第1話

 まだ肌寒い三月の朝。朝が苦手な私にとって、この時間は戦闘準備だった。これから社会に溶け込む時間までのカウントダウンが始まるのを冴えきらない頭で何とか理解し、カフェインを流し込む。RPGのポーションみたいだとどこか馬鹿げたことを考えていると、いつも決まった声が容赦なく現実に戻そうとする。

 フローリングを歩くぺたぺたとした足音。

きた。

 「ねえみて、パキラ、まだ元気ないの」

起き出してすぐ、傍目で見てもすぐに分かるぶにぶにの腐った幹にこれでもかと水を浴びせて、頑張れ、などと呟いている母に、おはようと声をかける。先程の流れを戦闘準備とするならば、これは私のチュートリアルのような、いつもの通過点だった。

「パパも相変わらずだし」

母は続ける。

「ガジュマルは元気なのにね」

南国の植物だというガジュマルは、神奈川の片田舎でも必死に枝を伸ばし、キラキラと輝いている。背景の青空が見事に似合う快活さは、母と重なっているように見えた。しかしそれは、

「ねえ、きいてる?」

ふと、目が合う。

 「うん、きいてるよ。まだ寝ぼけてて」

パパみたいになっちゃうよ、の一言を笑って受け流す。ちくり、ちくりとまた刺さる、私宛ではないはずの棘をなんとか抜き取る。

 父は元々、仕事熱心な人間だった。人に感謝され、頼られ、自分も優しく接する、それらに重きをおいており、給与の額なんていうのは、結婚してから気にするようになったと笑っていた。そんな父がうつ病を患い、休職するに至ったのは、母にとって青天の霹靂だったらしく、未だどこか現実的に考えられていない節がある。

 人は、結局自分の目線でしか物事を図れない。それは悲観でも恨み言でもなく、ただの事実だった。

 うつ病は甘えだと父に説く姿と、枯れずにもっとガジュマルのようになれと喝を入れる姿が重なる。こんな時私は、咄嗟に逃げ出したくなってしまう。自分に言われているわけでもないのに、肌を這うような不快感が駆け巡り、頭に血が上り、そしてすぐにどうでも良くなってしまう。本当は、いきなり思い立ったわけじゃないのだろうに。小さなコップに、一滴ずつ感情を溜めていって、容量を超えても表面張力を駆使し耐え忍び、それでも最後に零れてしまった一滴が、今の状態だというのに。

 コトンと音を立ててコーヒーを置く。波紋が広がり、黒い液体の中に微妙な表情をした私がうつる。彼女は知らないのだ、人と話すことに、歩くことに、飲み物を飲むことに、いっそ呼吸をすることにだって全力をかけないとままならない人間がいるってことを。それによってどれだけ傷つけられても尚、自分だけでも人に優しくありたいと願う優しさを。

 そこで、不意にパキラと目が合った気がした。高さ十センチに満たない苗は、確かに不格好ではあるものの、纏う空気が穏やかだった。本当は立つのもやっとなはずなのに、期待に答えようと必死に生きている。

 生きたい人に死を選ばせることと、死にたい人に生を選ばせること、果たして何が違うのだろうか?

 私は死が良い事だとは思わない。同様に、生きることが良い事とも思わない。

それでも優しすぎるパキラたちは、あなたがそう言うのならと懸命に生き続けている。もう少しすれば結局朽ちて死んでいけると分かっているからか、もしくは自分の死を惜しんでくれる存在へのせめてもの手向けか。

 こんな事をぐるぐると考えていると、そう難しく考えなくても、なんて笑われる。年端もいかない頃は誰彼構わず話していたけれど、時と共に、この考えはおかしくて、理解されないものなんだと分かるようになった。

しかしそんなおかしな考えを共有できる人間が、少なからずとも身近にいるというのも知っていた。そこから更に歳を重ねて、直感的にこの人は同類、この人はちがう、と分かるようになっていって、そしてそれは九割九部の正解率を誇っていた。

 もうすぐ父が死ぬ。異端な人間ほど、異端な人間に敏感だというのは、こういうことなのかもしれない。予感のようなそれは、最早確信に変わっていた。

 それによってうまれた、この沸き立つ様な不安と後悔は、実父が死ぬことによるものなのか、数少ない同類が減ってしまう悲しみなのか、私は結局答えが出せないままでいた。

 もうすぐ四月、世の中が慌ただしくなる時期。暑いのは苦手だけれど、みんながみんな不安そうな顔をしている雰囲気は、私を誤魔化してくれるようで好きだった。

 もうすぐ四月、まだ四月。

私は私の事すらよく分からないけれど、今日を耐え凌ぐ為に天気を調べている。

毎日そうして、生きていた。

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パキラ 午前 @oda-0000

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