カーテンコールは、復讐を告げる。

つこさん。

第1話 カーテンコール

 万雷の拍手の中、彼女の眼の前で緞帳が降りて行く。天を仰ぎ見、それをつかむように伸ばした手。けれどなにも掴めない。なにかが抜け落ちたと思える喪失感。胸の中に広い場所ができてしまった。それを焦る気持ちだけが彼女の指先を冷たくして行く。

 幕切れ、そしてひとときの暗転。

 

 ふと気づいたとき、彼女は舞台の床に手を着きうずくまっていた。意識が浮上したのは、きっと相手役俳優の気遣わし気な呼びかけと、厚い幕を通しても届く熱烈な歓声のおかげだった。


「立てるか、エミリア」


 すぐに駆けつけ支えてくれた舞台監督は、彼女をそう呼んだ。声が遠く、他人事のように上滑りして行く。だれ。それは誰の名。わたしはオーリー。希望に溢れ、どんなに暗い過去を持つとも未来を夢見る少女。体を揺さぶられる。


「エミリア!」


 はっと目の前が拓けた。頭の芯の部分がずきずきと痛む。厚い幕の向こうから、歓声が聞こえる。彼女を呼ぶいくつもの声。オーリーと。エミリアと。拍手は鳴り止まない。

 立ち上がり、彼女は舞台袖に下がった。舞台監督が気遣わし気に付き添う。


「さあ、最後の仕上げだ。終幕を飾って来い」


 その言葉に彼女は頷いた。そして、再び巻き上げられていく緞帳を見る。くらくらと視界がおぼつかない。むわりと空気が動いて、大勢の手を打ち叩く音がどっと洪水のように迫ってくる。喉が乾いた。かつてないほどの激しい鼓動と頭痛。

 背後からは裏方が二人がかりで巻取り装置を動かしている錆びついた音がする。誰かの息遣い、そして湿った汗と化粧と、埃の匂い。オーリー。エミリア。たくさんの声。彼女は静かに混乱する。


 ここは、額縁(プロセニアム)の中。わたしはオーリー。観衆が呼んでいる。わたしはそれに応える。


 上がって行く緞帳を見るともなしに彼女は目で追った。ぼんやりとした頭で幕の向こう側を見る。幕袖のこの角度から臨める客席は、二階桟敷席の端だけだった。そこは額縁舞台(プロセニアム・ステージ)を観るには死角になる見切れ席で、音は聴こえても演目をその目で楽しむことは適わない。一年を通してずっと売れない席。それでも、そこに人がいることを彼女は知っている。上がりきった幕を追った目線が、それを視界に収める。


 黒髪をなでつけた紳士がじっとこちらを見ていた。姿形すらはっきりとはしないのに、それがわかった。目が合ったのはこれが初めてだ。彼女は途端に背筋へ芯を入れられた気分になる。唇が動き、名を呼ばれた気がした。なんと? 彼女は混乱する。

 ――規則正しい動きで役者たちが舞台上へ整列していく中、しばしこちらを見ているその瞳の色はなにかと考えた。深い、深い色。こちらを見通すような、深い色。


 相手役俳優が上機嫌で袖から躍り出たとき、彼女はその思考を止めた。彼女のために開けられた中央の空間へ、オーリーの顔で立つために。


 照明が、軽やかな足取りの彼女を迎え入れる。定位置に立ってふと下を向き、そして真っ暗な正面を臨む。一呼吸の沈黙と、それに続く音、音、音。それ以外になにもない。

 笑顔でそれを受け、彼女は三方へと礼を取る。顔の見えない観客たちへ相対する。隔てるものは存在しないはずなのに、自分は照明の光の中に閉じ込められていると錯覚する。

 オーリー、エミリア。そのどちらの名前も叫ばれていた。彼女はこの瞬間が好きだった。舞台で一番愛しい時間。


 再び袖に下がり振り向いたとき、彼女が見上げた先には誰もいなかった。拍手は止まない。


「――すばらしかった、すばらしかったよ、エミリア!」


 控え室へと歩く傍ら、相手役俳優のブルーノが熱心に彼女へ話しかけてくる。どれだけ高潔であったか。どれだけ美しかったか。どれだけ人の心を惹きつける名演であったか。

 そして、頭痛の奥ではっと気づく。――ああ、わたしはオーリーではない。

 ブルーノの紅潮した頬も、弾んだ声色が述べる称賛も、今の彼女にはどうでもよかった。名演。たしかにそうだったのだろう。これまでとは一線を画す、言いようのない悲しみを伴う倦怠感。出し切った。確かにそうだった。

