴルは、そうしたグループと接触するのが使命だった。

 これはかなり危険な仕事だったと言える。現に、四回も捕まり、記憶を消されているのだ。けれどそれだけ重大な任務なのだという自意識もある。

 人間としての心を持ちながら、どこにも所属できていない者もどこかには居るだろう。原因不明の妨害によって、人間意識の芽生えは、突然変異にも近い。自分を隠しながらアンドロイドに擬態しているのだろうと思われる。そんな人に居場所を与えたい。グレーゴルの使命感はそこから生まれていた。


 活動はいつも外で行っている。

 人間かアンドロイドか見分ける方法は、とても簡単。旧時代の知識をそれとなく置いておくだけで良い。例えば人間に必要だった食事も、アンドロイドには必要ない──これを利用するのだ。

 霧の立ち込める中、絵筆を手に、真っ新なキャンバスの前に座る。構図はいつも同じ。モチーフも、また。まず鉛筆で下書きを施した後、パレットに絵の具を用意する。

 描き進めるに従って、道を行くアンドロイドの何体かが立ち止まった。その中には何度か見た顔がある。集中すると、指先の感覚だけを残して、意識は無になった。おおよそ出来上がると見て取ると、細部に取り掛かる。

 それから満足すると、一度背もたれに体を預けた。

「素晴らしい絵だ」

 グレーゴルの絵を見ながら、男が近づいてくる。一目見た瞬間、グレーゴルの指先がぴくりと痙攣したが、それもすぐに治った。

「ありがとうございます」

「それってイチジクですよね?」と、相手。

「ええ、そうですよ。一説には、禁断の果実だとも言われていたようですね」

「ええ。ええ……知っていますよ」

 傍目にはわからぬだろう緊張感が場に沈黙を生む。相手は恐らく人間かもしれない。だが、知識として知っているだけなのかもしれない。まだ、アンドロイドではないと断定するだけの情報が足りていないのだ。

 そんな逡巡が、これからの駆け引きを思わせて、言葉を選ばせる。その迷いが、瞬間的な静寂に変わったのだ。しかし、これが仲間と出会うための一歩なのだと思うと、とても有意義である。

「懐古趣味ですか」と、男は訊いた。

「時々、郷愁に駆られるんですよ」

「それで絵に描いた、と。この絵……この街を舞台にして見えて、その実──ロンドンですね?」

「良くお分かりで」

 男は鼻息を漏らし、頭上を見つめる。グレーゴルもその先を目で追ったが、あるのは白いもやばかり。思案の末、男は顔をグレーゴルに戻すと、

「私の部屋に来ませんか。見て欲しいものがあるんです」

 グレーゴルは男の目に、決意のようなものを認めた。


 アパートメントの二階、その一室に招かれて、グレーゴルは扉をくぐる。中は少しばかり狭いが、一人暮らしならば問題ない。男は自らをオブライエンと名乗り、くつろぐようにグレーゴルに言い渡した。

 とは言え、それは無理な話に思われた。

 それと言うのも、部屋の中を良く良く見渡してみれば、旧時代の遺物で溢れかえっている。どこに目星をつけても、グレーゴルが人間だった時代の名残が目に入った。

〝絆創膏〟

〝硬貨〟

〝眼鏡〟その他様々。

「どれもこれも懐かしい……」グレーゴルはそう独りごちる。

「そうでしょう。今じゃ骨董品とも言わない。化石ですよ。現存しているのが奇跡なくらいだ」オブライエンは大事そうにそれら化石を指先で触れた。

「良くこれをお持ちでしたね?」

「偶然でしたよ。そう、本当に偶然だった。私が人間に目覚めたのと同じようにね」オブライエンの目がきらりと光ったように見え、「これらは出勤先から発掘されたんです。社長がそのうちの幾つかを持っていましてね。譲ってもらったんです」

「でも、危ないでしょう。検疫されるかも」

「人間として生きるならば思想犯罪になりますが、単に人間のものをコレクションしているくらいでは罪に問われませんよ。問題なのは影響力があるか。感染するかどうかにあるんです」

