第3話 過去
劇場の買収の話は、瞬く間に関係者へ広がった。そしてフォン・シュトラウス伯は、名実ともにエミリアのパトロンとなる。
彼が白地小切手を提示したあの部屋は、いくらか改装され劇場主の部屋となった。エミリアはもちろん、他の女優たちも、酌婦として働く必要はなくなった。十分な給金が支払われるよう契約を結ばれ、末端の作業員に至るまで貧困とは無縁になった。誰もが買収を喜んだのは言うまでもない。
フォン・シュトラウス伯は、底が見えない深い瞳でエミリアを見る。エミリアへと新たに整えてくれた衣食住は最上級で、申し分のない待遇を受けている。女優を辞めろとは言われなかったし、エミリアが日々劇場で過ごしても何も言われない。ただ、彼はそこにあった。見切れ席でじっとエミリアを見つめていたみたいに。
よって、すぐにでも寝所に呼ばれると思っていた。しかし彼が自分へ、そういう意味では指ひとつ触れない事実に、エミリアはいくらか腹を立てている。女にも面子があるのだ。まして、エミリアはいつでも下から脅かされている『看板女優』だ。その不確実な肩書きは、ささいな言動の粗に引きずり下ろす口実を与える。
今の状況は、買われただけで放置されている愛玩動物に似た、惨めな立場だ。これが他の女優たちへいつ知れるとも分からない。貴族の寵愛など、天気みたいに気まぐれで移ろいやすい。そうしてパトロンから捨て去って行かれたかつての『看板女優』の末路を、エミリアは幾度も見てきた。泥中を這うより、まだ悪い。
そして。
――フォン・シュトラウス伯が述べた言葉の意味を、エミリアはまだ問えずにいる。父に恩があると。そのゆえにエミリアを保護するのだと。信じたい気持ちがエミリアの心のどこかにある。
しかし、それを問うのは勇気が要った。エミリアは自分の出自を必死に隠して来て今の生活があるし、両親は国の敵として死んだのだ。
かつて劇の題材にすらなった両親と、自分自身。エミリアは劇場に拾われ、未経験のひとりの子役から早生の女優へと転身できた。それはひとえに名無しのままではいられない存在感と鬼気迫る演技による。
舞台の上ですら、両親の処刑を阻止できなかった。何度も、何度も。涙よりも、怒り、怒り、怒り。怒り、怒り、怒り。
現実も、舞台であったらよかったのに。演じきれば、そこで終わり。
カーテンコールが、すべてを虚構へ還してくれる。
エミリアが伯の部屋を訪うと、ノックに応じたのは黒服給仕の男だった。伯の専属になったのだろうか。無感動な表情のままエミリアを通すその仕草は、まるで長年そうやって仕えていたと思える程度には堂に入っていた。
「来たね」
その言葉は、エミリアがやって来ると予期していたのを示唆している。示されるままにエミリアがソファに座ると、伯も向かい側に着いた。黒服給仕は無言のまま茶を淹れてテーブルへ並べる。それが終わると、エミリアは「彼を下げてください」と人払いを頼んだ。
「それはできない。二人きりになったなら、君の評判に関わるからね」
「わたしは、あなたと二人きりになる立場の者ではないですか?」
声色に咎める響きを織り交ぜた。深い色の瞳が少しだけ見開かれてエミリアを見る。伯はしばらくの後に「なるほど」と言った。
「君にそう言われるとそうしたくなるのは山々だが。君との話し合いは、彼にも同席してもらいたいのだ」
「どうしてでしょう。支配人ではなく?」
「彼ではだめだ」
「けれど、わたしはこの男をよく知りません」
エミリアが黒服給仕を見上げると、彼は無表情のまま肩を竦めた。お互い様だとでも言いたいのだろう。伯は「彼は、私と契約関係にある。機密も守る。ただの給仕だと思えばいい」と断じた。エミリアはそれ以上なにも言わなかった。
「さて、私からも君へ話すべき事がいくらかある。けれど、君からも私へ何事かを言いたいようだ。そちらを先に伺おう」
茶を手に取り口へ運ぶその姿は、一幅の絵画に思える。あらためて美しい男だと思いながら、エミリアは「用件はふたつです」と言った。
「興味深いな。なんだろうか」
「まずは、わたしの父の件を。あなたは恩人だと言った」
黒服給仕が気になったが、仕方がない。その質問への回答は用意してあったらしく、伯は「私が、君よりも若かった頃。死にたい気持ちでいた。手を差し伸べてくれたのは、フォン・ハインリヒ侯爵だった」とつぶやいた。
真っ直ぐにエミリアを見る彼の瞳は、懐かしむよりも深く雄弁に悲しみを語っている。
――ああ、この人は。エミリアは気づく。
悼んでくれている。父を。母を。
そして、死なせなければならなかった『クララ・フォン・ハインリヒ』を。
それ以上この件をエミリアから触れるのは、ためらわれた。父が生前どんな善行を為したのか知りたくはあったが、心の柔らかな部分は、当人だけが知覚していればいい。よって深追いはせず、エミリアは「そうですか」と納得の意を示した。伯は少しだけ笑んだ。
「では、ふたつ目の用件は」
「いつ、わたしを抱くのでしょうか」
