第2話 紙片
暗い廊下は、両側にたくさんの小道具が積み上げられ細くなっている。いかにも崩れ落ちそうなのに、子役のころからエミリアはそんな場面を見た事がない。長年勤務している中年の小道具担当者は、どこに何があるかをすべて把握していると言っていた。そんな言葉を信じてしまうほどには、いつも手品みたいに彼は目当ての物を取り出す。
支配人の背を追いかける道すがら、その彼と行き合った。エミリアの顔を見てすぐに「どうした、顔色が悪い」と述べた。高い天井にあるガス燈の不鮮明な明かりだけで、よく分かるなと思う。
「頭痛がするのよ」
「それはいけない、早く休まなければ」
「お客が来てるの」
「帰ってもらいなよ」
先を行く支配人がこちらを振り向き「ドミニク、引き止めるな!」と声を上げる。エミリアは「しかたないわ」と言った。
「薬用酒(ティンクチャー)を持っていくよ」
「ありがとう」
心配そうな顔へほほ笑みかけて、エミリアは支配人に続く。埃っぽい舞台裏を離れれば、彼女はもう女優ではない。金持ち相手のただの酌婦だ。華やかに思える職業ではあっても、未だ女優の社会的な地位が最底辺である事実に変わりはない。
演劇の世界に限らず、世の中は男性を中心に回っている。女性に生まれた限りよい生活を望めるのはほんの一握りの存在だけだ。それはあまりにも当然の事実として横たわり、疑問に思う隙もない。エミリアもまた、自分の境遇を嘆く気持ちはありつつも、仕方がないと諦めが着いている。皆が、そうなのだ。
支配人は、エミリアの価値をもっと高く釣り上げるのは可能だと思っている。よって、エミリアは今のところ色を売った経験はない。パトロンもいない。しかし、ゆくゆくはそうなるのだろうし、それは今日かもしれない。そんな覚悟でエミリアは日々を過ごしてきた。
支配人の背を追いたどり着いたのは、客間の中でも最上級の部屋の前だった。これまでエミリアが用いた経験はなかった。ああ、そうか『今日』が来たのか。そんな風に思う。
多少神経質な咳払いをしてから、支配人は扉をノックした。扉を開けたのは要人の接客を担当している黒服給仕だ。それなりの美貌と、教養が必要な職だった。
風が運んで来た噂によると、彼はどこぞの貴族の庶子だそうだ。エミリアとはあまり仲は良くない。これまで互いに近づこうともしなかったし、今後もそうしないだろう。どちらにとっても、深追いは傷にしかならない。
彼はエミリアの姿を見ると、少しだけ咎める表情をした。着飾っていないからだろう。どうでもよかった。
「エミリアが参りました」
頭痛が止まない。めまいもある。笑顔を作れずに促されるまま入室する。いつもなら煌々と光っている吊り下げ照明(シャンデリア)は、いくらか光量を落として柔らかな明かりをもたらしていた。今のエミリアの体調を思うと、それはとてもありがたい。
エミリアは多少雑に淑女の礼(カーテシー)を取り頭を下げる。気付薬にハッカ油を耳裏に塗ってくればよかったと思う。揺らしただけで頭痛が増した。少しの後に低い男声で「座りたまえ」と指示された。
顔を上げて、相手の姿を見る。はっとしたが、顔には出さなかった。なでつけた黒髪に、切れ長の紫の瞳。髪色と同じ闇色のスーツに全身を包み、白のシャツに濃紺のアスコット・タイ。脚本家が見たなら、着想を得て暗がりから生まれた怪しく魅力的な紳士の話を書くだろう。美しい男だった。
すぐに気づいた。――二階桟敷見切れ席の人物だ。
「彼女だけ残ってくれ。他の者は下がっていい」
その言葉を聞いて支配人は下卑た笑顔を浮かべ言った。
「旦那様、エミリアは、弊劇場の花形でして。わたくしめも、幼い頃から箱入りで可愛がってきた娘でございます」
「承知している。これを」
黒髪の紳士は胸から手帳を取り出し、挟んであった白地小切手をテーブルへ乗せ差し出した。そして「少なくとも、八本以上の数字を書いてくれ」と言った。エミリアは目を見張った。
「――は。……八本? それは、光栄ではございますが……」
「なに、相場程度だろう。劇場ごと買い請ける。そなたも、そのまま仕事を続けてくれ」
あまりの申し出に、エミリアは支配人と目線を交わした。八本。この男性の言葉をそのまま受け取るならば、エミリアが最初に考えた金額は桁がふたつ少なかった。それでも過分であったのに、相場どころかこの劇場をみっつは身請けできる額の提示だ。支配人は脂汗を額に浮かべ「わたくしめの一存では、なんとも」と苦し気につぶやいた。
「そなたがこの劇場の所有者であるのは調べが着いている。今後は私の下で、そのまま『支配人』を続けてくれればいい。それだけだ」