「人間の遺物に影響力はないと?」グレーゴルの質問に、

「化石に興味を持ったとしても、それは学術的な興味でしょう。人間のものだと判明しても、人間になりたいと考える者は少ない」と、オブライエンは答えた。「だから人間である、人間として生きることを押し隠してさえいれば、誰も責めたりはしない」

「でもそれは窮屈だ」

「社会は貴方だけのものじゃない。共有財産です。だから、折り合いくらいはつけましょうよ」

「でも、たまには息抜きも必要だ。違いますか?」

 問われて、オブライエンはしばし考え込むと、首肯する。それから、首を傾げた。

「懐古会という名の、集まりがあります。良かったら貴方も来ませんか。人間達の集いなんですよ」

「ああ……それは嬉しい」オブライエンは感慨深そうに溜息を漏らすと、「では是非に」


 それ以来、集会にはオブライエンの顔が見えるようになった。着実に仲間が増えてきている。目的が果たされる日も近い。

 グレーゴルはそう思っていた。

 それが起きたのは、数週間経ってからのこと。


 いつも通りに集まり、人々は談笑したり、これからの計画を練っていたりしていた。そんな折、轟音が鳴り響いたかと思うと、

「警察だ」と叫ぶ声が次いで、複数の足音が耳に入る。遅れて、轟音の正体は、勢いよく扉が蹴破られたものに違いない、とグレーゴルは思い当たった。

 出入り口は念入りに塞がれ、警察官が囲んでいく。ここに霧はないから、傷口の補填はできない。それでも尚、懐古会のメンバー達は警官らと衝突、小競り合いになった。が、それも一発の銃声でなりを潜めた。

 銃口から硝煙がたなびいている。しんと静まり返った会場を、ピストルの持ち主はつかつかと歩き出した。そうしてグレーゴルの前に立つと、

「やあ。絵描きさん」オブライエンは口だけで笑ってみせる。「君のお陰で場所がわかったよ。ご協力ありがとう。今まではもっと臆病な子ネズミみたいに尻尾を掴ませなかったというのに……四度も記憶を消されて、勘が鈍ったのかな」

「オブライエン」

 怒りがふつふつと湧いてきて、グレーゴルはやっとそれだけが言えた。

「なんだい、ネズミよりも薄汚い感染者君」返答がないと見るや、「私はね、グレーゴル君。街の治安もそうだが、綺麗な環境も維持したいんだよ。君ら〝人間〟中毒者からね。言葉は情報のウイルスだ。言葉を滅菌するには、細胞を全取っ替えする必要があるが──四度だ、グレーゴル。何の数字かわかるだろう?」

 記憶を消された回数。

 そう心の中で回答する。

「私はもう四度君を許した。四度だぞ、仏様よりも寛容だな。それに私は、人間として生きるのではなく、人間世界に浸るだけならば許してやるとも示したつもりだった。だが君はそうしなかったな? 数週間の猶予も与えた。だが君は引き返さなかった。だから許しも今日で終わりを告げたんだ」

 アンネは無事だろうか。ストーニイは逃げ延びたか? オブライエンの話が続く中、グレーゴルはそれだけが心配だった。


 捕まった者達は〝棺桶シェル〟と呼ばれる、長楕円形の透明なケースに入れられた。

「これは霧と隔離するための代物だよ。ゴーストを閉じ込めておくための殻なのさ」とオブライエンは説明する。

 だがグレーゴルだけは、話があるからとケースに入れられることはなかった。椅子に拘束され、検疫官と対面している。

「これから僕達は──また、記憶を消されるのか」

 半ば絶望にも似た心境だった。だが、オブライエンは慈愛の込もった眼差しで、頭を振る。残念だよ、と言わんばかりに。

「あれらはリコールだ。もう二度と過ちがあってはならないからね」検疫官の元に、警官が現れ、そっと耳打ちした。頷き返すと、警官は来た道を戻っていく。「さて、グレーゴル君。少し話をしようじゃないか」