笑顔のまま、伯は動きを停止する。黒服給仕はいくらか身じろぎした。エミリアはじっと回答を待った。少しの後、居住まいを正し伯は言葉を選んで慎重に言う。
「――君は、私に、それを望むのか」
「主に見捨てられ生きる女ほど惨めな者はありませんわ」
心からの本音だ。べつに好いたわけでもない男と褥をともにしたいわけではない。黒服給仕が気配を消して退室しようとするのを、伯は「待て、待て。カール、行くな」と引き留める。
その様子を見てエミリアは、もしかして伯は男色家なのだろうかと思った。それならばエミリアへ手を出さないのも得心が行く。
「誰か――口さがなく言う者があるのか」
「わたしたちの今の関係が知られれば、時間の問題でございましょう」
「……では、こうしよう。私を名で呼びたまえ。ルーカスと」
それは、とんでもない思いつきであり提案だ。一介の場末劇場の女優が、選帝侯である宮中伯を呼び捨てにするなど。エミリアはその場ですぐに頭を垂れた。
「お許しください。わたしはそこまで尊ばれる立場の者ではありません」
「では、なおそうしてくれ。君と親密な関係を築いていると周囲に知らしめるにはちょうどいい」
伯は退かない。いくらかの問答の後、エミリアが折れた。そして、それを確認したと同時に彼の顔からすっと表情が抜け落ちる。室温すらも変わったのではないかと思う。
「では、私から話をしようか」
なにを言われるのだろうか。両親やエミリアの出自の事ではないなら、内容に心当たりがなかった。
「先日。私がこちらを買収した日の公演だ。君はあのときの自分の演技をどう評価する?」
「どう、とは――」
「君にとって、どんな公演になったかを教えてほしい」
思い返すまでもなく、覚えている。これまでにない疲労と喪失感。それに伴う頭痛やめまい。それらが生じるのは当然と思えるほどに、あのときの公演は。
「――最高の、出来でした」
「普段、君が絶好調のときと比べたら、何割程度の?」
「十割。いえ。それ以上。もう、あれ以上の演技はできないと考えたほどに」
「しかし、今はもう、そう考えてはいないのだね」
ルーカスは断定の言葉を述べた。
なぜ、わかるのか。エミリアは暖かい色のはずなのに冴え冴えとしたその瞳に射抜かれ、上手く言葉を紡げない。
日々、役への没入が深まっている。あのときに出し切った全力が、今では苦も無くこなせる。
自分の能力以上の何かを感じ、ここ数日エミリアはずっと自分が怖かった。
「――君の父上と私の事を、話してもいいだろうか」
願ってもないので、エミリアはすぐにうなずいた。そして不安になる。この話の流れは、気まぐれなどではない。そう理解できた。
ルーカスは少しだけ目を眇めて、昔を思い出しているようだ。そしておもむろに話し始めた。
「私が、十四のときだ。私は、私の父を殺した」
はっ、とエミリアは息をついた。そこまでの重い話だとは思わなかったのだ。ルーカスはエミリアを見る。そして続ける。
「……死んでほしかったわけではない。ただ、連日の小言でいくらか……いや、かなり私は気が立っていた。私は、それほど行儀のよい息子ではなかったから。父の正論に反論する術もなかった」
今の紳士然とした様子からは想像もできないとエミリアは思う。そう考えたのが伝わったのか「反省はしているんだ」とルーカスは口元で笑った。
「私は腹いせに、小説を書いたんだ。自分の家を舞台とした推理小説を」
「小説……ですか?」
「そう。そのころ、友人の間で流行っていたんだよ。自分で書くことが」
そう笑う目元は底知れぬながらも、エミリアには寂しそうに見えた。ルーカスは続ける。
「どうせだから、気に食わないやつをすべて被害者にしてしまおうと考えた。三日三晩かけて、熱中して書いた。最後の方では頭痛と吐き気がしていたほどに」
この昔話はどこに着地するのだろう。エミリアはなぜこの話を聞かされているのかが分からずに戸惑う。ルーカスは訥々と続けた。
「まず、若い庭師が死んだ。高いはしごから落ちて。そして、次はメイド。二人とも、私が小説内で死なせた人物だった。その後も、二人死んだ。さすがに思い違いではないと自覚した」
エミリアは目を見張る。しかし、壁側に控えた黒服給仕は微動だにしなかった。職業意識の強い男だと思った。
「――死因も、順番も、すべて私が書いた内容だったから。最後は、父の番だ。恐ろしくて。私は夜中にごみ処理場へ忍び込んで、小説を破いて焼却炉の中へ押し込んだ。……けれど、父は死んだ」
エミリアはどう反応したらいいのかわからず、小声で「お気の毒な事です」と言った。ルーカスは少し笑いながら「頭痛と、めまいが。そして絶え間ない吐き気もあって私は倒れた。家中が大混乱へ陥った」と続ける。その症状を聞いてエミリアは背筋が伸びた。
「――私も死んでしまうのでは、と。そんなとき――助けに来てくれたのが、フォン・ハインリヒ侯爵だった」
エミリアは顔を上げてルーカスを見た。彼は優しいほほ笑みでエミリアを見ていた。
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