パキラ

午前

プロローグ

珈琲の香りが鼻を擽る。港町の一角にあるその喫茶店は、社会の喧騒から身を隠したい時にうってつけの場所だった。

一日に二十四回鐘がなる時計の、十一回目に席につき、十三回目がなる少し前に店を出る。隠れ家的と呼べるその店は、どこまでもただそこにあるだけで、人々の心に寄り添っていた。その日来店した私は小さな文庫本を読み進め、途中意識が逸れると意味もなくカーテン越しの光を眺めてみたりもした。すると、丁度目を見やったタイミングで雨が降り出している。ああ、今日は失敗だなあ、などと、誰に聞かせるでもないため息をつき、奇しくも通された席の向かい側を見る。そこには小さなショルダーバッグが鎮座しているだけで、私以外の人はいない。

「すみません、お勘定お願い致します」

カウンター席の奥側から気の良さそうな声が返ってくる。

思えば退店するだけの事に覚悟を決めたような顔をした素っ頓狂な人間を笑わずにいてくれてありがとう、そう伝えたいと、今になって心から思う。

その勢いを受けて乗った快特列車は、静かな音を立てて住宅街を走り抜ける。ガラガラの車内で、人は疎ら。雨の音は一層強さを増すばかりで、それが自分を責め立てているような錯覚を覚える。これではいけない、と、思考を無理やり追い払うようにして、これからの道順を頭でなぞる。細かいことは、ついたあと決めればいい。つぎに窓の向こうに目を向けた。水滴が互いを見つけ、喜ばしいとばかりに速度をあげて、しかし最後には地に落ちてしまう。それまでの一瞬を、ただじいっと、食い入るように見ていた。しかしそうしているだけでも案外時間は経つもので、乗客は一人また一人と増えていく。杖を持った老人、大きなキーホルダーをつけた高校生、声の大きさを窘めながらも笑う親子連れ。私の人生に限った話ならば、恐らく名前もつけられていない役柄だろう。けれど彼らにも、それぞれの考えがあり、人生がある。時折私はそれがとてつもなく怖い事のように感じる。不気味で、おぞましく、肝が冷える様な思いになる。それでも私は成る可く彼らにとって印象に残らない背景であるよう努めるだけ。ああ、既にあの珈琲が恋しい。然しそれではいけないのだ。私は博愛でありたい、全ての人を、背景なりに寄り添って、愛してあげたい。本当はそんな事、無理だと分かっている。それでも諦めきれないのはきっと、そうされたことで救われたいつかの自分への労いに違いなかった。けれど一方で、自分はそういった在り方を嫌っている。何故ならば、そうした生き方はいずれ当人を壊し、矢面に立たされ、裏切られて、死に至る。過程がどうであろうと、行き着く先はきっと同じだ。過度なそれは最早優しさなどでなく、ただのエゴであり傲慢。そう思うのは事実でも、私にはそう在ろうとする理由があった。単純な知的好奇心、それから恩人への憧れ、一滴の劣等感。綯い交ぜにした鍋の中はとうにどす黒く染まっていて、戻れないところまで来てしまった。

彼の人が笑う。今この世にはいない彼の人が。困ったように眉をさげ、下手くそな笑顔で私を見ていた。まだ戻れるんだから、引き返した方がいい、そう口にして。

私は願い下げだと思った。どこか線を引いたようなそいつを、一人にさせてたまるかと思った。

人は二度死ぬ、なんて、どこかで聞いたような言葉を思い出す。肉体的な死と、人に忘れられる、即ち概念としての死。愚かにも一度目を許してしまった私には、引かれた線を無遠慮に飛び越えて、一言文句をいってやる権利がある。端的言えば、簡単には死ねない呪いを私にかけて死んでいった彼の人に対しての意趣返しだ。遂に死んでしまった死にたがりが、もう一度死なないために。その為に、この悲しみを、後悔を、もう一度この身に刻みつけてやる。そのために今、私は列車に乗ったのだ。思い通りにはさせてやらない。私は人を愛して、どこまでも優しく、何もかも忘れない。


「鏡一帯の部屋の中で、そこで漸く、自分も化け物に過ぎない事に気づくんだ。父さんはもうそこまで来てしまったけれど、これは他の誰にも理解されない方がいい。最期は朽ちるのを待つだけになるから」

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