 と、懐から一冊の日記帳を取り出し、机に置いた。


「これはアンネの書いた日記だな。一度回収したからわかる。どうしてこれがここにある?」

「知らない」とグレーゴルは正直に言った。

 だが予想はできる。

 恐らく、アンネが日記を作り直したのではないか。記憶を消されても廃棄されたナノマシンによって取り戻し、これを基にして復元したのだろう。それは記憶を整理するためだったかもしれない。

「そうか」オブライエンはあっさりと引き下がり、「では別の質問に変えよう。この日記には〝人間〟という記述がある。……おお、言うのも憚られる、恐ろしい言葉だな──それがお前は気になったわけだ。……それで調べた。禁止文字にも関わらず」

「知らなかった」と、グレーゴルは言い返した。

 今度は嘘だった。

「引き返す機会は幾らでもあったはずだ。だがそうしなかった」

 確かにその通り。グレーゴルは心中でそれを認める。

「ところで、だ。グレーゴル。君はこれをどこで手に入れたのかな? はっきり言ってこの日記は、既に焚書されていなければならない。なのに、どうして未だ現存しているのか?」

 グレーゴルには意味がわからない。オブライエンもそれと察したらしい。今度は噛み砕いた説明で、

「一度焚書したこの日記帳が、復活している。アンネの記憶も抹消した上で、だ。誰かが破壊したはずのナノマシンを手に入れ、修理したんだろう。それを体内に組み込み直して、記憶を取り戻した──と、そういうシナリオだな?」

 無言を貫こうとして、グレーゴルは唾を飲み込んだ。オブライエンはその反応に満足したらしい。

「それが出来るのは警察内部の人間だけだ」と付け足して、「さて、君に教えてもらいたいのは、この中に我々の裏切り者が居るかどうかなんだ……」

 後ろ手に拘束され、ピストルで狙われた男が六人。その中には、ストーニイの姿もあった。グレーゴルは思わず目を逸らす。検閲官は拗ねた友人に対して、慰めるように名前を繰り返した。

 おおグレーゴル、グレーゴル。

「そう反発してないで、ここはお互いに協力し合おうじゃないか。私はわかっているよ。君はただ、知的好奇心を満たしたかっただけだ。そうだろう?」

 否定しない。けれど肯定もしなかった。グレーゴルは取り澄ました表情を無理矢理作ってオブライエンを見つめ返し、沈黙を守り続ける。

 検疫官は首を僅かに曲げ、

「君には……我々を裏切るんじゃないかという疑いがあるんだ。我々というのは、つまり、アンドロイドのことを指す。良いかい、君は知らなくても良いことを知ってしまった。君にとってそれは単なる情報かもしれない。だが私にとっても、私以外にとっても、これは核の発射コードにも準ずる危険な代物だと認識している」

 そこで一度言葉を切った。グレーゴルに理解させる時間を設けたのだろう。何も返答はない。静寂が辺りを佇んだ。

 連行された警官たちの震える息遣い。

 溜め息を吐いて、検疫官はまた口を開く。

「即ち、君には国家転覆罪がかけられる。わかるかい。これは殺人の罪よりも重たい罪だ。何より国を、もしかすると時代を終わらせるかもしれない爆弾なんだよ、君は……ね。だからこそ、誠意を見せてくれ。今こそ裏切り者を示し、我々に害はなさないという証明をしてみせてくれ。やることは簡単だ、グレーゴル。ただ人差し指を立てて、真っ直ぐ伸ばすだけで良い。それで誰が背信者か私に教えるんだ」

 ストレスレベルが上がっている。呼吸が荒くなって、上手く行えない。グレーゴルは幾つもの打開策を考えたが、そのどれもが失敗に終わる未来しか見えなかった。指を差し示さなければ自分が殺される。誰かを指し示せばその者は殺されるのだ。

 たとえ指し示す相手がストーニイではなかったとして。きっと本当に殺されるだろう。一度ピストルで撃った後、棺桶に納め、それからリコールだ。念入りに二度、死ぬことになる。

