アクア
あーちゃん
第1話
臨時ニュース
『臨時ニュースをお伝えします。小電脳発表によりますと、宇宙大洪水の十字するグランドクロスの時刻の星明十年十月十日午前十時十分十秒の期日が間近に迫っております。プラネット・オーガナイズ・センターのPOCによりますと、このコンピューターシュミレーション映像の解析では、水金地火木土天海冥の太陽系惑星が直列になる横にも広がるグランドクロスで、太陽が木星など大きな惑星も相手にしないといけない模様であります。木星のマイナス200度以下の気温が太陽熱を冷やし、化学反応で地球の水が倍化して、太陽系が未曾有の氷水の世界になるのではという予測まで立っております。なお、この情報は、深海と鳥類好きの、ちゅこたんと、あなたしか知り得ない情報であります。』
春眠暁を覚えず。ケンイチにとって、春先は、まだ眠りが浅く、少しずつ気温の上昇とともに、のどに乾きを覚える季節だった。見に行ってもタイミングよく桜が咲いているか不安気だった季節も終わり、けたたましく目覚まし時計代わりに鳴るベッド脇に抱えたAIスピーカーが音声ニュースを伝えていた。ケンイチは、家電を白で統一したかったが、色がシルバーグレーのAIスピーカーだった。最安値で購入したネイビーのフリースセット上下を袖を通し着替えながら、まだ寝ぼけ眼で、AIスピーカーの音声ニュースを聴いていた。
ケンイチにとって、宇宙の情報は、視野を広げる格好の材料だった。これから広がっていく未来に向かって、足場を固める歴史だけでは物足りない感じがした。日本ステージと世界ステージを終えた段階で、次なる宇宙ステージの宇宙開発に伴う最先端科学のスタイリッシュなイメージも好みで、次々と、銀河系の遥か彼方に、新惑星が発見されていき、コロンブスのアメリカ新大陸発見級以上の驚きを、まざまざと見せつけていくのだった。宇宙を構成する物質のほとんどが、ダークマター(暗黒物質)で、夜が主体という宇宙空間を把握なのだろうか。昼にする技術である、溺れさせないくらいの水で空気中を薄めて、明るさと色をつけて、大気圏まで範囲を広げている検証をしてみたい。半分水と半分空気を生み出せたら、昼間の宇宙空間を作れそうである。ケンイチの力が及ばない宇宙空間だったら、どこまで行っても無害であるという観念があった。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の干支も覚えるのがあやふやであり、七夕の天の川と十五夜くらいにしか天体イベントに興味がなかったが、少しずつ、星座・誕生石と、西洋化された知識を身につけていった。思春期を過ぎた頃から、カップリングの相性などを星座・誕生石で品定めするようになった。ガールフレンドの夏子とは、魚座と水瓶座という同じ水関係の星座の相性で、『ガーネット』の映画にも出てきたクリストファー王妃も愛用したとされる、おもちゃ価格のオメガ・ダイヤモンドのペンダントを、アクアマリンの代わりと、お揃いで所有していた。ケンイチが、激安ディスカウント店で買ったハッキリとした発色の青色の遮光カーテンを開けると、細かな刺繍が施された白色のレースのカーテンから柔らかな木漏れ陽が当たっていた。
ケンイチは、ホワイトデーを6日前に渡しただけでという想いを反芻する。「当日よ。当日。タイミングよく、ちゃんと渡して。手紙も添えてないじゃない。字が下手だったら、代筆で済ませないの。その分のお金を取られるんだから。」涙が水そのものの水分を倍加させるのだろうか。悲しませるもの、泣かせるものの全てが取り締まりの対象になった。
明るい曇り空の中、久し張りに全力疾走をした体育祭も終わり、新緑の季節は、校舎の窓ガラスが青空一面の太陽を燦々と浴びて光を解き放ち反射している。赤レンガのタイルは、その光を柔げているようだ。メディアが新進気鋭の建築家に力を入れ総力をあげてデザインされたかのような建物だった。一番手の建築家だけをケアしていたら、ここまでの細部まで行き届いた建造物はつくれないと思った。制服はと言うと、校章のワッペンが付いた紺色ブレザーに灰色のボトムスだった。女子の方は、ガールフレンドの夏子も似合うチェック柄のスカートデザインで、新進気鋭のデザイナーが採用した制服であるという噂まで立っていて、女子だけ2倍を超える入学倍率だった。ケンイチが、チャイムが鳴る7分前に、教室の6列に並んだくじ引きで当てたいつもの一番前の席に座り、次の授業の教科書と資料集とノートと筆記用具を、机の下から目配りもしないで両手を入れて取り出した。前方以外周囲が全部、女子で取り囲まれた席だった。授業中でも、夏子の高笑いが漏れて聞こえそうだった。教師が黒板にチョークで書き留めたものを、生徒達がノートに全て書いて書きとめるべきと無心だった。一説によると、「学ぶ」の語源が「マネる」から来るものらしい。生徒達が一心不乱にノートに全て書き留める当たり前のような義務感が中等学校教育を終えてもハートに宿っていた。穏やかな心と今、自分にあるものが映った充実した教室風景が、女子に取り囲まれ、意味ありげに、ワクワクしているのだろうか。
ちゅこたんフェス
去年の初夏過ぎに、スキューバダイビングで水中結婚式を行った魚座の有名カップルが、『宇宙大洪水』の話を聞きつけて、遊泳メーカーのディレイドと連携して、人間のエラ呼吸開発に乗り出したらしい。半魚人の容姿だったら、生きない方がマシだと主張する砂漠の蠍座の人間まで現れて、反対する架空上生命体の保護団体まで登場した。ケンイチが、深夜眠れずに貯金の半分以上を崩して買ったばかりの超美麗画質のテレビをつけてみると、『朝までまで生テレビ』の番組で白熱した討論のディスカッションをやっていた。「この『宇宙大洪水』という未曾有の事態で、新約聖書を三度読み解きました。『ノアの方舟』の記述通り、世紀末からの世紀初頭で必ずこのような因果関係の事例があるとのこと。」「『宇宙大洪水』が空の反対の海という陳腐な発想で、意外な盲点で対処法がなくて落とし穴でした。IQ200超えのアメリカ西海岸の工科大学でも大混乱の模様です。」「元号改変の時に、微妙な微調整の日数があった。星明十年十月十日十時十分十秒の『宇宙大洪水』の事態に合わせることが因子であったのだと認識しました。」「いいですか。太陽の表面温度は、およそ6000度近くですよ。太陽の中心部は、およそ1600万度で、3つや4つ以上のマイナス200度近い惑星が集まったくらいじゃ、大した影響は無いはずですよ。荒唐無稽も甚だしい!」
ケンイチも応応にして、高校2年生になると、自転車で片道およそ30分かけて予備校に通った。予備校の入り口には、合格体験記がたくさん貼られていた。
『高校2年生になると、 予備校へと通った。自転車で片道およそ30分の通学だった。古典の授業に学校の同級生の山尾くん、 現代文の授業に学校のクラスの同級生の磯崎くんがいた。全然、偏差値60台にならなかった。 現代文の植山校で世界大学クラスも受け持つ青野先生の授業で、評論をほとんど読んだことがなくて、スルナートや、タンジュンちゃんの評論も出てきた。 世界大学クラスの子は、文章把握はできるが、言葉の意味を知らなくて、合否の差が出ると言っていた。高校3年生になり、その下のクラスになるが、それでも、まだ、全然、偏差値60台にならない。現代文は、『射倖心をあおる』の言葉や、秋山寛太郎の中期三部作を知らないといけない感じだった。それでも、中堅の大学でA判定が出ていた。磯崎くんは原付きバイクで通っていた。高3になって、髪型をドレッドにして、流行りの若手俳優である容姿の磯崎くん。2人とも別々のクラスになった。 山尾くんもいて、模試で会う感じだった。格上クラスの英語の先生が人気講師で、その先生は「パッパラッパーになっちまう」が口癖だった。 WAYの単語の意味として、『道』の他に『方法』の意味があり、手持ちカバン、ショルダーバッグ、リュックサックの3WAYブリーフケースがあると紹介していた。模試を世界大学などで受けて、遠方の大学のオープンキャンパスにも新幹線のグリーン車で行った。富士山がきれいだった。センター試験を受けずに、極東大学社会科学部第一志望。バラエティー番組の極東受験の影響もあって、漠然と、世界大学と極東大学だけ受験。全ての大学に落ちる。合格体験記に、たぶん、世界と極東は受かるという合格体験記の文章が多くて、自分も受かると錯覚していたと思った。極東大学は、Atuber受験でも話題になっていた。美島加奈子ちゃんは、プルメのCMで話題になり、 AS3と、『愛してる』でもヒット曲をとばし、キー局の『サウンド・ウェーブ』の視聴率20%以上のドラマにも出演していた。磯崎くんは受かったらしくて、極東大学に通いながら、予備校のチューターを務める話も出ていた。浪人生になって、また、予備校に通った。 現代文の先生は同じで、最初の方は現役と同じ教え方だった。通学が私服なので、洋服代が結構かかると思った。スレーダーの青トレーナーとクルーソのカーキカーゴパンツを購入した。春の台風で、ずぶ濡れになって、洋服の水滴が垂れて、床が水浸しになったことがあった。 浪人になって初めての日本史の模試で、偏差値70台になった。 平均して、偏差値60台になった。日本史の先生が世界放送に番組協力の依頼をされたらしい。独自の勉強法として、テープレコーダーに、マイクで、英単語の発音と意味を吹き込んで、覚えようとした。息抜きに、CDアルバムに封入されていたチケットで、美島加奈子ちゃんの初主演映画を丸の内まで観に行った。通学で、エイシャの「Prayers」をエンドレスで聴いていた。 オープンキャンパスの学校見学で、 極東大学に行く。 受験のことを質問した。祝日のたびに模試で、だんだん、勉強に飽きてきて、冬季講習から通わなくなる。 極東大学の3学部を受けて、それでも、なんとか、が偏差値57.5の学科偏差値の学部に合格した。そんなに、まだ、大学の偏差値を把握しないでの受験だった。
1.英語の英単語8000語と英文法
2.古典の古典単語250と古典文法
3.日本史の仏教史と江戸の三大改革と戦前の総理大臣
この3つを把握すると、難しい世界大学と極東大学は受かるらしい。世界と極東の英単語レベルは、8000語らしい。難しい英単語は、よく流行りの音楽に採用されていた英単語だったようで、当て字をして覚えるらしい。高2、高3、浪人と、ほぼ同じ勉強内容の繰り返しのサイクリング通学だった話だった。』
ケンイチも、古典の授業にも現代文の授業に学校のクラスの同級生がいた。けれど、全然、偏差値60台にならなかった。現代文の植山校で世界大学クラスも受け持つ講師の授業で、評論をほとんど読んだことがなくて、『絶対』と『相対』というよく分からない言葉が出てきた。デジタル時計が『絶対』で、アナログ時計が『相対』ということで、少し分かった気がした。世界大学コースの子は、文章把握はできるが、言葉の意味を知らなくて、合否の差が出ると言っていた。
生徒一丸となって行儀良く真面目の一点張りだった夕暮れの校舎では、居残りの生徒が窓ガラスを拭いてそうだった。真面目にし続けて、従い続けた結果、そのままでもよかった。信じ合う大人との理解の中で、許し合い、一体、何を分かりあえたのだろうか。納得しながら、それから過ごした何もかも分かっていた事は、この許容感への絶対性だった。放課後の教室では、マサシの腕相撲で熱気を帯びて、自分がどれだけ強いか知りたかったらしい。ケンイチは片方の左手で黒茶色の机を抑えて、手を握り組んだ直後、いつもちょっかいを出すジョージが非力だと気づいた。知恵が必要だと、咄嗟に体感して、妥協が引き分けに持ち込めると信じきかせた。時には誰かが目を伏せても、女友達の小畑にさえ、おちゃらけて見せたジョージが。ケンイチは、仲間内だけだった場合の異端児になりうるジョージの将来を心配していた。そんな思いとは裏腹に、マサシはマサシで郊外に出向き、深くは聞かなかったが、ビル建設に関わっている旨を伝えられた。ジョージはジョージで、バイトという履歴書のスペースを埋めるのに十分なアピールをしていた。ケンイチは、家庭の事情からか、バイトに熱心ではなかった。学業を優先させていた。マサシには、自転車のパンク代金で、お金を1万円札を借りていて、すぐに返した。ケンイチの計算力は、正確だが、どこか心許なかった。おそらく、幼少の頃のはじめてのおつかいの失敗に起因するものであろう。バスから展示場の車の値段をながめて、万の単位を抜かした値段だと思ってた向きもあり、金銭感覚に自信がなかった深層心理の働きがあった。高校の数学も微分・積分から全く意味が分からなくなり、大学進学のための受験科目から数学をはずす必要があった。
5月5日の子どもの日が誕生日ライブであるちゅこたんフェスを観に行った。ちゅこたんフェスは、ピジマのas3と『愛してる』で始まると、シャイ娘。が3部作で盛り上げると、ナナミも『水色通信』を歌い、『カタリズム』のエフェクトと光栄館ライブを観に行ったターテンテントの曲を挟んで、深川信美とちゅこたんの『真心』の熱唱があって、ゆかが『Your World』をしんみりと歌い上げて、最後に引退した来須ちゃんがサプライズで出てきて、ダンスナンバーを踊ったスーパーライブだった。若さがはじけて、みんな、それぞれの持ち味を生かしてヒット曲を歌いまくって、司会のちゅこたんだけがヒット曲のメロディーに達していなくて、カラオケが歌いたい子なのか、元の曲を凌駕するような歌唱力のアニソンのカバー曲を歌うマイクパフォーマンスだった。『カンターネット』視聴の感想は、歌の構成が紅白レベルと、走らせた思いをくみ取って、歌の1番で終わらせる2番目以降を聴かないショートバージョンの楽曲カバーも加えられた。欠けているメロディーの集合体にみえる絶頂のエクスタシーを感じる注文が生じていた。ちゃんとしたメロディーに編曲改変されたら終わりだった。『カンターネット』に対する思いを、『すり抜ける想いが確かにつながるはずよ』と、気づかなかったスルーしていた苦しい感情だけどスタンダードになる青春期特有のログなのだろう。ちゅこたん語の『ラゾたのうれ』『マジッカール』『ラゾ』『ラザンタ』『ザッセルヌーン』が聞けて、こんな機会を作ってくれたちゅこたんに、大満足のちゅこたんフェスであった。ちゅこたんは、声が裏返らないで最後まで地声で歌えるかどうかが、ラミュスで、全曲できそうな中山不二美ちゃんらしい。
カラオケのレパートリーは、男なので、ビットエースとカグマから組み立てて、グレメロ系なども歌うかどうかという、女の曲を入れたら、オカマの問題以前に、膨大で、収拾がつかなくなり、個人では音源を保管できなさそうだ。ビットエースの『核心』一番売れたみたいで、ヒット曲を歌うかどうか、ビットエースと同じプロデューサーの女性歌手であるけど、「ぼく」と「きみ」という歌詞なので、時代背景か、男の歌を作れなかった痕跡なのだろうか。その曲でカグマ色をカバーできそうな感じもする。ビットエース側に、カラオケ主体で考えた場合、『核心』を取り替える覚悟もあると思う。初めて買ったアルバムを優先する感じが出てきた。カグマだと、『ゾルチカ』を歌うと思う。『ゾルチカ』の「おれがキングならば」と「おれ」を入れて、男の歌手と主張するカラオケで歌うと難易度が高めのカグマというバンド形態だった。女でカグマのカバーが多いらしい歌詞で、おことわりを入れたのだろう。カグマが他のアーティストのカラオケの持ち歌を増やしていた。ちゅこたんフェスに、『ぴた耳』という、ぴたっと耳から離れられないラミュスの歌詞が気になるコーナーがあった。原罪性に及んでいる歌詞の世界観が、幻想で有耶無耶にする意味の歌詞だった。おそらく、手が届かない着れなかった種の色だったのだろう。この曲を、中学の卒業旅行で歌っていた同級生は進路先が極東だった。誕生日は素晴らしい。外国人側は、HAPPY BIRTHDAYで、たぶん、気づいていて、素通りしていないと思う。何周か目の誕生日に気づかない生まれた当日である雰囲気を指摘しない雰囲気だった。歌詞じゃなかった勘違いだったかもしれない。歌詞を変えた可能性もあると思う。来須ちゃんの 歌詞の部分が衝撃的だったり、ひっそりとした感じがして、いい感じに聴こえる。しんみりとはするが、打ち解けるのである。 英語の教科書の「ボディー」ではなくて、来須ちゃんは、「バディー」と「ナイスバディー」の方で発音するのである。感受性という言葉の意味を知らなかったが、グッときたり、 上には上がいることのあきらめも感じた。 めでたく、来須ちゃんもゴールインを果たすという結婚しての引退の曲だった。 同じ曽根崎ファミリーの友島直美の査定が加わり、最善を尽くしてあげたいという直ちゃんの歌詞であった。みんな出てきたら、同じ時代の繰り返しになるわけのスペースの問題で、引き下がる人たちの意思を統率するためにもが出てきた曽根崎ファミリーにも、ロンリーという英意識ナンバーの直ちゃんに歌わせた楽曲を聴いた。paperは、仕事が先か、恋愛が先かという、小顔のを選んで、次の世代で本命の友島直美ちゃんにアプローチというプロデューサー業だった。数田ソネ代のメディアの世界の曽根崎ファミリーの雰囲気を手本に、近くにいる小顔の"数田ソネ代"と付き合うのである。そして、ゆかの 『Your World』では、出だしで興味をそそり、感慨深げになるゆかの楽曲の中で一番売れたバラード曲だった。以上、イニシャルAのアマゾネスだけ聴く手法である。マイナー系レーベルの、年上のお手本と、 同年代の組み合わせでも可能である。全て、恋愛が終わったあとに堪能する音楽性らしい。 そして、みょんみょんがいるフサータの歌詞の部分が、ヒット曲のメロディーが終わったという恋愛と結びつけられた使い捨て感の連続に気づいた時代性だった。ラミュスは、海外の歌という判定のメロディーで、血を分けて欲しい要望の海外移住があったら、答えるのだろうか。まだ、日本の歌を作れる才能に賭けていて、演歌か、もしくは、せめて、歌謡曲で、なんとかしたいと思っていたら、大変な苦しみだと思う。言葉の分析解体と構築で、メロディーに行く前に、ほとんど疲れてしまう分野だった。歌を歌うだけの専門の訳も分かる気がする。
ラミュスのビットエースは、背景の描写があり、個を抱える内面に通じるストーリー性の中で、感慨深げな諦めや哲学的な想いを歌に託して、伸ばす先が光ではない虚構性を今いる中でという決意で更なる繰り返しを試みる前に、はみだし部分を気にしてたらしょうがないと思わせる歌詞だった。ビットエースの巧みに構成されたメロディアスな叙述詩からなる最高傑作であり、ビットエースなりの言葉のちらつかせ方があっても、本心としての肩書きじゃない人間性に対する見つめ直し方を提言するビットエース像だと思う。さらに、楽しそうな複雑系で、恋愛の歴史観を盛り込んだ追いつけない領域の世界観だった。しかし、恋愛に対する影響からか生活を阻害するという関心から、堅気の一面も見せるビットエースであったが、『核心』は、バックグラウンドを除いた世界観の中での形成という自力を試みた楽曲だと思う。 カグマは、純朴な思いに隠された歌詞の世界観も付け加えることで深みを与えており、見た目では分からないような世界観の歌詞が、 人の心をハッとさせる言葉と言ったところだろうか。2番の歌の歌詞にも言い換えて、展開しているのである。共通する2曲の現実感を宿した世界観に、壮大な宇宙観を盛り込んだという、カグマ特有の言葉のちらつかせ方もほとんど見せなかった、カグマのスタイルが決定したメロディー曲であり、出だしの方の導入口から、メディア観であろうか、現実感を植え付けることに成功している歌詞である。クラシック音楽以来の宇宙が、ラミュスの音楽業界で初めて登場か、初回で最高潮ピークが出たそのあとのカグマは出遅れの停滞気味だったのか。『竹取物語』の月に帰ったかぐや姫も、太陽で輝いたとされる逆の古典文学であり、『竹取物語』だからなのであった。ビットエース超えの、ビットエースも、宇宙観までの歌詞は出してなかったと思う。ビットエースの翔がミナコの海外の個展を観に来て、はしごをのぼって、屋根裏に置かれた太陽系の天球儀の表現をみて、結婚を決意して、宇宙観を取り込まなかったビットエースという、日本は、天球儀も覚座のミュージアムにあって、天文学の領域に入り込まない海外における郊外の地域性だったらしい。スザタカは、短い言葉の集合体の方が歌になりやすいというリリックの表現が見事だと思う。歌詞の世界観が、時間軸(未来・現在・過去とこれから・いままでと、明日・今日・昨日から1週間)と天気(晴れ・曇り・雨・雪、と風)と景色(街、と海・川・森・山)の中で、交通手段(車・飛行機・徒歩・電車)による思い (喜怒哀楽・笑いと涙・出会いと別れ・恋愛と夢と希望と自由と勇気・情熱と冷静)が、花などのシンボル(ひまわり・バラ)に重ねられたりしていた。宇宙観(太陽と空・月と星)や歴史観などバックグラウンドを盛り込む場合もあった。 ビットエース、カグマ、 スザタカで、終わりらしい。オンリーワンだと選ばれるイニシャルSのスザタカの関係は、スポーツの下に置きたい応援歌で、スザタカのライブに来てくれる力は、電波の形態で個別的な感じの払拭が入っていた。音楽を音楽で表現するが腑に落ちないと、ビットエースが辞退の子どもたちと、イニシャルBのバックボーンである音楽関連のことが歌詞にあった場合のマイナスポイントらしい。ビットエースのセールスポイントはサビの決定版からの、ふわりを薄める抜群のセンスがあったからのようだ。仕事としてのビットエースの背広もスザタカが意識した要素となっていた。
ケンイチは、ターテンテントの3周年ライブも日本光栄館に見に行っていた。ヒット曲オンパレードのライブ構成になるのではと期待を込めて、日本光栄館に行った。初めての日本光栄館となった。 日本光栄館は、高の丸公園の中にあった。歌が始まると、案の定、ターテンテントのヒット曲のメロディーのオンパレードだった。興奮を抑えつつ、マストバイ購入したターテンテントのペンライトを振った。ハロウィンの曲のところでは、虹と同じ7色の発光パターンのペンライトの色を橙色に変えた。 真夏の暑さの中、ターテンテントが踊りまくりで、舞台演出も凄かった。たぶん、うまくひけるんだろうけど、木琴を下手な子がするような演奏で、涙腺がゆるんでしまいそうになった。 ターテンテントは、80年生まれ橋元シゲヒコプロデュースの元、デビュー7ヶ月で日本光栄館を経験していて、そのエピソードを披露していた。8月の真夏の室内コンサートということで不安だったが、それほど暑さを感じなかった。ハプニングがなさそうな気配で、無事、あっという間の90分近いライブ公演が終了した。 さざなみのように引ける観客にのまれて、会場をあとにした。2日間チケット購入したが、初日ので満足して、もう1日のは不天候な様子もあって、見送ることにした。アルファベットの bとdの連続性を使う『bbbbbeeeddddd』というタイトルの着眼点で常人には発想できないアイデアだと思った。ターテンテント以後、ヒット曲のメロディーの音楽が主流ではなくなり、新しい音楽をほとんど聞かなくなった。これ以後、音楽ライブに行くような動機が見つからない気がした。後日、このライブのDVDも手に入った。同じく橋元シゲヒコプロデュースのフサータの音楽ライブ映画も観に行った。子どもの頃の”みょんみょん"というあだ名が氷解したような気がした。ツイッターは、1回でもタップされると、情報がどんどん引き出されていく。ターテンテントには、ターテンテント3周年の日本光栄館で、メルヘンSポップであるヒット曲のオンパレードのメロディー音楽を聴けた3周年ライブに感謝している。タユータ側のワールドと契約をしたようなものだと思うけど、ロッキンSポップの影島信司80周年生誕ライブとメルヘンSポップのターテンテント日本光栄館3周年ライブのヒット曲のオンパレード構成をみると行った価値があった。
