第4話 賜物

 ――父が。父は。

 続きを催促するのははしたないと思い、エミリアはうつ向く。

 エミリアにとって父とは、遠くなってしまった憧れだった。とても忙しい毎日を送る父とは、同じ家に居ながら会う機会はとても少なかった。それでも自分へ向けてくれた愛情への確信が揺らがないほどに、エミリアは父を慕っていたし、親愛の情を抱いている。そして実際に、父はエミリアを、母を、心底愛していたと思う。

 あの日。すべてが終わったあの日。父と母はエミリアを交互に抱きしめた。そして、父はエミリア――クララへ、言った。


『この家から、私たちが被った冤罪から落ち延び、生きなさい。そして、必ずいつか幸せになりなさい。愛している』


 それは、力ある言葉で。

 家事使用人のお仕着せに着替えた後、彼女が見たのは、たくさんの兵士に押し入られ連れて行かれる両親の姿だった。

 裁判もなく。そのまま処刑場へ。彼女が必死に走ってたどり着いたそこで、形ばかりの裁判官が読み上げていたのは――まるであり得ない罪状だった。


「――フォン・ハインリヒ侯爵は、不思議と誰の目にも見咎められずに、面会謝絶になっていた私のところまで来てくれたんだよ」


 深く沈みかけた思考が、ルーカスの低い声によって引き戻される。エミリアはかすかにうなずき話の続きを待つ。

 生前の父を語ってくれるのはきっとこの世に彼だけになってしまった、とエミリアは思った。そのためにルーカスの声や紡がれる言葉はエミリアにとって甘美で切ない。


「侯は、私の手を取り『もう心配いらない。君の体調はすぐに良くなる』と言ってくれた。そして、そうなった」


 エミリアは、ルーカスが劇場を買収した日を思い出す。あのとき。ルーカスから手渡された紙片には、今彼が述べた言葉と同じ内容が書かれていた。エミリアの体調が回復すると。そしてその通りになった。

 内容に類似性があるのはわかる。が、エミリアは困惑してルーカスを見た。ただ言葉ひとつで、あれだけの不調がなくなるなんてあるだろうか。実際に体験してすら信じられない。

 エミリアの気持ちなどお見通しとでもいった風に、ルーカスはほほ笑む。そして言った。


「結論から言うと、侯は『恩寵者(ヴィルトゥオーソ)』だった」

「……え?」


 なにを言われたのか理解できずにエミリアは「もう一度言ってくださいますか」と頼んだ。ルーカスはゆっくりとした口調でもう一度言う。


「君の父上、エックハルト・フォン・ハインリヒ侯爵は『賜物(タラント)』を持つ者である、ヴィルトゥオーソだ」


 エミリアは聞き慣れない単語ばかりで戸惑う。けれどたしかに過去において耳にしたとは思う。記憶を浚って考えるエミリアの様子を、ルーカスは前傾姿勢になりながら見ている。おそらくエミリアの結論を待っている。焦るが、エミリアはしばらくして降参した。


「ごめんなさい。昔聞いた事がある単語だとは思うのですけれど。見当がつきません」

「そうか。……いや、うれしいよ。侯は、たしかに君を愛していたのだな」


 優しい眼差しでそう言われ、エミリアは泣きそうになる。――そうでしょう、わたしは愛されていた。その自覚だけを拠り所として、エミリアは生きて来た。


 微温くなってしまった茶を、黒服給仕が取り替える。彼の存在を忘れてしまっていたほどに、エミリアはルーカスの話と瞳に捕らわれた。ルーカスは続けて言った。


「私は大人になってから知ったのだが。寓話の『かしこいひばり』を知っているか?」

「はい。幼いころに何度も読みました」

「どんな話だった?」


 戸惑いつつエミリアは視線を落として考える。それは題名の通り、一匹の美しい鳴き声のひばりを取り巻く物語だ。

 そのひばりは声が美しいだけでなく、歌に未来を乗せる事ができたので、多くの人間が欲しがった。最初は森の少年とともに住んでいたひばりは、やがて行商人の手へ、貴族の家へ、そして王の元へ献上される。

 しかし、ひばりは歌うたびに翼の羽根が抜けてしまう。飛べなくなるほどにぼろぼろになっても、人間は歌わせようとする。ひばりはあるときから声を出さなくなった。王は歌わないひばりを疎ましく思い始め、ある時殺してしまおうとする。

 首元に刃を当てられ、ひばりはそれまで誰も聞いた事のない恐ろしい声で歌った。


「わたしを手にしたすべての者に災いあれ」


 ひばりはそのまま首を落とされ死んでしまった。それによって、これまでひばりを所有してきた者たちが恐慌に陥る。なぜなら、ひばりは死んでしまった。もう一度歌わせて、その呪いを無効化させられない。