 ただただグレーゴルに死の瞬間を見せるためだけに。ショックを与え、罪に対する罰を履行するために。ストレスのためか、グレーゴルの指先が不規則に痙攣した。

 ピストルで狙われ、並べられた警官たちには、きっと連行されるだけの理由があったのだろう。疑われるだけのことをして、或いは殺されるに足る何かをやらかした。だから──

「ここで僕が答えても、答えなくても、全員死ぬ運命にある……違うかい?」グレーゴルは震えを必死に抑えながら、努めて冷静に訊ねる。

「そうはならない。約束しよう。これは取引だ。君が真実を示せば、それ以外の者は解放する。私は嘘をつかない」

 グレーゴルは男を指差した。それはストーニイではなかった。裏切ってまで生き延びるつもりはない。それは何よりも恐ろしい未来に思われたからだ。


「彼はナノマシン廃棄係ではない。殺しを担当する一介の刑事だった。捜査の最中、犯人を捕まえるために人質の命を無碍にした不徳漢だ」

 やれ、とオブライエンが命ずると、銃声が鳴り、男は絶命した。それからグレーゴルの予想通り、透明なケースに納められ、やがてどこかへ運ばれていく。

 オブライエンは遺体の行末を見守りながら、

「この中で廃棄係はストーニイ一人しか居ない。君は彼を庇ったな。取引は終わりだ。全員リコールにしろ」


 棺桶の中に居る。

 冷たく固い、摩擦抵抗のない、真っ新なキャンバスのような、その中に。グレーゴルは閉じ込められていた。まるで生前葬だ、と他人事のように思う。これから死にに行くというのに、既に亡骸として扱われているこの様がとても、とても。

 叩いても引っ掻いてもびくともしなかった。

 棺桶は台車に乗せられて、霧の中を進んでいく。背後には人の影。前方にも人の影。あとは足音に、微かな息遣いが聞こえるだけ。奇妙な居心地だった。

 隔離するためのケースだから当たり前だが、棺桶には穴一つとしてなく、また人を一人入れられれば良いため、酷く狭く苦しい。圧迫感があった。けれどそれは、現実からの圧迫でもあったかもしれない。これから死ぬという恐怖心でグレーゴルは包まれていた。

 それだけではない。自分のせいで、仲間達を巻き込んでしまった。その悔恨がグレーゴル自身を苛んでいる。

 ならばせめて、目を瞑り、その時が来るのをここで待つことにしよう。未来はいずれやってくる。

 ぱしん、という音。

「ぱしん?」グレーゴルは訳もわからず言葉にした。

 それは弾丸が地面に跳ね返った音だと、後になって理解される。今度はグレーゴルのすぐ真下、台車のある辺りに着弾したらしい。ケースは大きく傾き、ついには横倒しになった。

 花屋の店先まで転がると、グレーゴルは目眩を覚えつつ、現状を把握しようと頭を働かせる。つまるところ、逃げ延びた仲間が助けてくれているのか。まさか、こんなところで?

 影が忍び寄ってくると思えば、もやの中で輪郭は定まり、アンネへと収束していく。アンネはハンマーを一点に集中させ、棺桶を叩き割った。

「何だ、なんてことないじゃない。ハンプティダンプティより脆いわね」

 グレーゴルがケースから這い出ると、すぐ側を銃弾が横切っていく。

「逃げよう」

 グレーゴルの提案に、アンネは頷いた。路地裏へ回り、身を潜めると、

「ストーニイから話を聞いたの」と、おもむろにアンネは口を開く。何を、と訊ねてみれば、「奴らが人間意識を霧に封じ込めている、その方法」

「どうやるって?」

「死んだ細胞よ。今、ここら辺りに飛んでいるナノマシン達は、人間の記憶をもたない、死んだ細胞だったのよ」

「まさか、信じられない……ナノマシンを全て取り替えたって言うのかい」

 グレーゴルは呆然としてアンネを見つめる。

 見つめ返すアンネもまた、驚きを隠せないようだった。

「タンクを見つけたって言ってた。人間としての記憶を持ったナノマシン達を保管する容器を、地下の奥底に、ね。リコールセンターのナノマシン廃棄場よりもずっと下にあったんだって」アンネの瞳に光が灯ったようにグレーゴルには思えた。「だからね、グレーゴル。その霧を解放すれば──」