ヒット曲の作り方は、サビのメロディーが40秒のを思いついたら、鼻唄でもいいので、録音しておく。思春期の早い時期からで、メロディーが思いつく時期があり、早いもので、初期のビットエース時代よりも先回りして、ログしていたようだ。人生における貴重な楽しみとなる音源なのであろう。歌を伸ばせるだけ伸ばす、好みを反映させないことらしい。正攻法なのは、鼻唄ではなくて、楽器で、音を奏でていてて、音のメロディーをつくっていく手法みたいだ。ピアノじゃないと、ギターだと、悪い音楽になるらしい。イントロがサビの歌詞なしバージョンで、ふわりも思いつく。サビを、2つ以上、くっつける手法もあったらしい。"サビくらべ"という、負けた方が、ふわりを担当するという禁断の手があった。ピースが埋まり、ふわりとサビの前後の意味がつながり歌が完成すると言うのだ。[イントロと、ふわりと、サビで、それぞれ40秒近くの120秒が埋まる。]2番の、ふわりの歌詞が思い浮かぶだけで、倍の240秒の4分台に、早口の口上を足していた時代性もある。以上が、ヒット曲みたいなのが出来る流れだった。ダウンロード時代のサウンドが、わらべ歌を、大人になっても、作り変えて歌っているメロディーだったらしくて、羞恥心だけで、メロディー音楽を作れない、できない人が固執しているようなものだレクチャーを、スポーツだけの価値観の方に寄せていった。誰を音楽の手本にするかという、ビットエースしかミュージック・サクセスというこれ以上新しい楽しい音楽は作れない批評が出てきたようだ。たしかに、曽根崎慎也氏の音楽をみると、エモーショナルな部分が、やや動物的な気がする西洋音楽の元来の音階をダサく感じるかどうかの本能的な部分に関わるダンサーも入れた領域なのだろう。『その気になって』『グランド・カウンター』と、ビットエース以外で、高学歴じゃない歌詞で、エモいメロディー音楽になっているのは、ほとんど探せないらしい。ヒット曲の作り方は、3行歌詞が思い浮かんだだけで、繰り返しと言い替えで、ふわりと間奏を入れて、5分間のメロディー音楽の歌がつくれますだって。伴奏の能力ありきの編曲とアレンジの中身。1番目の歌詞を作ったら、それが白人バージョンで、2番目の歌詞が踏み外しか、はしゃいだ異性の目線らしい。2番目の歌詞を聴かない人たちもいる。3番目の歌詞は、1番目の歌詞と全く同じでも成立しているように聴こえるらしい聴き手のレベルだった。歌詞カードを渡された歌手が歌いやすいように手直しして歌って、その歌のメロディーの大元である作曲家を用意していた時代という回顧があるのだろうか。伴奏の編曲部分に関していえば、女性の歌い手などによるメロディアスなイントロや主旋律ではないメロディーの曲で聴き手の方が飛びつくようなキャッチーなセンスを感じる伴奏が付くことが多いが、伴奏を目立たなくする手法の方が、やはり、かなり多いのであろう。作詞家と作曲家が付くメロディー主体で聴かせたいような歌の場合は、気にならない差し障りのない伴奏の方が無難なようだ。むしろ目立たせる作詞作曲の能力と反比例するかのような楽器の演奏による目立たなくさせる編曲の能力なのかもしれない。ビットエースの『ラララのラのラララララ』の9回の『ラ』のあとの『ラブ』は、音の間隔の幅を狭くした方がプロらしく感じて、伴奏を同じ音の繰り返ししかできない場合のビットエース指南までとなって、伴奏のレベルそのものが音楽レベルの演奏ありきの現実であり、歌う演奏とともに伴奏のメロディーを思いつく長丁場のインスピレーションであるセンスが必須なのであろう。5才からクラシック音楽のバイオリンやエレクトーンなどの楽器演奏をしている、ある程度のバックボーンの下地が必要となってくる関門だという情報があった。音をメロディーに変える子どもの時からの、今まで聴いたメロディーになってない音の蓄積ではないと、新しいメロディーの分量に達しないらしい。音楽家の身銭の事情からの最低ラインのジャズではない不本意のポップス介入の転身コンバートの歌詞とも聞いた。音楽ができる人は、アートとゲームと本と音楽と映画などなど、全部できると断言していた。音源そのものというよりかは、遺伝子にも添える認識において、レコーディングという形態が入ってきたのだろう。音源とも言いかえていた。1桁の年齢のうちにやらせていて、ヒドいものだという認識がないうちに始末する手配だったらしい。学者肌の見方で、コンテンツを観てないだけで、より希少な異種になるのかという、そこまで情報整理する統治する側のジレンマもあるようだ。時間的制約におけるコンテンツ接触で、ほとんどが同じになるはずの理だった。アートをするアーティストが絵だけじゃない歌の活動もするという自分の顔を出すメディアのレクチャー情報があった。『すぐに作ったものは、すぐに消える』魔法、および、3Dプリンターに対する価値観に上の世代に問い合わせがあって、『東京では、もうやりました』発言もあったらしい。
プール
そんなゴールデンウィークも過ぎて、体育で、水泳の授業が始まった。ケンイチは泳げなかった。マサシにプールに誘われて、バタ足をしても、体が水に浮かなかった。ジョージも泳げないと言っていて、学校の水泳の授業に参加して、プールで飛び込みをしても、ケンイチは全く泳げなかった。ジョージの泳げないという発言は、どうやら、難易度が高いバタフライが泳げないと言う意味だったらしい。ケンイチは、プールを休み休み見学して、進級に必要な体育の授業の出席日数を数えていたりした。ケンイチは、競泳用に燥ぐのを抑えてはいるが水飛沫で伝わる水の中を泳ぐ快感の喜びをひた隠しにしている生徒達の輪の中に入れずに、物事を俯瞰で見るような癖が付いてしまったのだ。人間のタイプには、話しかけられるタイプと、そうでないタイプがあり、ケンイチは後者であった。話しかけられるタイプとの膨大な情報量の差を埋めるための、こちら側からの立ち上げの会話をするにしても、迂闊なことを言ったりしたりの失点を食い止める必要があった。全体に話されたのではない局所的なアドバンテージのある情報をケンイチは求めていたところもあったと思う。何回も割り振って話すことにより、全体統括の一回分よりも、利益還元も倍々ゲームに膨れ上がりそうだった。チャラ男という、気さくに話しかけられやすい容姿を自分なりに点検する必要もあった。
7月、2泊3日の修学旅行で、遠方へ綺麗な海も見に行った。ケンイチは17才で、その時、極上シートに座っていた。割安料金を提示しない姿勢がケンイチの心を満足気にさせていた。せっかくだから飛行機の行き帰りの座席を離陸して上空高く雲海が見える窓側にした。文字通りの鉄の固まりの飛行機が空を飛んでいるという快感を目の当たりにした。飛行機が落ちるという心配も上空高く飛んでいる快さでなくなり、その分厚い白雲をくぐり抜けて降下し、南国の空港に着陸しようとしているところだった。7月の晴れ渡った明るい大地を太陽光が染め上げ、ビルディングにも足らない建物に鮮烈な広告の看板もなく、それらしい国内独自の忙しく働く整備工の影も見えなくて、爽やかな微風とともに空港の屋上の旗がはためき、空港のガラス張りのエントランスの入り口が広々でクラスみんな集団となって開放的な気分になった。修学旅行で見た景色の海は、大海原のエメラルドグリーンとコバルトブルーの小波を立てた珊瑚礁が透き通って見える海だった。夏子が制服の上着を左腕に引っ掛けて白い靴下も脱ぎ、深い色の海面の場所まで足を運ばせていて、修学旅行の事前説明会で、教職員から、いきなり、海面の段差が場所があるので諸注意が出ていた行為だった。ベージュ掛かった砂浜に真っ白な貝殻と小石も含む海岸だった。どうやら、そこまでの歴史的建造物はなくて、中学の時に行った煌々と輝く正宴寺と堂々と鎮座する満ノ塔の大仏を見た修学旅行が最高頂のピークだったみたいだった。ケンイチは、よくできた普通の歴史的建造物に行ってなかった。
だいぶ、裕福な時間を過ごせた。日本とドイツとイタリアがアメリカとイギリスと中国とロシアに敗戦した第二次世界大戦後に、今度はアメリカとロシアが対決する東西冷戦が始まった。東西冷戦の構造は、東側諸国の盟主であるソビエト連邦の崩壊で、1991年に幕を閉じた。白人同士ではない黒人兵参加のアメリカのベトナム戦争の苦戦という追加的な平等主義的な名のもとに無知な情報が判断を鈍らせる東西ドイツの統一としてのベルリンの崩壊のモニュメントである。日本も、日米欧の西側諸国の陣営であったが、首都である東京という名称がスポーツ的な歓喜に沸くことなく平節を保っていたようだ。戦争は、あまりにも勝敗が分かりにくかった点があった。幼きものごころとしてスーパーザナムートに最終形態のトリネーザが倒された『ハシャマールQ』で知らされてテレビゲームなどでも頻発する個人の死傷に近い代償を払うものなのかというセキュリティー通達を感じた。ケンイチには、これから押し寄せるタイムリー後の2度に及ぶ戦争の最中に、反戦映画を観に行くという映画祭グランプリのかというセンスが問われていた気が滅入る緻密なタイムスケジュールによるカリキュラムを課せられていた。名前を冠したブランドそのもののゴッドファーザーという君臨の資本主義側の体制においてのシナリオ脚本メーキングである。ロシアが一番広い面積の国だが、日本が一番という情報をアメリカに出すように、アメリカが南北アメリカを含めて超える面積であると、ヨーロッパがEUで示したのだろう。一番の付け方は、大小と速さと数と、さまざまありそうで、法則による権力者側の一番が分散するという都合なのだろう。おそらく、遅いが一番になることはなく、速さだけの特性に一番が特化しそうである。巨体物のゾビラの速度が人間を上回る60キロと聞いたことがある。
修学旅行から帰ってきてから、取り止めもない充実感が湧いてきた。いつもの学校と塾の往復の生活でも、体に押し付けられた眩い高揚感が止むことはなかった。七夕の日、学校のテスト休みも兼ねて、夏子と一緒に緩い山道を通る神社にお参りした。この辺りの自然は鬱蒼と生い茂った雑木林の中に長くどこまでも続いた柵から身をのぞかせると小川が流れており、近くには汲み取り式のほとんど使われてない古井戸があった。どこかで、タヌキの腹太鼓のような音が響いたが、気にも止めなかった。ケンイチにとって、都会の喧騒を離れて、自然の中に入ることは、予備校で習った受験勉強の知識を無効化するものでもあった。忘却とは忘れ去るものなり。警戒心を紐解き、そんな知識は忘れてしまうのである。頭をクリアにして、また、残った勉強の知識だけを把握して組み立てていくという繰り返しの定着作業があった。やわらかな参詣を終えると、二人は進言疎かな雰囲気に包まれて神社をあとにした。
ちゅこたんロイル
ケンイチが、宇宙大洪水の話を家族に告げると、ケンイチの母は、親身に聞いてくれて、「水がないと困るのよ。」というポイントも教えてくれた。ケンイチの父は、「先人たちの言い伝えで、いろんな星座があるけど、星座と神話の夢とロマンを与える宇宙に無闇に立ち入るなよ!」と一喝した。ケンイチの妹には、「理系に興味があったの?電化製品が、物理の分野なのか化学の分野なのか、お兄ちゃん、知っているの?」と言われてしまった。
部屋に戻って、ほとんどのどの街にもある家電量販店で購入した一番小さいサイズのプライベート用のテレビを付けると、先週から始まった『プラネット・ウォーズ』がやっていた。『プラネット・ウォーズ』は、溶岩の近くに拠点の城を構えている悪の帝王ジャガーシーをブライトニングソードでやっつけに行くというストーリーだった。宇宙の始まりという白が生まれた瞬間からの叙述詩が、それまでの暗闇のダークネスから、白をつくれる技術が、印刷技術だけという思いかというケンイチのワクワク感が定まった。余白という説明の培養水増しが可能かもしれない。時空の時間と空間としての、いかに埋めるかの『スペース・ウォーズ』という、ありふれた感じの素通りする指摘なのだろう。
テレビを観終わって、ネットで、ちゅこたんロイルを観てみると、ちゅこたんが公用語以外の言語で、やりとりしていた。200人の外国人がいれば、地球上に存在する殆ど全ての国の言語を体得できるが持論のちゅこたんである。英語にさえつまづいているケンイチには、完全に専門外の領域だった。ケンイチは、英単語をイメージ記憶術ではなくて、語呂合わせ英単語で覚えていた、それだと、脳内にも負担がかかり、極東クラス以上の英単語力にならないみたいだった。「強調する」や「割り込む」などの意味の英単語は、ケンイチにとって、ややなじみが薄いイメージの英単語だった。供給サイドを意識すると、飲み込みが早そうな言葉だと思った。「不平を言う」などの英単語も、日常生活でほぼ満ち足りているケンイチにとって必要性を感じなかった。いつものスポンサーが全面撤退で、広告がついてないちゅこたんロイルになっていた。まだあどけなさが残る日本語の近況報告として、「サーブの空振りを恐れて、トスをワンバウンドさせたわ。もう、インドアテニスコートの時代ね。」という室外スポーツの宇宙空間の余波という天文学的解釈を含んだ、染めた金髪美女姿での殆どが国内女性のテニス姿に囲まれた画像付きの感想だった。翌日には、ちゅこたんは、男性スタッフを含めた30人近くの集合画像をブログにアップしていた。カクタルの記述もあって、生まれた80年代のロボットアニメという立場から、ショネ自体の撤退も考えてそうだった。ちゅこたんロイルも途切れていて、もう美麗容姿の段階ではなさそうだった。ちゅこたんの顔は、ボディーガードの金髪白人の類の顔で、役割を終える予感さえ感じた。ちゅこたんは、日本にいないタイプのネアカ(根明)で相性が良さそうだった。ちゅこたんのツイッター・フォローをやめた。もう容姿が全盛期じゃなくて、女性としての魅力を 感じなくなったからだ。こちらからの直接的な情報受信はしないと思う。メディアからのちゅこたん情報で知るくらいになると思う。ちゅこたんによって、『水の中の宇宙』という創作作品の感覚を知った。ちゅこたんの方にいくと、どんどん創作のクリエイティブなアイデアが出てくる。『宇宙大洪水』という、ちゅこたんの絵からの発想を、ショート・ストーリーの短編小説の長さにできた。海に行って、海岸の端まで行って、その先には海が、ずっと続いているという子どもの時のような漠然とした考えだと、宇宙まで水が続いてしまうという間違えがあって修正しても覚えていて、その感覚をクリエイティブな不思議なアイデアに結びつけようとする、ちゅこたん達側の大人心があるのだろう。同時に、自分の創作能力の限界を感じたが、いい記念になった。ちゅこたんは、好きになかったタイプの有名人ではなかったと思う。これ以上の好みの変化は危なっかしいと思った。 『水の中の宇宙』は、AIスピーカーによるデマ情報という、放送コードに触れる戦前のラジオの戦時中の形態を置き換えた作品だったと思う。ちゅこたんという転機で、次々と、美人な若い有名人のネット情報を追いかけていきそうだ。ちゅこたんと軽田さんという、東南アジアを含む日本のメディア人材としての美のシンボル的存在で、欧米からも、どの程度なのか伝達するかという、ちゅこたんのジョンソン・ミーサ化の了承において、軽田さんも知ってるという起点もあった感じだった。美の相対性において、ジョンソン・ミーサの『ぬるま湯いかが』を観たあとで、印象の変化は、やや魅力減のスタンスという解釈がほとんどだと思う。現代版というアップデートの立ち位置で、ファーストじゃない入れ替えも覚悟かどうかといったところだと思う。家族ストックという増やせる時期に増やしとかないとだったのに発言が出たばかりだった。映画チューズデイのコマーシャルに出てきた結婚情報誌『セレブレート』を購入する結婚スイッチが入るモードではなかった。家族ゲームがそっち方向にシフトするワードだったけど、危ない感じの印象で、メディアで、そのままの情報っていうのは出ないという見きわめか指摘も時すでに遅きに失した。ジョンソン・ミーサというのは、世代間の伝承において、メディア業界の年齢差の浮気が必然である部分が出てくる という捉え方を、活字化しない形で娼婦と見間違う容姿の中で残そうとした金髪美女の人物であったと思う。ジョンソン・ミーサの『ラブ・ドリーム』の地下鉄の風が吹くピンク色のドレス姿の画像を保存したら、ジョンソン・ミーサの怖いピエロみたいな画像がテレパシーみたいに浮かんだ。都市伝説のヤバい情報っていうのは、いろいろとまつわるものらしい。他のは知っていても、命は狙われないらしい。暗殺という、ジョンソン・ミーサとの関係性では。ユマちゃんが役名で出した本だと、世界統一宗教があったり、聴くと死ぬメロディーの曲があるらしい。ちゅこたんがいて、のめり込んだのはユマちゃんだけど、冷静でいられる相手の方がというのもあって、金髪のちゅこたんの方が明るい容姿で相性がいいらしい。ネットちゅこたんは、なりすましで、本人が本当に出てきた場合という、ケンイチのなりすましのもあって、ネットに対する意見と違って、結構、納得できる範囲の事実修正の印象があったりする。逐一、最新情報も合わせて変わっていっている感じだ。大人になるための中身の充実という、ある程度の文章力による開花が必要みたいだ。書き連ねると、どんどん書くことがなくなって、書く範囲を広げて段階が上がっていく場合もあるらしい。何も表現しないイメージの場合だったりの方が、 創作余地が生まれやすい見方もあるみたいだが、度を超えたに見える場合の回避の段階も必要だと思った。東京コミッションが、またあった場合のピンク本位だから違うのかな結論もあった。ちゅこたんは、サトヤーマ推しで理解していると捉えられたようだ。大幅な間違えのようだ。ちゅこたんの中でカクタルに手をつけたら、マイナーなマニアックという感じの判定であるみたいだ、ショネみたいに露出が多くなっても、特に、カクタルのマイナー感は拭えないという解釈ではないかと思う。RPGにも言えそうだ。結局、ちゅこたんツイッター・フォローをまたした。ちゅこたんのところしか最新情報が入ってこないみたいで、もとのさやに戻った。検査の結果、病気は陰性で、なんともなかったみたい。フォローは、ちゅこたんとユマちゃんとターテンテントのフォローをしている。5人とも、美人揃いで、その中で、ユマちゃんが一番ドンピシャの容姿の好みだ。この日記をみてくれる人が少数でもいるみたいで、触れてるネット情報にも書いた関連の話題が上がったりする。ロイル本で200ページ以上の画像付きの日記を書いてて、活字だけで、200ページ以上を目指すことに、どれほどの意味があるか分からないけど、挑戦しようと思う。ユマちゃんは、丸山区が『サーティーン』モデル時代から小顔で大事に大事に育てて、龍愛されてて、やっと、『ジューンブライド大作戦』で情報解禁になった経緯があった。エンタメに夢中になって、婚期がみんな遅れている。久々にインスタに登場したユマちゃんは、白いドレス風の洋服のお召し物だった。テレビ局の楽屋前の撮影だと思う。本当に、顔パスが効かないみたいで、証拠画像を出さないと感があるらしい。キー局のドラマ主演で上流階級に目覚めているのかもしれない。あっ、でも、スーパーザナムート演技だったり、白ユマちゃんはあり得なくなっているのかもしれない。ユマちゃんの方が主演女優賞もとって、上回っていると思う。ちゅこたんを幼少期の思い出と意識しなくて、ユマちゃんが好きだった時期が今でもある。ワル回避の題材でスーパーザナムートになっていて、高卒じゃないとやっていけないと言われたはずユマちゃんからしたら、こねくり回したようにもならないネタは許しがたかったと思う。
そして、誰も恋に落ちずに、メディアで氾濫する衝動的な言葉だけに心奪われた。倫理の教師に、「君達は前日にメディアでした事を、翌日、学校の休み時間に話すだけだ」と言われ出す始末。古典の初老に差し掛かる教師の余談として、『いい加減にする』の『いい加減』が『良い加減にする』という趣旨説明を受けた。泣き出す家庭科の女教師まで現れた。もう少し、生きるために、計算高くなれと謳歌するが、人をおちょくる、穿ったさも強く疎んだり、生きる為にすることの区別を迷った上昇志向があった。
ケンイチは、有名な家電量販店が宣伝している、ディレイドが出している『着るエアコン』なるものをバイトで貯めたお金で購入してみた。近未来の洗練されたデザインであった。首の後ろを冷やすもので、たどたどしい装着後、しばらくすると、身体が温度をきちんと感知できなかったのか、痛みが走った。自律神経の作用で、気にも止めてなかった身体構造についても関心を持つきっかけになった。防水性もなく、汗をかくので、普段使いするのをやめて、実用性がなかったが、いい勉強代だと思った。と、同時に、ケンイチは、あまりにも情報を習得しすぎなのかと、極刑に達するような処置をとられると注意を払うのであった。それでも、ケンイチは、ディレイドの音楽プレイヤーを購入して、のんびりと窓辺の椅子に腰掛けてSポップの歌を聴いていた。緩む風もないのに揺れているような黒髪の反射するコードが首筋に重なり垂れていた。想いを寄せた淡い恋の歌を聴いて思いあぐねて思索しているのだろうか。ケンイチ本人は黙ったままでリズムの動きもとろうとしない様子だったらしい。ディレイドの音楽機材は、見た目のためだけではない音楽を聴くイメージのためのデザインだった。ヘッドホンで聴いた方が精度が上がると誰もが思っていた。ケンイチには、アイテムで、しばしば自分の方に引きつけようとする癖があった。イヤホンのリスニングで、どんどん繊細なナノミクロの世界観になって、分厚い太い音に感じているのかイヤホンで聴いていて、ヒヤヒヤだった。デザイン受賞歴もある商品である音楽プレイヤーは、見やすさ、美しさともにアップした3行漢字表示可能な有機ELディスプレイを採用して、文字やグラフィックがくっきりと浮かびあがるような美しいデザインの、スタイリッシュデザインなフェースで、音楽を瓶の中に入っているリキッドに見立て、ガラスの香水瓶のイメージで、透明感のあるデザインに仕上げていたようだ。多彩でユニークなディスプレイ表示で、再生中のディスプレイでは、ラップタイムや時計と日付などを表示して、水平・垂直方向へ滑らかにスクロールして表示する有機ELの表示を用意して、本体のデザインと画面のインターフェースデザインの一体感を演出していた。香水瓶をモチーフにした全体のフォルムは、こだわりの材質、表面処理、インターフェイスのユニークなアイデアで美しい仕上がりになっていて、デジタルオーディオプレイヤーの中でもディレイドらしい独創的なデザインの高機能を凝縮したコンパクトサイズのネットワーク音楽プレイヤーになっていた。ちゅこたんが使っていそうなショッキングピンク色のハート型の音楽プレイヤーをケンイチは作って、夏子にプレゼントしようとしていた。ちゅこたんカバーの楽曲をたくさん入れていた。紫が出るためのピンクという作戦らしくて、青と黄色と赤が、パープルとイエローとピンクでも可能であると、もっとフォーマットになれる要素の説明を受けた。紫をピンクに見えるという用意も、ちゅこたんが一緒にピンクを着てくれるカップルという発言だった。ケンイチの買い物癖は続き、2台目のCショックを早朝セールに並んで購入した。まだ涼しげな朝で、同じ地域でも気分的な少し遠出をするような感じだった。今回は限定モデルのセルメドである。セルメドは、スケルトンボディーで、ELバックライトのコウノトリのマークがオシャレでカッコよく光っていた。そのあとで、学校の廊下のロビーでヤマンバギャルを度々目撃するようになって、カリスマ扱いの存在も、真ん中のチャンネルのワイドショーでレギュラー化していた。クラスメートもスケルトンのったり、クールなデザインのCショックを身につけていた。無線送電で、ずっと電力を無線で送れるらしい。充電をしなかったり、コンセントが要らなくなる技術らしい。ずっとつながっているか不安だから、たぶん、採用しないと思う。あと、センサーをちゃんとしないと危ないと思うけど、3秒で温める技術もあるらしい。エンジニアは、まずロケットとジェット機を作ってから、回転系のエンジンで、家電も作ろうとする楽しみで音楽というイメージから繊細過ぎる技術で、虚弱体質が近づく骨太になってきている感じも細かい緻密な作業が時間が足りなかったら全体レベルの考えた誰かの時間が無くなっているのではという懸念の要素があった。
ケンイチには、夢中になっている俳句という小学校5年生の授業からの趣味があった。メディアで、さかんに、熱中症予報が出される中、午後、帰宅する帰り道に、曇り空の中、突然、真っ暗に近くなり、夕立で雨が降り出した。気温が下がって、風も吹いてきて、ポツリポツリと雨が降ると、瞬く間に、雷が鳴り、ザァーザァーと、けたたましい轟音も鳴り、激しく地面に打ちつけられて反射してくる雨だった。俳句に夢中になり、日常生活への意識が疎かになっていたのだった。雨に濡れても肌寒くない季節なのだが、いかんせん、ケンイチは、人目を気にする性格からか、雨でずぶ濡れになっている恥ずかしい姿を見られたくなかった。折りたたみ傘を出すまでもなく、カバンの中の教科書と参考書とノートまで濡れてしまい、おそらく1人だけ、新しいノートに同じ文字をそっくりと書き写した。それでも、乾いても、紙がふやけて、一度に何枚もページが捲れる教科書と今後も付き合わないといけないのかと、ケンイチは、溜め息を漏らした出来事だった。
『急なりぬ 夕雨立ちや 紙ふやけ』
海
月日が流れ、すっかり桜の花びらたちも見る影もなく、この高校に入学してから、一体、何が分かると言うのか。一輪の可憐な花という幻想も、花と葉っぱがたくさんある草花本来の浮気症にも似た現実の中、打ち出す勇気さえもなかったのであった。特異な見た目の花が期間限定であった場合のフォーマットに回帰する秩序とは、一体、どうしろというのか。思い出の他に、何が残るというのか。人は誰も放たれた、百獣の王の、か強き雄ライオンならば、生徒貴方は、か強き子どもの代弁者なのか。雄ライオンは、自らの子どもを谷底へ落として、這い上がる者だけが生き残ると聴いた。自分達の真髄である欲望はどこから来たのだろうか。これからも欲望が自分を放ち続ける。あと何度、自分自身は入学すれば、本当の自分に戻り付けるのだろうという観念。仕組まれた学園生活に、皆んな気づいて、従った日々が始まる。この許容感への絶対性は、揺るぎないものだった。
『プラネット・ウォーズ』は、版権からか休止に追い込まれていた。ケンイチは、自分からはテレビを付けられないで、テレビが付いた部屋には1分30秒として居られない強迫観念に襲われていた。これからも増大に膨大していきそうな量のメディア情報が脳内の神経回路のシナプスにうまくアタッチメント出来なくなりそうで、酷く不安を抱えた。自意識過剰で取捨選択を迫られているような予感にさえ苛まれた。テストの猛勉強で徹夜漬けの寝ている時に、寝付きが悪く、悪夢に近い怖がるような幻影の夢を見た。真っ暗闇の中で、うしろを振り返ると、「こっちへおいで」「こっちへおいで」「こっちへおいで」「こっちへおいで」「こっちへおいで」と溜め息混じりの反響するような声がした夢だった。
午前3時に起きると、なかなか、それから寝付けなくて、そのまま起きていた。ちょうど日の出が出ていた。ケンイチはサンライズを見た。日の出のために携帯用デバイスで撮影しようと、撮り逃さないように出かけた。赤橙色の朝日だった。時折通過する朝早いタクシーやら荷台車に気恥ずかしさを感じつつも携帯用デバイスで撮影した。
