第5話 箱庭

 ルーカス自身が持つと述べた『賜物(タラント)』の存在は納得できた。二度も体験すれば否定もできない。しかしエミリアは、自分がその者であるとは思えなかった。


 もしかしたら、父は確かにそうであったのかもしれない。親族の贔屓目を差し引いても、優秀な人であったと思う。

 母は家政を切り盛りしながら、エミリアの中へ父への敬意が育つよういつも夫を立て、褒めていた。週のうち数日、家に立ち寄れば多いと思うほどに忙しい父だった。そんな父への親愛をエミリアが培い、今もそう思うのは、そうした母の姿勢による。母自身が夫を敬愛し、尊敬し、決して口だけではない情を抱いていた。

 いつか、両親と同じく、固い絆で結ばれた家庭を築くのが夢だった。

 そうできると疑わなかった未来は、来ない。


 エミリアが初主演を果たした公演は、一週間の追加公演の後に終幕した。それによってエミリアは国内で揺るぎのない名を得る。

 今やエミリアは引く手数多の売れっ子女優だ。他の劇場や劇団から多くの引き抜き話が飛び交った。そんな状況も踏まえてルーカスは、正式に自分が劇場の所有者になった運びと、エミリアの支援者になった事を公に示した。劇場の名前を改めたのだ。

 古来からの慣わしで、劇場には女性名が冠される。クレスツェンツ劇場。それを聞いたとき、エミリアは泣いた。エミリアがいくらかルーカスへと抱いていた疑心や反発心は、霧散する。――エミリアの母の名だった。

 エミリアの母は、夫である父と連座で処刑された。その際に名を宣告さえされなかった。

 ただ、エミリアの心にあるだけの大切な思い出になってしまった名を、多くの人が口にする。咎人としてではなく。好ましい響きとして。

 これまで決して自分のための涙を許して来なかったエミリアは、ただただひとりで泣いた。それによって、こごりになって胸に溜めていた両親を悼む気持ちを、自覚できた。痛みを伴う涙だった。


 やんわりと拒否しやり過ごしてきた『訓練』を受けようとエミリアが決めたのも、そうした背景からだ。自分に、そんなだいそれた力があるとは思っていない。けれど、一貫してエミリアへの誠実を示し続けるルーカスへ、なにか返せないかと考えたのだ。もらってばかりだと感じるが、そもそも、エミリアの手には『看板女優』という不確かな名があるのみ。なので、彼が自分へ望んでいる事柄はなんでもやってみようとエミリアは思った。もしかしたら、そんなエミリアの心情の変化を期待しての改名でもあったのかもしれない。

 ルーカスが詰める劇場主部屋へ赴き、エミリアは言った。


「わたしを『訓練』してください」


 ルーカスは美しい目をいくらか眇め、エミリアへと手を差し伸べ「わかった」と述べた。エミリアはその手を取る。ぎゅっと握る力に、彼がこの日を待ち望んでいたのだろうとエミリアは察した。面映ゆく思う。

 座るよう促され、エミリアは猫足のソファに沈む。表情こそは変わらなかったが、ルーカスの声は少しだけ喜色を帯びている。


「呼吸法(エロキューション)は、私が述べるまでもなく、君は身に着けているだろうな」

「はい、女優としての基礎ですから」

「頼もしいな。私は半年かかったよ」


 壁際にはこれまでと同じく黒服給仕が控えていた。オイルマッチで手早く湯沸かし台に火を入れる。女優たちが接待をしなくなった今、彼はずっとルーカスの元に侍っている。まるで秘書のようだ。

 先日も込み入った話しをするときに、ルーカスは彼を同席させていた。この男を、こんな内密な事柄にまで関わらせていいのだろうかとエミリアは思う。人員の入れ替わりが激しい劇場という場所においては、たしかに古株の職員ではある。エミリアがいくらか目でその動きを追ったのを悟ったか、ルーカスは「カールが気になるか? 解き明かしをしよう」と言った。


「解き明かし? なにをですか?」

「彼は、元々私の部下だ。君を見守らせるために、ここへ潜入させていた」

「ええ?」


 思わずエミリアはその姿をまじまじと見る。目が合うと黒服給仕は片目をつぶって見せた。彼の笑顔など、エミリアは初めて見た。

 エミリアはルーカスの言葉を信じきれていない。それは内容が突飛すぎるからだ。けれどその本気度は理解できた。黒服給仕の彼がこの劇場に勤めだしたのは、たしか、エミリアが名前持ち(ネームド)役者になるずっと前。まだ子役時代のころではないか。そんな昔から、ルーカスはエミリアを気にかけていたのだ。エミリアの胸に、ふつふつと温かな感情が湧き上がって来た。


「まず、いくらか説明をしよう。理解なしに訓練をしても的を外すだけだ」


 エミリアの向かい側に座ったルーカスは、前傾姿勢で指先を組んだ。それは彼が考え事をするときの癖と思えた。ルーカスは視線をどこかへ投げ言葉を選びつつ「まずは『賜物(タラント)』に関して話そう」と言った。


「私の賜物は『言霊の筆(The Pen of Verity)』と呼ばれている。知っての通り、力ある言葉を書き記す能力だ。記録によると、私で史上二人目の保有者となる」

「記録? 記録になるほどに、多くの人がいるのですか?」

「多くは存在しない。特に、同じタラントはふたつ同時に生じない。ただ、長い歴史があるだけだ。遡れば神話の世界に起源を見るほどに」


 壮大すぎる話にエミリアは笑って首を振る。さすがに、自分がそこに連なる者だとの話は荒唐無稽に思えた。ルーカスも少し笑って「私も系統立てて説かれるまでは、理解も、納得もできなかったよ」と言った。