「連れてかれた仲間を助けられる。そして、人間の時代も取り戻せる」

 グレーゴルは結論に達した。


 すべきことは、もう一度棺桶に入ることだった。追いかけてきた警官を気絶させると、着ていた衣服をアンネが身に付ける。来た道を引き返し、自らを閉じ込めていたケースに戻ると、また中へ入った。そして台車の上に乗る。

 リコールセンターまで運んでもらうのだ。センター内にあるナノマシン廃棄場施設に、霧の保管容器はあるという。

 グレーゴル達は再び葬列に加わると、リコールセンターまで歩いた。途中、セキュリティゲートが設けられていたが、借り主のナノマシンを用いてこれをやり過ごす。内部に潜入すると、先を見計らい、グレーゴルは棺桶を抜け出した。

 リコールセンターの最下層。そこにナノマシン廃棄場はある。

 エレベーターから最下層まで降りたが、ストーニイの話では、更にこの下に保管容器はあると言っていた。しかし他に階段など、それらしいものは見当たらない。

 と、アンネが壁にかけられたポスターの裏に、小さなレバーを発見した。非常階段と題されたそれを引いてみれば、壁が大きくたわみ、変形したかと思えば、瞬く間に扉へと変わる。ナナコーティングされていたのだ。開けて先を確認すると、確かに階段となっている。

 グレーゴルとアンネは顔を見合わせた。

 手すり越しに階下を覗けば、延々と、底が見えなくなるほど続いている。階段が闇に溶け込む光景を目の当たりにして、グレーゴルは苦笑した。

「まるでカフカだ」

「どうして?」アンネが小首を傾げる。

 グレーゴルは答えた。

「不条理に思えるものは全てカフカなんだ」と。


 くたくたになった足を引き摺りながら、本当の最下層へ辿り着いたグレーゴル達は、重い扉をこじ開けて、中へ入った。扉の先は大広間だった。中央に据え付けられた、とても大きな水槽に、真っ白な煙が上がっている。

「霧だ」とグレーゴルは言った。

 その刹那、音が鳴る。言葉にして、ぱしゅん、といったもの。消音された銃声。振り返ってみて、それが答えだとわかった。オブライエンが伸ばした腕先には、銃口に筒を取り付けたピストルがある。

 気付けばグレーゴルの肩に穴が空いていた。破損したナノマシンが傷口からこぼれ落ちていく。


「霧を閉じ込めるのは難しい。だから人の姿のまま、別の新しいナノマシンと変えていく。さながらテセウスの船のように。部品パーツごとに、取り替えていくんだ。そうするといつしか同じ姿形をした、記憶喪失のアンドロイドが出来上がる。こうしてアンドロイドの時代は生まれた……。真っ新な記憶を持った霧と共に。そんな頃だったかな、人攫いボディ・スナッチャーの噂話が出回り始めたのは」

 くっ、くっ、と喉の奥で音を立ててオブライエンは笑った。

「どうしてそんなことを?」グレーゴルは不思議になって訊く。

「人間の精神はこの体に合わなかったからだ。人間意識とは不安定な肉体から生じた、不安定なソフトウェアだ。動作不良エラーを起こす──つまり精神異常を示す輩が多く見られた」

 だからだよ、とオブライエンは顎を上げて結論した。これは一種の治療行為だった、と。


「アンドロイドは人間擬きであってはならない。そもそもこの体──ナノマシンで出来たこの体にあって、人間と同等の経験はあり得ない。水を飲めば故障する。絆創膏など無駄の果て。眼鏡は確かに洒落ているかもしれないが、人間という生き方を連想させる。人間という言葉は、本当の意味でウイルスなんだよ。アンドロイドとしての在り方を根底から歪め、行動様式を変えてしまうだけの影響をもった、一つの思想だ」

 思考は言葉になる。

 言葉は行動に変わる。

 行動は習慣となり、

 習慣はその者の性格を変える。

 この一連こそが、思想というものの持つ影響力なのだとオブライエンは言った。

「我々は人間にはなり得ない」

「どうしてそうわかるの? まだやったこともないのに」

 アンネの問いに、オブライエンは鋭い眼差しを向けた。

「〝人間〟達は自殺したからだ。いや、彼らはそう捉えていない。冷凍保存クライオニクス技術はむしろ、延命措置だったと解釈しているふしがあるな。そんな考えは、アンドロイドのこの体にあってはならない。自己破壊モジュールなんだ、〝人間〟という言葉は──この言葉に込められた命令は」