ケンイチは、歴史についても考えてみた。鎌倉仏教の語呂合わせがあった。『情報(浄土宗・法然)一新(一向宗・親鸞)!本日(法華宗・日蓮)一時(一遍・時宗)にエイリアン(栄西・臨済宗)騒動(曹洞宗・道元)!!』全部覚えてテストでいい点をとっても、信仰心が薄いというからくりなのだろうか。この方法論を知っていて問題に答えない子がいても、理由がよくわからないことだったりもしそうである。他にも、覚え方を考えた快感もあって、そのやり方で覚えることによって従事隷属するかという立場もありそう。鎌倉仏教として、浄土宗と浄土真宗があると思う。極楽浄土の武士が生まれたあとの死が確定した 世界感という覚悟なのかという考えが思いついた。浄土真宗の親鸞が有名で、真言宗の空海の流れを文字から汲んでいる庶民本位から見た、天台宗の最澄からの浄土宗という神道が本位なわけで、もっと分派があるらしい。令和6年(2024年)は、法然上人が浄土宗を開祖されてから850年で、「南無阿弥陀仏」と唱えれば全ての人が救われる情報があった。武士誕生後の鎌倉仏教の情報をちらつかせられたら、危険というシグナルの発し方を感じた。もっとも、子どもの頃は、神社らしきものを近所に見かけなかった幼少期であったが、まだ、宗教観も希薄だと思う。法然上人の法を然るという叱るなのだろうか。法は、さんずいに去ると書く。法学部は、検事と弁護士という犯罪を前提とした職業に就くと聞いたことがある。資格の難易度は下がるが、司法書士という代筆業化されたネット統治も意見の場としてありそうな近年の状態である。本3冊分くらいは言い訳ができるまとめておいてもいいことだと思う。『触らぬ神に祟り無し』という言葉も紹介された。そこまで善人ではない、イタズラ感覚な衝動があるかららしい。「南無阿弥陀仏」は、南が無いと、あみだくじの迷い道で、仏になるという、死亡する地域である北の雪国対策かと思われたらしい。源義経は、北にのびて、弁慶とともに自害したらしい。美麗としての橋の欄干の上で笛を吹くが源義経のファーストインパクトであり、八艘飛びができた源義経の最大の山場となる源平合戦の予兆であり、危ないと思うことが、当事者にとって遮ることだったらという女からみた庶民感情も含まれていた。「南無妙法蓮華経」は、南無しとは、女が少ない、妙な法然の、連華の花が咲く教えだな解釈で、科学技術がありで、北方進出も可能側かと、空海の真言宗かという、世民に浸透している側だと思うけど、鎌倉時代の浄土宗と浄土真宗にクリエイトしていったという平安時代からの宗教だと思う。本当に、今となっては、どちらか分からない側の、意味を知らない感じのお経にしているのではという現代の宗教の形態かと思われます。
『そもそも、なぜ、戦争があるのか』という問いかけに対する、ケンイチの知識の中での、『歴史づくり』である『メイク・ア・ヒストリー』という耐性がある根拠ができそうだった。学校で戦争があった事実を告げて、データとしてのメディア活用という、義務教育の時とは違う、存在消去に思いをはせて憂慮を覚えるのだった。2000年代に入って戦争がなくなるというタイムリミットからの展望である。太古の昔からの古今東西の中世の時代からの戦争に対する構築データがほぼ補完されてきた事実もあり、過渡期だと思った。予備校のチュートリアルで、日本史の文化名称の語句で点数を稼げて、将来の学術的ポジションも固く約束された可能性をも含んだ作品を紹介された。日本史の時代区分で、原始・古代・中世・近世・近代・現代とあり、平安時代が中世ではなくて古代に属すものであるということにショッキングを受けた。卑弥呼から古代が弥生後期から聖徳太子がいたらへんの飛鳥時代までで、平安時代が古代としてのテキスト化とともに、源頼朝の鎌倉時代と足利尊氏と足利義満の室町時代の武家の時代の中世に参画する織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の三勇傑がいた戦国時代からのパワーバランスの綱引きがありそうだった。日本は、極東の太陽が昇る方角で、無頓着な人が気づかないでしていた表現が消えそうで、東西南北の考えが聖徳太子からではという西洋のそれまでの文献をみるとピンと思い浮かぶのがなかったことだそうだ。『日出づる処の天子』の東の日が昇る方角の日本である東西南北という初めての価値観を打ち出した聖徳太子が人類史ナンバー1に選出という、日本が一番で、その他の国の立場はというハプニングの事態で東西南北の方角が端に行く感覚だった。蘇我親子に日本の魅力はと詰問されて聖徳太子が生み出した東西南北という同じ生身の人間である感覚で冠位十二階と憲法十七条も同時に捻出したのだろう。冠位十二階のランキングの色分けで紫色が最上位で、どの色も同じ印象くらいか、憲法十七条『和を以って尊しとなす』を昭和と令和に発動したのだろう。白色が白人で黒色が裏社会らしくて、黄色が肌色に近いという宗教の色で、赤色は、褐色系のラテン系音楽の政治的配色で、青色は保守政党が重んじている藍色は愛だった。橙色は在京球団のスポーツの色で、緑色はカッコよく感じても、軍事ミリタリーで着てはいけないらしい。最上位の紫色が猥色過ぎて血色が濁る病気の色かと、銀座である銀色の街と白人ではない方に行く人達の金色だった。東西南北の中心に『忠』という文字を付け足して欲しそうな家康から連なる中で徳川秀忠の家の漢字じゃない訳で、これで北極星にまで渡る宇宙観の天王星を含めた東西南北の世界観が完成となるのであった。大相撲の東西横綱というボディーガード役で、新出がなくて、毎回いつも聖徳太子が出てくる感じだったらしい。省けず人類史ナンバー1の聖徳太子の聖バレンタインデーが真相だった。モンゴル出身の「古忠」(ふるただ)という四股名が、モンゴルの蒙古と中心の忠の幕下だったかで全勝の力士に打診かという、いつものことで、おそらく、双璧なのだろう。コントローラー・ボタンの上下左右でやっていくゲーマーの感覚ではない、そんなに分かりやすくないらしい限定情報で四股名は考えるらしい。室町時代に、中国人である叱られたばかりいた雪舟は泣く泣く涙でネズミの絵を描いたという現在のキャラクターものがある理由でもある。雪舟は、『日沈む処の天子』である中国から、聖徳太子の文言を確かめに来たのだが、時代が過ぎていて、当時の人は誰もよく知らなかった事情があったのだろう。日本が西になる日本の東にあるコロンブスの新大陸のアメリカ大陸を発見での流れもムー大陸で、宇宙観で埋め立てするのかで、次は大きい国バージョンかと、西洋哲学に対する薄っぺらいという答えではないかと、西洋人の容姿では絵を重要視する、それも、今現在の絵ではない奮い立たせが起きた場合である。太陽が昇る東が一番はやくて、世界中に中継地点があって、1日の始まりが分かって圧勝で、その日何が起きるか把握できるデータだった。源平合戦まとめとして、源氏の武士と赤と黒と南国と砂漠もある内容と、平家の貴族と白と青と北国と雪がある内容が、宇宙時代の『プラネット・ウォーズ』にくっつけられた。世界は、欧米の清教徒の白人統治の毎年のクリスマスイベントの中で、大幅な反発増大になり、ローマ側のハロウィン前の特撮と結び付けられた魑魅魍魎の世界を遮断する動きが、世界地図の真ん中の日本でも認識を薄れさせていた。平和で戦争もしなくなり勝ち負けがはっきりとするスポーツもやりにくい現状で、いきなり筋肉男が出現するような展開である。縄文の原始人という危うい表記が問題視されそうな思惑もあった。近世からの落語家に向けての説明で、近代1つ覚えると近世と現代も出てくる数珠つなぎの覚え方で、平安時代を中心とした古代の感覚と知識だけの貴族生活で武士が鉄壁の守りで其れ以外を遮断する形態という説明もあるようだ。甍が、いらかという読みの瓦葺き屋根のことで、宇宙戦艦クラスの古代が進むシャチホコがメディア情報で出された。新しい時代区分としての原終・末代・新代の予測を立ててみた。人ありきの単語なのだと、ケンイチは、つくづく感じた。地球の内核の逆回転が始まる、おそらく、マリアナ海溝の溝を接着する技術転用かどうかも疑わしかった。地球フィナーレも考案する少年時代の石切りという抜群のセンスである。紙の印刷物の情報メディア形態の種である新聞発足期から渡る王政以来のニュートン回帰の裕福な絶対性における破壊側のアインシュタインの相対性理論という衣食住に転換するプルトニウムとウランの原爆と資材解体での組み立て行為に優位性がありそうだった。
小学生になると、分からない雰囲気が前提の段階もあって、少し変だなと思う教材が見分けにくくなっていった。自分だけで、いいことだけを載せる文章で、子どものままの順接の文章の日記を書いて、通常モードの文も許容範囲にしないといけない、だんだんと大人になっていく過程だった。前後のどちらかのよくないことが書かれている逆接という接続詞の説明をきいて、はっきりと自覚した転ぶ時期がある起承転結の文章が、逆接バージョンの説明になっている思い込みがあった。いいことだけの順接の文章だと、子どものままで、"みんな"の情報網という中での、お金を事件が起きたことに払う周波数になる新聞などの情報による大人になれないはずの呪縛があったのだろう。見当をつけて、能力ありも加味した仲間の増やし方の方法論に感じた。起承転結が、喜怒哀楽という学校の授業の面白みのところだって、バレると困る感じの、喜びでやっていくと、怒りと哀しみも付いてくるのではという、まだ未踏である未開拓そうな領域かは、厳密にしてこなかった。同時に、頭に入ってこない勉強の知識もあるケンイチは、ちょい欠けの知識について必死に思いを巡らせてみた。小学校の高学年の時はテストで満点を取ることがそれなりに多かったケンイチも、だんだん小中高大学と教職に就いたことを考えた場合、少しずつ、ちょい欠けの知識の伝承になるのではと指摘し始めた。最高学府でも、最新テクノロジーが表計算と微分・積分と相対性理論などなどの知らない数学知識で、量子力学という理系の理解は、だいたいのコンピューターがやってる感じで、体感型の追体験は、どうみてもヤバいという直感さえもした。コンピューターがはじき出した億万通り以上の数値と回答を、人間側で、もう一度、選び出すという行為さえも、2次元でできたものは3次元でできる3Dプリンター感覚という特撮世界が危ういので、ニュートリノという行使しないビックバン解析にする世界観が、創造主みたいに、ゼロではなくイチから、また、科学が及ばない超常現象を含めた知識について組み立てる時が来るのだろうか。どのタイミングで、自分の子どもの時の写真をみるかは、中学時代で一致してて、遅らせていた訳は、子どもの時の写真をみている今の自分は、子どもの時の本人の確認がとれているのか不安らしい。永遠に続きそうと思っていた学生時代も、ほとんど大学で終わりみたいで、働くことになるようだ。ゆとり教育という言葉があって、最初から働くこと前提で生きた場合の、なぜ、次の段階にいくための、ふるいのような学生時分を設けたのだろうか。家族と親友と、どちらにプライオリティーの優先順位を持つべきか、親友の人間関係から恋人を探す手段で、家族って、また、自分の家族を持って、作りかえるようなことみたいで、自分が家庭を持って、自分の子どもにも、そう思われたら、すぐに焦りは禁物で、世代交代のタイミングがあるのだろう。創造主の、もっとよりよい営みがありそうだけど、人間の生み出せる限度なのだろうと思った。恋愛に気づけるかの幼少期で、思春期からの氾濫した情報に結びつく因子が出てくる。学校の授業内容などが、徐々に必要な技術力にスライドしていくと気づく。学校よりかは仕事という価値観において、商売のレベルを実感しないといけない。最後に、芸能が立ちはだかり、自分の作品をつくるという、熾烈にも感じるスペースの問題で、一時であるという保存のむずかしさに気づく。芸能だけにする人生を後悔する感じもあった。結論は、塾よりも学校よりも仕事よりも恋愛だった。完全クリアである完クリ人生は、あみだくじと教えたはずで、阿弥陀如来による仏教的価値観の元で作りごとだったらという開眼が理由かで、お釈迦様の手の平という孫悟空の状態の人間の人生を教えるハシャマールQという結論だった。ケンイチは、アドレッセンスという英単語の意味が最初分からなかったが、青春期の意味を、アドレナリンが出ちゃっているエッセンスと思うことで、覚えることができた。年齢の20代と2000年代で、2.0と、最初の方の数字で、人類史などの時代区分での青春期が規定されてそうで、まわりも小っ恥ずかしさを抱えるのである。音楽業界がメロディー音楽じゃなくなった表現の域に達していない万物の目線も含める価値観なのだろうか。しきりに、ケンイチは、夜な夜な頭デッカチな考えごとが浮かぶのであった。
大気圏を超えて何処までも遠く大きな広がりを見せる漆黒を秘す宇宙空間に続いている青空は、車の排気ガスで都会では見えなくなった夜空の星々で、お天気ではぐらかす一面の眩しすぎる翳りをみせる太陽と、薄雲の夜空に透き通る仄かな月だけの演出効果である。雨天決行とまでとはいかないが、曇り空で、あいにくの天気でハズレたようで、しのび寄る雲を控えて折りたたみ傘を用意していた。月またぎの予定か、喜怒哀楽を抑えた堅苦しさが抜けた挨拶代わりの馴染みのおしゃべりが行き交う車両の中で、それぞれ背広にカジュアルにおめかしと違う見た目だが、向かう方向は同じという様子だった。今年は2回、海に行った。海の日までには、海を見に行こうと思った。傘を必要とする雨季に入る前に、干々照りの真夏になる前に、海を見に行こうと思った。自然である。都会での煤けた思いすら浄化させる自然に触れたいのだろう。走らせる衝動も無くなった歩き出す日常の前で、山も森も結構見ている当たり前の気づかなさになっていたが、近くの河原に出てみて、海を見に行こうと決意した。境界線の川を越える感覚まではないが、地域を隔てる小旅行の旅路だった。行き交う途中の車両から見える街の看板は、満面のひまわりだったり、ダイヤモンドと薔薇の看板だったりした。車輪を乗せたレールが進むたびに、木立もある街並みの景色が移り変わった。3月は、まだ、草木が枯れていた。年中草木というのは都会でも難しいらしくて、植木の事細かな剪定までいかなかったのだろう。ケンイチは、ゆめゆりかから携帯用デバイスで動画を撮影した。その行為は、「通話は控えてマナーモードにしてください」という車内アナウンスに抵触するのかあやふやな感じだった。遊園地の観覧車や山でのケーブルカー内での撮影を思い浮かべれば、乗客がいる範囲内で、何の問題もなさそうだった。2回目の6月に行った時は、船がたまたま映っていた。シーズンブリッジをゆめゆりかで旋回して渡ろうと建物に三角もあるかどまる新社屋がみえた。海浜公園に着いた。少し駅から歩くだけで、東京キャッスルも含むシーズンブリッジの景色からアメリカのニューヨークにある自由の女神像が見えた。ケンイチは、毎年、海と自由の女神像とかどまる新社屋と覚座カクタル像を撮影するのであった。海に着くと、動画を30秒間撮影した。人目もやや気になり数字のカウンター表示が30秒経つまで随分長く時間を感じた。ゆめゆりか車内にも若いカップルが隣にいて、思春期を過ぎて単身で行くのは身が阻まれた様子だった。いたいけなカップルと言えども、身に迫るような子づくりと人生のひしひしとしたタイムリミットがあるのだろう。そよ風が漲ってきて、幸福感が増してきた。ここでは純度の比較的高い海の動画が撮れた。動画の構図におさまらない撮影になることもなかった。快晴を選んだ疎らな雲も許容範囲内だった。一年間に一度でも海に行くと、気分転換になるのだった。海は、法令で水着姿もなく、そのことが返って、泳げないケンイチにとって馴染みの深いもので、5月過ぎの初夏から6月下旬あたりの夏至までが夏であり、7月の酷暑と8月の炎暑と9月の残暑までは恒例の耐え忍ぶ暑さであった。ゆめゆりかの帰りからは東京キャッスルが見送るかのようなサプライズ景色の海だった。夏本番になる前に海に行って雰囲気を楽しむのだった。東京の街は、海を見に行くくらいで、ほとんど何処にも行かない年齢になった。
夏休み
夏休み中も、予備校の模試の合間をぬって、夏子と会っていた。夏子は、真夏でも肌を見せまいとライムイエローの長袖のカーディガンを羽織っていた。ケンイチも、かなりお金を奮発して、別注のツートンカラーの銀色ポロシャツを着ていた。スポーツを引退した後に立ち上げたアパレルブランドであるらしい。納涼も兼ねて肝試しをしようと、三日月が3つに見えないけども、画像認識だけの証拠であった眩い光のダイヤモンド・ムーンが目撃されたらしい。数日前の、日が沈んだ夜にお墓に行ったり、遊園地の子どもの時に行ったお化け屋敷に行ったりした。お化け屋敷には、ろくろ首の幽霊がいて、ひょろ長い首が艶めかしくて、青白い光の暗い中でもあり、俳句が66首以上つくれない根拠を確かめられなかった。2部作のホラー映画があり、話を追う展開のストーリーが飲み込めず、そこまではっきりと怖くなかったので、もう一度観てみようかと夏子に言ったら、「なんか肌が浅黒い黒装束の女の幽霊になってそうだよ!やめとこ!」と言われた。プラズマという超常現象は、プラズマという固体・液体・気体に次ぐ物質の第4の状態という情報があった。極東大学の教授で有名な学説である。壁もすり抜けられる幽霊体質らしい。誰も侵入した形跡は見当たらないのに、かなりの白粒物が玄関の床に付着していた。神道が、プラズマという状態を採用しているらしくて、否定する動きも一部で見られていた。お墓で火の玉も見かけた親戚の目撃証言もあった。今となっては、ドローンで可能な技術であろうか。
夏休みの最中に、ちゅこたんもマーナエ姫のコスプレで出演する『ハシャタイル ライブツアー』も観に行った。シンプルな造形であるカズナがぴょんぴょん飛び跳ねていて、ゲームでやるハシャタイルの印象と、だいぶ違った。みんなで、パワーを送って、ラスボスも倒した最高頂の盛り上がりだった。"2度と来ない夏"ということで、満を持して、座席予約をおこなった。ちゅこたんブログでコスプレをしていたちゅこたんマーナエ姫が間近で観れるということで、ありあまる興奮を抑えて、会場に向かった。電車の乗り継ぎでひと苦労したが、電車の鉄橋を越えると、ハシャタイルイベント参加への意気込みが増してきた。スーパーアリーナに初めて来た。 伝説化しているハシャタイル3を主軸とした世界初のアリーナショーだった。陽気な雰囲気もあり、なつかしさも伴い、RPGのにぎやかさに会場が包まれていた。ハシャタイルのオープニングのメロディー音楽が鳴ると、次々と、精巧な造りのモンスターが、パレードみたいに出現してきて、カズナがぴょんぴょんと飛び跳ねていて、ゲーム世界のジッとしている印象とは違ったカズナを観れた。レベル上げのメロディー音楽も鳴って、勇者の必殺技と、そして、超絶合体を、会場一丸となって、必殺技を繰り出して、ラスボスの大魔王を倒した。大人になってから、ちゅこたんのマーナエ姫コスプレが観れるハシャタイルライブツアーを、スーパーアリーナまで観に行って大感激だった。子ども連れの家族もあり、幼き日の思い出と重なって、売れ残りのポストカードセットだけを買って、会場をあとにした。
夏過ぎには、ハシャタイル5の方の映画も観に行った。海外を含む俳優のフル豪華メンバーの声優陣だった。あんなにレベル99までやり込んだゲームも、親子3代に渡る壮大なストーリーのモンスターを仲間にするコンパクトな映画になっていた。カズナナイトを3体全部仲間して、全回復させて、中ボスを倒した快感で、クリアした後のエンドロールが気持ちよかった。ネットで、この映画のゲーム世界が崩壊するメタ・フィクションという手法が話題になっていた。映画館で観ておいてよかった。
前に観たトリネーザが復活した久しぶりの『ハシャマール』映画は恐怖で、おののいていたが、エンタメとして、グランドステージ級の仕上がりだった。春に『ハシャマール』の映画を観に行ったが、特典だけもらって、怖くて映画自体は観なかった。1991年の東西冷戦のソビエト連邦の崩壊の時期が、トリネーザが倒された日に近いらしい。 寒冷属性の名称が、極寒の北方の大国との関連であったらしい。 トリネーザの兄の映画の『ハシャマールQ』も観に行っていた。子どもの頃も、『ハシャマールQ』のアニメを観ていた。ハシャマールの再放送とコミックで読んでいたので、正確な情報というのは、本人の前で消失している感じだった。上の世代から、やっとという宇宙時代を感じさせるコスチューム指摘だったのだろうか。 コスチュームという、上の世代から、やっとという宇宙時代を感じさせるコスチューム指摘だったのだろうか。 敵方とはいえ、シュールな見たことがない見た目で欧米では自由の女神像の格好以来の衝撃であったらしい。ちゅこたんロイルによって、コスチュームはセミの抜け殻が元ネタであると再認識した。是が非のゴネ得でも、自分も全く新しい世界観のシュールな設定などを捻出したいものだ。スランダ以来のアニメ事情など、当時は気にもかけずに、おそらく、名前によるものであろうフィーリングということでみていた。トリネーザは、戦闘力が50いくつ億もあり、何段階も変身するので倒せないと思っていたが、スーパーザナムートに変身して倒して、圧倒された。衝撃的だった。トリネーザ側であったが、特戦隊というバラエティー寄りのもっと子どもの頃に観ていたスーパー戦隊の形態も観る要因となっていたと思う。変身形態と、スーパー戦隊の要素というテコ入れが、ハシャマールにあったのだろうか。また、特撮に戻る気配もある。 一番最初に観た映画で、口笛の音ネタ映画『ハシャマール』の映画もあった。当時を知る資料として、『ハシャマールQ』の映画の小冊子を取っておこうと思う。音楽映画を観た時に、ちゅこたんも声優で登場するみたいなので、前売り券を購入した。変身のギミックがあるトリネーザではないストラップを選んだ。 この前のハシャマール映画は、自宅で観て、激しいバトルが始まる前の序章に終わっていた。 特典のプレゼントをたくさんもらったけど、この映画は怖くて観れなかった。映像配信になってから観て、の『いでよ、更なる覚醒』のセリフの映画予告に恐怖を感じたが、そこまで怖くない内容だった。このあとに、覚座テーナンタルに『くらえ!!!ギャラクシャー!!!!!』と放ちに行ってトリネーザを倒しに行った。ギャラクシャーは、『ハシャマールQ』の、手を右左にかぶってから両手をカザす超撃技だった。『セイント・ライトニング・クロス』の手をななめ十字にクロスさせてから手を放って解放するポーズの気合い玉もあった。公開された『ハシャマールQ』は映画館で観た。幼少期のトリネーザ大王のお出迎えのシーンやトリネーザによる惑星連発消滅の際の両親とのお別れのシーンなどメンタルな内面をえぐるようなエンタメ的なシーンがあったけど、集大成的な映画で、筋肉質なマッチョの体育会系のノリに仕上がっていた。ハシャマールQからテコ入れで、変身とスーパー戦隊のフォーメーションと、過去のアーカイブスからみたいで、巨体物からだと分かって、サブカルの初なのか集大成が、それ以降出てない感だけど、ガッカリ世代だったらしい。目新しいシュールと捉えた敵方のコスチュームも、資料を携えた姿形から参照して確認すると既視感のデジャヴーであったみたいだった。子ども向けの絵の要素ではない作風になっている絵と美術館用に選ばれた思い入れの先入観も含まれているハシャマールが当時のアニメ作品で選ばれていた混沌のカオスと称した作品だった。
幼少期からの思い出にも、ひとまず終止符が打たれたケンイチであった。3ハシャのハシャマールとハシャタイルとハシャエモンが、気付いた味方じゃない敵方のコンテンツという確定が決まったようだ。ほとんど90年代からのコンテンツだった。80年代は、東京モーターランドと東京キャッスルという2東京だった。全てを忘れるスポーツの神様だと思う。記憶の神様であるパスワード入力のハシャタイル班がいた。太宰府の菅原道真が、記憶の神様から、勉強の神様になり、学問の神様として、方程式の登場による駆使により解けない問題が無くなり、未来は、どうなるかと問う学ぶ人たちが未来のために勉強と過去の歴史を学ぶのだった。
戦記物ではなさそうなコンテンツとしてのの映画が出てきた。スリー・ガネットと読むカッコよさらしくて、ガネット・ガネット・ガネットと発音しない西洋人の容姿をあきらめる人種もいると思った。テレビ版の再放送の時は分からなかったが、どうやら戦記物の映画内容だった。危ないダメな星だらけで、地球以外には行かせないというメッセージにも受け取れた。空から続く宇宙が地面までであるという思いもあるようだ。『会う』が『逢う』という世を隔てた文字の表記の『見る』が『観る』も、メディアを観るという感覚であるらしい。宇宙の銀河まで飛ばされていた映像作品の痕跡だったのだろうか。最後は、カナーサの星だかが爆発していた。そこまではグレードが高そうな感じはしないが、観ておいて、よかった作品だと思った。きっと、オンリーの価値観が根強いパクり論争に発展した場合のメディア側の用意した人物だったのだろう。宇宙が海である船で、宇宙が陸である汽車で、手分けをしていて、両方とも当てたのだろう。
疑似地球環境モデル・カルデアスがあった。1990年に完成したカルデアの発明の一つに、『惑星には魂がある』との定義を基に、その魂を複写する事により作り出された小型の疑似天体。いわば極小の地球のコピーである。よぬしさま。世主様という世帯主が持ちうる感覚が出てきた。『三途の川で石を積み上げていると餓鬼が邪魔して崩す』という逸話が、子づくりで、また赤ん坊からのやり直しという事態に気づいた少し違う繰り返しの覚悟ができているのかという完璧に近い完成形に対する思いがあった。最有力者などが手を出したら、ほとんどまともにはならないだろう。世代で早ければ、子どもができて孫ができて、40代手前で、おじいちゃんをなさない場合の世代交代の移り変わりもあるし、余剰が人数オーバーで、スペース的にも代替できない場合という死亡の選択肢らしい。遅くしても、能力不足の問題ができつつあるという理の中であろう。
