大天使とクズ野郎

白ノ光

大天使とクズ野郎

 退屈な日々を過ごしていた。

 二年前、両親が病気で死に、俺はひとりになった。両親の温かい手は俺の元を離れ、代わりに残されたのは、冷たい骨壺と遺産だ。

 ひとりになったが、食うに困ることはない。むしろ、子供は俺ひとりであったため、遺産の分割で悩むこともなかった。税こそがっぽり取られたものの、それでも、俺ひとり生きていくには十分すぎる金と、都内の土地は残った。

 将来に不安はない。働かなくていいのだから。大学を卒業した後の進路が白紙であろうと、大きな家に俺ひとりだろうと、日夜酒を飲み煙草を吸いパチンコの輝かしい筐体の前に座っていようと、何ら人生に危機感を覚える必要はない。金さえあれば人生は幸せだ。

 そう思っていた。

 しかし、問題のない人生の如何に退屈であることか、俺は初めて知ったのだ。波風のない、穏やかな人生はつまり、刺激がない。両親が生きていれば俺を働かせようとせっつき、俺は自分で生きていく金を自力で稼がなくてはならなかったろう。それが普通の人生というものだが、何か目標があることこそ重要なのだ。

 俺は、目標を失った。何もしなくても生きていけるということは、何かをする必要がないということ。必要がない。目標がない。俺は、何のために生きているのだろう。大金を手にしてなお、俺の人生は楽しくならない。

 だから、両親の店を継ごうと決めたのも、退屈しのぎの一環だった。骨董品屋、あるいはアンティークショップ。中古の家具や食器、あるいは芸術品の類を横から横へ流す仕事だ。俺が産まれる前から両親がやっていた稼業だが、両親が死んでからすっかり店を開けていない。

 俺の家である高層マンションから自転車を少し漕いだところに、店の実店舗がある。「アイン」という名の店だ。その実態は店舗というより倉庫に近いもので、仮に客が来ようと、店頭に並んでいる商品は全体の一割にも満たない。商売の中心は、世界を飛び回って直接依頼主と交渉する形態だった。店を閉じてからは本当に、ただのデカい物置になってしまったのだが。

 物を売るにあたってはまず、在庫の確認をしなければならない。データ上の商品目録と実際の商品現物を交互に見て、あるかどうか確認する作業は、中々苦痛だ。しかし、地道な作業のお陰と言うべきか、店舗の中を動き回っていた俺は、不自然な壁に気付いた。建物の図面上では、この壁の向こうにも空間があるはずなのだが、そこにあるのは壁で扉ではない。押そうが引こうが動かなかった。だが、どうにも壁に開いていた小さな穴が気になる。

 父親の遺品のひとつに、銀色の鍵がある。掌に収まるほどの大きさで、銀の線が寄り集まって鍵を象っているように見せる、きめ細かな装飾が施されていた。ただ奇妙なのは、円筒状のパーツから伸びるべきブレードが存在しないことだ。これでは何も開けられない。父親がよく首から下げていた鍵なのだが、俺はこのときまで、この鍵のことをただの飾りだと思っていた。

 俺が首からぶら下げた鍵は、その穴にすっぽりと嵌まり、中で何かが動いて、壁が開いた。奥は地下へと続く階段が伸びており、俺はそこで、商品目録に載っていない、奇妙な商品群を発見したのだ。

 古めかしい銀の貨幣。異形を象った石像。血のようなシミがこびりついた釘。ゲームの世界から出てきたような大剣。それから、それから──

 今まで見たこともない商品の数々に、俺は興奮を隠しきれなかった。これらはどう考えても、まともな取引に使われる物ではない。

 アルミラックに置かれたジュラルミンケース。『グリモワール・レプリカ』『悪魔の召喚を確認済』そんな文言の書かれた紙がケースに貼り付けられていた。手書きの文字は父親のものだろうが、実に興味を惹く言葉が並んでいる。ケースを開ければ中身は、古びた紙が一枚だけ。わざわざケースにまで入れる中身が紙一枚というのも、文言の信憑性を高め俺を期待させる。

 グリモワールといえば、魔導書だ。ファンタジーなんかに出てくる、魔法の儀式が書かれた本。そのレプリカだって? 悪魔を召喚? なんて馬鹿らしい話だろう。現実にそんなことがあるものか。俺の両親はこんな与太話を本気にしていたのか。ふざけている。ふざけているからこそむしろ、ワクワクする。

 気付けば俺は、その紙を自宅へ持ち帰っていた。本の頁を切り取ったかのような、ざらついた手触りの紙。表裏にはそれぞれ、赤黒いインクで文字と魔方陣が描かれている。

 文字は読めない。形と並びからして恐らくラテン語ではないかと思い、スマホをかざしたところ、勝手に翻訳してくれた。科学技術の発展に感謝しつつ内容を確認すると、“超常的存在”の召喚方法について書かれているようだ。召喚において必要な生贄や魔方陣の書き方、召喚が推奨される時間帯まで丁寧に案内されている。

 やはり、本物なのか────

 いや、本物かどうかなんてこの際どうでもいい。娯楽に飢えた俺は、少しでも自分を楽しませてくれる何かが欲しい。この紙切れが本物なら、もし悪魔を召喚できるというのなら、それは変わり映えのしない日常を変える大きな切欠になる。たとえ紙切れに書いてあることが全て嘘っぱちで、誰かの悪戯に踊らされただけだとしても、それならそれで笑える話だ。

 俺は紙の指示に従い、全ての準備を終えた。召喚に必要な生贄は純金六グラム。外側に向かって八本の線を伸ばす魔方陣も、純金で床に描けということだったので、これは金粉を含んだインクを使った。時刻は朝の六時。南に向かって、燭台の蝋燭に火を灯し、座して待つ。

 ダイニングルームは暗い。カーテンは閉め切られ、蝋燭の小さな火以外、照らすものがないからだ。指示書きではないが、悪魔を呼ぶのなら、暗い部屋が似合っている。時が迫り、俺は、紙を手にしながら立ち上がった。

 「悪魔よ! お前が本当に実在するのなら、この場に出でよ! そして、俺を楽しませてみろ! ──さあ!」

 召喚の言葉は何でもいいらしい。ただ、召喚者の望みを声に出せば、“超常的存在”が応えるという。

 「おお……」

 瞬間、魔方陣が黄金に発光した。光と同時に風も流れ込み、燭台の火は吹き消され、カーテンが揺れる。俺の胸元で、銀の鍵も光りながら動いた。壁掛け時計の短針は六時ちょうどを指している。

 おとぎ話のように、泉から女神が出てくるとすれば、こんな感じなのだろうか。魔方陣という水面から、黄金の光に包まれた少女がひとり、頭から姿を見せていく。

 グリモワール・レプリカは本物だった。握りしめた紙と、生贄に捧げた純金は、青い炎に包まれ失われる。代わりに顕れた少女は、あまりに神々しい──

 神々しい?