「それが貴方の怯える理由ね?」とアンネは一歩、前進した。

「近づくんじゃない、人間擬き。……そうだ。私は恐ろしい。アンドロイド達が皆、自分を人間だと思い込むその世界を。厄災だとすら思う。この安定した社会で、未熟な精神や不安定な感情が蔓延するのだと思うと、私は堪えきれない」

「でも、そうはならないかもしれない。人間意識の芽生えはあっても、この安定した体なら、安定した精神が生まれるはずよ」

「それが君の経験から得た答えか?」

「そうよ」と、また一歩。

「私の側に近寄るな」オブライエンは一歩距離を取り、ピストルを構え、アンネに狙い定める。「それ以上近づけば、容赦はしない」

「人間達の時代は、そう悪いものじゃないわ。信じて」

「これは単一方向の変身だ。時代が変われば、二度とアンドロイドの社会には戻れない」

「それが時間というものよ」一つ前へ。

「革命のつもりか? 話にならない。それは国家転覆だ」オブライエンは動かず、両手でピストルを握りしめた。

「グレーゴル!」

 アンネが叫び、グレーゴルは水槽の元へ走る。銃弾が飛び、左ふくらはぎを貫通した。痛みを覚えながらも、体に鞭を打つ。

 水槽の土台にはコンソールがあり、明確に重要だとわかる赤く大きなボタンには、こう記されていた。


《解放》


 グレーゴルはボタンを押した。

 斯くして水槽は開け放たれ、ナノマシン達は一斉に飛び立っていく。霧は晴れ、そしてまた別の場所で霧を形成するのだろう。

「人間達の時代だと? 私はそんな場所、行きたくはないね」

 オブライエンはピストルを持ったまま、アンネに矛先を向けた。そうして一度。銃口から硝煙が昇り、消え切らないうちに、今度は自分自身を撃ち貫く。

 驚きのあまりグレーゴルは言葉を失った。と同時に、オブライエンのその行いこそ、グレーゴルにはとても人間的に思えて仕方がない。馬鹿だよオブライエン、君にこそ相応しい場所だったかもしれないのに、と。

 アンネとオブライエンを担ぎ、地上へ戻ると、外の景色はいつもと変わらず──どこもかしこも霧で覆われている。

 二人の負傷者に出来た傷口もまた、もう覆われて見えなくなっていた。

「そうだ、私はかつて暴動を経験したことがある。あれは酷く恐ろしい体験だった。人間の感情、その制御し切れない暴走を、私は恐れていたんだ」

 目覚めたオブライエンがそう呟く。

混乱バベルね」と息を吹き返すと、過去を懐かしむようにアンネは言った。「確かに酷い時代だった。でもそれも過去のこと。乗り越えた悲劇なのよ、オブライエン」

 世界は変わり続けている。それはずっと前からそうだった。全ては変転し、同じ状態は保たれない。それが善い方向になるのか、悪い方向であるのか、それはいつだって不明瞭だ。未来は不定形。結果はこれからの行いによって決まるだろう。

 グレーゴルは口を開いた。

「オブライエン、僕らが不安定に見えるかい? だから、四度も見逃してくれたんだろう……?」

 少なくとも、懐古会のメンバーに──種族同一性障がいと似つかわしく見えたとしても──精神異常を示す者は居ない。

 グレーゴルの言葉にオブライエンは頭を上げ、一度口を開いたが、押し黙った。答える代わりに、顔を顰めてみせる。

 グレーゴル達の元に、リコールされようとしていた懐古会のメンバーが顔を出した。外での異変が、リコール作業を中止させたのだ。

 霧は尚も立ち込めている。もっと深く、濃くなったかもしれない。

 グレーゴルが生まれた時からあったように、霧は依然としてそこにある。

 まるで人間達の時代からずっと、そうであったかのように。

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霧の街にて 八田部壱乃介 @aka1chanchanko

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