情報保管の大切さで、『3年は消さない』『10年は消さない』などルールを決めておくことか、消した後に後悔という悪質さカラクリもあって、パソコン黎明期に、USBメモリーをプレゼントされた人たちは全然意識が違うらしい。1GBまでしか個人では未来永劫に保管できない情報も出てきて、俳句のわけだったり、本と音楽じゃないコマーシャルソングという15秒の手もありそうだった。メールは、データがいっぱいになると、最初の方が、どんどん消えていくらしい死後には、エンタメ化じゃないところで、完全消滅の通達だった。デジタルデータだけになって、思い出の品が無くなったら、心の世界みたいな符号での一致で、情報参照で覗ける感じになるのだろう。ネット空間に補完の現実での認識が強い情報参照だと問題が年数が経っているなど匂いから生じるのだと思うできるだけ当時の感じが残っているうちにデータ保存をする要請だった。
東京が本拠地である我がキャッスルの優勝が決まった。寝ている夢の中で、東京キャッスル入りがあって、整形してシワを刻んで、スケルトン・パイプをくわえてバッターボックスに立っていた。覚座の有名高校がパーフェクトゲームで優勝した。野球のベストゲームが、10打者連続ホームランによるコールド勝ちと思った。マスコミに集中する極東の人材は、一般社会に紛れても要になっているらしい。寝ている時の夢で、やっと『逆立ちで倒立をしたら足が3本になっていた』という、完璧な神曲メロディーを超えられないかなり少しセンスがある夢を見れた。
夏の最後に、隣の街で行われる花火大会にも行った。もう年齢が過ぎて純粋に、花火そのものを楽しめる知能なのか。花火と花と女の連想ゲームにおける個人情報の流出が避けられない花火大会の花火の色と形とタイミングだった。花火以外に現代人は用意できることを考えてもよいのかという難儀だそうだ。夏子とキスをした。夏子の説教じみた長い話のあとだった。「ケンちゃん、もしも田畑さんとマサシくんの間に子どもができたら、あなたは歓迎するのか、その時になってみないと分からない気がするの。自分も続きたいと思うのか、自分の子どもが不幸な境遇になる懸念が先走りしそうなのか。ちょっと、しんみりしちゃったわ。」夏真っ盛りの盛大な大イベントで締めくくりを飾るのだった。風ひとつない真夏の暑さでも、じっとりと汗をかいた夏だった。
新学期
新学期が始まった。春の気候がいい時期に、ほとんどの日程を済ませているのか、達成感がない人たちは、いつまでも、この時期から引きずるのだろう。秋という枯葉モードも知らせているのだろう。自分が昔の人にカウントされていて、今が前近代で、発想の障壁がない人たちが、いとも容易く生み出していくような技術革新だと思う。魔法が実際に使えた優勝したワールドカップで、決勝相手は科学的な範囲内におさえていたらしい。あるスポーツの対戦がないことに、気づいていた。日本は、ロシアと同じ理由の固定概念があって、第二次世界大戦の時のベスト16だったみたいで、西東という立地条件だけで、これだけの差があったという、スポーツ能力オンリーくくりの中で別枠の能力があった場合、それを加味するのかどうか。
それでも、仲間たちは遊ぶ計画を立てた。多くの幼なじみのカップルがそうであるように、ケンイチたちの関係は非常にオープンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたりしていた。十五夜のお月見をした辺りか、ケンイチとダブル・デートしたことも何回かある。夏子が田畑たちをつれてきて、たくさん賞にノミネートされて歴代世界一の興業収入の洋画である『ガーネット』を観に行ったりした。『ガーネット』は、同年代の子でも、ここまでの女性に対するエスコートを要求されており、ケンイチたちには分が悪い情報であった。ユルート様の俳優業の端正な顔立ちというセッティングの、歴代世界一も出ていたので、その当時の世代のナンバー1映画だと思っていた。既観だが、映画館で観てもいいかなと思っていた。なぜ、当時、『ガーネット』の呼び込みがテレビでもあって観に行かなかったのかというと、映画館に行くという思考回路になっていなかった。高校も中学と同じ地域で、映画館がある、よそに行くという感覚がなかった。まわりの配慮で、日本の歴代1位の映画がDVDで観れた感じだった。そこだけでの情報で埋まっている場合、満ち足りている不自由ない、ごまかしていた感覚もあった。『ガーネット』が女の人が行くような映画情報というのも出てきた。『宇宙大洪水』じゃない人間ドラマがあるスケールとしての映画サイズである説得があった。 今年のバレンタインデー週間かに観に行こうか、と思っていた。『ガーネット』 3Dのチケットが売り切れで取れなったが、もう観たから、そこまでじゃない、いいやというあきらめもあった。0時に、心臓の動悸がドクドク言ってたけど、 『ガーネット』のチケットがとれた。写真を写してこよう。クジラにぶつかるシーンが本当に寒く感じて、防寒もそれなりのをしておこうと思った。たのしみだ。 まだ恋愛モードのデートでユルート様に陶酔している年上の女性の人たちが行く感じと思っていて、敷居が高く感じて、10何週1位でノミネート14部門の呼び込みがあっても、遠方に感じる映画館に行く雰囲気の生活感がなくて、90年代は行かなかった『ガーネット』だった。ユルート様も、太ったオタクの容姿で元の体型に戻せるか分からないけど、カッコよさが強さにつながる怖さの部分を見せないギリギリ感で、遠ざけていた感じだった。引っ越ししてて、映画館が近くになくて、映画自体、 レンタルDVDが家にあって観るくらいだった。ショネよりもだった。まぁ、ガーネットは、いろいろな呼び込みの冠があるけど、映画で5時間オーバーという破格の目安がある作品だった。『ガーネット』を語る上で、いろいろな冠の仕方があると思うけど、5時間オーバーという超大作の作品の力だと思った。『ガーネット』側という企画意図だと思った。『ガーネット』を観に行ってきた。映画を観る前に、自撮りでポスターと撮影して、なかなかうまく撮れなかった。映画館の中にも、ちゅこたんがいて、隣の隣の席だった。映画は、5時間を超えるスペクタクル超大作で、映画館で観ておいてよかったという感想だった。字幕の文字の方が浮いている3D映像だった。同年代かそれよりやや上で、かなり完成された感じで、これじゃあ、自分が恋愛レベルのステージに上がるのは至難の技だと思った。作品と強調してて、ほぼ要求通りにできたユルート様たちのレベルとは、また違うのかなとも思った。本人たちは、圧倒的な差を見せたくない感じもあったと思う容姿の雰囲気作りだった。潜水艦の水に潜るシーンが、手を振って、はじまりのわくわくする感じで印象的だった。クリストファー王妃の華やかなオメガ・ダイヤモンドもキー・アイテムになってて、裕福なクルーがほとんどで、ヨーロッパに帰る潜水艦が沈没するのかと思わせるセリフもあった。オメガ・ダイヤモンドをおもちゃ仕様のちゃんとできたグッズで売り出す販売戦略もありそう。前半は、音楽に合わせて踊ったりと、潜水艦の先っぽの艦内で両手を広げたポーズをしたシーンだったりと、とにかく、楽しい感じだった。楽しいことは、最初の方にしておきましょうというポリシーみたいで、どうなるか分からない、あとになってできる確約の保証があって"ノアの方舟"にも念頭がなかったら、クジラでぶつかってから潜水艦が垂直になって海の底に沈むクライマックスシーンは衝撃的だった。人間ドラマがあるスペクタクルもので、だいたいのストーリーが分かっていたので、だいぶ、はやい展開に感じた5時間オーバーだった。日照レベルも操れる時間感覚だとも思ったオフレコの部分だと思った。一番前で観ていたせいか、沈没してた人たちは、特に、圧倒された映画だった驚きが一層だった。出てくる3Dの立体映像がスゴかった。 寒さを感じるいつものシーンの感じがなくて、不満気の客層の雰囲気もあったという快晴の天気だった。秋みたいなポカポカ陽気めいていた。ネット住民の視点として、IMAX画質じゃないと、のちのち響くみたいな見方だった。キャストも取り替えで新規に作り直したかったが、できないレベルだったのではという年下たちの思いもありそう。今楽しめる人たちが楽しめるという範囲を広げていいものなのかという戸惑いも、雰囲気から嗅ぎとれたようだった。映画館で観ている時に、癖が出たのか顔を触る身振りを結構していた。隣の人も、2、3回、イスをドタドタ動かしていた。『ガーネット』を冷静に分析すると、ストーリーとしての完成度の高さを誇るが、出てくる水の性質が大きさというクジラにまつわる物語で、こちら側はあたたかいフォーマットを提示すれば思考停止にならずにアプローチできるのであった。特撮が撤退かとも、中高年はいなくなるわけで、ついてこられてもよ発言で、天国をつくるわけにもいかず感だった。 できそうなものを余ったできないものでする。映画は、『ガーネット』クラスの超大作しか観たくないガーネット症候群があって、時間を過ごすのが、深夜ラジオだったのがSNSに変わってきていた。映画の枠を埋めなくちゃいけない感もあるわけで、特に、複合型のシアターのシネマコンプレックスの映画館の作りになった場合という、当初の目的は、映画館で観れなかった狙いだったのではという真相がありそうだった。200本以上の観ると、観る傾向の映画のクセみたいなのが分かるらしい。『ガーネット』に出てきたクリストファー王妃のオメガ・ダイヤモンドが6000兆円で、まだ、日本につくる技術があって、売り出せば、国債の1000兆円と相殺らしい。国債の額が日本に痕跡が残っているのかという時代の画像くらいしかなさそうだな発言が出た。 オメガ・ダイヤモンドじゃなくて、ルビー・サファイアという要求の情報を知っているだけという、ちゅこたんかの選択肢通りだった。タイム・リバースのやり直しがあったクリストファー王妃がピンクを選ばなかったという記述である王族の立場だった。『ガーネット』のオメガ・ダイヤモンドの秘密裏に運ぶ瞬美派の絵とも沈没によって明らかになったことだそうだ。ガーネットモデルのルビー・サファイアなら、999円でという通販プライスが出てきた。道を歩けるかどうかレベルという、ガーネットモデルではなくて、クリストファー王妃モデルというオメガ・ダイヤモンドだった。どうするユマちゃんという選択肢があった。ガーネットの王族レベル判定も、オメガに込められた、無限という意味ではないかと、王族で、クリストファー王妃のレッド・サファイアのペアリングで身につけないで所持している極秘情報が漏れて、おそらく、指摘された部分だと思った。ガーネットモデルのオメガ・ダイヤモンドで、まだ、販売されてた指摘で、男の色であるブルーと教えられた。楽しいことは、最初の方にという、あとでできなくなるという保証がないからだと思った。楽しいことをしたあとの時代だから、それをしなかった時代が無くなったはずだった。後半の1時間半を観ても、沈没だから、そこで、帰る客がいるくらいの感じだった。『ガーネット』が、チケット完売でも、ランキングで8位だったが、 『ガーネット』のランキングが4位に上がっていた。でも、正直なところ田畑たちは可愛くはあったけれど、ケンイチには少々上品すぎた。ケンイチとしては多少がさつではあるけれど気楽に話ができる公立高校のクラスメートの女の子の方が性にあっていた。夏子のつれてくる田畑たちがその可愛らしい頭の中でいったい何を考えているのか、ケンイチにはさっぱり理解できなかった。たぶん、田畑たちにもケンイチのことは理解できなかったんじゃないかと思った。
繁華街で見た目にもカラフルなデザインのナイロンジャケットとシーザックス95イエローを買い、公園近くで世界展開している派手な演出のサーカスを観に行った。腕にセルメドもして、シーザックスが、履き心地の感触から、気に入っているのもあって、お金の予算から買い替えしなかった。東京には遊び尽くすような場所が至るところにあるが、もう、その年齢には達していなかった。観客たちの視線を一堂に集め軽やかな身体能力を惜しげもなく披露する演舞者たち。夏子も田畑も目を掠めて笑顔だった。夏子のリクエストで長く続いている動物園の猛獣じゃない動物たちも見に行った。夏子は、猛獣の方に行きたがらなかった。ゾウ、キリン、サル、フラメンゴ、レッサーパンダ、コウノトリ。帰り際に、サルが小屋を揺らしマウンティングをしていた。夏子はペットをまるで夏子の子どものように可愛いがっていた。ペットレスで、ケンイチたちの年の頃の動物たちは寿命を終えて、輪廻転生の生まれ変わりの世代交代をしていたことにも気づく。ケンイチの俳句が文字数オーバーで短歌の長さの表現になった。
『夕沈み コントラストの 街影が 黒橙に 時暮れていく』
プールの季節も終わり、お化け屋敷をして近くのファミレスでクラスメートで打ち上げをした文化祭も終わった。ケンイチは、土曜の真っ昼間、自分の学歴が中途半端なのにテストの問題が分からずに震えている柄シャツを着て買った自転車のカマキリハンドルで突然走り出した。信号待ちで縦列して止まっている車を追い抜くくらいの疾走感だった。マネされる俳句で賞を狙った。
『傘広げ 旧友避ける 通学路』
自分が未婚で親が死んだあとの行く先も分からぬまま、分からない表現で闇雲にした。自分で作った150首と、ネットに出どころが分からない俳句も沢山あった。俳句そのものよりも、専門家によるプレゼンテーション能力が高い学術的な総評技術が必要な感じさえした。テストまでの残りの21日間あまりだった。
夏子との会話
夏子と纏まって会話をする機会があった。夏子の部屋には、ゲーセンでゲットしたミニモンぬいぐるみがたくさん置いてあった。匂いが移るらしく、シーズン毎に、そのミニモンのぬいぐるみを新しいミニモンのぬいぐるみに取り替えていた。夏子は、黄色の張りの良い生地のワンピースを着ていた。ケンイチの服装は、青い細かいチェック柄の春シャツに黒に近いボトムスであった。まだ、秋口なので、ケンイチは、春シャツを着ることに気にも止めていなかった。
夏子の名字は、中学時代に部活のスポーツで対戦して一度だけ勝った子と同じ名字であった。都大会に出ている子で、こちらも作戦を考えて勝負に挑み張り切っていた。ケンイチには、テニスで、『天使の子』と呼ばれるエピソードがある。眞夏のアスファルトに陽炎が立つ暑い時期にも、ケンイチは、顧問の先生と何百球も汗をかきながらボレーの練習をしていた。テニスをして、いつものようにラリーの練習をし終えて、被っていた白いキャップ帽を取ると、汗の湯気なのか、天使の輪っかが出現したのである。それ以来、本人は、その姿になっていることを知らなくて後輩からも知らされてもいないが、まわりから『天使の子』と呼ばれるスポ根のスポーツ根性である路線ではなくなってきたスポーツ界のエピソードがあった。中学1年生の時に、部活選びで、外田に、サッカーで足の裏を見せるな。スパイクの裏だったら、危ないと言われた。サッカー部は、とにかく、走らされるらしい。バレー部は、厳しい美子先生だった。卓球部は、なんか暗そうと、テニス部を選び、曽根田と一緒になった。入部して、部活で、裏庭を20周走る時があり、間違えて1周多く走るが、一番になった。基礎体力向上のために、筋トレをした。ルールブックを共同購入して、なんとかルールを把握できた。 白のウインドブレイカー上下を着用した。近所で、無名メーカーの激安の黒青ラケットを買った。テニスのメーカーをほとんど知らない。そのラケットは違うらしいということで、買い直した。初試合で、少し有名ないきなり第1シードと試合をした。ラブゲームにはならなかった。そのあと、うまくなくて、部活を疎遠になって、強打が打てるてっちゃんとまろをうらやましがる。非力だけど、ボレーは、まだ、できる方という特性があり、強いスマッシュを打つ。下手なので、恥ずかしくて、練習に行かなくなった。1年を、そんな感じで、やり過ごした。2年生になって、上級生がいなくなった。朝練と、休日は近所のテニスコートで練習をすることになった。ラケットを買い直すことになった。 ラケットショップに曽根田と行って、プロモデルを使っていた曽根田が、朱色の厚ラケを選んで、それを購入した。 テニスが強くなった。屋上まで、テニスボールを投げれる話で、テコの原理だけで、そのラケット開発に7ヶ月の大人懐古だった。曽根田が選んだ朱色のラケットで、スマッシュなどの強打が打てるようになった。 大会で、対戦相手が来なくて、ベスト16まで進んで、テニス部で一番強いマルチさんと対決して、負けた。都大会予選のシングルスで、都大会にダブルスで出ている子に、ロブ&ボレーを駆使して勝った。二回戦は、あっさり負けた。極東中学の大会で、団体戦の補欠メンバーに選ばれて、御三家の中学には勝つが、ベスト16だった。前の代では、ダブルスで、関東大会まで進めていた母校。後輩のメガネの子にボールが当たる事件があり、テニス部の活動が休止になった。チケットが配布されて、極東バスでプロの試合を観に行った。マイナー競技のせいか、のちの世界ランキング1位のプレイヤーにサインをもらった。部活で、テニスの雑誌も結構もらった。受験モードに入って、自分たちの代のテニス部の活動が終止符が打たれた。3年生になって、まだ、部活に通った。都大会に、3人出る。山さんに、秘密のテニスコートの練習場を教えてもらった。私立中学との対戦で、金髪のハーフの外国人の子と対戦して、負けた。公立中学だけの大会の団体戦で優勝して、メダルをもらった。学校の朝礼で前に出て、表彰された。翌年に関東大会にダブルスで出ている後輩に練習試合で勝ったから、全国大会レベルの腕前判定の疑惑が出ていた。 受験も終わり、みんなで、カラオケと初ボーリングをした。近所に、マシーンを使ったオートテニスができた。高校でも、テニスをするムード。高校は、まだ間もない方の新校舎で人工芝のテニスコートの3面だった。 地元のテニスクラブが日本一らしい。中学で使っていた人が多かった白ラケを使った。テニス部で、自分たちの代の経験者は2人だけだった。2人以外の先輩には、勝った。女子テニス部と合宿に行った。予備校に行くようになって、部活をやめた。大人になって、電車から母校の中学の女子テニス部が全国大会で優勝する学校の横断幕とネット情報を見た。
ケンイチには、無理してた応援があった。本日、ケンイチは、海外スポーツチームのレプリカユニフォームなどを綺麗にたたみ終えると、そのユニフォームを手離した。これからは、元通りに、東京キャッスルと堅山ジャパンにお世話になると思う。野球の大リーグは、 ファールボールを追って観客席に飛び込んで鼻を折ったキャプテンと、ホームラン打者と、捕手がいた、日本人在籍時代の最多優勝を誇る名門を応援していた。 病気の少年との約束の予告ホームランのエピソードがある中年太りと、女優と結婚したイタリア系の顔立ちの選手がいたチームだった。最後の方に、優勝してワールドシリーズMVPだった。1年目の時の、同じ地区の相手のプレーオフの時のホームインしてジャンプして喜ぶ選手は今まで観たことがなかった。 公式キャップとスタジャンを手離した。スタジャンは、5万円近くの値段がついていた時期もあったが、1万円以下で手に入れた。チームのロゴがカッコよかった。 スポーツをしなくなったが、自分のスポーツ能力の減退を感じて、手離そうと思った。 サッカーの方は、 世界一のクラブチームになって憧れだと気恥ずかしいが格式が高く見えていた。ユーネガー・ルーレットという高身長で繰り出す技がユーロ・サッカー全体を底上げしていたと思う。今までの芸術からスポーツの普遍性をとる1回だけの優勝では、レジェンド化は難しいようだった。その他のチームのユニフォームも手離した。天界最強軍団で、センタリングが魅力的で、白地に金色系の特別仕様のユニフォームで特にお気に入りだった。関東のチームで、類似したユニフォームのカラーリングだと感じた。超一流を集めまくったメンツを持ち出されて、そこまでのレジェンド化ではないという局所的なレッテルのくい止め方だと思う。Sリーグ元年の派手さに対してアンチだった。離れてから見直すようになった。あまりにもセンセーショナル過ぎたチームだった。律儀なイメージの側を応援していた。 世界一を決めるだけで、Sリーグの試合は1度も観に行ったことがない。テレビで、Sリーグ元年の夜の開幕試合も観てなかった。翌日の昼間からの試合を観ていた。サポーターが熱烈みたいだ。サッカーは、意気消沈するかもしれないが、みんながみんな知ってるような情報媒体ではない感じもする。 語学力に難があったので、不安を感じて、海外スポーツチームの洋服を手離した。行ったこともない国のチームのユニフォームを持っている違和感に気づいた。東京キャッスルと堅山ジャパンでも、十分にカッコいいと思っている。子どもの頃に、自分がキャッスル帽をかぶっている、父親との写真が見つかった。東京キャッスルは日本中にファンがいる大手のチームみたいだ。余談だが、芸能人女子フットサルであるユニフォームと少し関わりがあったユニフォームも欲しいと思っていた。 ピンク色ユニフォームで、昇華できたことだった。年齢的にも、エンタメとサブカルとして、スタジャンを残すことを優先させた。野球のホームランとは、「打者が打ったボールが、グラウンド内に落ちることなく空中を飛んで、そのまま外野の観客席に入ること」の意味である。サッカーのゴールとは、「ボールを入れて得点すること」の意味である。ダサくて、よくスポーツのカッコよさと結びつけられる事象だと思った。野球のホームベースがハート型をモチーフにした形というのは結構有名な話らしい。恋愛において、どんな風になりたいかという、打順のオーダーの組み合わせである。ホームラン打者か、ヒットツーベースの走者一掃の生還かという難儀である。空中2回タッチでのスーパーゴール表記があった。表記の全体統合という離脱可能なのか、ネットで大手の媒体情報も知れるからじゃないの指摘だと思う。サーカスみたいなサッカーは要求されてないわけで事情があるらしいというピエロみたいなサッカーのユニフォームのカラーリングだからか指摘だ。スーパーゴールは2回の空中タッチのスーパーゴールのテリトリーも、ベスト4のゴールまとめという同じ所属だった東京キャッスルじゃない末端情報を求めないで願いがファッションから出てきた。空中2回タッチでスーパーゴール表記という、そこを基準にしたら、成り立たない査定の加わり方だと思うけど、簡単すぎるゴールという、曲芸の世界の意向が加わったはずである。所属の時の初戦で、オーバーヘッドキックでゴールをして、試合に勝ったらしい。足したツー・タッチのオーバーヘッドキックなら、もっとセンセーショナルなのだろうか、アクロバティックな技も繰り出した少年マンガを思い出す。違うキー局は、手をつけてない情報だった。職業としてのサッカーのピエロ化も求めないで情報が、たびたびあって、スーパーゴールだったらしい。別次元からの待ちもあった。サッカーの世界一を決める大会を家族3人で観に行ったことがあって、地域のサッカークラブにも入る。そこで、お友だちと再会した、コーチにヘディングを怖がらないように言われたり、前にパスを出すように言われた。俗に言う、『スルーパス』である。はじめての練習試合で、ポジションというものがあり、どこにいるポジションなのか把握できなくて、そのあたりをうろつく感じしかできなかった。リフティングが右太もも右太もも右足と、3回しかできなかった。キーパーで、リフティングが2000回以上できる一番うまいヤスのシュートを止めて、キーパーをやらされそうになることに怖くなっ て、結局、厳しそうで、一年間でやめる。絵画教室に1、2回通う。サッカークラブをやめても、遊びでは、サッカーをする感じだった。横ちゃんがボールをとってもらおうと、 勢いよく取りすぎで顔面ブロックしたり、PKで、空振り寸前の回転がたくさんかかったボールが、カッコつけて足で止めるナルちゃんの足元をすり抜けていった世界一ダサそうなゴールのジョリジョリシュートがあった。サッカーは初めてした最初の方からボールを追いかけて蹴る快感があった。寝ている夢で見たチャラ男のシュートは、踵(かかと)のヒールキックで空中にボールを浮かせて、回転がかかってグレーのボールになって雲で見えないゴールに入るシュートだった。確実に入るカーブシュートに相当なのか、アニメに次ぐ日本のサッカー男子W杯優勝の布石だと思った。スーパーゴールで、あの時代を振り返ると、スーパーゴールで、あの時代を振り返ると、オーバーヘッドキックのゴールと、40メートルに及ぶフリーキックのゴールと、空中2回タッチのゴールだと思う。地球選抜に選ばれた理由だという感じだった。スーパーゴールのオンパレードでも現実化するとは思わなかった。
夏子と付き合うたびに、どこか、その部分が尾をひいて負けさせた後ろめたいような気持ちの部分もあり、よそよそしさを伴うものもあった。夏子にはそのことを口外していなかった。夏子も俳句をしており、どこで調べたり作ってたりしたか分からないが、知らないセンスがある語句を多用する時期もあった。投稿系では、ダントツに夏子の方が採用率が高かった。春夏秋冬の、それぞれ4句の俳句を知らせて、最高到達点を書き記す品位があるかもしれないが、その短さで発表できてしまうためでもあった。固有名詞を使う方に気をつかうことを相談した相手であった夏子の過度に明るい性格もケンイチの嫉妬を買わせない類なものであると思えば了承し得るものなのだろうか。そんなオール満点の夏子が、なぜ、冴えないケンイチと付き合うのかと言えば、ケンイチの迂闊な発言で、活字化できない知覚できないような表現を多用している話なのかと予想外の誤読を促す楽しみも、その1つであるらしい。夏子は断らない誘いを見計らうのがうまく、美人と言えば美人な女性の雰囲気だった。