 風は止んだが、光は彼女の後背から差し続けている。少女の身体は背から伸びた白い羽で覆われており、羽が退いたとき、細い肢体の全身が見えた。

 白と金の、簡素だが美しい布の服を着ている。燃える炎のような赤い髪は肩のあたりで切りそろえられ、金色の十字をした形の髪留めが目を引く。実在を始めて知ったとしても、俺は彼女がどういう存在なのか分かる。そうだ、これは、この姿は──

 「悪魔じゃない、天使、だ……」

 俺の言葉に呼応するように、彼女は目を開けた。髪の色と同じ、赤い瞳だった。

 「私の名は、天軍長ミカエル。この世の悪を滅ぼすため、今、地上に顕現しました」

 外見通りの若い女の子の声。しかし、広げられた大きな翼と、部屋を照らし尽くす後光は、まさに聖なるもの。人間でも、悪魔でもない。

 俺は唖然とした顔のまま、彼女を見つめることしかできない。彼女もまた、俺の様子が気になるのか、無言で見つめ返してくる。

 「ミカエル……?」

 勇気を出して声をかけると、彼女は頷いた。

 「はい。天使の軍勢を率いる長、ミカエルとは私のことですが」

 「そう、か……」

 どういうことだ親父! 大天使じゃねーか! 悪魔を召喚できるってケースの注意書きにあったろ!

 心の中で、死人に叫ぶ。両親の行き先が天国か地獄か知らないが、俺の声が届くことはないだろう。

 「……あの。貴方が私を召喚したのですよね」

 「え、いやその、違います」

 「違う?」

 「悪魔を召喚しようとしたんですけど。すいません。天に帰ってもらえますか」

 「は?」

 少女の眉間にしわが寄り、やや怒気を含んだ声が放たれる。天使も怒るんだ。

 後光は薄く消えゆき、部屋の明かりは、カーテンの隙間から差し込む朝日だけになった。

 「──うわ、酷い臭い……目や鼻にしみるほどの刺激を感じます。しかも、暗くてよく見えないし……」

 薄暗さの中でも、彼女が嫌な顔をしたのが分かる。ミカエルは両手で、カーテンを思い切り開いた。さらに、ガラス張りの壁を開放して、外の新鮮な空気を部屋に取り込む。

 高層マンションの最上、地上三十三階から見渡す景色は、東京の街がおもちゃのように錯覚する。眼下のビル群が朝日を受けて影を伸ばし、幾何学模様的な美しさを見せていた。一日の始まりを告げる冷たい風が、俺の汚れた灰の中に入ってくる。

 ミカエルが目をやったのは外ではない。陽光を得た部屋の中、悪臭の発生源を睨む。

 大理石仕上げのダイニングテーブルの上に、煙草の箱と灰皿が置いてあった。いつでも吸えるように、煙草は五カートンほど置かれている。灰皿には煙草の吸殻が円状に並べられ、こんもりと灰を積もらせた花が咲いているようだ。外の風に形を崩し、煌めく灰が崩れそうになる。

 「何ですかこれは」

 「煙草です」

 「貴方が吸ったものですか」

 「ですけど、何か?」

 ひとつ気付いたことがある。天使は存外、目つきが悪い。

 「貴方、名前は? 名乗りなさい」

 「神田榊」

 「榊。貴方はまだ若いでしょう。煙草は止めるのが賢明です」

 ミカエルが細い指先を灰皿に向けると、なんと、テーブルの上にあったものが青い炎に包まれていく。煙草もその吸殻も灰も、完全に燃えてなくなった。

 「あーっ! なんてことするんだ俺の煙草に!」

 「人生において不要な毒です。さて、空気も綺麗になったところでお話の続きを──」

 天使のすらりと長いおみ足が、缶をひとつ蹴飛ばした。銀色の缶は黄金色の中身を零しながら転がっていく。そして、ゴミ袋の山にぶつかって止まった。

 「すみません。私の足がぶつかって……あの、これはお酒ですか? 榊、貴方はなんだかお酒臭いです。同じような缶がいくつも転がっています。私を召喚する前に飲んでいたのですね?」

 「はい。軽く三本ほど……」

 「こんな時間から、なんと節操のない……」

 天使の視線が、缶から別のものに吸い寄せられる。部屋の隅に山を成すゴミ袋。そして、中身を溢れさせたゴミ箱。燃えるゴミも燃えないゴミも区別されず、缶も瓶も同じ袋に入っている。

 「何ですかこれは」

 「ゴミです」

 「どうして部屋の中に溜めたままなのですか」

 「外に運ぶのが面倒くさいからです」

 「捨てなさい!」

 ミカエルが腕を払うと共に、青い炎がゴミ袋を焼いていく。燃えないゴミの酒瓶であろうとお構いなしに火は点いて、何も残さない。彼女が零したビールの雫も、一緒に燃えて消えた。

 これは便利なものだと思ったのも束の間、彼女はゴミの隣に積んであった雑誌の山にも目を留める。

 それはグラビア雑誌であり、また、下の方には人においそれと見せられない、肌色が多い本も含んでいる。正直恥ずかしいので、俺は素早く身体を動かし雑誌の山を背に隠す。

 「何ですかそれは」

 「宝物です」

 「宝物ですか」

 「はい。なので、燃やさなくて結構です」

 「嘘ですね。早く見せてください」

 「どうして嘘だと言い切れるんですか」

 「本当にそれが大切な宝物であるのなら、ゴミと並べて置くはずがないでしょう」

 「ぐっ──!」

 全くその通りだ。ぐうの音も出ない。

 これ以上の抵抗が無駄であることを悟り、俺はせめて、この天使に注意喚起をする。

 「ひとついいですか」

 「なんでしょう」

 「見せてくださいと言ったのは、そっちですからね」

 俺は雑誌の中のひとつを無作為に抜き出し、彼女に手渡した。触った感触からして、たぶん下の方だ。

 ミカエルは薄い冊子を凝視する。それが本当に燃やしていいゴミかどうか、確かめているのだろうか。その真面目さが仇になる。

 「な、な──!」

 表紙を見ただけで、ミカエルは冊子を手元から取り落とした。陶器のように白かった肌に火が入り、これ以上ないというぐらい分かりやすく赤面しているのは面白い。

 「どうしましたか天使さん。ほら、どうぞ。見せましょうか。ほらほら」

 「や、止めなさい! いい、もういいです! 止めて!」

 落とした冊子を開いてやり、ミカエルに押し付ける。天使と言うだけあって俗世のあれこれに耐性がないのか、必死に目を瞑って中身を見ないようにしていた。

 「なんて汚らわしい……! まさか下界に、こんなものがあったなんて。しかもこんなに! 神田榊。まさか貴方、これらを常読しているのですか? 一刻も早く捨て去るべきです!」

