第3話 虫除け香《こう》

「あんの、正六位!」


 次の日、咲良さくらの怒りはまだ続いていた。少将とは言え、貴族でもない下級役人が、小野家の娘を試したのだ。それだけでも十分に不敬だったが、よりによって薫物たきもので試されたというのが許せない。


「父さまも、父さまよ。いくらお相手がいないからって──」


 いつも以上にすり鉢をごりごりごりごりと勢いよくする。傍らで六花が、「でも」と首をかしげた。


「なかなかの美丈夫だったではありませんか。へなちょこな貴公子より、よほど姫さまにお似合いかと思いますけれど」


 今、へなちょこって言ったな。この侍女もたいがい無礼だ。が、有馬の評価は悪くないらしい。


「この私を試したことが気にくわないのよ」

「ですが、和紗さま以上の薫物たきものだと褒めてくださったではありませんか」

「やり方の問題なの。誠意の問題なの」


 咲良が言い返すと、六花は呆れた顔をした。


「左大臣さまがお連れになる縁談相手をことごとく断っていた姫さまに誠意を問われるとは、有馬さまが気の毒です」


 うっと咲良さくらは言葉に詰まる。

 すると、今日も廊下にどたどたと足音が鳴り響いた。まさか、と咲良が思う間もなく、戸口に虎の蛮絵の衣を着た若者が姿を見せた。


「姫、小野家はいつ来てもよい香りがしますね」

「……なんで来るの? ここ、あなたの家ではないでしょう?」

「左大臣さまからいつでも来ていいと許しを得ましたので」

「はあ?」


 それはいったい、どんな許可だ。咲良は、直平の対応に呆れ返った。同時に父親の本気を感じる。

 有馬は、そんな咲良の動揺に気づいて、笑って説明を付け加えた。


「ああ、でも……、残念ながら夜這よばいは禁止されております。ご安心を」

「当然よ!」


 するつもりだったのか。咲良はぶるりと身を震わせた。しかし、ここで怯むわけにはいかない。


「六花、クスノキをこれに」

「え? あれをですか?」

「そうよ、あれをお願い」


 六花が戸惑いながら部屋の奥に下がった。そして、彼女はすぐに香炉を持って帰ってきた。中にはすでに丸い薫物たきものが二つほど入っており、炭にも火が付いている。

 咲良はそれを六花から受け取ると、自分と有馬の間に置いた。たちまち辺りにきつい酸味とえぐみのある匂いが広まった。

 有馬がうっと鼻と口を袖で押さえる。


「咲良さま、これはなかなかの匂いです。いかなる薫物たきものか?」

「強力な虫除けよ。嫌な虫を追い払う時はこれに限るのよ」


 早く帰れとばかりに咲良は言った。そして済ました顔で再びすり鉢をすり始める。

 正直、この匂いの中で過ごすのは咲良でもきつい。目がしょぼしょぼするし、鼻もむずむずしてくる。とうとう六花が「申し訳ありません」と断って、別の部屋へと下がってしまった。

 しかしここは我慢比べである。巨大な虫が逃げるまで絶対にやめるものかと咲良は思った。

 するとその時、有馬が香炉を突然持ち上げた。


「姫、これを貸して下さるか?」

「へ?」


 いやいや、何を言ってるの? すごい匂いなの分かるでしょう?

 思わず固まる咲良の前で、有馬は袖で涙目を何度もこすった。


「こんな素晴らしい薫物ものがあるとは! ぜひ貸してくだされ! 駄目ですか? いいですよね?」

「え、いや──。こ、こんなのでよければ……」


 辛うじてそう答えれば、有馬は香炉を脇に抱え、空いた片手で咲良をぎゅっと抱き締めた。


「姫はまさしく薬師の神だ!」

「うきゃああ!」


 いったいそれは何の話?!

 咲良は叫び声を上げた。この男、予測不能が過ぎる。


「はっ、放して!」


 有馬の胸を押しやると、彼は咲良をぱっと解放した。そして、罵ろうと大口を開けた彼女に向かって頭を下げた。


「姫、感謝します。しからば、今日はこれにて御免!」


 言って有馬は立ち上がると、ばたばたと香炉とともに廊下を走り去っていった。

 咲良は呆然とその後ろ姿を見送るしかない。ややして、咲良の叫び声を聞いた六花が、驚いた様子で戻ってきた。


「姫、どうなされました?」


 同時に周囲をきょろきょろと見回す。


「少将さまはもう帰られたので? そんな呆けた顔をされてどうなされたのです?」

「虫除け香をいて、大きな虫に抱きつかれた……」

「はい?」

「訳が分からないわっ! 何が薬師の神よ!」


 誰もいなくなった廊下に向かって咲良はわめき散らした。早鐘のように鳴る胸を鎮めるために、咲良はすり鉢をごりごりとする。それはもう、ごりごりとごりごりと。


「あらまあ、少将さまはお忙しい方なのですねえ」

「知らないわ。もし次来たら、『知らぬ』とって言って追い返してちょうだい!」


 昨日会ったばかりの姫にいきなり抱きつくなどありえない。ふと、抱き締められた感触を思い出して、全身からぶわっと汗が吹き出した。

 同時に、その時に漂ってきた彼の匂いもよみがえった。


「……今日は私の薫物たきものだったわ」


 あれは確か、春用にと少し甘く賑やかな匂いにした薫物ものだ。やっぱり、夏には少し暑苦しいなと思い返しつつ、本当に使ってくれているのだと少し嬉しくなる。

 穢れはきちんと落ちていた。私の薫物はちゃんと役に立っている。

 そのことに喜びを覚えながら、咲良は虫除け香を彼はどうするのだろうと考えた。

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