英語の勉強のこと、服飾と手芸の教室に通っているらしくて持っていたフォーマル服とカジュアル服のこと、テーマパークにも行きたいという話、アイドルの事を喋ったら、夏子は口ごもって、それ以上は話したくない感じだった。夏子は、念押し気味に、あたしがケンイチが学校に持って行く弁当を作ってくるからと言い放った。夏子は、キャラ弁も作れるらしい。見てくれに自信のないケンイチに対するアドバイスとして、夏子は、ほとんど全部の人間が横顔には幅がありすぎて自信を持っていないというユーモアを提示してみせた。どうやら、法律に書かれた結婚年齢よりも低い15歳以前の元服という自分の子どもをつくる年齢制限がとうに過ぎていたらしい。夏子は、就職先を家の中に関係がある鉄・木材・ガラス・プラスチック・布の材質フェチの知識が必要である社員レベルの東レにしようとしているみたいだった一方で、原宿でカワイイお店の名前『ラブラブリー』を開いて、みんなでメディアみたいな制服を着たいとも言っていた。夏子は、ピースのポーズを逆さまにして『ハッピース』をした。『ハ』の字に見える『ピース』のポーズと説明した『ハッピー』は、永続性がある『しあわせ』の意味で一時の感情の『うれしい』の意味ではないという趣旨も言い出した。
夏子とは、王劇ミュージカルも観に行った。適度に抑えた煌びやかで華やかな出立ちで、2人の親密さも増した王国劇場のミュージカルだった。ケンイチは、大人になるステップとしての畏まる神妙な面持ちをも体得した鑑賞劇だった。当日は、背広のジャケットを着て行って鑑賞した。 覚座の王国劇場という、程よい緊張感もあり、身が引き締まる思いだった。今の王室に通じる1世と、宗教的な関係などについて勉強になり、女王である前に1人の女性であるという意味が込められた作品だと思った。最後に、女王が白い煌びやかな衣装で即位していた。幕間の時間もあり、3時間の王劇ミュージカルがあっという間だった。主演女優は、アニメの声優で知っていた。夏子が、『ヨーロッパ恋愛物語』についても語り出した。スマートな英吉利人が、仏蘭西人の美人のパリジェンヌと恋に落ちて、堅物な独逸人と軟派な伊太利亜人が現れても、危ないユーモアを言うことなく、巴里のエッフェル塔と凱旋門をデートする話である。イタリアのミラノ座までシェイクスピアの演劇を観に行きたいが、パリの小劇場で月1公演するシェイクスピアの演劇で辛抱するらしい。セピア色のシェイクスピアの映像作品を楽しみにしていた。夏子のさばさばとした雰囲気から帰国子女の感じもした。異人種だけの街を歴訪して、その人種だけで成り立っていることに愕然とする自己アイデンティティーの喪失を内に秘めてそうな体験である。まだ、海外旅行も、宇宙観を養ってからという見解であるらしい。
打ち明ける
水槽に、太陽系らしきジオラマがあり、グッピーが群れを成して泳いでいた。夏子に、『宇宙大洪水』について打ち明けてみた。夏子が、「何か頭の中で考えていることがあるでしょ。メディアの放送コードじゃないのよ。何か言って。」と言われてしまった。「それって、『ノアの方舟』のことじゃないかしら。新約聖書の方よ。きっと。クリスチャンなら誰でも知ってるわ、そのこと。アメリカの移民対策で増えてくる人口爆破に対応したはずよ。地中海の何十日間の長雨のことで助かったという記述が、たしかあったはずだわ。方舟に、たくさんの動物をつめこんでおくのよ。そうして、生き延びたはずだわ。星明4年4月4日午前4時4分4秒に鏡の世界にタッチして、死の不吉な数字の世界になって、星明7年7日7日午前7時7分7秒に鏡の世界にタッチして、ラッキーセブンの数字の世界になって、元に戻れそうだったのかな。」と夏子は『宇宙大洪水』と『ノアの方舟』が結びついていなかったことを言った。「その『宇宙大洪水』って、作品化しようとしているのかしら。その宇宙って、太陽系なの、銀河系なの、どこまで地球の水が倍化するのかしら。太陽系の作品って、世界観が狭い感じがして、よほどのことがない限り、文学で取り扱うだけで大失点よ。万物が、どこまで含まれるのか。北極星まで行かない銀河系なのか、太陽系なのか、新出作品が、月に帰った『竹取物語』のかぐや姫のストーリーを超えているのか、世界観を見る人たちは多いわよ。それに、アメリカ人など、宇宙船の知識がある人は、助かる人は助かるはずよ。地続きの宇宙観までのはずで、海の方は含まれないはずよ。宇宙の空が水で浸食するなんて。荒唐無稽だわ。宇宙が水になっているという学者からの付加説明も必要そうで、その作品自体の単体での説明はという難関もありそうよ。助かる魚だけの魚座の発想よ。戦記物がない背景のセキュリティー体質につながるはずよ。宇宙で、戦艦が、どう進むのか。宇宙船という言葉が持つ、そのものの宇宙に魚がいた痕跡かしら。宇宙船が、宇宙艇というのは、まだ出てきてなくて、空港も、空と海が、ごちゃ混ぜの日本語を指摘しているはずよ。英語の方にテクノロジーがあって。海の近くだから空港で、新しい言葉になるかどうかの。」夏子が、トランプを用意してきて、トランプの札のカードを切って、よく混ぜて、一番上にくる数字などのカードを当てるゲームをした。単純過ぎて、トランプのルールを覚えるのが難しいケンイチにとって衝撃的だった。ケンイチでもキングとクイーンなどの上下関係を入れ替える取り締まりなのかと気づいた。「ずいぶんプリミティブだけど、オリジナリティーを主張しているのか。ババ抜きの方が複雑で、カードの擦れで、ほとんどの人は分かるはずだって。もう新品を購入しろよ。」夏子は、ケンイチに宝くじの2枚をプレゼントした。経済システムからの、およそ3億円相当が必ず当たると夏子は張り切って言うのである。しばらく映画館から離れていたが、夏子からタブリのアニメが日本で歴代1位になったと聞かされた。借りて、家に帰ってから観た。和物になっていておどろおどろしい場面のクライマックスで、洋物のテイストのスタジオタブリが、そんな展開で内外が戸惑わないのか落ち着けた。歴代日本一だったスタジオタブリのセンスを買った部分の芽が出るシーンの双葉の植物だった。言葉が双葉の男女ペアの恋愛を出さなかった技術の言葉が、ことばである、とうの10人以上の規定が暗黙了解だった。
そんな折りに、覚座ヒルズに40台の未確認飛行物体であるアダムスキー型のUFOが突っ込んで倒壊するアメリカ同時多発テロ以上のニュースが飛び込んで、ケンイチの心と街中に戦慄が走った。世界放送を始め民放全局で生中継で取り上げられていたニュースだった。未確認飛行物体のUFOが五大湖でアメリカ軍に撃墜されたニュースが世界放送でもあった。 宇宙人側の能力が下がってきているのかもしれない。UFOが覚座ヒルズに突っ込んだ場合は、40台のUFOがビルを貫通する絵らしい。2台の旅客機が、ニューヨーク貿易センタービルに突っ込んで、40分後にビルが倒壊した9.11テロが一番ビックリした。『リミッターを外せ!』天災系はNGの拒否反応か判断の人間がすることのリミッターで、突っ込んだ飛行機をUFOにしなかった、まだ未成年が楽しんでいそうな雰囲気のエンタメに危害を加えないような意思だった。日本版のお金による不幸の終わり方なのだろう。N極とS極の磁石を利用した永久エネルギーの壁に伴う老化のメカニズムは、細胞の数が減って、細胞自体が広がるからみたいだ。若返りでも、防老対策が老化で役割を終える。 物質の時間軸を遡る方法が、光速以上か、0秒未満のマイナス秒分時の問題かと思う。光速以上の速さで、地球の自転が逆回転したら若返るという映画であったらしい。 去年以前のカレンダーの使い道で、毎日のカレンダーが去年より以前だった場合、細胞レベルで、若返りが始まるのかという、春夏秋冬を逆に進むカレンダーは作れなさそうだをしたと思うけど、今現在の状態が録り終えたあとの再生の状態じゃないかって、レコーダー自体の機能を採用しないビデオの時にコマーシャリズムに於ける気づかなかったことらしい。 逆回転のテレビ映像も観たし、スローモーションもしていた。逆回転VTRのために、後ろ歩きで何度も躓く天女ちゃんのせいで、日本は、アニメ基本の訳か、家庭用の機械でできる範囲である。宇宙の前に時間の作品だった発言で、時空が時間と空間で、時間の作品で、実写を撮っている。セピア色のシェイクスピア映像作品で、観て思い入れの感情を増幅させる作業時間は、まだ観てない余地の部分もできる現代バージョンである。
ケンイチには、歌謡曲の作詞でお馴染みの極東大学卒業の校歌を作った作詞家も日記をオススメしている。小説の作り方を見るかどうか。作詞家の君臨の仕方かもしれないが、日記を書かせる手法が根強い絆であるらしい。 日記を提出してて、また保管しているという、言葉を選びとるという、他の歌手にも要望を振り分けていたらしくて、無理矢理感が出てしまったようだ。深夜ラジオドラマは、ゆっちがやりたいことになっていたレジェンド化を本人も切望していて、元ネタが分からない、もしくは、雰囲気ぐらいかなだけで聴く人が多いみたい。挑戦してみる価値は、まだありそうなところだけど、区別される微細な部分が知りたそうな侘しい生活している環境が有利な部分らしい。本人たちの間で、元の曲みたいに作れなかったという部分があるのかという勘繰りも出てきた。
古典になりうる感じなのかといったところだ。おそらく、歌える主題歌の音楽で、選ぶ人たちもいると思う。モノクロ映画から成り、ラー映画に端を発して、西洋から東洋である日本において、文明開化の西洋化を花開いた明治期からの和装から洋服へのコペルニクス的転換であり、冒頭に出てくる東京キャッスルのシーンがその功績を讃えているかのようだ。ひまわりで、また太陽の昼間の生活に戻る月明かりに照らされた夜型の生活から一回りしたガリレオ・ガリレイが太陽の黒点の動きから天動説から地球が動く地動説になったコペルニクス的転回が生じて、地球の自転と公転の周期からは太陽も自転していて公転している覆りがあるのか地上からは観測できない限界があり、ほぼ北極星が動かない宇宙規模の空間における総合的な最新情報の事象よりも、和服が洋服に移り変わったなどの方が鮮烈な一面を取りあわせている人間主義の命題を、どう修正していこうとするのだろうか。これから本格的に乗り出す宇宙の情報が確定する少し前の世代なのか、われわれは、確証が持てない間違えであるフィクションの作りごとの世界の身のこなしの作法が参考になる様子で、しばし偶発に近い宇宙に絡めた事象に対応出来るのだろうか。すなわち、やや脱線しかかった話を戻すと、新旧交代劇であった。日本の男の俳優といえばになっているみたいで、観たら移行するらしい。唯一無二の俳優というレッテルの出版も含めた言葉が用意されているらしい。もちろん、ジャガーシー役オファーでも着眼点があると思う。ハードボイルドにタブリの出版社も手をつけていたちょっとした。かなりのドッキリだと思う。知らない事情もあるからだろうけど、本当のことを知らなすぎると思う。3時間ドラマにたぶん出てきた人が出ていた。敵に囚われた時に、アニメなら、なんともだけど、実写で無理がないかだと思う。やはり、手が結ばれたのが紐だった。お金持ちの家の蝋燭は長かった。客層が狭まるバックグラウンドを盛り込まないでシチュエーションありきのシナリオだった と思う。青のゾートカA7みたいな車を劇中で覚座駅の正面通り付近で走らせていたと思う。現代能の狂言の演技もあった。その当時の新出のやりたいことを全部盛り込んだ映像だと思う。怖い映画で、手を食べる残像が見えた。3時間20分という見積もりが多い。3時間40分だと思う。現実感を伴わない夢が入る。属性があるので、属性ありきで、ストーリーがついてくるかの択一だと思う。古典文学の方で、どれかを、選定しきれてないけど、映画化した紫式部のことの繰り返しアドバイスがあった。そのまま移し替えただけじゃ、二番煎じという結論だった。危ないのをしているのに、観るのは古典芸能のレクチャーを受けたことがある所作があるからだと思う。接触機会が分からなかった時代があったらしい。能のオーソドックスな提示で、最初の方に記憶を紐解くと、扇子を前に突き出して、肩を揺らさずに歩くという、現実では必ず肩が上下に動くはずだという電脳空間の指摘に当たる提示だったらしい。不自然に見えるので、24時間寝ている状態という、どの時間帯も起きていないという催眠状態に陥る有名人にする手口かと思われる。目の瞳孔が開いていて、芸能人にありがちな目の大きさになっているらしい。
カタルシスがあって、あのゾビラ映画は終了という観てなかった対象者に、ゾビラの戦記物サービスだった。カタルシスとは、舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによって引き起こされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積している同種の情緒を開放し、それにより快感を得ることである。ギリシアの浄化という意味でもある。カタルシスとしての『ハシャマールQ』のトリネーザ編、もう、擦れていると思うけど、『ゾビラ』が加わる感だと思う。カタルシスでカクタルが正位置で、異物的じゃないと感じないのでは指摘が出て、大人で見識が広くなったら、味わえない狭い狭い価値観という窮屈さかという問いかけも出てきた。 どうなの問い、現存の有名性の作品に結局はなってると思うけど、テロを予見していたビル倒壊という、劇中のカタルシスと密静やかなではなく密やかなジャズ音楽だった。 本とCDとDVDを放出で、あの音源が消えた理由か、聴けないと思うけど、どんどん続々か、海外での保管を受諾しているのかというジャマイカのレコード・コレクションの形態を提示かという、手にした経年変化で汚れてますよねという事前対処が出始めた。世界平和と音楽。音楽と世界平和。自然の中でのカタルシスと都会のビルの中でのカタルシスだった。そこまで自然を感じない幼少期でもあり、肩入れしてる部分もあると思う。配慮としての、まだ、ヒット曲に聴こえるメロディーを採用している余地の部分がある。完全な日本のヒット曲のメロディーだった。もしも、興業的に歴代日本一という称号だったら、 保管しない感じもある。カタルシスとして、2種とも存在する背景という、まだまだ未体験のゾーンがあるからだと思う。先行していた時代の形跡もあったのだろう。日本人なので、邦画だけ保管しようとする考え方は根強いと思う。犯罪絡みで、特殊な人間しか、やはり保管はできないだろう。観たけど、大人の時間軸に自分がなっていたせいか、カタルシスの崩壊の部分が短く感じた。キャプターでもカタルシスの部分が見つけられなかった。山の神である、おどろおどろしい流動化と液状化のカタルシスだった。久しぶりに観たくなった。創作方法は、質よりも量で、技術力ありきだった。単行本じゃなくて、シリーズもの作者のところに仕事を持っていくらしい。腕っぷしの強さのパワーバランスも関係してくるらし い。日記をつけることがオススメだそうで、その中から出てくる創作部分のヒントの広げ方がうまい人が出てくるみたいだ。見た目主義だが活字化できる範囲内という安全圏内にしたそう。カタルシスが、山を舞台にしたおどろおどろしい液状化と流動化しか活字情報が出てこない。 やはり、フォーマットをつくれる技術だと思う。戦記物の山場としてのクライ マックスのシーンをつくる土台の部分があってこその創作力という結論が出た。音楽がつくれる才能があったら、パーフェクトに近くなるはずである。ヒントの理由があったと思う。カリスマ・カタルシス・カラバリで、「か」という名前の人の発信力かもしれない。美感力も出て、という字もあった最後の山場のカタルシスの部分を、また観た。映像に負荷がかかったのか、映像がカクツキ動画になっていた。充電が空のランプも出てきた。都市部の舞台の観に行っただけにしといた方がいいみたい。田舎の自然の方で、許可の方が降りるのが時期的にありそう。アクション映画におけるインストラクター的な要素があって、人気が高いみたい。世界一の称号としてのユルート様だった。映像を観ても、カクツキ動画にならなかった。深夜に観たかということも見当たらないみたい。アニメでも、飛行船みたいなシーンの当事者としての声優の名前の朗読ということもありそうだった。結構、長丁場に感じて、もう観ないと思う。『メトロ』で済ますと思う。
ゾビラ映画は最弱のウサギの怪獣ラビルトのを映像配信で観たあとは、もう観なくていいとタイムリミットになっていた。あとは同じ印象の覚座フィールドの危ないというレクチャーが入っていた。ケンイチは、黒い花もネットの画像検索でみていた。歌詞が一種として生き残りをかけていた。赤い花のあとの青い花だった絵画の赤い薔薇と黄色い薔薇を、そのあとでみたようだ。青い花が一番最初にみた花の種類になると思うだけで、ゾッとすることだった。カラーリング・ゾビラが、変身巨体化してから地球にいられる60分間のレーザータイマーであるアートの色のネオン領域に入って、黒朱の変身していく最後は、メチャクチャな配色でハシャマールQのトリネーザなのだろう。ゾビラの30倍の大きさである足のモンスターであるアッシンに木星でサッカーができる報酬で踏みつぶされるカラーリング・ゾビラで、注文が最上級よりも比較級の方が分かりやすい場合があるみたいだ。カラーリング・ゾビラの世界観の設定は、超堅属で地球の内核のマントルが破壊されてマグマが噴き出す設定だった。ケンイチは、火の章の『ほふほ』の火星と、水の章の『ぴたう』の水星と、土の章の『ちぢれ』の土星の、惑星規模の大災害のストーリーも骨伝導テレパシーで思い浮かんだ。火の章の『ほふほ』が、太陽寸前の火山活動が惑星全体で、土の章の『ちぢれ』が、無重力装置の悪用で、地球がバラバラになってしまうらしい。実力派の有名人声優が宙姦で生命を吹き込んで宇宙人キャラに恋をさせる、宇宙意識で万国がすんなりとくる恋人が宇宙人という、自分も宇宙人なのではという葛藤に苛まれるエピローグだった。中央特区カラーの紫色に変えただけで、ゴーサインが出たようだ。地球の、どこからでも狙える超特大の超堅属の地中ドリル貫通ミサイルが、地球の内核を突き破って、真核まで届き、距離観測のパラメーターが作動して、引き起こす凡ゆる表面化された地層が吹き飛ぶ増幅大爆発によって、地中から光の矢が内核から四方八方に飛び散って、地中ドリル貫通ミサイルに装着した融液剤が地殻の下の固形のマントルを液体のマグマにして、地球が噴き出した火山活動の光濃紫色のマグマまみれで崩壊して消滅でバラバラになって、しぼんだ気球みたいに、太陽系からフェイドアウトしていた。超堅属は、一番固い物質で、もっと固い物質が出てきたら、それが、超堅属になる名称である熱弁の力説だった。地球の世界一深いマリアナ海溝の亀裂のヒビでの陸地と海中での、炎の爆発系と光の稲妻系のハイブリッドの超特大の超堅属の地中ドリル貫通ミサイルの使用で、いきなりバラバラ事態になった地球の惑星の破片から、肉眼で、ロシアが見えた、インドが見えたなどのメディア視観に通ずる目撃証言がある話だった。地球が噴き出した火山活動の光濃紫色のマグマまみれでバラバラになった場合に備えての引力に伴う接着修復作業のシミュレーションのエンタメ系に近い作業で、フォローしていた。"引く"の反対語が"押す"という引力の表記の感覚にそぐわない感覚で、押力で地球圧縮のデータ解析の調整による消滅が気づかれたらしい。そんな土の章『ちぢれ』の超特大の超堅属の地中リル貫通ミサイルに装着した融液剤による噴き出した火山活動の光濃紫色のマグマまみれの地球崩壊シナリオも、紫色が侵食している入浴する温泉の掘削作業が捗った感で済し崩しの有耶無耶になった太陽が既にあるという結論になった。AI幽体をみせたでしょ発言で、ゾビラがいると思う境界線と線引きで、ゾビラが羽がないドラゴンで、ゾビラの作り方は、サンショウウオを幽体の大きさになるまで生育させる中南米のカリブ海にいて、超堅属の塗料を塗る頑丈な皮膚にして、火を吹く構造にして、放却烈線になるまで精度を高めるのだろう。1950年代からの興業的な成功があり、『陸上がり 巨体背びれが 黒光り 放却烈線 暴れ回るゾ』というゾビラ短歌を作った。いつものゾビラから変態していく単色ゾビラという新要素だった黒朱の変身していくカラーリング・ゾビラだったら、弱体化の部分を指摘で、難色を示した。『今度の戦いは生きるための戦いじゃない。過去に捨てるための戦いなんです。』と結んでいた。ゾビラは、ゾンビとクジラの造語で、ドライアイスで被嶺して誕生した秘話があり、日本は唯一の被嶺国で、戦後に、その話を聞いて、復興しようとした決意を置き換えた。学術的見地からの科学・軍事・神話と、ジョンソン・ミーサが『ラブ・ドリーム』で観ていた怪獣映画という設定も出ていた。ゾビラは、危ない。単色は危ないという動物形態学だそうだ。ハシャマールとハシャタイルは、危ない。ハシャえもんは、ダサいという理由だけ過ごせたらという動画無しでも世代らしい。幻の映画としての恋愛ものとゾビラ長雨で、最後に街が陥没のカタルシスストーリーで、通常ラインの生きている時代だった。子どもの頃のSDサッカーで、もっとエンタメ要素を含めるかどうかのゴールキックが真ん中から蹴るは、スポーツを知らない見地からの待ち構えている発言内容で、一番の数値だった。はじめてのゾビラ映画に加えて、ユマちゃんが出演ということで等身大ゴジラヘッドがある覚座シネマズへと観に行った。予算が余ったので、せっかくなので座席が揺れるMX4Dで鑑賞した。ゾビラが暴れ回り、ゾビラに電車をぶつけて、信軍の嶺念写兵器使用まで飛び出すストーリーだった。さよならラストショーの情報が入ってきた。スタジオタブリもチケットが売り切れだった。『SUIRA』も観れなくて、チケットが売れ残っている3Dアニメ映画を覚座シネマズで観た。映画人なら誰でも憧れる金賞トロフィーを覚座シネマズで見れた。トロフィーが直視できないくらい眩い光だった。スゴいことだと思った。映画史上最高傑作と言われる戦記物も観に行った。8時間あまりの超大作だった。『ハシャマールQ』の映画では、チケット予約特典が温度で髪の色が変わるストラップだった。決着つかずの勝敗なしシナリオだったけど、冒頭の惑星でのトリネーザ大王のお出迎えのシーンで、恐怖で戦慄を覚えた。IMAXで鑑賞して特典クリアファイルをもらった。観に行っていた覚座シネマズが出てきた。覚座の有名スポットが満載でサービス満点だった、不朽の名作をぜひ映画館で観てみたいと思った。映画史に残る女優が主演の作品を観に行った。泉に行ったり街を巡る華やかな映画だった。また抜き返されるまで歴代世界一になった総指揮のプラネット・ウォーズ最終章を観に行った。『ハシャタイル』で、そうそうたる顔ぶれの声優陣だった。子どもの頃にレベル99までしたハシャタイルを総まとめで観れて、ゲーム世界が崩壊するメタ・フィクションという手法だった。ヒット曲のメロディーにのせて、ほとばしる駆け抜けるような情熱を感じました。映画館で『SUIRA』を観れた。子どもの頃に入場者プレゼントでもらったようなものだった。
『SUIRA』は、1980年代から連載されていて、1980年代後半に映画公開されていて、ほとんど知らない情報だった。『ハシャマール』と『ハシャタイル』には馴染みがある環境だった。『ハシャマールQ』トリネーザ編の戦闘力50いくつ億もの何段階も変身していくトリネーザを、スーパーザナムートに変身して倒す展開にビックリした。ハシャタイルをモンスターをいっぱい仲間に引き連れてクリアして、レベル99までやった。 声優の作品にも少しだけ触れていた環境だった。覚座に観に行った。中学の時に、たしかに記憶をたどると、中学校がある方にあるレンタルビデオショップに 『SUIRA』が置いてあった。パッケージだけ確認した。危なそうな作品だという予感がした。『メトロ』が原作と大きく違うカタルシスがある超高層ビル群の都市が崩壊するストーリーで、衝撃的だった。 このあと、アメリカで貿易センタービルが崩壊する9.11同時多発テロが起きたと思う。 アメリカ国防総省のペンタゴンは飛行機の墜落で破壊されていたニュース映像だった。セントラル図書館に、『SUIRA』の漫画が全6冊置いてあった。読んで、あの監督作品だとまだなんとなく認識する。この頃過ぎに、外国人が誉め出している作品と知った。それから、『SUIRA』のCショックが予約販売された。 バックライトが 『SUIRA』 と浮かび上がる白のCショックもあって、赤と白から選んで、白のCショックを予約した。2万円近く代引きで、お釣りなしで購入した。しばらく経つと、さよならラストショーのラインナップに 『SUIRA』が入っていた。スタジオタブリの作品もあった。このあと、映画史上最高傑作の戦記物を映画館で8時間あまり観に行った。終電ギリギリで、 『SUIRA』を観れなくて、チケットだけ引き取りに行った。初めて、この時は覚座シネマズで観たが、借りてみた。 設定が産業革命期頃の蒸気が動力源の街みたいな設定で、目新しさを感じた。『SUIRA』が映像配信になっていない作品で、購入して、しばらく経ってから観た。おどろおどろしい設定もあるが、アニメの金字塔だと頷ける作品だった『SUIRA』の企画展の覚座ダンルースのこけら落しで、会場案内で、階段で40分以上は並んで待っていたような感覚だった。場所移動で会場の方に行って、500円トイカプセルがあって、列から飛び出して1つだけ購入した。『ささささざざざ』と発狂する絵柄のガチャガチャで、通販でプレ値が付いていたけど、期間が経って処分した。 企画展の『SUIRA』 のイスに座って、列に並んで、スタッフに人に時間内ギリギリ終わりすぎの最後の方になって記念撮影してもらう。 チラシとステッカーをもらって、帰った。 IMAXレーザーで、映画公開があった。延期になったけど、コロナ禍で、家族に止められ気味だったけど、説得して、マスクをして映画館に行ってみた。映画館でも、『SUIRA』を観れて、大満足だった。『SUIRA』を数回観て、通過儀礼を終えたような感覚になった。コスプレという、『SUIRA』監督が生み出したカジュアル服の世界観で、アニメの金字塔と評されて、ゾビラが怖くて、ラストの中ボス級の大きさがちょうどよかったのだろう。『スイラとすいら』は、メイド服の世界観で、緊張感をパッケージできた手応えがありそうだ。コスプレという、ならない手前の格好なのだろう。あと、何をすればと考えて、宇宙人で、安心できる見た目かと、ヘルメット姿の天使とアイデア構想を天国つくりに近く、宇宙パトロールで取り締まられて泣く変な宇宙人たちを、見せるかどうかのまだアニメの部分からだった。ヘルメット姿の天使を受け継ぐか、ハシャタイルから担当するのだろうか。天国と宇宙があり捜査して、変な宇宙人をパトロールする固定概念が強すぎて、宇宙アイデアが片鱗だけでも誰かあれば、ゆるキャラと知能性が無理なのか、乗り物か何かを操縦する宇宙人像を捻出しようとした。天国の原形をとどめられるよう宇宙情報が無くなる情報網も待っていた。雲のカタチをした宇宙ステーションの天国に仙人が住むスペース計画で、変な宇宙人がいる宇宙の方に行かない情報網だった。