 「いやー、捨てるのは面倒くさいんで。天使さんが焼いちゃってくださいよ。さあ」

 「見せなくて結構です! じゃあせめて、私の見えない場所に置いてください!」

 どうやら彼女は、視界に入れたものしか燃やせないらしい。つまり、彼女が直視できない俺の宝物は、一命をとりとめたということだ。

 俺は天使に一矢報いた後、雑誌の山を違う部屋に持って行った。


 「やれやれ、とんでもないやつを召喚してしまったな。家中に火を点けられちゃかなわん」

 開けっ放しだった窓は閉じられ、俺は部屋の電気を点けた。ソファに腰掛け、ミカエルにもそれを勧めたが、彼女は首を横に振る。

 「どうやら、いくらか誤解があるようですね。榊、あなたは悪魔を召喚しようとした。しかし、実際に呼ばれたのはこの私、ミカエルです。当てが外れましたか」

 「そうだよ、大外れだ。なんで天使なんて呼ばなきゃいけない。俺はまだ天国に行くつもりはないぞ」

 「何故、悪魔の召喚を試みたのですか。何か邪な願いがあったのですか。事次第によっては、罰を与えなければなりません」

 「罰だって? それは、青い炎で俺を焼くってことか? あのゴミみたいに」

 「返答次第です。悪を絶やすのが私の役目ですから」

 「願いなんてない。俺はただ暇だったんだ。悪魔なんて呼んでみたら、きっと面白いだろ?」

 「はぁ……」

 敬語すら捨てたぶっきらぼうな俺の答えに、立ち尽くして頭を抱えるミカエル。

 「いいですか、そんな軽薄な考えで悪魔を呼ぼうとなどしてはいけません。彼らは人の邪心に憑りつき、悪しき行いに加担します。榊は人の道を外れた罪人になりたいのですか。悪魔はあなたを楽しませようとするかもしれませんが、決して、あなたを幸福にはしません。正しき行いの中に幸福があるのです」

 「説教か? 別に、俺が何をしようとお前に関係ないじゃないか」

 「関係大ありです。人の子は皆、神の愛を受けています。人の子が悪に堕ちてしまうようなことがあれば、主はさぞ悲しまれるでしょう。そのようなことがないよう、人の子を悪から護るために存在しているのが私です。……ああ、榊。しかし私は失望しています。人の子が全て、生まれ持った美しき心を捨て、貴方のように自ら堕落の道を選んでいくのなら。私が護るべきものは何処にあるのでしょうか。人の子よ、主の愛を知りなさい。そして、主が貴方を愛するように、貴方は貴方自身を愛するのです。それが、堕落から引き返す唯一の手段なれば」

 憂いを帯びた声は、彼女が本心から俺のことを心配しているのだと伝えてくる。そんな悲しい顔と声で訴えられては、俺もなんだか気が引けてきた。申し訳ない気持ちになってくる。

 だが、余計なお節介だ。放っておいてくれればいいのに。

 「……俺は無宗教なんでね。主の愛なんて知ったこっちゃない。いいから帰ってくれよ」

 「榊はグリモワールを持っていませんね。グリモワールに記載された帰還の術がない限り、一度召喚したものを元の世界に還すことはできません。つまり、この私も天に還れないということです」

 「な──」

 そんな話、知らないぞ。俺が持っていたグリモワール・レプリカは、召喚と同時に燃え尽きてしまった。それにあの頁には、召喚方法こそ書いてあれ、それ以外の術については一切の記述がなかった。

 そういうことか。必要な頁が欠けている、だからレプリカ。所詮は不完全な偽物ということか。

 「榊。あなたはどのようにしてこの私を召喚したのですか? 実は召喚術に長けているとか、そういう特技があるのですか?」

 「い、いや、そんなものはない。俺はただ、グリモワール・レプリカっていう紙切れに書かれた通りに儀式を準備しただけだ。てっきり悪魔が呼べるんだと思ってウキウキしてたのに、まさか天使が出てくるとは思ってなかったがな!」

 「グリモワール・レプリカ? ふむ──」

 ミカエルはしばしの間押し黙って、何か思案を巡らせていたようだが、一度頷いてまた俺の方を見た。

 「そのことは後で考えましょう。神田榊。せっかく地上に降りたので、私はあなたと共にいようと思います。不本意であるとは思いますが、よろしくお願いしますね」

 「待て待て待て! 俺の家に住むつもりか!?」

 「はい。貴方はどうやら、悪の道に堕ちやすいように見受けられます。決めました。これからは私が貴方を監督し、清く正しい心を取り戻す手伝いをしましょう」

 「監督? どういう意味だ」

 「まず、出したゴミは溜め込む前に捨てさせます。先ほどのゴミの中身から、暴飲暴食がやや過ぎるのでは? 酔わない程度の飲酒は構いませんが、飲み過ぎるのはいけません。私が飲酒量を管理します。次に、禁煙です。もう二度と煙草を吸ってはいけません。あのような本も駄目です! 新しいものを買わないように。後は、悪魔を召喚しようなどと考えないよう、日ごろの行いから見て行きますよ」

 「冗談じゃない! そんなことに何の意味がある! 清く正しい心? それが俺に、どんな利益をもたらしてくれるんだ? つまらない生活でそんなものを手に入れたって──」

 「幸せになれます」

 「え?」

 「隣人を愛し、自らを愛せば、それはとても気分が良い。澄んだ心は同時に、貴方の世界を豊かに見せてくれるはずです。少なくとも、今の貴方の濁った心で見る世界よりは」

 「全く意味が分からねーよ。ったく……」

 ついさっき出会ったばかりなのに、俺のことを分かったような口を利く。天使というのはどうも説教臭くて嫌だな。

 俺を監督するだって? なんだかとんでもない話になってきたぞ。誰がそんなことをしてくれと頼んだ。俺から酒と煙草を奪えば何が残ろう。なんとかこいつを追い出す方法はないだろうか。白い天井を仰いで考えるが、特に妙案は思い付かない。

 気付けば時刻は八時を回っている。腹が減ってきた。何か胃に入れなければ、アイデアも浮かばない。俺はソファから立ち上がり、天使を退けてキッチンカウンターの向こうへ歩く。

 冷蔵庫を開ければ、ビールの缶や瓶がぎっしり並んでいた。うん、やはり何もない。ミカエルに冷蔵庫の中身を見られるとまた何か言われそうなので、炭酸水のボトルだけ取り出し、素早く扉を閉め次は棚の扉を開ける。そして、中にあったカップ麺を取り出した。

 ポットの中の湯をカップ麺の容器に注ぎ、砂時計をひっくり返す。砂が落ちきるのは三分後だ。炭酸水をグラスに注ぎ、飲みながら待つ。

 「何をしているのですか」

 「見りゃ分かるだろ。メシだよメシ」

 「ここにあるものは全て、天界にないものばかりです。しばらく見ない間に、人間の暮らしも大分進歩しましたね」

 「天使のクセに、人間のことはよく知らないのな」

 「私はずっと天界勤務でしたから。直接地上に降りたのは、千四百三十四年ぶりです」

 ミカエルは物珍しそうにカップ麺を見ている。まるで子供のようなその眼差しは、純真な天使に似合っていた。

 さっきから嫌なこと続きだったが、せめてひとつ良かったことを挙げれば、この天使の容貌が麗しいことだ。おおよそ人間離れした整った目鼻立ちは、視界に入ればなんとなくいい気分になる。

 芸術品を家に飾るようなものだろうか。俺は骨董品を取り扱っていた両親譲りの感性なのか、芸術品には多少の理解があった。

 「なあミカエル。ミカエルはどうして、女の子みたいな姿をしてるんだ。天使って皆そうなのか?」

 「これは少女体です。元の私の姿では力が大きすぎるため、そのままでは地上に降りられません。なので、地上で活動できる程度まで能力をダウンサイジングした結果、このような姿かたちになりました。私ほどの格を持つ天使でなければ、本来の姿のまま地上に降りられるでしょう」

 「ふうん。じゃあ、悪魔はどうなる? そもそも、悪魔ってこの地上とやらにいるのか?」

 「悪魔はいます。何千万年も前から人間の傍で、飽きもせず堕落の誘いを続けているのが悪魔です。彼らは影として人間に憑りつき、悪心を植え付けては、その者の欲を食べます。どうしてこの地上から戦争が絶えないか分かりますか。悪魔が人間の指導者に憑りついて欲を煽り、争うように仕向けているのです」

 最後の砂が落ちた。俺はカップ麺の蓋を全て剥がして捨てると、箸で麵を手繰って啜る。

 「欲を喰い、力を付けた悪魔は、影から出てきて実体を持つようになります。そうなればますます危険なことに──」

 「うん。やっぱり緑だな」

 「榊? 人の話を聞いていますか?」

 容器を両手で持ち、ダシの効いた汁を吸いながら、ミカエルの方を見る。

 素の顔はいいのだが、彼女はどうにも不機嫌そうな表情をしていることが多い。

 「お前も腹が減ったなら、勝手に食えよ。赤い方は食べていいぞ」

 「違います! 私は天使なので、何かを食べたりしません。……はぁ」

 何故ため息を吐かれたんだ俺は。気を利かせてやったのに。

 「榊、それは朝食ですか? 他にメニューは?」

 「ない。カップ麺だけだよ」

 「それだけでは栄養に偏りがあります。野菜を食べなさい。バランスの良い食生活こそ、人間の活動の基本を作ります。もっとビタミンを摂らないと、いい子になれませんよ!」

 いい子って、なんだよそれ。別に悪いことはしてないだろ俺。毎回の食事にまでいちいち文句をつけられては、とてもやっていけそうにない。

 俺は汁の最後の一滴まで飲み干すと、食事の後片付けを済ませて外に出る準備をする。ポーチの中にスマホと財布を入れ、自転車の鍵をポケットに入れた。

 「ミカエル。お前、ここにいても暇だろう。俺と一緒に出掛けないか」

 「榊がどこかに行くというのなら、私も付いて行きます。監督すると言いましたからね」

 「じゃあ着替えろ。その恰好は、外だと目立つ。後、羽も何とかしてくれ」

 ミカエルの着ている、純白に金縁のローブは天使らしい衣装だが、出歩かせられる恰好ではない。裸足だし。背中から生えている両翼はもっと問題だ。

 「ふむ。これでどうでしょう」

 羽がするすると、少女の背に吸い込まれていく。ローブには翼の動きを阻害しないためか、背が大きく開いていることに羽が収納されてから気付いた。

 「ですが着替えと言われても、後は鎧しか持っていませんよ。私」

 「鎧なんてもっと駄目に決まってるだろ。他にないのか? 仕方ない、俺の服を貸してやる」

 部屋と服を与えて着替えさせた。ハンチング帽に長袖のシャツ、ジーパン、スニーカー。全て男物のありあわせで、ミカエルの身体にはやや大きかったが、ひとまずこれでいいだろう。

 ミカエルは初めて着る人間の服が気になるのか、しきりに袖口や腰回りを触っている。自分の服を他人、しかも異性が着ているというのは、なんだか不思議な気持ちだ。

 「まだ違和感がありますが、人間らしい恰好になれました。ありがとうございます。ところで、何処に行くのですか」

 「まずは近所の公園かな。お前はこの時代のことをよく知らない。ここで暮らすなら、現代における人間の生活を知っておくべきだ」

 「それは理にかなっていますね。ええ、行きましょう。私も興味がありますから」

 俺たちはマンションを下りて、駐輪場に向かう。マンションの鍵はスマホで開錠できるのだが、やはりと言うべきか道中、スマホについてミカエルに色々と訊かれていた。

 この天使は、何も知らない。知識が前回地上に顕れた千何百年前だとかのままだ。人間の科学技術について相当に疎い。いいや、もしかしたら、俺たちの進歩が速すぎるのかもしれない。ここ十年でも科学技術の発展は著しいというのに、千年前と比べてしまえばここは別世界に等しい。