 やがて、王を始め、森の少年に至るまで、すべてひばりに関わった者は死んでしまった。また、その国自体もひばりの恩恵に与っていたためにまもなく滅んでしまい、最後には誰もいなくなってしまった。


 おおよその筋をエミリアが述べると、ルーカスは深くうなずいた。そして「それは、実在した人物の話だ」と言った。


「実在? 王ですか?」

「王もそうだが。ひばりで表されているのは、名を失伝したひとりの女性だよ」

「ええ?」


 思わずエミリアは疑念の声をあげてしまった。ルーカスは気を悪くする様子もなく「ひとりの恩寵者が、その賜物のために利用され、死んでしまった悲劇だ」と述べる。突拍子もなかった。


「追々、理解してくれればいい。しかし、君はもう経験しているはずだよ。私の書き物を読んで体調が回復した」


 そう言ってからルーカスが「私も、恩寵者だ」と続けたのを、エミリアは信じられないと示すために軽く首を傾ぐ。


「……あれは、偶然かもしれませんわ」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。しかし、私が賜物を持っているのは事実なんだ。父の不審死は当時かなり話題になったから、調べればすぐにわかる」


 人の死因をとやかく言いたいとは思わない。エミリアは曖昧にうなずくだけに留めた。

 そしてルーカスはそんなエミリアの目をまともに見て言った。


「君もまた、恩寵者だと言ったら、信じるか」


 それは疑問形ではあったが、揺るぎのない確定的な響きだった。エミリアは今度こそ笑った。自分はひばりのようではない。そんな能力があるなら、これほど苦労して女優を営んでなどいない。


「恩寵者は、多くはいない。そもそも、資質があっても賜物が発現するかは個々の環境による。私は、君の父に頼まれてずっと君を見守って来た。発現しないならば、君の前に姿を表すつもりはなかった」

「……父が? わたしの事を?」

「そうだ。侯は自分に、王へ謀殺の意ありとされるのを見越していらした。かねてから、その際にはと君を私に託していた」

「では、どうして――!」


 エミリアは思わず声をあげた。信じたわけではない。けれど、ならばどうして、と思ってしまう。そんな力があるなら、なぜエミリアの父は、母は、あんな不名誉な死を遂げてしまったのかと。


「――恩寵者が定めた事象は、その恩寵者にしか覆せない」


 それを聞いてエミリアは目を見開く。その言葉が意味するところは、ひとつだ。信じたわけではない。でも、それでも。

 エミリアは何度か深く息をした。そして、ルーカスが述べた内容を己の中で反覆する。恩寵者。賜物。父がそうであったこと。

 そして。

 信じたわけではない。でも、それでも。


「――誰かが……わたしの両親の――死を。願った、のですか」


 ルーカスはごまかさずに真っ直ぐエミリアを見たまま「そうだ」と言った。エミリアの心が黒く染まった。


「あああああ‼」


 エミリアはわが身を掻き抱いて嘆いた。誰が。一体誰が。あんなに優しく、高潔な人たち。一体なぜ。体を折って泣き咽ぶエミリアを、引き寄せて固く抱きしめたのはルーカスだった。


「クララ、クララ。落ち着いて。ここに敵はいない。君を傷つける者はいない。これを見て」


 目の前に紙片を出される。気持ちを安らげてほしいとの願いが書かれていた。ふっと心が浮上したと思う感覚。エミリアはルーカスの腕の中で深い息をついた。

 怒りに目の前が真っ暗になったと思ったのに、激しすぎるエミリアの情動は、一瞬で霧散した。認めざるを得ないと思う気持ちと、まさか、との思いが交差する。


「だいじょうぶか、カール」


 エミリアを腕の中に閉じ込めたまま、ルーカスは黒服給仕へ声をかけた。うずくまっていた給仕は「……はい。なんとか」とかすれた声を出した。

 エミリアの頭を撫でながら、ルーカスは優しい声で告げる。


「クララ。君の賜物は、素晴らしい。私はここを買い取った日の公演で、それを確信した。君はあのとき演じた役を通して、セリフを通して、賜物を発現したんだ」


 舞台の上以外で、男性と抱き合うなんてこれまであっただろうかと、エミリアはぼんやり思った。


「しかし賜物は、持っているだけではだめなんだ。訓練し、制御のしかたを身に着けなければ。自分も、他人も傷つけてしまう。だから――私と学んで行こう」


 エミリアの心は凪いでいた。ルーカスの腕は頼もしく思えたし、品のいい香水の匂いも、柔らかな低い声も、好ましく思える。

 けれど、涙は止まらなかった。

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