『宇宙大洪水』
ケンイチも、『宇宙大洪水』に備えて、本格的にシュミレーションをしてみた。ネットで文献資料を読み漁ると、「極洪水時代」というマンガが見つかった。マンガの設定では、北極海上にある原子力要塞が突如として大爆発を起こして、大津波をもたらしたらしい。海外300キロ以内の住人に避難勧告が出て、街はもぬけの殻となった。『宇宙大洪水』が、現実にあるのかどうか分からない原子力要塞という情報のやりくりから出た事例なのではと推測してみた。水が空気中から突発的に増幅して出現してくるというシミュレーションまで出てきた。マンガでは、『ノアの方舟』通りに、船を作っていた。どれだけ水が倍加して増えても、水面上には出る計算だ。今回の場合は、もっと宇宙規模になっている大洪水だ。大気圏を超えて、水が倍加した場合、酸素ボンベが必要となりそうだ。どれだけ長期に渡る大洪水なのだろうか。食糧の供給も必要そうだった。太陽系をはみ出して、水が倍加する可能性もあるのだろうか。水に倍加しない収まる性質があるのかどうかも調べた。涙が止まる理由も。悲しいことがあると、涙があふれて止まらない『宇宙大洪水』が起きる『涙あふれて』という、ちゅこたんが描いたマンガもネットで読んだ。『宇宙遊泳』という言葉だけが気がかりであった。ネットで『ノアの方舟』に関する記述も見つかった。『ノアの方舟』の物語は、『神々が真っ当ではない人類を根絶やしにし、聖地を洗い流すために、大洪水を引き起こす話である。しかし、神々は多種の動物たちと神々に忠実なノアだけを残すために、ノアに方舟を造らせた。ノアと動物たちは大洪水の中、船上で生き残り、ノアは全ての人類の祖先となる。私は真っ当ではない人類の世の中を大洪水によって洗い流したいのだよ。』
1970年代の民放ドラマで、家族一家、肉体労働をしない父親、浮気をする母親、投資ギャンブル気味の息子、夜遊びする娘の一家のおごりが描かれて、大雨で川が氾濫して家が流される前に、家族の写真アルバムを取りに引き返すというストーリーもあった。知事の発令による戒厳令が敷かれて、警察の検問が張られるという物々しい緊迫感があった。行政情報を、たまたま、『ノアの方舟』の現代版アップデートに成功したのだろうか。そのドラマは見せられない感じで、上流階級の事前に察知するようなストーリー・タイアップに変えられたようだ。どうやら、日本は島国で度々のスパンで大津波に見舞われるらしい。警告を無視すると、南米からの要請で、そういう大津波の事態が起きるそうだ。古代に地中海で起きた『ノアの方舟』に対する、ある程度の認識力があると、回避できるらしい。
20日間も経たないで埃が舞うケンイチの部屋の陽当たりの良い背丈が腰辺りの洋服ダンスに飾られたプレ値の瞳を麗せたユマちゃんの浅きょんフィギュアを、産地を覚えなかった和紙で包んで木板の箱に仕舞うと、ようやく、メディアの宇宙空間に無数にあるブラックホールに吸い込まれていく『宇宙大洪水』の長きに渡る特大特集が終わり、いつもの政治家の金銭汚職とスポーツニュースに戻っていった。ユマちゃんの浅きょん人形をクローゼットに納めると、熱気を帯びたケンイチの体の熱量も下がり穏やかな空気の質感が回復した。いったい、自分は何がしたいのだろうか。纏わり付く想念が陽炎のように揺ら揺らと浮かんでは消え浮かんでは消えていくのだった。ケンイチは、太陽系の9つの惑星の中で、地球は一日中自転しながら太陽の周りを楕円形を描きながら1年間かけて公転しているという通念を思い浮かべた。こんなに広い広い宇宙の世界で、何も出来ないちっぽけなケンイチは、感傷的な不甲斐なさを感じずにはいられなかった。
冷たい鉄と水と、マグマのような感触を秘めた融通さを押し退けて、結末の時間が全てならば、なんて優雅で、なんて充実して、なんて独りよがりな、テストまでの残りの8日間も過ぎた。ケンイチも夢中になった『プラネット・ウォーズ』も、悪の帝王ジャガーシーをやっつけるブライトニングソードの舞台化でカクタルにトランスフォーマーして巨体化になって、御縁となった。都心への大動脈に通ずる幹線道路に小雨が降って、傘で凌ぎきれなかった水滴がケンイチの肌をはじいて、片道に真新しい砂だけが残った。通り過ぎる日常に、そんな事も忘れる日々だった。
相変わらず、授業中に校舎から見えるマンションの屋上の鉢植えの手入れが気になる学校が終わる夕方過ぎに、予備校まで、いつもの時間に、いつもの道を、いつものように、ペダルに片足ずつ全重心を乗っけて漕ぎながら自転車で通っていた。予備校の自転車置き場のところで、転校した小学校からの同級生であるカワグチを見かけた。カワグチも、予備校に通っていて、志望校の学部まで同じで、受験の日に一緒に受けそうだった。カワグチは、私立の進学校で、部活に熱心だったケンイチとは違い、中学の時から、もう勉強モードだったみたいだ。数学も知らない理科も知らない文系だけでの受験でもなさそうだ。もう、中学からの同窓会を開いており、ケンイチが参加しないのを訝しげにしていた情報が入ってそうだった。もう、進学校の生徒は、微分積分などの応用で、何か分かるビックバン解析の知識を体得していて、情報データを参照する権限も与えてもらっていたのだろうか。ケンイチが、予備校に通っているという情報も聞きつけた思いになった。それから、何度か、帰りが同じになり、一緒に自転車で帰ることになった。いつもと違う道を通って、自転車から白いフェンスが格子状に動いてみえることを指摘すると、カワグチは、幾らか面白がっていた。子どもの時にテレビゲームなどをして遊んでいたタッチャンも道端で見かけたが、不用意で、リアクションできなかった。子どもの時とは違い、大人の身体になりスペースが取れなくなることをおもんばかっても、咄嗟に会っても、素通りするだけだった。タッチャンも、それなりの進学校に通っていた。予備校の行き道に飽きてしまい、道を変えることがしばしばあった。予備校は、転校する前の街にあった。少し道を外れるが、住んでいた場所には近づかないでいた。同じ人物を見かけるドッペルゲンガーとまではいかないが、そういうことはしないような暗黙の了解になっていた雰囲気だった。
予備校に通学する道は、ケンイチが、子どもの時に、毎週バスで駅ビルに通っていた道でもあった。ASカクタルのプラモデルとハシャマールのカードを集めており、おもちゃ屋さんで、ASカクタルのプラモデルを毎週買っては、組み立てていた。カクプラは組み立ててるけど、組み立てキットを作っている人がいるわけで、説明書通りに作っただけで、自分の作品と言えるのかどうかという、出る部分のおかしみだと思う。 製造業でも、モヤモヤするところで、その感じがクセになっているから、カクプラが生み出される背景がありそう。 1979年というプレ80年代なのに発言のカクタル様とも言いなさるのだよ。活字で知覚できない読み応えを感じて、映像の動画でもというカクタルのアニメのつくりになっていたと思う。ロボットアニメシリーズで、カクタルがプレ80年代とみる歌声で、宇宙に平和が訪れるストーリーだった。誘導だと思うショネのフィギュアに対する本人以外の周りの反応の動きだった。ちゅこたんがファーストカクタルを観たらしい。このあとから、お仕事としてのファーストカクタル以外のカクタルを観る感じだと思うけど、覚座カクタル像と植山の動くカクタル像を、実際に行っていたと女優業としてみたいに演じるのでは感が出てきそうだ。泣いている絵文字を使っていた。ファーストカクタルを観たあとに、劇場版のファーストカクタルまとめが出てきたり、グラついたのでは憶測が出た。まとまったチョイ出しが困るというファンの中にありそうだからだと思う。 サブカルの中で、一番コアって言ったら、実際の軍事シミュレーションも入ってそうで、カクタルという感じだろうか。知らないでも過ごせる平和な世の中がおとずれている時に、情戦士で、アニメの中の擬似体験とはいえ、戦争に駆り出されている感情に苛なまれたのだと思う。文学的価値として、なげやりな感じにしているテリトリーを活字化した場合に起こりうる衝突である。サブカルのノベライズという、おそらく、販売形態としてのサブカル感よりも文学的価値を上回らせる感じにしているのだと思うけど、それを前提とした底上げがあるのかという戸惑いもあった。なんか、怖がる人は怖がる、プロの感じじゃない感じにも出す時がある。境界線の表現形態を採用していたからじゃないかって、そのことに対する感想も見えてこなかったからじゃないの発言があった。画像と文字という、両極端のがあっただけでか。 マンガも終わりそうなのかなぁ。カクタルのゾーンに入ると、信美ちゃんのことを忘れるらしい。戦争アニメのカクタルと平和ミュージックの信美ちゃんのアンビバレンスな二律背反を許容する世の中だった日本という、カクタルがディレイドの音楽プレイヤーと同じプレ80年代だったらというプレゼンテーション側であった。1979年に出たディレイドとカクタルという出たという動詞しかつながらない回路の語彙力だった。演歌一辺倒だった時代もあって、日本人じゃないことを少し許容する感じだけで、なだれのようにどっと別ジャンルにいく習性も頷けた。再構築という、ヒット曲メロディーを作る時に、言葉や考え方を解体して作り直す再構築の作業の覚悟がシンドくて、やらない人はやらないらしい。春夏秋冬のと、 それなりに明るい信美ちゃんの同じく楽曲が季節を網羅していてて定番系でほとんど完成されて、他の人たちはプライベートな楽曲を作っている感じだと思う。どうみても、演歌のこぶしらしい。 古典文学の研究者としての信美ちゃんで、それだけの表現というのはあり得ない感じがほとんどだと思うから、膨大な作品数をストックしているわけで、人が少ない方にいたら、いっぱい来たらしい。ミュージック・センセーションという外人側だった。
あと、能力不足だが、自己顕示欲を発したい思いも汲んでのネット表現で、放送のコードの限界までのセキュリティー挑戦だと、表現レベルの軽視として見られて、存続しにくいみたいだった。アートと本と音楽と、映画とゲームがあり、アートと本と音楽までは個人レベルの下手でもできるメディア形態という提示だった。本に関しては、スケッチ的な文体で受賞作の期待値ナンバー1の美大出の作家が「本はできない人がする最後の砦」みたいな表現をしている。心情というピックアップのされ方で、まだ感情がない人が大勢いる向きもありそうだ。活字の本が小説の描写だけで終わらせて、風景に託した思いの解説は別のところでしているという手法であったか。丁寧な風景描写だけをカウントしている小説手法の旨がありそうだった。心情表現しか思い浮かばない人は、風景描写に一字一句置き換えるのだろう。やり残したがない時代性にならないうちにという当然の末代まで続く危惧もある。映画は人数と称した金がかかり、ゲームは節制した技術力というテクニカルな制約があるのだった。ゲームクリエイターという、クリエイトで創造できる領域だから、そういう名称なのだろう。
アート
夏子に絵を見せた。自分も太陽の系譜の絵を描きたいと思い、子どもの頃に行った覚座の商店街の『サン・ロード』を題材にした。危なっかしそうでも、どこかコケ脅しの感じがあり、地面スレスレでも、太陽が、どこか天体としては離れているトリック・アートに似た感情として解釈ができる絵だった。体験してない大ピンチに見せかけた昭和の戦争に対する天体に託す思いをくみ取る世相を反映してない反戦平和側の残されたことに近い、つぶてなのだろう。『サン・ロード』は、『宇宙大洪水』である水の系譜の合成アートの『水の中の宇宙』の絵に対する、せめてもの罪滅ぼしの太陽の系譜の作品における消極性が問題となっていた。そのことは、デフォルメされた『ひまわり』の絵をケンイチも描くことで解消された。無論、そのことは、夏子には勘づかれていなかったが。それでも、夏子は、わたしたちの誕生月は水の系譜なのだから、以前描いた何の変哲もない、のどかな『海』の絵の方が性にあっているという感想を漏らした。『太陽』も描いた。『山』も描いた。『海』も描いた。『女』も描いた。『花』も描いた。絵は、できるだけ、題材を描き込めるだけ描き込んだ方がいい。絵は一瞬で分かる。余白のスペースも計算して、思わぬ相乗効果も生まれるものだ。夏子は、絵自体を毛嫌いしていた時期もあった。2人の共通の趣味である俳句の文字数の絵では、絵が足りない印象を受けてしまうからなのだ。それでも、2人とも、造形としてのアート最高潮のハイスコアをたたき出した作品がお気に入りであった。同じ絵を何枚も描いていたわけは、音楽は何度も歌うからで、絵は作ったら、もうほとんど作らなかった保存の仕方の問題になっていくらしい。アートが、芸術である絵の絵画などなどと、歌である音楽に分かれている。アートの最初の方で気づいた、最初しかうまく描けない人たちのモチベーションと研究の違いがあって、研究による関門の設け方という感じ方か、徐々に上手くなる人たちだけ、最初からできます結論もあるらしい。ひまわりの幼稚な絵が描けた人たちは、上回れる自信があるのだろう。題材の訂正例があって、シャンソンの出だしの世界観であるおそらく安直の面白み系の『水の中の宇宙』が、直射日光は目によくない『サン・ロード』になって、『ひまわり』の最高峰の題材になったのだろう。が絵画における画風の作品における作風の最高到達点となった。題材だけで売れなかった作家たちの題材にする動機が無さそうな技術鍛練の作風もあった有名画家の絵が1枚も売れなかったエピソードで、自分で全部作るのかと、お金を食べ物に払っていた当時の人たちの風習である。アートの最高題材は、太陽の系譜であり、『サン・ロード』でギリギリみたいで、『水の中の宇宙』の取り消し判定と、『ひまわり』という最高の題材を幼稚に感じる絵の画力で、太陽が8つ描けるスペースなのか、ぐるぐる巻きの太陽の方が高難易度みたいで、青空にするか、そのままの白紙の白い雲にするか、架空の創作の設定である『太陽がいっぱい』は、《魅力的に》描き直しするという、大金が入る仕事の内容かどうかだった。イラストがアートに変わる可能性のためのパブリック・アートという言葉があるのだろう。花丸の満点がたくさんの優等生のテストの答案も、いっぱいの太陽に見えるなのか、落ちこぼれから見た解説が付いていた。見せれるように、魅力的に描き直す8000兆円の仕事を一晩で使い切る赤いフェラーリで乗り回し放題なのだろう。『太陽がいっぱい』は、ひまわりがいっぱいのシーンだったらしい。創作における役づくりに近い演劇の手法で、やっと通用する感じだった活字残しなのである。
余談だが、幼い時にウワサだけ聞いていた作品も覚座の美術館に観に行った。パブリック・アートとしての造形で、決して瞬美派の絵画や彫刻などのメインカルチャーのクオリティーに及ばない気概だが、作品性のような隠された獰猛性を露見させてはならないという戒めを自制として加えるのである。どうやら、メインカルチャーの素養があることとは、きちんと絵の光と影の陰翳のグラデーションを付けられることらしい。他の要素の魅力を感じて気づかなかったり素通りしそうだが、初歩的にもならない段階で当たり前過ぎるが、絵のうまさとは、描写の細かさであり線描画の細さに起因するのだろう。アートで絵をうまく描きたいが写真になった経緯もあるはずで、加工写真に見えないように実際に撮れた写真に見えるかのせめぎ合いもあった。モノリズムの極地である日本で観られる最上位コンテンツは、おそらく全て観に行った。ちゅこたんも、いつも描くアニメのイラストとは違うテイストで、宇宙柄の牛などを、展覧会でアート作品として発表していた。ちゅこたんは、モノリズムである小難しいことを、夢の中だけのことだけではなくて、やや現実とは法則が違う宇宙や水の中のことであると、すんなりと解釈していたようだ。モノリズムが、どんな夢なのかというテイストを含めた抽象的な分かりにくさがケンイチにはあったらしい。ちゅこたんとコラボした大彩色の作風をモチーフにした作品も、大都会の東京キャッスルを青黒い雲が覆う『J.A.C』という作品を発表していた。夏子は、瞬美派の絵を観て、「これじゃあ、勝てないわ」と感想を漏らすのだった。無である歌詞が死という無の状態で認識しないことには、マイナスの感情では負けになる衣食住の供給体制があって、プラスの感情の行き着く先が、君臨のアメリカ側から疑問視も出た場合がある。それが、できちゃうのよ発言もありそう。稚拙な絵も、なぜ、アートのテリトリーなのかという、再現する場合の、その創作意図を避けるパーフェクトという最難関になりうるかららしい。考察だと、下手な人がする絵を版画で何とか伝えようと、分厚い線を影で表現という、ほぼ一代のアイデアなのだろう。アート番付があると、東の横綱は、必ずしも、ホームということじゃないらしい。世界というイタリアの評価があり、専門家でも、作品の分類の正確に把握できない作風らしい中国の漢字の作品名が専門的な領域の元になっているのだろう。西の横綱は、作品は知っているけど、本人は知らないという情報網が功を奏したようだ。アートを含めたエンタメが利用された世界平和は、アレキサンダー大王が起源のローマ帝国、および、その思想からきたものであり、たたかいありきの、反戦平和と付帯した力強さの体系化で、イタリア人が管轄しているようだ。外国人が出てきて、日本では、覚座人がメディアで世界平和を受け持っているらしい。覚座人は、世代間の受け持ちで消える情報で、親しくできないことになっている。有名人は、あいさつしない膨大な知り合いの人数に及び、時間的な制約があり、平等という抵触する観念があるらしい。同待遇の人を内密に接する機会があったという思い出になって、本当の有名人は出てこない。徹底してなかったところだったらしい事情があったところだった。レビューを上回っているかどうかで、コンテンツの接触の目安になるようだ。アート番付は、東の横綱は分からなかったセンスを出さないポジションで、西の横綱は太陽の系譜の題材ありきの発信する表現者が消える可能性で、どうしてもセンスが出るアートのステージじゃなくなった結論ではなかろうか。アートは、版画にする絵の全体と部分のスペースを把握しながら、彫っていく作風になるあんばいが、ホームだけど、アート番付の世界最高峰の東の横綱だったみたいである。シャンゼリアの街頭の絵を観ると、浮世絵が残るので、西洋の近代化における東京という位置付けの作品で、作品の稚拙な部分は消えてもいいという覚悟すら感じた。西の横綱は、作品だけ知っているで、成立したみたいで、全てが西洋からの見方において、超えられない白人以外の部分があるのだろう。余力を残した余興であるかどうか、下手な人の作品が、意思を尊重して、伝わるように仕事で、アーティストではないアーティアンを自称が多かったらしい。匂いからくる雰囲気で、肉現化が、見せれるかの、そろそろモードであろう。うまい人の絵っていうのが、モデルも最高美だと、画家のオリジナルに帰属しない判定があり、瞬美派からの陰影を用いた手法の確立が完成して、グラデーションの陰影の濃度で覆りがあった戦争画だった。メインカルチャーの素養があり、絵が巧くて、モチーフ自体に”滴る”意味のドリップのテイストがあったら、モノリズムの感覚であると気づいていたようだ。1枚の絵は、何千本も線を引いたわけではない絵を描くモチベーションを軽くする気づかいがあった。はっきりとした太い線を描いた鍛錬のあとに、細い繊細な線の絵を描く鍛錬が待っているらしい。もっと早く知っていたらという万全の時期でもあった。デザイン(作画)とシュール(超越)とユーモア(微笑)と結論付けた。同時期で、コンピューターグラフィックスが、もうあったという向きと出てくる。気苦労して習得する前でよかったと思うソフトウェアに万単位のお金を注ぎ込むようだ。むしろ、手描きとしての存在だろう。ダリもダ・ヴィンチもデフォルメされた絵であり、これから成長していく下地がある艶出し前の絵を、ピカソは、いつでも引き出す必要があった。モノリズムで、絵のモチーフを解体して、画風となって、深みがあるらしい。アーティストにモノリズムという語句が与えられていて、画風や作風が確立していて、それぞれを比べること自体がナンセンスに感じる域なんだろうと思った。フォーマル服の内面とカジュアル服の外面であると出てきた。自然美の中に、おかしみがあるという、イニシャルD同士の仕事からの、巨大な鼻モニュメントを、指摘が、おそらく、抵触のはずで、絵のモチーフの単体でみた場合は、インパクトは与えないアフター・アートの画家であるはずだ。モノリズムで、絵のモチーフを解体して、深みがあるらしい。絵のグラデーション系の配色が違う場合は、ダメになる作品だと、感覚を探り当てる、気づきながらの鑑賞らしい。意味のつながりによるロジック手法の題材選びで、同じ印象なのに、その感覚を忘れる人たちは、すなわち、絵から離れる時がある人たちだけが、ハマっているはずという 巨大な鼻モニュメントは、目と耳は2つの穴ずつなのに、鼻は1つのパーツに2つの穴があるというノータッチで、自然美の中の、おかしみを指摘という、アンタッチャブルで、いさせてくれという遺書めいた作品だったみたい。モノリズムのマンガ!涙を流す連続性の1枚の絵であるインパクトを超えていなければいけない次世代のマンガとアニメの表現だった。モノリズムのマンガの短編集で、それぞれの逆から読むと、ストーリーがつながっているかのような逆さ読み、アルファベットのタイトルで、そのアルファベットの順番のコマ数で読むと、ストーリーがやや把握レベルなのかというのも出てきた。表現が表出の予兆と読み解く人たちにとってのモノリズムの手堅さを引き渡すには攻防があるみたいだった。一過性だよ、が、ほとんどだって、砂浜に書いた文字と雪だるまを見せて、なんとも思わない感覚に素通りさせていた時期を作っていたこともあった。アートが、静止画というルールがありそうなステージがマンガに移って、連続性のマンガとアニメが描けない人たちが、コマ割りが、直感で、どれが動きがあるのか分からない動物的な感覚を用いて、動的な印象を感じない安全圏内で判定されたのだろう。サッカーがヤバそうて、感覚を持ち込まれたら、アメフト経験者が表現したら、役割分担の野球の打順に置き換えたアメリカ人の情報である。ミュージアムが、35点が適正な覚座の情報で、100品目が決められている百貨店の方に行かせたいようだ。