 俺は自転車に跨った。なんてことのない、ただのママチャリ。前かごと荷台が付いている。

 「お前は後ろに乗れ」

 「その自転車とやらは、二人同時に乗っていいものなのですか。座席がひとつしかありませんよ」

 「荷台が空いてるだろ、いいから乗れ。それとも、お前だけ走ってもらうか?」

 渋々といった様子で、ミカエルは俺の後ろに腰掛けた。仕様外の二人乗りでも、自転車が傾いたりする影響はない。まるで羽を乗せたかのように、彼女は軽かった。

 「俺の腹にしっかり掴まれ。数分で着く」

 一日が始まり出した都市の中、少女と風を切って進む。ヘルメットもしていない二人乗り、警察に見つかれば補導は必至だろう。だが、それもごく僅かな時間だ。

 同じ道を走る車は忙しなく俺たちを追い抜き、朝方から混み合うファストフード店には人だかりができていた。

 背中に温かく柔らかいものを感じる。ミカエルは俺の言うことに従い、密着していた。ふと、疑念が湧く。

 「なあミカエル。もしかしてお前、下着を着てないんじゃないか?」

 「渡されなかったので」

 じゃあノーブラノーパンかよ! 男一人暮らしが女物の下着なんて持ってるわけねーだろ!

 天使は下着を身に着けていないらしい。驚きの真実だ。改宗しようかな。

 「榊? どうしました?」

 「……何でもない。ほれ、着いたぞ。下りろ」

 大きな池を中心とした公園は、時間帯もあり、人が少ない。休日であれば子供を連れた家族が見受けられるが、今は平日。いるのは散歩している老人ぐらいのものだ。

 大都市の中にあって、その喧騒から遠く離れているような、不思議な静寂で満ちている。風景そのものも、灰色一色のようなコンクリートジャングルとは打って変わって、生命を感じさせる新緑が眼前に広がっていた。

 「召喚されてすぐ、窓から街を見下ろしたときは、なんと息苦しそうな街かと思ったのですが……このように自然豊かな場所も残っているのですね」

 「いい場所だろう。静かな朝のこの時間帯が、俺のお気に入りだ」

 自転車を傍らに押しながら、池の外周を歩く。蓮で覆われる水面はどこか神秘的で、澄んだ空気もまた、春の訪れを思わせる。

 そして視界の奥には、浅葱色の屋根が目立つ、神を祀ったお堂が佇んでいた。

 「ミカエル。俺はお前を失望させてしまったらしいな。確かに俺はゴミを貯め込むし、煙草を吸うし酒も飲むし食事の栄養バランスも滅茶苦茶だ。だから、謝罪する。天使であるお前に、人間の、こんなだらしのないところを見せてしまって」

 「榊──」

 「俺がお前をこの公園に連れてきた理由は、人間の心の美しさを再確認して欲しかったからなんだ。この公園を見てくれれば分かるだろう。開発の激しい都心部にあって、この場所はずっと守られ続けている。お前と宗派こそ違えど、神を想う心だって忘れちゃいない。みんな愛してるんだ、この世界を。人間の全員が全員、俺みたいに汚れ切った心を持っているわけじゃないって、それを知って欲しかった」

 隣のミカエルの顔色を窺えば、彼女は俯いている。どうしたのだろうと俺が声をかける前に、彼女は、俺の右手を両手で取った。

 「ありがとうございます。貴方の言葉で、私は幾分か救われました。私が護るべきものはこのような、愛のある世界なのだと実感できます。ええ、本当に、素晴らしい──」

 彼女の顔は赤みを帯びていた。気のせいでなければ、瞳も潤んでいるように見える。信じ難いことに、ミカエルは俺の言葉に感動しているらしい。

 「ですが、貴方の心も決して、汚れ切ってはいません。美しいものを美しいと思えるのなら、それは、貴方の心にも美しいものが残っているから。たとえ貴方が節操なしの酒のみで、暴飲暴食が茶飯事、ふしだらな本の蒐集が趣味なXXXだとしても、主も私も決して貴方を見捨てません。貴方の心に美しき愛さえあれば、いつでも正しき道を歩めるのです」

 「お、おう。そうか。ありがとう」

 罵倒されているんだか慰められているんだか分からないが、まあいいさ。別れの挨拶はこんなところでいいだろう。

 「俺はちょっと、向こうに自転車を止めてくる。待っててくれないか」

 「はい。次は、人の多い場所に行きたいです。ここに来る途中に見えたお店など見たいですね」

 俺は自転車を押し、池のほとりに立つ彼女の死角、林の影に隠れた。そして、自転車のサドルに跨り、全速力で漕ぎ出す。

 やや足早になっていることが悟られていないか心配だったが、杞憂のようだ。彼女が俺の脱走に気付いた素振りはない。

 天界に還すこともできないあの天使はもう、俺の手に負えない。だから置いていく。ペットを捨てる飼い主みたいな気分だ。

 俺の心に美しいものなんて、あるはずがないだろう。現にこうして、嘘を吐きながら君を捨てるんだから。正しい道なんてものに興味はない。汚れたまま、堕落したままで結構。

 さようならミカエル。君の光は、俺に眩しすぎる。


 耳をつんざく爆音。過剰なまでに光り輝く演出。金属の球がじゃらじゃらと機械に吸い込まれては、何処にも続かない穴の中へ落とされる。俺はそれをただ眺めるだけ。強いてやることを挙げるとすれば、筐体の指示に従って右手を動かすか、定期的に紙幣を筐体脇のスリットに差し込んで、球を補充してやることぐらい。

 公園の静けさはいい。水と緑に囲まれるのはどこか落ち着く。蓮の花は咲かぬ季節だが、特に見どころもない地味な風景も悪くない。

 だが、この喧しすぎる騒音と目に悪すぎる光の方が、俺を楽しませてくれた。平日の朝から金を溶かす背徳感は病みつきになる。

 朝十時から開店したパチンコ屋で、俺はいつもの席に座って球を弾いていた。大学の講義がない休みの日はこうして、開店する朝から腹の減る昼過ぎまでパチンコに勤しむのがルーティンなのだ。