「追々話して行こう。今は概要を説明する。君の賜物は『真実の響き(The Echo of Truth)』と呼ばれる。……君の父君が所有していたタラントだ」

「父の……?」


 ルーカスのその言葉にそわそわと心が浮き立つ。エミリアの手元には思い出しか残らなかった。それすらも血みどろ色に塗り替えられ、今でも夢に見る。しかし、父から遺された何かがあるのだ、と。その考えはエミリアの気持ちをいくらか上向かせる。


「そして、私たち賜物を持つ者を『恩寵者(ヴィルトゥオーソ)』と呼ぶ」


 ルーカスの声が宣言の響きを持ってエミリアへ届いた。それは不思議な感覚だった。以前も聞いた単語だ。けれど、今は格別の実感を伴ってエミリアを深く自覚させる。


 ヴィルトゥオーソ。目の前が一気に拓けたと思う感覚。強烈な、揺るがぬ確信。エミリアは気づいた。――わたしは、恩寵者だ。


「賜物が、子へ受け継がれた前例はない。君が初めてだ。しかし、フォン・ハインリヒ侯は、それを予期されていた。君に賜物が発現したなら導き手となるよう、私に懇願された。しかし、本来ならば過ぎた力だ。発現しなかったなら、そのまま見守ってほしいと」


 いろいろな感情が迫り上がって来て、エミリアは決壊しそうな気持ちを抑え込む。そして早口で「父は、なぜわたしにタラントの教えをくれなかったのでしょうか」と言った。

 ルーカスは深くうなずいて答える。


「タラントは、請けた者にとって恵みであると同時に災いだ。ひばりの例に見る様に。関わらないで済むなら、それに越した事はない。まして――『真実の響き』は、ひばりが所有していたタラントだ」


 どくん、とエミリアの心臓が跳ねた。ルーカスの言葉を起点に、目の前の景色が変わった。すべて白と黒で構成された景色。音はない。森だ。ひとりの女性が歌っている。その傍で幸せそうにほほ笑んでいる男性。場面が切り替わる。男性が、誰かから金銭を受け取っている。暗転。馬車の中。女性は不安気な表情。次は豪華な調度品が並ぶ部屋。これ見よがしに宝飾品を身に着けた男が、女性へと何事かを命じる。女性は歌う。男は笑う。暗転。猿ぐつわを噛まされた女性は、抵抗も空しく手籠めにされる。暗転。ひたすら歌わされる日々。女性はやせ細って行く。気力が尽きて歌えなかったとき、男は腹立ち紛れに女性の髪の毛を掴んだ。ごっそりと髪が抜ける。驚いた男は女性を突き放す。暗転。どこかの広間。男が額づいている先には、玉座。男が持つ鎖の先には、首輪を着けた女性。暗転。

 最後には、女性の毛髪はすべてなくなり、歯も抜け落ちていた。落ち窪んだ瞳に光はない。エミリアは違和感を覚え首を巡らせて女性を真正面から見た。声をあげそうになる。女性は、手足を切り落とされていた。


 暗転。目を開けると、エミリアの目の前に刃があった。それが自分へと振り落とされる瞬間、エミリアの口は言葉を紡いだ。――『わたしを手にしたすべての者に災いあれ』


 あまりの恐ろしさにエミリアは悲鳴をあげた。ルーカスが自分を呼ぶ声を聞き、目の前が一斉に色づく。白昼夢だった。エミリアは大きく身震いした。


「だいじょうぶか、クララ」

「はい。――はい」


 黒服給仕のカールが、気遣わしげに茶を差し出した。エミリアはすぐにそれを手に取り口へ含んだ。エミリアが好きな銘柄の茶で、体の芯に熱を入れてもらった気持ちだ。いつの間に自分の好みを把握していたのだろうと、エミリアはぼんやりと思った。


「……話を、続けてください」

「本当にだいじょうぶか? 体調が優れないなら、後日でかまわない」

「いえ、いいえ。聞きたいです。知りたいです」


 ルーカスはじっとエミリアを見、うなずいて「そうか」と述べて言葉を続けた。


「私たちがタラントを制御しなければならない理由はふたつある。まずは、周囲への影響が大きすぎる。そして、タラントの力を用いるのは『自分を捨てる』と同義だ、と言われている」

「自分を……捨てる……」


 エミリアは、先程の白昼夢を思い出した。あれは――きっと、ひばりだ。


「その言葉が意味するところは、恩寵者それぞれで違う。しかし、その者を構成する重大な何かが損なわれる事は同じだ。ある者にとって、それは能力自体かもしれない。もしくは、命かもしれない」

「はい。……よく、わかります」

「損なわれ、喪われてしまった何かは、決して取り戻せない。また、用いる度に体調が悪くなる」


 そう言われ、エミリアははっとしてルーカスを見た。そして「……わたしのために、もう、二度も」とつぶやくと、ルーカスは笑った。


「それは気にしないでくれ。私も、闇雲には用いない。君の導き手として当然の事をしただけだ」

「けれど、あなたの何かが、損なわれてしまったのでは……」

「どうか、私の贖罪と恩返しと思ってくれないか。私は、同じ様に君の父君に導いてもらった」


 父なら、そうするだろう、と思った。とても優しくて、気高い人。そしてそれをルーカスが受け継ごうとしている。エミリアは泣きそうな気持ちでうなずいた。


「――そして、君の父君が所属し、私もまた席を置いている組織。……『恩寵者の箱庭(ヴィルトゥオーソ・サンクタム)』へ、君を招待したい」

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カーテンコールは、復讐を告げる。 つこさん。 @tsuco3

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