あーちゃん展で、『愛』あーちゃんというタイトルのハート・マークの絵だけというのが伝説のつくり方だった。真ん中やや前部に飾られていて、学校の教室のスペースくらいの建物が広く感じた。展示品の裏面のスペースに、アートのジャンル区分でいうと、そのまま原作アートと呼ばれるアルファベットの1番最初のイニシャルAの説明があった。原作アートとは、もう世の中に、すでにあったら、それをそっくりそのままアートにしちゃうことである。愛の系譜、あるいは、心の系譜という、題材が無さそうなアート界にとって、道しるべとなりそうだった。同じタイトルもあって、ゆるくやっていこうという流れもあって、助かったようである。発注をかけて、本人ができそうな範囲内であるハート・マークを盛り上げる立体造形の絵の額縁にしましょうかという案もあった。展という文字の印象で、本来の展示品がいっぱいある理由が結局は理由がなさそうで分からない人たちもいるわけで、1点だけじゃなくて、その中で展開があった方がという当然の意見が出ていた。同じイニシャルAという古典に採用ルートがあって、こちらは、修正の2回目のあーちゃん展のために、絵を下手に見せるのに、相当苦戦で、その後の膨大な人数におよぶ瞬美派に続くパリ万国博覧会が開かれるきっかけとなる出来事らしい。ようは、額縁ありきのシステムに乗っかったアイテムとしてのほとんどが収まる額縁という見方だった。夏子に見せた『サン・ロード』の絵も、一番うまく描けた『東京キャッスル』と、そうでもない絵も飾って、マジカルメーカーで作った時の系譜の『メイドウォッチ』も『メイドケイ』と、『宇宙大洪水』も合成アートである太陽系の10惑星が水の中にある『水の中の宇宙』の絵に見せられるように改題した。シュールリアリズムが、題材をモチーフの部分パーツの集合体と捉えて、モチーフの部分パーツを置き換えるセンスのポイントが加算されて、付け加えるには構図的に限界がある完成するまでのシュールリアリズムの課題と出たようである。春の丸いピンクの木と、夏の四角い緑の木と、秋の三角の黄色い木と、冬の何も無い木の、連作である『春夏秋冬の木』の絵があったのである。日本一である富士山の頂上かのような笠雲の画像を見たあとに、漢字の山の形の山の、そびえ立つ3つの山の中央の高い山に、子どもの時に描いたと勘違いして思っていたモチーフである天使の輪っかを創出したという、キリスト教の天使と山岳信仰の視覚的な融和を表現した構図という見事なシュールの評価が出た、ハシャマールの、地球人最強のキャラの必殺技からの『気円山』とも称されるものや、アニメの頭上の光輪シーンからの、図形描画が限界であり、あーちゃんの最高傑作である『エンジェルマウンテン』(宇宙一の山)の絵がメインだった。デジタル画材道具でのハリウッド映画みたいな光輪の部分が黄色なだけの水墨画のような印象も見受けられた。合成アートで良くない組み合わせが多かったが、ゴネて、ペアリングの相性が良くないこともあるが、良い方の組み合わせが回ってきたゴネ得となった。『エンジェルマウンテン』は、ちゅこたんが、もう、写真集の中で描いていたと出てくる。美大が舞台の映画にもエンジェルラビットは出てくるモチーフだった。名前の由来を聴いた二葉亭四迷の『浮雲』とも出てくる。パクりでも、しばしオリジナルの存在を忘れる人材は本家と元祖として利用されて、観る側は、万能を宿すセカイ系に浸りたい想いもアートの本質としてあるかもしれないが、この人物も描いたタイトルの作品としての鑑賞らしい。地域性がギリシャとエジプトの象形文字のフィエログリフの影響下にあり、西洋の方であーちゃんの作品が1枚だけ保管できそうで、アメリカ人が『エンジェルマウンテン』の洋書とドラマの元ネタを作っていて、何でも絵を漢字にする中国人も出てきた。東京の東京タワーと東京スカイツリーを描き、日本の富士山は日本一で描くが日本列島はまだ全体に怖気づいて憚って、宇宙である世界の地球と太陽と月を描くのである。ヒマラヤにある世界一の高さのエベレストの映像も観た。日本一の山と世界一の山と宇宙一の山と、ちゅこたん語の『ラゾ』『ラザンタ』『ザッセルヌーン』の三段活用で『エンジェルマウンテン』を着創して、あーちゃんは、常々、『山にも海にもパワーがある』と豪語していた。あーちゃんに関して言えば、本と音楽もレベルに達していなく、アートもミュージアムのレベルに達していないので、家に飾られる絵を目指しなさいと助言が出ていて、子ども部屋が限度なのであろう。大人の絵で検索すると、画家とアーティストが並べられていて、汁画ではない線画の直線と丸を描ける画家という説明だった。クネクネした線を、わざとギザギザにしたりするとコスプレみたいな感覚で画風になるらしい。クシャクシャの絵でも、コンピューター描画で線の長さと短さを計算して、ファイナルファンタジーの大人が描いた絵にして、ゲーム画面をドット絵にして、その絵では商売にしない感じの存在感の人もいた。絵にする長さと実際の尺図が違くて支障が出るので、ひとまず絵描きであるアートの歴史に終止符を打たれた題材があって、『エンジェルマウンテン』という題材は、たとえ実際に現実に表出したとしても、ケースバイケースであり、アート本位になれない自然派のシュールリアリズムと区分された。天使の輪っかの山で、あーちゃんなりに、超越系を表現したかったのであろう。『エンジェルマウンテン』の絵をみるだけで、山に異変があると、チューニングして気付く直感が働くバロメーターの絵である。『宇宙大洪水』が突出してきた応急処置としての『エンジェルマウンテン』の対応だった。そのあとに、同じような漢字の鳥島を紹介された4つの様々な四角い島に+沖縄を足したデフォルメされた『四角い日本列島』の絵と、地球(アース)が愛のあるハート形の絵の造語タイトル『ハース』の絵もあって、蓮の意味が分かって、つなげようとした。五大陸を地球の片側に見えても全部描くことにした。何が描かれているのかヘタ過ぎて分からなくて、少しでも気になる部分があると、何の絵か知りたい焦燥感に駆られて、能力がないだけで、悪質にみえる思えることがあるのだと浮き彫りになりそうだった自制としての意味も加えていた。絵を描くこと自体が、見せたくない思いもあって、憚れていた時期があった。魅力的な題材を見つけられると、もっと画力があるうまい人たちによる絵画になり、自分の絵は、もう無くてもいいかという諦めで絵を捨てたり消去するのだった。鬱積した思いにならないコントロール下にしようとする動きだった。それでも絵を描くのは、自分の絵が完成して、どういう絵なのか楽しみなのだろう。あーちゃんの絵描きとしての生涯は、動物の十二支の絵が描けないハードルという苦痛になっているところでストップした発表される作品の盛り込み方の基準になっているみたいだった。音楽は、騒音の環境下だと影響が出てしまい、限られた能力の人でもできるアートか本かのほとんど択一らしい。東京の東京キャッスルを描き、日本の富士山は日本一で描くが日本列島はまだ全体に怖気づいて憚って、宇宙である世界の地球と太陽と月を描くのである。ヒマラヤにある世界一の高さのエベレストの映像も観た。あーちゃんは、常々、『山にはパワーがある』と豪語していた。あーちゃんに関して言えば、本と音楽もレベルに達していなく、アートもミュージアムのレベルに達していないので、家に飾られる絵を目指しなさいと助言が出ていて、子ども部屋が限度なのであろう。ミュージアム全般に対する感想があって、種類を並べられるのは、七福神の7つまでで、7色である虹の色なのか、色ごとに、10倍の品目にして、並べる。形式美は、覚座色かもしれないが、人間の本来のあるべき備わる姿として、仏像は、黄色の黄金で、真ん中の色だったのだろう。黄色の金色と黄金色があり、青色の青金色と銀色と青銅色があり、赤色の赤金色と銅色と赤銅色があり、青色の金と銀と銅のユーティリティー汎用性なのか、覚座の理由だと思う。紫が来て上回られると、金と銅からの銀の事情だった。七色を白か黒かに個人差でも振り分けて、稚拙でもできる反転のテクニックを教える努力している証拠のようだ。アートの作品とデザインの作品を入れ替えて、シンプルなのがイニシャルAのアートで、複雑化したのをイニシャルDのデザインとしてに、いつ気がつくかの子どもの時分のイニシャルDなりのクイズだったのだろう。アートとは、表現することによって対象となるものを的確に捉えようとする感覚のことだった。アート及び芸術は、絵画や彫刻などにとどまらず、文学や音楽など多岐に渡る説明を受けた。デザインは、その時々のイラストなどに左右されて、きっと演出効果や脚色などによって、そのもの以上にも見せたりする広告が端的に表されるのだろう。ネオンを使った紫色を主軸としたカラフルな21世紀生まれの近未来アートという文言を知った。ネオンアートだった。最後の一皿のネオンアートが人類史のピークであり、ネオンで検索すると、まだまだセンセーショナルな新作が出てくる。産業用だったのがアートに移されて、絵の具という画材道具の名称があった油彩画と水彩画の記録をとりたいのだろう。東京、日本、ミーサ、ディレイド、シーザックスといったビッグネームがアートの名目で許可が降りたのだろう。人類のピークの訳はネオンだった。自然の発光体で一番強力な生物界に動きは虹か薄れたなのか判定のようだ。ショネの人類補完計画は繰り返すだけ世代だった。大人同士で上手くいっているのに、子どもの冒険も試そうとする段階を経てから、大人を含む最終的な結論を出す世代が続きそうだった。ネオンに関していえば、バーなどの社交的な場を演出する装飾としての産業用からアートにメインとして持ち出されたら、控えめなデザインそのものが、なし崩しの価値観になる危惧さえあった。
夏子は、松尾芭蕉の最高峰の感覚である『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』の句を、岩に蝉の声がしみ入っている繋がっている句なのではなくて、岩にシミが入っている断絶している句であると仕切りに主張していた。余りある副産物である短歌に手をつければ、あっという間に、文字数の拡大で、他の表現活動になる統率が取れなくなる危惧もあった。
無名のフランス詩人のレベルに達していたカザハラ系で末弟的に用意していた歌詞があった。パリジェンヌの最高頂な華やかさを抑えた若さが残る、オクトマンプリンセスの声優をした、画像付きの日記である、ちゅこたんロイルという仏的日本文学のピークの1つであった。時間と空間である時空は、空時の接着もあった。様々な年代の情報がある中で一致する時があれば幸せにできるという、その時々での飽きがあったりする観念だと思う。時代の切り取り方としての、アイテムにも空間であるスペースに限界があり、その当時の資料だけはと用意しておく準備をする礼儀だと思った。当時の詩的な表現としての文学的な印象は羅列で薄まったのか鳴りを潜めていた。観れば、どってことない作品のサイコスリラーという三流映画であるジャンルの触れ込みとは真逆のキャスト陣だった。時間という時の流れに思いを馳せていたのだろう。判別がしにくいタイトルが似通っていた。
『雲流れ 遥か彼方に 鳥が翔ぶ』
『空』
『空は果てしなく広がり 雲はゆっくりと流れる あなたがくれた心も みなぎる望みを託して しっかりと柔らかな風が包み込み 私たちの清らかな祈りは澄み渡り 恵みをもたらす光が注がれるから 咲き誇る花々を見つめる瞳に宿して やがて鳥も翔び立つ 本当は少し確かめたかった気持ちも 今は何も分からないまま 随分と時は過ぎていった』 勉強だけをやってきた人にありがちな解けない問題があるという、絶対に解けるはずという確信があるらしい。菅原道真が解けない問題がなくなった学問の神様で、方程式で絶対に算出できるらしい。「絶対分かるから」とビットエースも教えている。夏子の誘いで、たんぱく質の匂いが充満した部屋から連れ出されて、近くの川を一方通行の車道の橋の上から見に行くと、川の段差となっている位置で柔らかな水飛沫をあげていた。土手を降りて、もっと川に近づくと、エサ遣りもしないのに、鴨が7羽近づいてきた。RPGによく出てくる時空という言葉があり、時間と空間で、特に、年をとるにつれて、人間関係が共有される時間と空間のスペースを占有することができなくなってきたケンイチであった。『両思い』って、映像で、どう表現するのか、両方の目線からの透かした映像、か、ちゃんとできるのかどうかもあるみたいだった。ケンイチの理系知識でいっぱいになった頭では、以前のような、すがすがしい気持ちで青空を眺められなくなっていた。窒素がたんぱく質であるという思いに囚われて、雲がたんぱく質の集合体であり、白い雲を雲として見ることすらできなくなっていた。
AIスピーカーのデマ情報の第2弾があった。2つの太陽が出てきていつも明るい天体イベントや太陽大爆発でいつも真っ暗になる天体イベントも予告された。小惑星が地球に接近しているらしい。映画の宣伝VTRしか観たことがなかった。『SUIRA』でも東京に原爆投下のアニメ映像だった。ユルート氏は、情報を開示できる映像配信の場所を求めていたのだろうか。そろそろ、昭和世代の破綻だろうか。未然情報で、誰も知らない大騒動情報の後始末というユルート様の映像配信の説明であった。遊びのゲームの応用としてのシューティング技術で小惑星の衝突を軌道に乗せるために回避する宇宙航空学よりの軍事情報扱いであるらしかった。接近するまで大小が分からない4惑星なのか数が限られているボムで同時に滅ぼした。見事な快挙で著しく誇らしげに想うのだった。宇宙の塵なのか、接近するまで惑星の軌道に乗せるための除外は果てしなく取り除かなければならないのが任務なのであろう。命ある限り、この使命をまっとうしたいと思うのであった。仲間が敵に追尾されて撃墜すると、感謝する無線で飛びこんできた。銀艶に輝く機体がスピードを緩めて幾つかのゲートを低空飛行で潛り抜けていく快感があって、きっと満ち満ちた誇らしげな気分になるのだろう。ほとばしる人工培養の科学力もきわめ、生命維持の存続理由が、これ以上はないのかと、突撃してきても、何にも感じられない抵抗のまま、どのステージの敵もやられていくのである。ケンイチの親も40歳代になり、サラリーマン人生を振り返ると、誕生・学生・就職・結婚・子育て・定年・死亡であった。学生時分にこだわり過ぎると、そのあとのお仕事からの人生に支障をきたす経験があった。江戸時代からのノウハウ取得の飽きが来ないうちに、ステージ変えの難易度の高さにならないように祈るばかりである。メディアがメデューサの語源で、頭の髪の毛がたくさんヘビになっている女のモンスターの記事の枝派が、どれも、ほとんど犯罪性のある事件が起きる記事になるという、記者が代わって、続きの記事を書く場合もあり、ミステリー推理小説側の何も起こらない純文学の囲いを作っていいのかという当然の投げかけがあるレベルが低い発言内容で、誰か言ってくれれば、相互監視の承認制に近い雰囲気になっているメディアでは、小っ恥ずかしくて、有名人に任せる役割分担のレベルにおいて、大手の気質に頼る時が世界放送側であるみたいだった。特撮がメディア形態を必然的に安全面から採用するので、メデューサ回を中級モンスターのスケールで、集大成って何よ狙いに対する態度が、観ていた出演者たちがエキストラのゾンビになって襲いかかるちゅこたん特撮を封印した悪質化を避けた選択の回避をセキュリティーであった。スポーツとニュースが特撮モンスターになるかどうかの分岐点で、どうか、政治を介入させないように、下層領域だけでの失望感を誘い、ちゅこたんがハシャタイルのを食べたような、モンスターになる食事まで行き着くのだった。ネットをリンクする特撮のメデューサ回において、特撮用のコンテンツが、せっかく話のようだ。『低俗だ』で、メディアからは離れていた上の世代の中で、付き合う理由がなくて、全部、アニメーション化計画で、ニュースもスポーツも、そこまでならない人間が介入の事態だった。CG作品の全部を植え付けたい"放送コード"だけを感じ取り、この感じがダメなんだろう察知領域を鍛えて、感情の蓄積が危ないのでためらうようだ。
ケンイチは、ほとほと疲れ果てて、体内が酸化の酸っぱい匂いにならないように食生活に気を配るだけだった。夏子が瞬間を逃さずに何度も写メを撮っていた。
『何度でも 笑顔を向ける 眼差しに』
最上位ストーリーは、かぐや姫が月に帰った『竹取物語』があって、宇宙観を延長線上にして測るので、だいたい身辺系のストーリーも分かるらしい。映画で、『ロケットで宇宙に行こうと思ったら、神さまの仙人がいる天国に』迷い込むストーリーが、その2つを超えているらしくて、雲に乗っかれる世界観なのかしらアシストがあって、悪いこと何もしてないよなと確認をとりながら、それが表に出ないように行動するような演技があって、ヒューマニズムの観点からで、地球に戻ってきて、地球が徐々に、天国になっている設定に踏み込むかどうかだった。『人間を見失っちゃいけないよ』セリフが出て、創作性にみた場合の善意に傾いた過ちは、まだまだ拒否で、停滞シグナルではだった。月に帰った[宇宙まで]と宇宙が海[現実ありきの]宇宙に行こうと思ったら天国だった[虚構の]虚構である天国と現実の延長にある宇宙の両方を扱った作品という提案である。『ロケットで宇宙に行こうと思ったら、天国だった』(英題『ゴー・トゥー・ヘヴン』『ア・ロケッツ・ゴーズ・トゥー・ヘヴン』)これは言えそうだね。言い易そうだし。言いやすそう。まぁ、死に直結で連想でも、ジョークな感じで、最先端を選択したかったらだから、覚悟がないと、人って笑わないものらしい感想みたいで、エンデバーの事故なのよ。ディスカバリーじゃない見分けが付いてない。『宇宙』で『天国』という歌詞を出していた。タイム・トラベル要素を入れて、最新式の天国だった。最新式のバブリーな天国だった。天国の設定なので、日本国なのですかと問い合わせがあるらしい。ギリシアのが最新式のバブリーな天国じゃなくて指摘か、天国は簡素なイメージで心許ないらしい。ものがたくさんあって、天国に見える生成AIで仕上げる美術班の力が、蔵書無しでも、苦戦していた。『ハシャエモンと雲の大倉庫』を、人工知能が勝手に作り出しそうで、スタッフがと提案していた。『ハシャエモンと雲の大倉庫』もノラエモン映画の中で一番最初に観た。『ロケット天国』が、ロケットで、(現実の延長線上の)宇宙に行こうと思ったら、(虚構である架空の)天国だった、川民的アニメである『ハシャエモン』の道具などから比べたら、虚構性の発想が弱い観点の指摘もあった『ハシャエモンと雲の大倉庫』になり、物が多いバブリーな天国が、実写の泡が光るような質感を出すのを、アニメでは難しかったらしいタイトル変更の説明があった『ハシャエモンと雲の大倉庫』だったらしい。ストーリーが起承転結のシナリオになるように、付け加えてくれるらしい。とりあえず、金星に旗を立てたジャケ写を撮影しタちゅこたんだった。『ロケット天国』『ロケットで宇宙に行こうと思ったら天国に』迷い込んだ。地球に帰ると、天国党が現れて、極楽党が『天狗だ。天使の頭の上の輪っかの付け足しで、死んだあとの世界観じゃないの。極楽は天国よりも下の死んでない世界観だよ。』とも主張した。映画の3時間オーバーの時間枠は、埋まりそうシナリオだった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が出る理由が、なんとなく。最上位ストーリーというのが、存在しない天才が生み出した。『蜘蛛の糸』は、天国から糸が垂れてきて、みんなも助けると、糸が切れるオルテガの話だった。最上位ストーリーは、宇宙が出ないような、ささやかな幸せというのをとるのでは、月に帰ったのが、どこが最上位ストーリーなのか説明できないだってらしい。かぐや姫の『竹取物語』は、壮大なという言葉だけでは、その世界観にならないように、引きずられないように、極東大学が注意するのだった。どんな宇宙観よりも身近な幸せを祈っていた。『ロケット天国』は、ロケット宇宙とインプットされてないコンピューターの世界観で、ハッカーが使用してそうな、最近、人工衛星という説明も、有人飛行が、うまくいかなさそうな内部事情がありそうだった。『ロケット天国』は、映画の3時間オーバーの時間枠は、埋まりそうシナリオだった。ロケットが宇宙に行かなかったのは、能力をダメにするダメ星人がいる真相だったという仕掛けのストーリーがあった。宇宙観が行き過ぎてささやかな幸せに辿り着く前の、宇宙観をログしたかったみたい。『ロケット天国 〜宇宙を青空に〜』と、タイトルを改変したら、宇宙が夜空のイメージじゃないと、昼間に太陽の光をみて、直射日光で、目に良くないかららしい。青空は、地球の大気圏内であり、宇宙は、宇宙の果てまで真っ暗なので、太陽光が届いていても、天体の背景が夜空に見えるらしい。宇宙の果てを、銀河系からの氷を使った鏡の性質の連続反射によって確認できるのではという調査も明治時代の資料にあったみたいだ。閉じられた宇宙(空間)の果ての先には青空が広がっているはずである。そもそも、宇宙の果てを確かめること自体が、イマジネーションの夢が無くなることでもあるらしい。『水の中の宇宙』は、『ロケット天国 〜宇宙を青空に〜』のそれよりか、もう少しもっと荒唐無稽で、言及されなさそうで、元に戻した。SF純文学の決定版で、日常の題材の中に宇宙観を込めるという『コスモスを 摘みし心の 小宇宙』を思い出した。空の上の宇宙にある太陽系に水星という星もあり、『ハシャマール』に、頭上に水の世界が広がっている水の中に住む龍が空を飛ぶ世界観の描写があった。現実と違う物理法則の作品をつくると思う。もうあったら、氷の世界じゃない。冷たい氷の世界じゃない。炎の世界じゃない。熱い炎の世界じゃない。発見してないだけの新感覚で、物質の属性を並べてみたら、(炎・氷・)風・土(・光・闇)と出てきて、感覚で新しいのをつくり出せる人だっていそうだ。新種が出た場合の既存が強固になる命取りにならないように、赤い炎と青い氷と緑色の風と茶色の土と白い光と黒い闇と、出てない色で属性を割り出す黄色と紫色とピンク色で、紫色かな冠位十二階の最上位の色がRPG世界よりだった。明治時代初期に、これからビニール素材が流行るらしいと、ハレ(晴れ)とケ(穢)の、ケ(穢)のケガレ(穢れ)にも対応する素材が出てきて、汚れというヒントなのだろうか、ハレだけの世界でよかったと思ったのである。この方だけが、新感覚が伴う新世界の到来ではないかと、先行していかないと、危なさそうな察知能力もあったのだろう。化学原料に愛着を持つかどうか食べ物としても検討していたと思う。全くの新出の世界が用意で、分からない場合もあって、知らなかっただけで、新出じゃないという感覚を確かめる人たちもいそうである。アルファベットの一番最初のイニシャルAの『アクア』までというギリギリ既存のも出ている限界か。呪文があるハシャタイルをしていたので、薄々、見放し方がある感じで、ハシャエモン映画の脚本家の空から船が降るヒントがあって、フォーマットのために、日記を書いておく人たちは、アイデアがおりてきたアイデアが出てきただけで確変が起きるのだろう。それよりかは、現実を後押しするようなアシストする補足がある世界観をメディアに求めているのだろう。ハシャエモンの昔から人がやってくる設定だと思うけど、もう終わったことで、ブラックホールみたいな穴ボコが無数にある普通の景色で、その穴ボコから風が吹いている風変わりな設定が、暗に、違う入り口の情報にもなる街に出ている看板のことらしい。情報を、そのまま出して、オリジナリティーにこだわらない方がいい判断もあった。そのままの人間が出てくる、お芝居は観れなくなるのではということだった。時間内の耐用性があるアンドロイド使用という、赤と青のイニシャルAの案だと、心が色で顔色をうかがうという表現が、ブルーになるで、悲しい青と嬉しい赤が目安である。赤面症の子が人気がない感じで、恥ずかしい色ではない判定の公教育での整合性が、男が青で、女が赤の、ギャグ(逆の濁り)と反対の世界を絡ませない生き方らしい。アートと本と音楽だと、現実と一番物理法則が違う活字の表現である本で、なぜ、そうなっているのか、固執するのか、日本の本が登場した時期の聖徳太子が発見したのではという理論だった。活字そのものを使用した映像化の表現は、NHK教育だけで、民放でテロップが出てきたわけらしい。古典文学すら、映像表現にしなかっただとか。メロディーは会話があるわけだし。天女ちゃんの作品を読み進めると原作になかった固有の考えがありそう。
歌作り
放課後の居残りで、かなり有名なプロも出演する銀タイル張りのビルの建物の中ホール施設でする学校の合唱コンクールに向けて、課題曲のを練習することになった。連日、ドンヨリとした曇り空の天気だった。1学期に満然の実力を発揮して、ほとんど氷点下の中での登校になる3学期に向けて、2学期以降は体調管理に赴きを変えるのだった。ケンイチにとって、音楽は水泳と同じくらい苦手だった。覚える手間というのが厄介なのだった。ケンイチは、まだ、男側ということもあり、プロデュース能力を問われなくて、供給側の工程手順の感覚で日常生活を歩んではいなかった。生活意識の時間感覚を細くした分だけ、全体としての積み上げの時間が足りない危惧を感じていたこともあった。そうした観念に捉われながらも、中学時代、ようやくテストで拙いリコーダーを覚えた時は、音楽教師は頬をひきつらせ涙を一筋垂らし泣き崩れていた。声変わりが遅れて、女子に混じって、アルトの歌声を担当した。リコーダーの全体発表会も全体合唱も、変な音を出したり声が裏返り、奇異だと思われないように、身をひそめる感じだった。音楽を文字通りには楽しんでいない誤解を紐解いていた。それでも、ケンイチは、もう幼き思い出の時みたいに大声を出して歌う気になれなかった。誰の声なのか特定できない全体合唱の声にケンイチは自分の歌声の旋律を乗せるのに精一杯だった。