 けれど今日は調子が悪い。およそ二時間で四万円が財布から消えて、俺は早めに切り上げることにした。はなから勝とうなどとは思っていない。ただ、大金を使い込むという快楽を味わう為にここにいる。それでも、全く当たりの出ない台では、感じられる楽しさにも限界があるというもの。

 時間と金を浪費した代わりに景品として貰った煙草を、すぐ隣の喫煙室で呑む。不味い。半分ほどの長さになったそれを灰皿に押し付け、パチンコ屋から出る。

 真昼の市街地は人通りもまばらだ。自転車を押してはいたが、乗らない。早く家に帰ってもすることなどなかったし、万一ミカエルが俺のマンションの入り口で張っていたら面倒なことになる。

 空は一面の灰色だった。昼間なのに、暗い。

 嫌な気分だ。胸元の銀の鍵を触った。

 金属製なのだろう。小さいながらもずしりとした重量感はあるが、鉄製ではない。具体的な材質は特定できなかった。気味の悪い商品を並べた地下室への扉を開ける鍵だ。きっとこれも、ただの鍵ではないはず。

 そうだ、「アイン」に行こうか。自転車に乗ればそう遠い距離でもないし。あの地下室を漁っていれば時間も潰せるだろう。

 そのとき丁度、後ろから悲鳴が聞こえた。振り向けば道を歩いていた若い女性が、車道から伸びた手にカバンを奪われているところだ。まさか、犯罪の現場に遭遇するなんて。思わず二度見してしまう。

 自転車に乗った強盗は、女性のカバンを前かごに乗せ、全速力で前を歩く俺を追い抜いていく。

 「泥棒です! 誰か、止めてください!」

 日本も治安が悪くなったものだ。だが、こんな白昼堂々とした犯行なら、誰かが捕まえてくれるはずだ。俺は女性の声を後目にこの場を離れようとした。

 が、どうだろう。辺りを見回せば、誰も動かないではないか。道行くサラリーマンは仕事だからと忙しそうに走り抜け、老人はとても追えないと見ているだけ。誰も彼女に手を貸そうとしないし、警察を呼ぼうともしていない。女性の叫びは虚しく通りに響き、彼女の顔が不意に、こちらを向いた気がした。

 ──ああ、クソ。

 今日はとんでもない厄日だ。

 俺は自転車に跨り、勢いをつけて漕ぎ出した。道路の向こうに、まだ強盗の背が見えている。追いつけるだろうか。いや、たとえ追いつけなくとも、誰かに追われていることが分かれば、向こうだってカバンを捨てて逃げようとするかもしれない。だとしたら、それでいい。強盗を捕まえられなくとも、奪われたものを取り返せるだけで十分だ。

 強盗の容貌は、フルフェイスのヘルメットで覆われて不明だ。だが背格好からでも分かるその体格の良さから、男ではないか。向こうも一瞬、俺の方を見た。すると、自転車を更に加速させてゆく。

 なんて速さだろう。同じ自転車であるというのに、向こうは自動車と並走──いや、自動車すら追い越している。これではまるでバイクじゃないか。どこかにエンジンが付いているようには見えないが。

 俺の先を行く強盗は、十字の交差点を左に曲がる。信号の色なんて知ったこっちゃないと言わんばかりに、横断歩道上の歩行者の間を突っ切って。

 ならばと俺は、交差点より手前の細道を左に曲がった。強盗は早いが、この辺の地理については俺の方が詳しいようだ。細道を出て大きな道路に合流すれば、強盗のほぼ真後ろに出る。

 追いつかれそうになり焦ったのか、強盗はハンドルを切ると道路から逸れ、裏路地の方へ自転車を進ませた。尋常でない加速をしていた自転車はそのまま、路地の突き当りの壁に衝突するも、強盗は怪我ひとつないようで路地の奥へ走り出す。

 俺も自転車で路地に侵入し、ひしゃげた自転車の手前に自分のを止める。強盗の使っていた自転車は、特に前輪のフレームが完全に歪み、再起不能といった様子だ。しかし、ご丁寧に前かごからはカバンが抜かれている。自転車がこれほどに破壊される勢いであっても、ヤツはなお動けるというのか。

 路地は狭い。とても車は入れないし、人だって横に数人並ぶのがやっとだ。その路地の奥に、強盗はいた。これ以上逃げる気はないのか、俺の方を向き直り、手にしたカバンを地面に落とす。

 「おい……お前……! も、もう……諦めろ……! さっさと……それだけ置いて……行け……!」

 駄目だ、息が切れて上手く喋れない。あいつに追いつくために、普段は使わない筋肉まで酷使した。こりゃ明日は筋肉痛になりそうだ。新鮮な酸素を吸い込みながら、目の前の強盗を見据える。

 「しつこい奴だ。他人のカバンを取り返す為にここまで付いてくるなんて、余程のお人好しだな」

 「そういうお前は、人でなしだ……! 他人の物を盗っちゃ、いけないって、親に教わらなかったのか……それとも、頭が足りなくて忘れたのか? これから……警察に通報する。走って逃げられるといいな……!」

 強盗の声はやはり、男のものだ。俺以上の速度で自転車を漕ぎ、思い切り壁にぶつかっておきながら、息ひとつ切れていないらしい。男はさらに、俺の言葉を聞いて軽く笑ったように、頭を上下に動かす。

 俺はこの男に、薄っすらと気味の悪いものを感じていた。どこか人間離れした身体能力に、余裕のある態度。何かおかしい。不自然だ。

 「いいや、俺は逃げない。誰か来る前に、ここでお前を殺してしまえばいい──」

 「何だと?」

 「声が聞こえるんだ。奪え、奪えと叫ぶ声が……! お前からも奪ってやる!」

 男の声は段々と狂気を孕んでいく。おおよそまともな状態とは思えない。

 男の足元、暗い影が大きくなる。それは人の形から逸脱し、四つ足の獣のようなシルエットに変化すると、ゆっくりと浮かび上がった。

 影という名の海から浮かぶもの。それは獣。それは欲心。獅子の頭を持つが、かの獣の四肢はまた別の獣の部位で構成されていた。また、牙は鋭く、瞳は明らかな敵意を持ってこちらをねめつけてくる。この世にあってはならぬものだと、一目で直感する。

