第2話 最高の褒め言葉?

「少将さま、親から授かった名前は?」


 正六位とは言え、父親が縁談相手に連れてきた男である。一応、敬称を付けつつ、それでも馬鹿丁寧なのもおかしな気がして、気さくな口調で咲良は尋ねた。

 有馬は畏まる様子も、気分を害した様子もなく「はい」と答えた。


「一応あります。が、ここでは有馬で」


 にこりと笑ってそれ以上は何も言わない。言おうとしないというべきか。

 ふむ。なかなかに曲者くせものである。

 有馬地方の出身者など、他にも大勢いるだろうに。それをそのまま名乗るとは、横着と言うか豪胆と言うか。

 すると有馬は、「そんなことより」と作業途中のすり鉢に目を向けた。


「今日はどのような薫物たきものを? それは、清浄所きよめどころへ納めるものですか」

「ええ。暑くなってきたので、涼しげな香りも良いかと思って」

「なるほど。みな喜びましょう」

「ほんと? 私の薫物は役に立っているかしら?」


 咲良さくらは、ぱっと顔を輝かせた。

 日々、都の闇と戦う衛士えじたちは、日常的に不浄に触れる。不浄に触れれば穢れが付き、穢れが付けば落とさなければならない。

 その穢れを落とす所が、衛門府の内にある清浄所きよめどころであり、落とすために必要なものが薫物たきものと言われる香である。

 清浄所きよめどころで使われる薫物たきものは、当然ながら専門の職人が作っている。しかし、咲良も自分の作った薫物を清浄所に納めさせてもらっている。小野家は古来より薫物に秀で、咲良も薫物作りが得意だからだ。


 自分の作った薫物の評価は、咲良も気になるところである。誰にも言っていないが、薫物職人として清浄所に勤めることが彼女の密かな夢なのだ。

 そういう訳で、自分の作った薫物たきものの評価は、咲良としてはぜひとも聞きたい。

 咲良の問いかけに有馬は「もちろん」と答えた。


「みな、穢れの落ち方が全然違うと言っております。さすがは香華殿きょうかでん女御にょうごさまの妹君だと、もっぱらの評判です」

「あー……」


 やっぱり、そうなるわよね。

 小さく笑って咲良はうつむいた。


 香華殿きょうかでんの女御とは、咲良の姉の和紗かずさのことである。帝の妻として宮内くないに召され、現在「香華殿きょうかでん」という殿舎に住んでいることから、「香華殿の女御」と呼ばれている。ゆくゆくは正妃である「中宮」とも噂される自慢の姉だ。


(私を褒める時は、みんなあねさまを引き合いに出すのよね)


 裏を返せば、「姉がいなければ褒められたものじゃない」と言われているようで、心がもやっとする。目の前の男も例に漏れず「香華殿の女御」と口にしたことで、咲良は冷ややかな気持ちになった。


 姉は知性と教養にあふれ、小野家の娘として薫物たきものの知識も深い。そして何より、濡羽色の豊かな髪と黒曜石のような瞳を持つ美しい容姿──まさに非の打ち所のない完璧な女性である。


 咲良は、自分のことをそんな姉の「残りもの」だと思っていた。髪は赤みを帯びた微妙な黒、瞳も鳶のような茶色で、我ながら同じ姉妹かと思ってしまう。

 それでも、唯一薫物たきものだけは、姉にも負けない自信があった。

 なのに、やっぱり自分は「香華殿の女御の妹」という言葉で片付けられてしまう。それが咲良には悔しくてたまらない。


「ありがとう。そう言っていただけると嬉しいわ」


 あちらが決まり文句で褒めるなら、こちらも決まり文句で返すのみである。

 咲良は当たり障りのない言葉で有馬にお礼を言った。

 すると有馬が、にっと笑った。


「でも、私はちょっと違いますけどね」

「え?」


 いきなり「違う」と言われ、彼の真意が分からず咲良は戸惑った。有馬が、ここぞとばかりに膝一つ進み出た。


「私は、咲良さまの薫物たきもの千里京せんりきょう一、香華殿きょうかでんの女御さま以上だと思っています」


 その飾らない笑顔が咲良をとらえる。

 これは、なんとも最高の褒め言葉──いや、もはや魅力的な口説き文句である。年頃の姫であれば、ころりといきそうだ。

 が、しかし。それでも咲良は、すんっと表面的な笑顔を彼に返した。


「まあ、お上手ね」

「おや? 疑っておりますか? 本当ですよ。今日も咲良さまの薫物を使ってから、こちらに参りました」

「……それは、嘘ね」


 すかさず咲良は言い返した。そして冷めた目で有馬を見る。


「その香りは私の薫物ではないわ」


 自信に満ちた有馬の笑みが一瞬強ばる。が、彼はすぐに持ち直し、再び「あはは」と笑った。


「これが、かの有名な『小野の知らぬの二の姫』か。面白い」


 彼は膝をぱちんと打って、挑戦的な眼差しを咲良に向けた。


「姫は違うとお分かりになると?」

「私は、他の者より鼻が利くの。あなたが今日まとっている香りは、似ているけれど私の薫物たきもののそれじゃないわ。ついでに言わせていただくと、穢れが落ちきっていない。特に問題はないけれど、焚き方が不十分だったのかしら? それとも清浄所きよめどころの職人の薫物がその程度だったのかしら?」

「……穢れの落ち具合もお分かりになるとは、いよいよ面白い」


 さっきまでの朗らかな笑顔はどこへやら、彼は不遜な笑みを口元に浮かべた。


「偽りを申し、実力を試した甲斐があるというもの」

「まあっ、わざとなの?!」


 咲良は口をぱくぱくさせて直平を見る。直平が「まあまあ」と娘をなだめつつも、まんざらでもない顔をする。


「どうだ、今度はひと味もふた味も違うだろう?」

「違いすぎます! というか、これは無礼でございましょう?!」


 自分の暴言は脇へ置き、咲良が怒りをあらわにすると、直平がさらに満足そうな顔をした。それが咲良は気に入らない。

 有馬に目を向ければ──、こちらの怒りなど全く意に介す様子もなく、にこりと笑い返された。

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