ケンイチは、小説を書いた。小説の手法を用いた場合、リレー小説という方法論を提示された。元が辿れない文献の資料を頼りに、ストーリー構成を考えるという膨大な読み込みである。世間がややチーム編成に偏った場合の作家の単独の名前を冠する責任が問われたのだろうか。明治の文豪である芥川龍之介氏からも読み取れる手法だった。自分で作った小説をフォーマット版とアップデート版とコンパクト版にバージョンを用意して、まだまだの雰囲気だった。フォーマット版が流通している8万文字から10万文字の長さで、アップデート版が10万文字以上で、コンパクト版が短編の1万文字以内だった。芥川龍之介と太宰治の短編が多いわけは、長めを担当して夏目漱石が長文をつくっているらしい。コンパクト版をフォーマット版という200ページ以上の本にする技術の心情表現よりかは、風景描写でできるので、読み手の能力も、心情表現にした場合の風景描写を特定できない場合があった。風景描写を唯一レクチャーされている独学に近くて、正解を当てる手前の長めの文章にする苦痛が快感にもなっていた。タイトル候補は、『水の中の宇宙』 『アドレッセンス』『アクア』が検討された。ちゅこたんの愛猫の名前と同じという決定打で、『アクア』に決まった。永続的な耐久性が高いタイトルなのではと、『水の中の宇宙』 のスキューバダイビングの先入観があるので、稚拙さのニュアンスからも、そこまで結びつかない特殊なものではという見方が気がかりのようだ。『アクア』の方は、装丁の惑星が水中にある絵と結びついて、単文字が堂々と確信犯的に創作行為に及ぶ悪であると、サイエンス・フィクションの頭文字のSFを意に介さない関係から、ケンイチの残された文章から、じわじわくる水の因子を秘めたタイトルに昇華しているみたいだったと検討された。『水の中の宇宙』と発表して、東京都出身の近代文学の作家としてのイニシャルAの芥川龍之介の名前の通りのシナリオで、杞憂に終わった『宇宙大洪水』につながる水の因子に関連した記述の羅列があり、当時の世相から未来の将来像を見据えた『アクア』と呼び回される段階を経ていた。文体の完成度の及ばない点を横書きの丸文字にすることで世界観がマッチして補えるという叙訓も受けた。あーちゃんのジオラマという言葉でセンスを見せるかのような同級生のレベルとして冠が付いたみたいだ。主人公の人物造形キャラクター設定として、主人公のケンイチが男子高生で、限られた人間関係という内向性キャラで、犯罪性が表出しない感じにして、ヒロインの夏子が女子高生で、ケンイチを上回る俳句テク情報を持ち、日常生活で何でもしてあげられる能力で、死を認識して、ケンイチだけの能力で生活していきたい将来を盛り込んだ。民放ドラマの悲惨な驕りがある一家の川の氾濫が家を流されるシーンで、『ノアの箱舟』の現代版アップデートを試みるのだった。ゾビラなどの特撮以前の形態の設定で、『宇宙大洪水』がシュミレーションまでに終わるという純文学的余韻に浸れた。『アクア』である『水の中の宇宙』に一番近い昇華している生々しさを抑えた演出を意識した作品性らしい。もう、アニメの実写化の横文字にしてもあるわけだし、宇宙船という空と海の創作であるフルマックスの言葉も、文学的表現のタイトルで直木賞を受賞された作品もあった。影響下であると、『宇宙大洪水』に関しては魚以外にとっての世界の終わりだと思う。イントロダクションは、“スクール”と“カルチャー”と“ウォーター”の三連エレメンツからなる、ストーリー構成の傾向がある純文学作品を意識した短編集までいかない長い文章の羅列だった。『アクア』の中で、『急なりぬ 夕雨立ちや 紙ふやけ』が、悲しみの涙をお天気の雨に託すシチュエーションの中での純文学帯びた表現の最高頂に達した箇所だと思う。『紙ふやけ』まではバランスを考えて誰も書かない領域だと思う。文字数が10万文字もあると、何かしら出てくるものらしい。『アクア』の追加寸評で、シュミレーションのみの記述だが、読み手はその部分の読書体験 をしているという差異の見きわめの掴めにくいのが、高ポイントにつながっているみたい。『宇宙大洪水』という『ノアの方舟』の創作のフルマックスを発見した功績だけだという気づきの部分だと思う。発想のアイデアは、マクロとミクロに分かれており、大きい発想と小さな発想があるそうだ。マクロは、宇宙船という空と海の逆の言葉だった。ミクロは、不思議な道具などなど、これ以上出ても、有象無象の領域になってしまう、誰も、もう生み出せない領域らしい。言葉は、しるしで、ほめる時に、同じ言葉を使うレベルかどうか気を使う相対的なものであるという、教える立場の学校の先生方なんかは、特に、その点に留意していると思う。突出した規格外な言葉を使ってしまった場合でも、取り繕うまわりの体制で、嘘から出たまことで、そうなってしまう時もあるらしい。『〜だった。』、『〜と思う。』、『〜と感じる。』『〜な気がする。』、『〜だろう。』と少しバリエーションが少ないかもしれない。作品に対するセキュリティーがかかったメインカルチャーからの宇宙船という、空なのに海の言葉が、発想の着眼点で、道具のアイデアでレスポンスした。選んだ時点で、超えられた判定であり、空である宇宙の船の、反対の、海の中を進む飛行機が、潜航艦と2202年の情報であった。終了したプラネット・ウォーズの方に誘導か、陸海空土の全用の乗り物がジェット気流だけで明治期の書物かららしい。結構、『ノアの方舟』には、大震災以降の大津波が起きても、全消滅は生者の視点で伝えられているという時点で、救われている部分が残っている劇作秘法があるみたいだ。超えられる試練という通知を受けた。歌作りについて希望の名のもとに再生が謳われて世紀末の印象を引きずった終末物だけではない『アクア』 というシュミレーションだけの純文学フィールドの余韻に持ち込んで正解だった。かぐや姫の「竹取物語」という月に人が住んでいるという関西圏のストーリー・テラーを、別方向から探してみるのも手だと思うが、最新技術のところでの点検が創作においてもあるそうだ。もうほとんど職業化されて いるらしい。現在、月に帰ったという創作が起きたなら、月の属性で、よく知らないおとなしい寄りという引っぱった感覚があるそうである。 帰っていったといった感じだろうか。「竹取物語」の感意を創作のピークと捉える感じもあるとテーマで持ちまれてくるのだろう。地べたが実は天上から離れているので、後日、手応えが確かめられようかといった『サン・ロード』の端から、もっとまっすぐな天体としての太陽の感に気付けるだろうか。日食といった変わった太陽という興味の中で、太陽の正位置を探る動きがあるそうだ。おそらく限界があって太陽が登場する日本一の『富士山』の絵までだと思う。冬は、青い太陽が出る話だって、出るごとに、温度が低くなる という、生きていけない人は生きていけないレベルらしい、その事態特有の現象を当てるっていう初モノ感もあるらしい。東芝に委託をやめたらしい。次に、『緑の太陽』が出てきて、苔が生えて、アメーバも、接触なしでの生命誕生が可能になり、認知してない生命体というブサイク寄りの命題も出 てきた。創作を文芸していることだけでも言って、あまりにも創作本位になる価値観の変動を防いでいた。『アクア』に、宇宙人とドラゴンを見せる夏子の話で、ゾビラの話が出てやめるケンイチというのを付け加えるかどうか迷った。ストーリーが膨らむ余地で、ドローンとロボットで、ドラゴンが可能な科学力と出てきた。女性に配る用の『アドレッセンス』タイトルがハートの表紙で、男に配る用の『水の中の宇宙』タイトルが合成の表紙で、同一内容だった。憧れが、何をするか明確ではない超えるではなくて、まだ分かりやすい同じことをすることだと、自分だけのバリエーションもできて、すんなりといくこともあるみたいだった。しきりに言葉の意味を捉えようとするせいか、意味のベクトルから生じる文体の密度による言葉の配列の並べ方が、日常生活の影響もあり、端的に表現し過ぎてオーバーして薄まってしまい、文体が足りなくなってしまい、文学賞レベルではなくて、ラノベ(ライトノベル)の方向になって、ラノベという名称が持つ本来の時代性を含めた軽さが、純ラノベと、小説を構えて書くという予備知識がないために、一時的な読み物にしているペーパーバックの文化もある欧米イメージからイレギュラー的に取得できたのだろう。たしかに、どう頑張っても、世代的にラノベの印象を感じる文章になるらしくて、漢字を主体とした文壇と言われていた時代の文章にはならない日常性の雰囲気がある。だが、しかし、ひらがなの接続詞にマッチした順番の出し方に挑戦しているラノベの文体がありそうだ。気質に一貫性がない文体から感じる調整は、当時の文壇以上のレベルかもしれない。ラノベも横文字にしてはどうかと横書きを提案されたそうである先駆者としてのちゅこたんの画像付きの日記であった。今回の小説は、過去形が多く、詩であるポエムの文面の印象を持たせたい場合の現在形の使用を指摘された相応しい格好となった。女が憧れる未来に信美ちゃんの歌詞にも出てくる男の領域のことである。小説全体として、架空の名称を用いる難易度よりも、そのまま固有名詞を使用することによって、同時代性をも包み込んでいたかのような雰囲気の空気感を残すことを優先させた。試みた文体のをお手本に、必ずしも現実の情報と一致しない虚構の部分がある小説化されたノベッセイかとノベライズ・エッセイなのか、リアル小説をリアノベやリノベとリアルノベルの実名で出てくる場合があり、作中の中での古典引用や実名で出てくる小説は先例ではあるが、今回に限っては、ケンイチの中での記憶で、架空の名称の接着がうまくいかずに、今、「売られている」って言ったら、似たデザインのを言っているんだなくらいの年代の特定など憚る部分が、おそらく全体として時限的なものであると思う。ストーリー性を持たせた功績において、読み切りの長い文章の羅列の中で、気に入った箇所があった人が、その箇所を何度も繰り返し読んで、その読後感に浸る可能性があるかどうかだと思う。長編小説を繰り返し読むことは体力的に無理で、読者層を考えた気に入った箇所のストーリーを何度も読む読後感になる短編小説に作家の実力が出るとも称されていた本の保存方法だった。映画の長いストーリーを観終えた後の、短い主題歌を、お土産みたいにして、また何度も繰り返し聴けるタブリの手法をよくできていると思っていて、ケンイチも、本のストーリーに自分で作った歌を最後に、はさみ込んでみた。主人公の目的が達成されているかどうかで、だいたいの小説は閉じることが多く、歌を作った完成度で、物語の終止符がうたれた格好となった。創作において、自身の体験が、創作用の情報、及び、体験なのか、よほど注意して見分ける必要も感じた。プロットは、起承転結の、起の『臨時ニュース』と転の『宇宙大洪水』と、承の『ちゅこたんフェス』と結の『歌作り』の、2つをくっつけた格好となった。『アクア』は、自分の中の創作のフルマックスの限界であり、10代くらいまでのことを全部書き出して、これ以上は言葉が出てこないところまで突きつめたと思う。お土地柄か、アートと本と音楽の形にできて、幸せな手応えも感じている。小説の文字数は、1冊10万文字で、12万文字程度の余裕が必要らしい。原稿用紙に印刷して、保存しておいて、ある程度の年数で、処分した。まだ、身内が保管している可能性もないとは言えないが、ケンイチの中では無くなってしまった原稿だ。まあ、日記風スタイルで、そのあとのことで、続けていればいいだけかもしれないが。作家レベルでも、初作品というのは、おうおうにして、才能の片鱗だけでの開花に終わらせないために、なくなってしまうらしい。2冊目を読むと、小説を書いていたみたいだ。書籍化という本の1冊目の初版を、是非無くさないでという諸注意かもしれない。今ある手元の資料の中でのプライオリティー。優先させるべきである映画を観た。放射能除去装置が出てきた開局何十年目かののメモリアル作品だった。もう情報通達で、メディアで、放射能で騒がなくなったかもしれない。いくつかの小説投稿サイトでアップして、どれも60近くのアクセス数だった。作家ポーズで、芥川龍之介も太宰治もマネした夏目漱石の下アゴに手を当てる作家ポーズをしただけで、能力開眼だったらなぁと思った。分量は、小説1冊が10万文字で、分量から合わせてみたらアドバイスされて、その次の文体は、どうにか難しい言葉に、ストーリーで大幅改変の、ほとんど1からになりそうだった。文章作成術の活字で完全版になるまで、起承転結を先に教えたストーリー訂正は後だった。5W1Hから全て書き出す。いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、誰と(WHO)、何を(WHAT)、どうして(WHY)、どのように(HOW)、したか。その内容だけでの短編小説の長さの原稿用紙20枚で、付帯状況で、色も付け加えると、400字の原稿用紙190枚に倍増した。心理描写を情景描写に託していたのだろう。Jポップという音楽の完成形で、文学で拡張するなと、結果が出てこないか、5分間で聴ける音楽だった。言葉を頼りにしたメロディーじゃ無くなった音楽業界は、本能むき出しだったら、必ずロジックが必要になる時期が用意もあった。創作方法は、自身の体験談で、小説が1冊書けたら、かなりの上出来な方で、題材が無くなった2冊目以降は、CDアルバムの5分間で12曲あまりの歌詞の1時間を、400字詰め原稿用紙300枚の長さにする、他人の領域に入っていくのだろう。文章をためておいて、ある日、つながるらしい。文体で一番盛り上がった生気が抜けたかのような文体で、美大出のスケッチのテクを駆使していたようだ。花の世界大学文学部仏文科卒業の文章が、小学校高学年くらいの賢い説明できる文章の印象だった。本業のは3桁の値段ではなかった文章力だと思う。心情表現の映像化の課題において、ナレーション付きのアップで何度も迫る『ジューンブライド大作戦』と理論的なのも映画で観た極東大学の最盛期なのであろう。映画も把握の夢クオリティーがあって、作家が全編でも心情表現を多用してもオーケーになったそれまでの風景描写に託す表現内容の解析が捗ると思う。どの出版社でも出る小説は、出版社別の内容を細かい人は気にするのだろう。ストップしている読書量だ。もう、本はたぶん、読まないと思う。映像配信に切り替えだと思う。現代小説のフォーマットが読み取れてしまった、その類型としての提示しかできないように思う。訳者の業績だと思う。読者たちは、これほど有名性を勝ち得た翻訳書物を知らない。現代生活様式を小説のフォーマットにすることに成功した書物で、小説は、これだけ読めば派が多いらしい。読めば、文章力が格段にアップした極東大学の出身であった。もっとも、ご入学ありきだと思われる世代である。300ページ以上の本を執筆されていた極東文学の本命である作家も、定期的な文学活動に勤しんでいるみたいだ。6年ぶりの新作発表で、原稿用紙1200枚という情報もあった。1年間で200枚の原稿用紙という、必ず売れる読者層を獲得する当てがある話である。おそらく、極東大学系統以外は情報網が分からない新鮮味というのが、ヒットする理由であると思う日記が出回っているらしい。なりすましの方は、本当に出版社が採用したみたいだ。ネット関連で絵文字が出てから、それを使用しない文章表現は虚構の感じがしたりする。日記スタイルの私小説系だった場合は他の人たちは出番がないと思えて、ある程度のフィクションに見える作家を読者は選んでいるみたいだ。単行本という2000万文字の中から泣く泣く15万文字を選出で、ほとんど意味が伝わらないようにという脱落組の向かう先が、15万文字チョイス感覚の人たちを、一斉にやめさせる動きが出てきた。5W1Hと付帯状況を全部書き出した文字数であるらしい。ドラマ関連のW次野が、出版界のことを言っているのかと思った。芸名として、揃えることができる特殊な業界で、どちらが秀でているアドバンテージなのか、よく判別できないところもある。初期の代表作をみると、両者の内容によるものだと思う。大学生活の手引き書みたいなつくりになっていると思う思春期のはっきりとしない感覚を捉えた文体という、読み終えたあとに、その物語の主人公が犯罪に手を染める雰囲気すらある。コラボみたいなポップなのが出ていた時もあり、その後本のタイトルをみると、侵食している感じた。この日記を印刷した本にするかどうかという、どちらかというスペースの問題になったら、今まで作った本を優先すると思うし、活字だけの200ページ以上の本というのも、まだ、そこまで魅力的に感じてないと思う。写真付きの活字の本があるという、ちゅこたんをはじめとするブログ本は、センセーショナルだったと思う。 活字だけの200ページの本にも到達できなくて、背表紙にタイトルと名前が入っている本くらいまでのページ数の分量しか、やはり作れないと思う。日記に書くことがなくなった。あとは、場当たり的な記述になると思う。中年男性の哀愁キーワードが今あって、ノスタルジーという枠組みの中での読んで面白い箇所を指摘できる数少ない作家の1人で、心情文では受賞できなかったのに、ライターで、出版社の社長の名前である賞を調べただけで、極東大学のノミネート作家である。最年少受賞でも極東大学文学部出身であると公言している。読んでいて、読んだか定かではない記憶だと思う名前を連発した作品で、小説に固有名詞を出すかどうか、年代を特定できる手がかりという成立した年代が、本に出版した日付けが必ず入って、創作自体の内容の時系列が作者からみた印象という特定しない読み方も古典文学で年代を特定できる人だった。固有名詞が出てこないメディアコンテンツを探しても、作家活動の音楽しかなかった。気になったのを、全部ぶち込めて、本の分量になったつなげるピースなのだろう。本の分量と文体になっている一番レベルが高いのである。文學界は文壇じゃないマンガからも募って、文体で、原稿用紙50枚でも、ほぼ映画のためのシナリオ活動とのことだった。ダブりの感覚を問われているレベルで、芸能に満たないレベルが、なんとか文芸の方にという時代背景があったのだろう。シリーズものの作者のところに、原稿を頼みに行くわけで、単行本の作者のところに行く感じで、 先生にお願いしていた時代の称号だった。映画を廃止にしたけど、ほぼできないことらしくて、テレビ断ちはできるみたい。生き方で、映画を3作作って、あとはじっとしているらしい有名すぎた悲劇か結論が出た。スペアを買う癖で、2、3個余分に、家族持ちの秘訣か、ベーシックから外れない根拠もあっ た。ちゅこたん検索でアプローチして、おそらく、顔を入れ替えた親戚では という感じだった。ニセモノの見分け方で、同じなんですよというネット解説が出始めたらしい。映像配信を観ても、機械に負担で、3、4日は 復旧できない感じだった。ディレイドが本格的に乗り出してくれた。人工知能のテリトリーらしい。気にして表現してる人 たちのところには魅力を感じない時代だったはずが逆転かも。活字で出ていた本ってリサーチで、出版社じゃないか確認する人種じゃない読者層のキャッチコピーを思い出した。知覚できない表現のカクタルで、サブカルでもできた感覚の動物たちの世界とのチューニングも含むのだろう。ノミネート以前の問題で、完成した作品を用意しているかどうかの作家の姿勢なのだろう。表現と原罪で、表現すると、トラブルが発生してくる領域が出てきて、原罪と言われる人間関係が、ほとんど出てこない領域まで高めないと、と出てきた。避けられない領域なのだろう。見返りを求めるかのような誰かに見せるようなレベルだと、お咎めがある気がしてきた。15年かけて、やっと本を1冊完成させた。メモリアルとして、2月の誕生月の日記を記してみた。2月が、28日と、やや短いのも三日坊主体質にとって、手助けとなった。小学校の幼い頃から原稿用紙1枚も文字数を埋めるのを書けなくて苦戦していたのに比べると、200ページ近くの1冊の活字本ができて、めでたい持ち運びとなった。都心は、出版社が多く、本ができて、大手を振るって、街を歩けるような気分さえする。難解に受け止める言葉もあってか、日記という手法を、なかなか思いつかなかった。生むが易しで、表現を優先させてから代表作の選定をした方がいいみたいだ。きっと日記を書いている上で創作の余地が生まれるのだろう。1ヶ月近くで、これ相当の分量になると、みんながすると、大変な膨大なデータになるのだろう。本は、文字数だけ揃えれば、なんとか体裁を整えられそうな気もする。段落は意味を区切る役割もあって、逆接ではない順接の文章では段落しなくてもいいと出てきた。賞のノミネートを目指して、文体に凝っても、読みにくいだけの文章になる落ち度があるはずだ。固定の読者数は2桁にも満たないけど、充実している。テコ入れは別次元で、表現の細かさらしい。紙を大きくすると細かい表現もできると手品みたいなことだった。完全版のストーリーを目指した完成度の鑑みた観点から、読者に気苦労をかけるだけの点も考慮して、「ワンビート!ザッツ・クーリッシュ・ジャパン!!」と出てきた、にち歌『ありがとう』あーちゃんの3分間くらいの方を、ネットにSNSを含めて残した。おそらく、大日本宝島歌劇団の大宝は、大宇宙宝塚歌劇団も連想できない森羅万象のコードになっていた。ラノベ『アクア』あーちゃんは、特撮以前の形態である手法の『宇宙大洪水』ストーリーで日常系にもできる布陣から来るものだった。
ケンイチは、にち歌『ありがとう』の歌も作れた。歌を作ってみて、「ありがとうございます」という感謝が、心を満たす境地という到達点になった。にち歌『感謝』自体は、若い子たちによる讃美歌のようなSポップを一番聴いていた影響もあると思う。「今日もありがとうございます 毎日ありがとう」のメロディーが思いついて、歌詞に呼応するような42秒の歌詞だが、最初に作っていて、気に入って残していた。以前つくったふわりの部分が、そんなに良くない感じだったけど、女の感じから男の感じになって、マシになった感じがした。空にいる鳥の目線の歌詞を入れ替えて、ふわりの部分になった。フランス詩人が、現実味帯びてしまった感覚の歌詞で、異性の女性だった歌詞の以前よりかは、許容範囲内だった。崇高な感じにはならないと思うけど、かえって、ヒドくもならなかった。文字は、解釈によって、かなり印象が変わって、どうにでも受け取れる確証がつかめない危なくない表現形式だとも思った。予行を立てて、現実化するサイン、及び、シグナルに過ぎないとも。今回、現代バージョンの歌詞ができて、にち歌『ありがとう』だけが代表作となりそうだ。3分近くの曲のメロディーの長さになった。これ以上の長さは、耐性が無さそうに感じた。また、にち歌『ありがとう』の楽曲自体は、打ち上げ花火のような印象も受けた和物の旋律をやや感じさせる印象だった。音楽を作る課題が、500曲を超えるヒット曲メロディーのレパートリーを所持する音楽業界全体にありそうだと思った。変調を聴いていて知っていて、王道のメロディーみたいな音楽を作るのは至難の技であろう。楽器のメロディーの上に歌を歌うまでの上回る声量がなくて、"よく声が通る"という楽器の音の中にボーカル用の声が通る音の塞がりをしないようにするハーモニーという演奏ありきであるらしい。やっと、ちゅこたんなど、ボイトレも兼ねて、楽器の音を上回る声量の人材が現れてきているらしい。やぶさかであるが、ツンデレといった感じの、にち歌『ありがとう』の作品全体としては、仮装の範囲内にとどめる演劇の手法を用いた歌詞の構成であり、ハナ歌混じりの最低レベルの音楽形態という思いがあるが、やっと自分で納得のいく音楽作品となった。完璧な演奏による歌い方は、誰かに任せる必要がある自分の限界だと思った。プロじゃないので、スペースの問題で、音楽で保管するのは、にち歌『ありがとう』1曲が限界であろう。映画とゲームじゃない、アートと本と歌と、ひとりでも作ることができるコンテンツの中で、『メイドケイ』『水の中の宇宙』『サン・ロード』などの自分のアート作品は個展の作品数である35点近くを一番保管して、だいぶ難航した本も自分の活字本をデジタル版と『アクア』1冊を保管しておこうと思う。
それぞれの表現形態のポイントは、アートの題材と、本のストーリーと、音楽のメロディーである。アートは、題材を優先して、東京である『東京キャッスル』と、日本である日本一の『富士山』と、世界である『地球』と、宇宙である『太陽』と『月』なのであろう。画風がなくては作風がなくてはというジレンマは、みんなと同じものでのピックアップでもに、だんだんと薄れていった。『東京キャッスル』に東京と日本と世界と宇宙の全ての要素を内包して、太陽系の惑星の数が符号していた。『スター』あーちゃんは、西洋人が星に託している抱えているものが解き放たれそうでな評なのだろう。本は、ストーリーになっているかどうか、毎日の日記で膨大な量は残せないわけで、ストーリーの点と線を結ぶキーワードで、はっきりとしない方がいい場合もあるが、情報の占有と知らせたい場合による個人的なものなのか集団的なものなのかの線引きも集団的なものを複数の人たちが用意した中で選ばれる熾烈さを感じた。内容は同じジャンル分けの名前の『ら』があるラノベという申し出だった。音楽は、メロディーの集合体かどうか、楽器での音作りと、できない場合も載せるなのか、演奏技術の伴奏能力ありきと、和音のメロディーが無尽蔵で差別化するような録音はしたくないと特に太鼓の人が主張していた。イニシャルAのアートで、余興の本と音楽だが、フォトアルバムが限度で、音源は残らないと、更新に手間がかかり、まだ歴史が始まりの方であった。アイテムは、本と万年筆の作家がいて、音楽とマイクの歌手もいて、映画とメガホンの監督もいた。活字の文庫本と音楽のヘッドホンと映画のチケットであろう。活字の本と万年筆の作家がいて、音楽とマイクの歌手もいて、映画とカメラとモニターで応援する黄色いメガホンの監督がいるユーザーも、活字の文庫本と、音楽のヘッドホンと、映画のスクリーンでチケットがあった。画家はアートの筆と、ゲームのコントローラーがアイテムだった。全部まとめられて、機材が携帯用デバイスの性能と一致すると、ディレイドが素材をスマッシュアップできるらしいジャケ写の写真だけを撮る人たちもいた。
あーちゃんとしてのアーティストに満たないアーティアンのアート作品があり、"にち歌"という日本の日常の歌という、五大都市のニューヨーク・ロサンゼルス・東京・ロンドン・パリの海外含みで難航するので、Sポップのことは任せた状態だ。日本の日常の歌である"にち歌"というハナ歌を交えた最低レベルの音楽形態をとっている。
にち歌『ありがとう』
(前奏)
雲ひとつない
晴れ渡る天気に
ご来光
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
まっすぐで正直な気持ち受け止めました
いつも行く道で
素晴らしい出会いがありまして
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
(間奏)
鳥とともに
憧れを超え
胸に秘し思い放ち
七色の虹を渡れば
はるかな期待とともに
森にいた時をめぐり
よろこびを手にして
思いくぐらせれば
はるかかなたに夢は翔ぶ
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
まっすぐで正直な気持ち受け止めました
いつも行く道で
素晴らしい出会いがありまして
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
あなたに会うだけで
励みをもらいます
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
(間奏)
雲ひとつない
天高く
舞い上がる
鳥たちよ
いつか翔び立つ日を夢見て
還りを待つ ひな鳥よ
たなびく雲に惑わされず
日々を過ごせば
必ず報われる日が来るだろう
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
まっすぐで正直な気持ち受け止めました
いつも行く道で
素晴らしい出会いがありまして
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
あなたに会うだけで
励みをもらいます
今日も ありがとうございます
毎日 ありがとう
今日も ありがとうございます
毎年 ありがとう
(終奏)
アクア あーちゃん @0223akira
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