 けれどそれはもうどうでもよくて、今はただ眠りたい。――今日という悪夢につきまとわれないですむように、深く、深く。手を振ってブルーノを追い払い、扉を閉めた。邪険にしてしまって申し訳ないとは思う。


 舞台衣装を脱ぎ捨てる。金髪のかつらは鏡台へ。長く波打つ茶色の自毛は、まとめたまま解かない。鏡の中の自分の顔を見る。――わたしは、エミリアだ。

 水差しから直接水を飲んだ。下着も取り去って、部屋の隅へ置いてあるぬるい湯を張った大きなたらいへ足を入れる。その中でしゃがみ込み、自分の身を掻き抱いた。

 湯の中に流れ落ちる汗が、鈍色の油膜になる。しばらくの間それを眺めてから、エミリアは顔と首周りに塗ったドーランを落とすため両手で何度も湯をすくった。


 こんな風にエミリアが身支度のための個室を与えられる身分になれたのは、つい最近のことだ。七年。多くの時間がかかってしまった。たゆみない努力と苦悩の上で手に入れた地位だった。最初はその他大勢の子役から。名前持ち(ネームド)になれたのは、つい一昨年のことだ。主役を引き立たせるための、ほんの端役。それでも、本当に嬉しくて、たった四つのセリフを何度も諳んじて練習したものだった。

 そして、今季の脚本でエミリアは主役へ起用された。それは他の女優の代役ではあったけれど。これを逃せば、同じほど大きな機会は訪れないかもしれない。

 役作りに没頭して日々を過ごし、初演へ臨んだ。回を重ねるごとに空席が埋まる。そして、連日満員札止めの舞台へと成長した。

 それなのに空しい。とても空しい。エミリアはつい先週十九歳になり、今日という日を迎えた。忌まわしい記憶が刻まれた、叫び出したくなるこの日。


 後先を考えずただ一心に、目標を追い続けていられるうちはよかった。振り返り、振り返り、どうにもできなかった過去を泣かないですむから。這いつくばって長い時をやり過ごして来たのに、これからの人生の方がまだ長いというのはどういうことだろう。看板女優。それがなんだと言うのか。得てしまえば、ただの呼称だった。


 湯から上がり、下積み役者の誰かが洗ってくれた拭き布で体を覆う。そのまま鏡台へ向かってもう一度エミリアは自分を見た。舞台化粧を取り去った彼女自身。物問いた気な翠の瞳がじっと見返してくる。

 知らず知らずのうち物思いに耽っていたエミリアは、遠慮がちながらしっかりとしたノックで我に返る。誰何には支配人の声で「わたしだ」と返って来た。手早く清潔な肌着を身に着けながら、エミリアは「なんでしょう」と尋ねる。


「――おまえに面会の申し出があってね」

「今日は誰も通さないでくれ、と約束したはずです」


 バツが悪そうな声色の言葉に、すかさずエミリアはそう返した。もう何日も前から、今日は接客をしないと宣言をしていたのに。エミリアの透けた怒りに焦った口調で、扉の向こうの支配人は「わたしも、お断りはしたんだよ。本当だ。でも断れない筋なんだ。わかってくれないか」と言い募った。どう繕って言葉を並べても、彼がエミリアとの約束を反故にした事実は変わらない。

 色味が落ち着いた古いドレスを身にまとった。着飾っては応じないというせめてもの意志表示だ。支配人がここで客の名前を言わないということは、それだけ高位の人間なのだろう。なんて厄介で、迷惑なことだろうか。

 鏡台の前に座り、目の際へ黒く線を引き印象を変える。唇へ紅も差した。さきほど脱いだかつらをもう一度着用し、部屋を出る。あからさまにほっとした様子で、支配人はエミリアを先導した。彼女がわざと野暮ったい服装にしたことには、気付いただろうが何も言わなかった。


 ――今日は、エミリアにとっての記念日だ。決して忘れない。忘れられない。

 七年前の今日。両親が、死んだ。

 斬首刑だった。

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