はっとエミリアは息をついた。そこまで知っているとは。支配人はひとつ身震いをした。そして真剣な表情でエミリアを見る。彼女は頷いた。桟敷席からの視線を思い出した。
「――しょ、しょうち……いたしました」
舌っ足らずに答えた支配人は、胸から万年筆を取り出す。そして、震える手で白地に数字を書き込んで行く。エミリアはその丸い背中を他人事と感じながら眺めた。頭痛がする。何もかも、どうでもいい。はやくベッドへ横になって眠ってしまいたい。
結局どんな数字になったのかはわからない。支配人は澄まし顔を崩さない給仕に支えられ出て行った。エミリアは促されるまま、テーブルを挟んで黒髪の紳士の前へ座った。隣りに来いと言われなかったのを気づいたのは、座ってからだった。
「頭痛がするのだろう。吐き気は?」
なにかを手帳に書きつけながら男性はエミリアへ問う。どうしてわかったのだろうと考える余裕もなく、エミリアは「少し」と答えた。
「これを読み上げてくれ。目で追うだけでもいい」
切り離された紙片を目の前に差し出された。反射的に受け取り、エミリアはそれを見る。そして、驚きに喉を鳴らした。
『クララ・フォン・ハインリヒ嬢の現在の体調は、直ちに快方へ向かう』
思わず立ち上がりそうになったのをこらえた。動揺を見せてはいけない。エミリアは相手に気取られぬよう深い息をしてから、真っ直ぐに男性を見据えた。エミリアは女優なのだ。内心とは違う表情を作るなど造作もない。
「――これは、どういう意味でしょう? どなたかがご病気なのですか?」
「頭痛は治ったか」
言われて、エミリアは一切の痛みがなくなったと気づく。めまいも。舞台を終えた後の気だるささえなく、よく眠り目覚めた朝のようだと思う。それも顔に出さず「あら。一時的だったようですわ。ご心配おかけいたしました」と述べて返した。
――背筋が、ぞわりとした。はっきりと自覚したのだ。エミリアは、今この男から手渡された紙片を目にした事により、すべての不調が回復した。
「さて――本題に入ろう」
男は、唇を微かに動かしただけでそう述べた。エミリア自身も少しの笑みを貼りつけたのみで、薄気味悪い思いでその端正な顔を見る。真っ直ぐな視線は、エミリアの中を鑑定しているかのようだった。
「私は君を保護しに来た。ルーカス・フォン・シュトラウスという」
――フォン・シュトラウス! 体調に依らず目の前が暗くなった。旧家であるだけでなく、選帝侯のひとりである宮中伯!
内心の動揺を気取られないよう振る舞うだけの冷静さを残して、エミリアは忙しなく考えを巡らせた。なるほど、白地に大きすぎる数字を書かせるだけの人物だ。――なぜ、その人が。
「高貴なるお方に、お目にかかれて光栄です。お申し出、たいへん嬉しく思います」
エミリアは、美人と言われる部類の人間だ。これまでも多くの援助申請があった。しかし、今に至るまでそれらをすべて断って来たのは、自分の身上がいつ露見するかわからない環境に自らを置きたくなかったからだ。
もし、すべてが白日の元に晒されたら。それは、エミリアの人生が……父に生きるようにと言われたこの人生が、終わることを意味している。
――咎人の娘。七年前の今日、エミリアはそう呼ばれる存在になった。
忘れない。忘れられない。見物人たちの野次に怯えながら、見守るしかなかった両親の最後。
母は、一撃だった。特別に腕のよい処刑人を他国から呼び寄せたのだと聞いた。しかし――父は。
血飛沫と、音。何度も。何度も。
繰り返し夢に見る。エミリアの心は、あの場所へ置き去りにされたまま、動かない。
そこからは、泥の中を這って生きてきた。
「――けれど……わたくしは、その過分のご親切に値する者ではないと感じます。なぜわたくしなのでしょうか。女優は多くおりますのに」
苦し紛れにエミリアは尋ねた。先程の紙片により、自分のこのセリフが、看板女優の名にあるまじき白々しさであることは理解している。フォン・シュトラウス伯は、エミリアから視線を外さない。その苛烈にも思える瞳に、エミリアは何も言えない気持ちになる。
「私は、君の父上に恩義がある」
返って来たのは、想定外すぎる言葉だった。父の存在に触れられ、エミリアは仮面を取り去られた。はっとひとつ息をつき、紫の瞳を見返す。
「君の素性を知っている。クララ・フォン・ハインリヒ嬢。今後、君は私の庇護下に入る。これからは、日々の夜明けに嘆く必要はない。安心して眠りなさい」
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