夕刻
鈴ノ木 鈴ノ子
ゆうこく
「五時のニュースをお伝えします。東京地検特捜部は…」
夕方五時のニュースに耳を傾けながら、梨沙はキッチンで夕飯の準備を始めた。今日のメニューは彼の大好きなカレーで誕生日と言う特別な日のお祝いに欠かすことのできないものだ。
アナウンサーの落ち着きある抑揚に耳を澄ませながら、ニュースの内容を一言一句聞き漏らさぬように気をつけて料理を作ってゆく。
「以上、今日のニュースをお伝えしました。続きまして地域のニュースです…」
やがてニュースが終わり、歌謡曲の歌番組へと移り変わると、口元を窄めてふぅと安堵のため息を吐く。
「何事もなかった…」
加齢と仕事でひび割れた指先を見つめて、そう一言吐き出した。近くにできたサービスエリアの食堂でアルバイトを始めてから、手指の肌荒れは一向に良くならずにいる。薬は貰っているけれど、付け焼き刃のような状態であった。
「たたいま、梨沙。今、帰ったよ」
玄関の扉の開く音がいつも通りに聞こえてくると、愛しい声が聞こえて来た。
「おかえりなさい。カレーを作るから、先にお風呂に入ってきて」
「わかった」
同棲している彼は和かに笑ってから、梨沙の柔らかく小さな皺が少し目立つ頬に口付けをして、安堵していることと愛情を伝えたのち、工場勤めで油汚れ塗れたの作業着姿で脱衣所へと向かって行った。
毎日、五時のニュースを聞き終わり、やがて彼を出迎える生活をもう8年以上も続けている。
18年前まで梨沙は住まいから遠く離れた県で若い塾講師として働いていて、彼は大学進学を目指して通学する高校生だった。些細なことで彼と知り合い、年甲斐もなく互いに恋に落ちた。後ろ指を指されるくらいの年齢差と常識外れの行い、彼からの思いを受け入れてしまえば、元々の情の深い性格故に水底深きまでに愛してしまった。
そしてそれは一つの想いとして結実し、常識の海へと落果して、異端の種を常識の上に芽吹かせた。やがて黒い茎葉の先に罪と言う一文字の狂花を咲かせるとも知らずに。
横恋慕した女学生が彼に擦り寄り、その気がないと分かるや、嫉妬のあまり梨沙に刃をむけたのだ。揉み合いの末、刃は振り上げた者の命を奪った。その行為にいくら正当防衛を主張したとしても2人の関係性に対して世間は甘くはない。
片割れは咎人として、片割れは罪人として爪弾きにされたのだ。
事実の罪より倫理の罪を大罪として。
刑期を終えた梨沙は、この人の住まなくなった集落の空き家に逃げ込むようにして暮らし始めた。すべてから見放され、細々と隠遁するような生活を始めて3ヶ月後、夕方五時の防災行政無線から流れ来る音楽を縁側で聞いていた時だった。
「梨沙」
懐かしい優しいあの声が名を呼んだ。
利発そうな顔や髪は鳴りを顰め、屍のような青白い顔をした彼、再び目の前に現れた彼は額を地面に擦り付け、只々、詫びの言葉を命を賭すかのように吐き続けた。愛おしさは忘れることなく、再び篝火を焚くかの如くにゆらゆらとすれば、元に戻るのに時間をかける必要などなかった。
失ったものばかりであったから、失いようがないものに互いに縋るようにして、日々を過ごしてゆく。
1日の終わりの五時のニュースに耳を傾け2人に関係ないことに安堵し、彼の帰りをいつも通りに迎えて安堵し、夕食の後に身を寄せ合って安堵して眠りへとつく。
夕方五時のリズムで流れ来る「遠き山に日は落ちて」のような、穏やかな安寧を得るために。
夕刻 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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