逆転バレンタイン
ごろごろ
企画用・読み切り
初めて彼女を見た時、僕は呼吸を忘れた。
溜め息さえも芸術的に思える程の、有り余る美しさに、どこか寂しげで幸薄そうな表情に、僕は心臓の一番奥の奥にあるものを掴まれたんだ。
まず僕の話をしよう。
両親は共にひとりっ子の僕を甘々に育てた。このお菓子好き!と言えばそのお菓子ばかり買い、僕が嫌い!と言えばそのおかずは献立から消える。
そりゃあ、悪い事をしたらこれでもかと説教をされたし、友達と喧嘩になり手を出してしまった時には〈人の痛みを知りなさい〉と思い切りぶたれた。
それでもやはり、僕は甘々に育てられたという自覚がある。あの人が気付かせてくれたからね。
友達にも家族にも恵まれ、好きな趣味も多く――と言っても遊びばかりだけど、それもあって僕は恋愛感情というものが芽生える間もなく、気付けば社会人を迎えていた。
社会人一年目、甘々の僕はアルバイトだってした事が無かったので、慣れない仕事生活に疲れていた。といっても職場の人も優しかったし、働けば必ず疲れる、という当たり前の程度の話だけれど。
ああ、なんか疲れたから甘い物でも買って帰ろうかな。って感じでふと寄ったドーナツ屋。
そこには入口の両サイドにドーナツを買ったお客用に小休憩が出来るベンチがある。
僕は、出会ってしまった。
一目惚れというやつだった。
その人はただ座っていた。
少し
ドーナツを買い、食べる為に座っていたのではなく、そこにベンチがあったから座っていただけだと、直感で分かった。
話しかけなきゃ駄目だ。本能が告げた。
でも、話をするきっかけが無い。
そうだ、ドーナツを買って一緒に食べよう。
なんて閃いた。ひとつ、僕について言い忘れていたけど、この頃の僕は〈頭の中がお花畑〉というやつだったのだろうね。
お店は時間帯の割に少し混んでいて、その日がバレンタインデーだと知った。買い物をしている間にベンチの女性が居なくなったらどうしよう、そんな不安も浮かんだけれど、お店はガラス張りなので女性の背中は見えている。
もし何処かへ行ってしまいそうになったら店から飛び出して呼び止めよう。そう決めていた。
嫌われないように、女性が好きそうな物を選ぶ。
僕にとっては未知だけど、女性が好むのは限定品&ヘルシーって聞いたことがある。
不安は杞憂となり、無事に女性が居るうちにドーナツを買い終えた僕は悩む時間を切り捨てて、男らしく彼女に話しかけた。
「ちょちょ、ちょっ、よよ横、良いですか?」
「……え?」
実はガチガチに緊張していた。でも、まずは話しかけたその勇気を褒めてほしい。
女性は少し不快そうに、眉をしかめた。
そりゃそうだ、もうひとつのベンチは空いてるからね。わざわざ私の横に?って思うよね。
そんな事、当時は考えなかったけど。
なんなら〈どうぞ〉〈ありがとう!これ、食べてください!〉〈わぁ、嬉しい!〉ってな感じで仲良くなれるかも、なんて考えていた。
「おと、お隣、お隣さん良いですか?」
「どうぞ。私はもう行きますんで」
計画虚しく立ち上がろうとする女性。
選択肢は〈逃げる〉しか用意されていない様だ。
「待って!あの、ドーナツ買ったんで、一緒にどうですか?ドウナツだけに」
「いえ、要らないです。じゃあ――」
「あの!ちょっとだけ!ちょっとだけで良いんでお話しませんか?」
ドーナツを買ったからって、相手が貰ってくれる訳では無い。知らない人なら尚更ね。そんな事、その時は考えなかったよね。もう、ヤケクソでした。
「なんなんですか?」
「一目惚れしたんです!」
言うが同時にお店から出てきたお客様二名。
振り向いた僕と目が合うと、小さな会釈をしてくれた。ほんのり笑みを浮かべて。
ベンチに視線を戻すと、女性は反対を向き、肩を震わせていた。
「あの……座っても良いですか?触らないんで」
何の確認だよと、今なら思う。
「少し、だけですよ?」
女性の声は震えていた。何て言うか、ウケてる。
「やった!ありがとう!あのとりあえず、話しかけたくて買ってきたやつだから、これどうぞ!」
買ったドーナツを渡す。恥ずかしい思いはしたけれど、お陰で警戒心はちょっぴり解けたみたいだ。
「じゃあ……一応。それで、何を話すの?」
「何を……ごめん、何にも考えてなかった。ひと目見て、心臓が止まって、話しかけなきゃって、そう思っただけだから……」
「君、名前は?」
「
「そっか。私は
「もちろん!いくらでも聞くよ!食べながらで良いからさ、ゆっくり話して」
「うん」
初めて出会い。二人で食べたドーナツ。
びっくりするほど不味かった。
逆転バレンタイン ごろごろ @gorogorodesu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます