第9話
その日の夜。カミラは一人になった部屋で、窓の外を見つめていた。ベッド脇に1つ、ろうそくが灯っているだけの部屋は薄暗い。それでもなんとか、月光のおかげでものが見えるくらいであった。
(……とっさにシントレア式が出るなんて、思ってもみなかった)
カーテシーだけでなく、高位な相手に対して執事を介して話をするエミリスワン式ではなく、直接本人と話をする作法だって、もうすっかり身体に馴染んでいるようだった。
(こうして少しずつ、この国に慣れていくんだ……)
この国に嫁いだのだから、それが当たり前。しかし、18年間も住んだエミリスワンの作法を忘れるのも、どこか怖い。自分という人間の根幹が揺さぶられているようで、カミラはどこか得体のしれない不安に襲われていた。
(でも……これは授業を頑張った成果だし、この国でこれから行きていかなくちゃいけないんだから……)
それでいいのだと、自分に言い聞かせる。それでもなぜか、カミラの頬には涙が伝った。
「……っ、……お父様……」
幼い頃、一人で泣いていると父が必ず抱きしめてくれたのを思い出す。カミラは自分で自分の肩を抱いた。一人の夜が、これほど寂しく感じたのは、今日が初めてかもしれない。
誰もいないはずなのに、声を殺して泣いていると、ドアが3回ノックされた。
(誰……?)
遅い時間に部屋を訪れる人はこれまでいなかった。カミラは息を潜め、さっきのノックの音が聞き間違いではないかと考えた。しかし、すぐにもう一度ノックの音が聞こえる。
カミラは涙を拭いて、ドアにそっと近づいた。
(リーサさんが、何か忘れ物でもしたのかも)
そう思いカミラがドアをそっと押し開けると、そこにはヴィンセントが立っていた。
「えっ……? ヴィンセントさん……?」
驚くカミラと同様、ヴィンセントもかすかに驚いた様子であった。
「遅い時間にすまない。少し用があって」
「あ……何でしょうか……?」
「少し、中に入ってもいいか?」
「……はい」
カミラがドアを押し開けるより先にヴィンセントがドアを開けてくれる。カミラに重いドアを開けさせないよう配慮してくれたようだった。
「すみません、暗くて。すぐに火をつけますね」
部屋の中ほどまで入ってくると、カミラはその気まずさに思わずヴィンセントから目をそらしてそう言った。
ベッド脇のろうそく立てにおいてあるマッチを手に取り、火をつけようとしたその瞬間。
「っ……!」
急に背後から、その手を取られ振り向かされた。月明かりが、ヴィンセントの前髪を透かす。
「泣いていたのか?」
「え……」
ヴィンセントが、カミラの目尻に優しく触れる。その体温を感じると、どこか切ない気持ちになった。
「あ、これは……その、なんでもなくて……」
「ごまかすな。故郷が恋しいか?」
「……はい。少しだけ」
ヴィンセントの真摯な眼差しに、嘘をつくのをやめた。この人であれば、自分の気持ちをわかってくれるのかもしれないと思えたからだ。
「……今日は、これを届けに来た」
ヴィンセントが胸元から、一通の手紙を取り出す。それには見覚えのある郵便印が押されていた。
「それ、父からですか……?」
「ああ。だが、俺宛に届いたものだ」
「え……?」
確かに、いつも手紙が届くとリーサが持ってきてくれていた。さすがに毎日届くわけでもないが、貿易商がいくつか束ねて持ってきてくれていたのは間違いない。
「あなたの父上に、婚約したことを報告した。それに対する返答だ」
「そう、ですか……」
父の反応が想像できない。反対したか、あるいは喜んでくれたか。それほどはっきりしたものでもなく、もっと複雑なものであるかもしれない。しかし、自分を溺愛してくれた父が、いささか早い自分の門出を心から祝福してくれるとはあまり思えなかった。
「それで……父はなんと……?」
カミラが問うと、ヴィンセントは手紙の封を開けて、カミラに手紙を渡してくれた。数枚に渡る手紙を、促されるまま読む。
「……エミリスワンで婚約のお披露目会……?」
「ああ。来月にでも、出向こうかと思っている」
「えっ? それって……」
「エミリスワンに、一度帰れる」
ヴィンセントの言葉に、思わず息が詰まる。カミラが故郷を恋しがっていることを、どこか察していたのかもしれない。リーサあたりから聞いたのだろうか。文面からして、ヴィンセント側からお披露目会を提案したようにも読めた。
「本当に……ヴィンセントさん、ありがとうございます」
「礼はいい。俺の方こそ、今まで配慮がなくて悪かった」
「いえ、そんなことないです」
「メイドや講師はどうだ。よく働いているか?」
「はい。とってもよくしてくれています」
「ならいい。あなたには、たくさん言っておくことがある」
「言っておくこと……?」
二人はベッドに並んで腰掛けた。ヴィンセントが窓の向こうを見つめながら口を開く。
「もうしばらく前になるが、父に婚約報告をした日……あのときはあなたにつらい思いをさせただろう」
「あ……」
そう言われて思い出す。国王陛下と第一王子の、どこか蔑んだような眼差しを。
「あの人たちは、他国を知らない。この国から出たことも、ほとんどない。他国にもこの国と同じように、大勢の人が生きていることも、文化や生活習慣が異なる人々が住んでいることも」
「……」
「無知は人の目を曇らせる。あなたに無礼な態度を取ったことを、謝っておきたかった」
「いえ、とんでもないです。あのとき、ヴィンセントさんがかばってくれたから」
「……あなたは謙虚な人だな」
ヴィンセントがこちらを見てかすかに笑う。向けられた優しい眼差しに、つい胸が甘く鳴る。
「それに、俺の婚約者になるということは、必然的にあなたをこの国の謀略に巻き込むことになる。だが、いずれは俺が南を制圧し、父上たちに認められたら……あなたを解放するつもりだ」
「え……?」
「そのときは、俺を悪く言っていい。国元に帰ったら、めいいっぱい俺のせいにして構わない。だからそれまでの間、婚約者のままでいてほしい」
ヴィンセントの言葉が、途中から耳に入らなくなっていた。
「解放っていうのは……」
「今はあなたの処遇を守るためにこの方法をとるしかなかった。だが、望まぬ結婚は強いたくない。国に帰ったら、自分の思う相手と幸せになってくれ」
(そういうこと、だったんだ……)
すべてが明かされた今、どこか空虚な気持ちがカミラを襲う。
「……すみません、私勘違いしていました」
「勘違い?」
「本当に結婚するんだと思って。でも、そんなわけないですよね。図々しいことを考えていました、すみません」
「……」
カミラはヴィンセントと目を合わせないように、笑顔でいることを努めた。これ以上、ヴィンセントに迷惑はかけられない。カミラはベッドから立ち上がり、ヴィンセントに頭を下げた。
「お披露目会の話、ありがとうございました。一度でもエミリスワンに帰れると思っていなかったので、とても嬉しかったです」
「……ああ」
なんとか気持ちを保とうと、話題を探す。それも、早く一人になれそうな話題を。
「明日、イェシカ様という方とランチなんです」
「イェシカ?」
「はい。オーストレームのご令嬢だそうです。だから、もう寝なくちゃいけません。その……」
「……わかった。長居して悪かったな」
「いえ、お忙しい中、来てくださってありがとうございました。今後は、私のことあまりお気遣いいただかなくて大丈夫です。南征のために忙しいと聞きましたから」
自然とドアの方へと歩き出す。ヴィンセントもそのカミラのあとについて来た。
「軍事のことは私、何もわかりませんが、応援しております」
ドアの前まで来て、カミラはめいいっぱいの笑顔を作る。
「今日は本当にありがとうございました。おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
ヴィンセントの背中を見送ってから、ドアをそっと閉める。
「……」
なぜ自分が落胆しているのかわからない。自国の作法よりもとっさに出てくるくらいになじんだこの礼儀作法が、無駄だとわかったから? カミラは自分に問い続ける。
(他国に来て、自分の気持ちまでわからなくなっちゃったのかな)
カミラはため息をついてろうそくの火を消し、ベッドに入った。ランチに差し障りがないように早く寝たいだなんて、粗末な嘘をついてしまったと思う。
(……早く寝よう)
これ以上、何も考えたくない。再び涙がこみ上げてきそうなのをこらえて、カミラは目を閉じた。
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