 「うわっ!」

 その獣が腕を振るう様を、俺は目で追うことができなかった。獣爪がコンクリートを抉り、俺の隣の地面数メートルに渡って深い溝をつける。

 獣の口元が緩んだように見えた。笑っている。さっきの一撃で俺を殺せたにも関わらず、あえて攻撃の威力を見せつけ、俺の反応を愉しんでいるんだ。

 「俺は悪魔の力を手に入れた。人間を凌駕するこの力があれば、俺は何でもできる! 誰も俺を止められない!」

 「嘘だろ──」

 悪魔──その実在を、俺はもう知っている。そうだ。俺が本来呼びたかった、理外の存在。

 それが今、目の前にいる。俺に牙を見せつけながら。

 牙のみならず、悪魔の爪は鋭く、脚もまた強靭だ。いくつもの動物の、優れた部位を欲しいままに集めた結果なのだろうか。などと、死の際にありながら何故か益体もない考えが浮かんでくる。

 『欲を喰い、力を付けた悪魔は、影から出てきて実体を持つようになります。そうなればますます危険なことに──』

 脳内に、どこかで聞いた声のどこかで聞いた言葉が響く。

 「ウァレフォル! その人間を喰い殺せ!」

 逃げられない。足が竦み、尻もちをついてしまった。迫りくる獣貌の悪魔に対して、身を守る何の手立てもない。

 俺は馬鹿だ。つい、目の前の犯罪なんかに首を突っ込んでしまったからだ。あのとき無視していればこんな目には遭わなかった。まったく余計なことをした。あそこにいて、事件を見て見ぬふりをしていた通行人の方が、よっぽど賢明だったわけだ。

 よかれと思ってした行いが、必ずしも報われるとは限らない。

 世の中ってのは得てしてそんなもんで、だから、正しさだとか美しさだとか愛だとか、そんなものに価値なんてないんだ。それを知っていたはずなのに、俺は────

 嗚呼、なんてつまらない死に方をしたな────


 「そこまでです!」

 高らかに声が響く。路地には、俺と悪魔、強盗しかいないはずなのに。

 声のする方、天を仰げば、建物の屋上に誰かが立っていた。高校生ぐらいの女の子に見える彼女は、その身の丈に少し大きい、男物の服を着ている。

 「女──? チッ、こんなところに人がいたとはな。なに、お前の餌が増えたってもんだ。……おい、ウァレフォル? どうした?」

 男は未だ余裕ぶった態度だが、悪魔の方が聡いようで、毛は逆立ち、歯を打ち鳴らす音が聞こえるほどに震えていた。分かるのだろう。人間と、そうでないものが。

 少女が帽子を取れば、曇りのない眼と、凛々しい顔つきが露になる。そして、真実も。

 「我が名はミカエル。天使の軍勢を率いる長にして、蛇を打つ者。そして、荒野の暗闇に差す光である!」

 少女の赤い髪を留めていた黄金の十字が取り外され、彼女の手の中で、燃え盛る炎を放つ。青い炎は十字──いや、剣のように交差して、髪留めはまさしく悪魔を討つ武器となった。

 炎の剣を胸元に掲げれば、炎が燃え移るようにミカエルを包み込み、弾ける。蒼炎の中から現れたときには既に着ていた服が影も形もなく失われており、代わりに纏った白銀と黄金の鎧が太陽の光を反射していた。

 頭の後ろからはどこからともなく光が差し込み、背から生えた純白の翼は大きく広げられる。風に赤髪を靡かせる彼女の姿は、誰がどう見ても天使。宗教画でしか見たことのないような存在が、現実世界に降り立つ。

 「天使だと!? ば、馬鹿な……!」

 「汝、盗む勿れ。悪魔をその心に呼び込み、罪を犯したのならば、悔い改めよ。そして悪魔は、疾く去るがいい!」

 屋上から飛び出したミカエルは、宙に浮きながら、炎の剣を振りかぶった。強盗と悪魔は逃げ出そうとするも、とうに遅い。

 太陽と見紛う尊い耀きが細道の闇を照らす。

 「セラフ・ヴィクトリア────!」

 まるで夜明けの空みたいな色をした炎が、路地の一角ごと敵対者を焼き尽くした。俺は反射的に腕で顔を覆う。風が狭い道を吹きすさぶが、不思議と熱量は感じない。

 悪魔は瞬く間に消滅し、強盗はその身体に火を点けたまま倒れる。その他の床や壁、転がっている空き瓶のようなゴミが焼けることはない。ただ、悪だけが焼けた。

 「まさか、死んだ……のか?」

 「悪魔は滅びました。そこの人間は、気を失っているだけです。彼の中の悪心は失われ、次に目が覚めたときに、彼は自らの罪を贖おうとするでしょう」

 ゆっくりと、物理法則に反した動きでミカエルは空から着地する。炎は彼女の手の中に納まり、十字の髪留めに戻る。彼女が髪留めを付けると、鎧もまた消え、俺の服を着たサイズの合わない格好になった。光背も翼も、もうない。

 一瞬の、白昼夢のような時間だった。天使は確かにそこにいたのに、今はもう、十代の女の子しかそこにいない。

 「ミカエル──」

 「はい」

 俺は改めて、彼女に声をかける。恐る恐る、俺が彼女を五時間近く公園に放置していた事実を思い出しながら。

 「悪魔の力が行使された気配を感じて、この場に急行しました。榊はどうして悪魔に襲われていたのですか?」

 「俺はただ、ひったくり犯を追いかけていただけだ。そしたらこいつ、悪魔を召喚していて……すまん、助かった」

 「いえ、私は務めを果たしただけです。しかし、奇妙ですね。この人間はグリモワールを持っていないようですが、一体どのようにして悪魔を召喚したというのでしょうか。グリモワールなしでの召喚が行えるほどの力があるようにも思えませんが──」

 ミカエルは俺の方を見た。アレについて追及されるのではないかと、少しドキリとする。

 「……ふむ。ともすると、私たちと同じやもしれません」

 「同じだって? こいつらと、俺たちが?」

 「グリモワール・レプリカとやらで召喚を行った可能性がある、ということです。正統なグリモワールでも、優れた召喚術によるものでもなければ、次に考えられる手段はそれでしょう。誰でも簡単に悪魔を召喚できてしまう紙片……もしそんなものが世界中に出回っているとすれば、これは非常に恐ろしく深刻な事態です」

 確かにその通りだ。今回のように悪魔を利用した犯罪が横行するようになれば、治安の悪化なんて話じゃ済まなくなる。ミカエルがいてくれたからこそ俺は助かったが、誰かが悪魔の力を借りた人間に立ち向かおうとしても、簡単に殺されてしまうぞ。

 しかし、悪魔を召喚するなんてそんな物騒な代物が、ほいほいと市場に出回っていて堪るものか。そんなものがあるだなんて話を俺は聞いたことがないし、どこかでニュースになったこともないだろう。仮に取引されているとしたら、それは一般人が知る由のない世界の裏側の話で──

 ふと、脳裏にフラッシュバックしたのはアインの地下風景。人の目から隠すように置かれた“商品”。何故アインにグリモワール・レプリカがあったのか──それはもちろん、売るためではないのか?

 俺の両親はどういう仕事をしていたんだ。古物商というのは表向きの仕事で、実際は表沙汰にできないような、アングラかつ悪魔と関わりのある商売が中心だったのではないのか。恐ろしい考えはどんどん深まっていく。

 「榊」

 天使の声で俺の意識は呼び戻された。

 「彼がどういう経路で悪魔を呼び出したにしろ、その悪魔も消え去りました。私が来るまで、あなたが彼を引き留めてくれたからですよ。ありがとうございます」

 「いやあ、ははは……」

 「あなたが盗人を追うとは、意外でした。てっきり見て見ぬふりをするような人物とばかり……謝罪します。それとももしや、私の説法が効いていたり?」

 「それは違う。単なる俺の気紛れだ。決して大天使様の有難いお話を聞いたからじゃない」

 「ふふふ、そうですか。なら安心できます。榊の心にはやはり、初めから愛があったわけです」

 「自分に都合のいいように解釈するなよ。危うく死にかけたんだ、二度とこんなことするか」

 生命の危機から一転、和やかなムードに包まれる。

 よかった。結局のところ、彼女は怒っていないらしい。などと思ったのは一瞬で──

 「ところで、榊。私を置いてどこかへ行ってしまったことについて、何か言うことがありませんか?」

 笑顔から真顔へ切り替わった天使の表情に、俺の背筋は凍り付いた。次に裁かれるのは俺らしい。


 電話をかけると、警察はすぐに到着した。けたたましいサイレンの音が野次馬を呼ぶ。

 強盗はふらふらとした足取りでパトカーの中に押し込まれ、ブランド物のカバンは本来の所有者の元へ帰った。女性は何度も俺に頭を下げ、感謝の言葉を述べる。カバンの中には財布もスマホも入っており、何よりカバンそのものが、祖母の形見だったという。

 簡単な事情聴取を終えた俺は、後で連絡するための氏名と電話番号を控えられた後、日の落ちかけた空の下に開放された。自転車を押しながら、ミカエルと同じ歩道を歩く。

 「本当に申し訳なかった。二度としない、約束するよ」

 「やれやれ……天使を追い出そうと外に連れ出した挙句、公園に捨てていくとは。しかも、私が榊の帰りを待っている間、あなたは遊び惚けていたと? 本当にどうしようもない人間ですね」

 俺は件の仕打ちについて必死に謝っていた。ミカエルの冷ややかな目線と胸を刺す言葉が痛い。

 強盗と纏めて焼かれなかっただけ温情だろうか。次はもっとうまくやろう。

 「天使を欺くなど本来あってはならないことですが、しかし、そちらの罪は不問にしておきます。榊」

 俺の隣で天使は笑った。自分を騙した相手にまだそんな顔ができるのか。

 「あなたは、見ず知らずの人を悪から助けるという善い行いをしました。どうですか? 気分がよいでしょう」

 「……ああ。感謝されてるんだ、悪い気分じゃない。実際、俺は頑張ったからな」

 「ええ、ええ。頑張りましたね。よしよし」

 「なっ──」

 事もあろうにミカエルは、俺の頭を撫でようと手を伸ばした。彼女の掌が髪に触れる。俺は咄嗟にその手を払いのけた。

 「何をするミカエル。止めてくれ」

 「もう、どうして嫌がるのですか。私はあなたの努力を労わったまでです」

 「外聞があるだろ、俺はもう大人なんだ。女の子に頭を撫でられるところなんて誰かに見せられるものか」

 「なら帰ってから、家の中で撫でます。それで問題ありませんね?」

 「大ありだ馬鹿。俺は撫でるのを止めろと言ってる」

 「やれやれ、愛は受け取るものですよ。榊には愛が足りていません。愛されると嬉しくなって、あなたも誰かを愛したくなるは──」

 「ならない」

 相変わらず話にならない天使だが、それでも、その笑顔だけは可憐だ。歴史上の偉人か手にかけた、著名な彫像にも劣らないだろう。ずっと黙っていればいいのに。

 生きる芸術品を横目に一時停止すると、ポケットの中の煙草に片手を伸ばす。

 「これからどこへ行くのですか、榊」

 「……まだ、案内の途中だったな。行ってみたい店があるんだろ? 付いてこい」

 「はいっ!」

 朝から穏やかでないことばかり続いているが、実のところ俺は、どこかこの状況を楽しんでいた。現実離れした存在を目の当たりにできたことに興奮していたのだ。だからこそ今の俺は、悪魔に殺されかけてなお気分が良い。

 両親の秘密の仕事、胸に揺れる銀の鍵、レプリカ・グリモワール、天使に悪魔……ほとんどの人間が知らない、世界の裏側。俺だけが隠された真実に触れられる。そんな気がして、優越感すら覚えている始末。

 楽しいだろう、これは。人知を超えた超常の数々。日常を裏切る非日常。いくら金を積んだって、こんな体験できるものか。

 俺の人生に、両親が死んで以来の波が立った気がした。

 「榊、それは?」

 「ん? ……あ」

 傾く自転車を身体で支えつつ、咥えた煙草に火を点けようとライターを近づけた俺は、そこでようやく気付く。身に染み付いた癖のまま、よりにもよって彼女の目の前で煙草を取り出したことに。

 「煙草は禁止と、そう言いましたよね? また買ってきたのですか? 今ならまだ間に合います。さあ、私に全て提出してください。さあ!」

 手持ちの煙草が没収され、俺は地平線の先にまで続く道路を見続けることしかできなかった。隣で焚かれる青い炎は、煙の残り香すら俺に嗅がせてくれない。

 天使って残酷だなぁ。

 回転する自転車の車輪の音が、どこか虚しく感じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大天使とクズ野郎 白ノ光 @ShironoHikari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