夕方五時のリズム

卯月二一

夕方五時のリズム

 年が明けた一月のある日。高校の地獄のテスト週間を生き抜いた私は重い足取りで帰宅の途につく。


「はあ、帰りたくない……」


 出るのはため息ばかりなり。決して試験のできが悪くて凹んでいるわけではない。数学も物理も思ったより上手くいった気さえしているのだ。地方都市のすみっこに私の家はある。街なかに比べれば空はずいぶん広い。『はあ……』。雲一つ無く、朱く色づいていく綺麗なそれを眺めながらもうひとつため息をついた。


 兄が東京での仕事を辞めて実家に戻ってきたのだ。兄が嫌いというわけではない。どちらかと言えば幼い頃から仲良し兄妹である。年が離れていることもあって随分可愛がってもらった。たくさん遊んでもらったし、勉強もいっぱい教えてもらった。旧帝大なる私なんかでは逆立ちしたって入れない大学を卒業して一流IT企業に就職。自慢の兄だった。そう過去形である。何があったのかは知らないけど、ずいぶんストレスを抱えた生活を送っていたようだ。


「ああ、やっぱり……」


 実家の二階にあるベランダに兄の姿を確認する。ちょうど私が帰宅する夕方五時ごろ、彼は【宇宙との交信】を始めるのだ。


 できの悪いブレイクダンスのようなそれは、何かの動画サイトで観たMVに登場する少年のダンスを思い起こさせる。あの少年のほうが百万倍上手なのは間違いないのだけど……。兄の奇行はすでにご近所さんの周知するところで、両親はもうすでに諦めた様子であり参ってしまっている。二人とも病気になってしまわないか本気で心配だ。


 一心不乱に踊る兄の姿を見上げながら玄関の扉を開ける。唯一兄が帰ってきて毎日ご機嫌なウェルシュ・コーギーの五郎丸が私を出迎えてくれた。両親はまだ帰宅していないようだ。私は今日も覚悟を決めて階段を上がっていく。五郎丸もついてくる。


 大きく息を吸って兄の部屋の扉を勢いよく開け、本やよくわからない資料で足の踏み場もない床の上をお構いなしに進む。


「お兄ちゃん、止めてよって言ったよね!」


 ベランダで踊り続ける兄の背中に怒鳴りつけた。


「ああ、アカリか。お帰り」


 腕をくねくねと変な動きをさせたまま踊り続ける兄は気の抜けた声でそう言った。


「お帰りじゃないわよ!」


「ん? 荒ぶってるな。もしかして我が妹もこの時間帯の世界の変化に気づけるようになったのか」


「はあ? 意味わかんないし」


「ふむ。これは無自覚で覚醒したということか……。さすがは我が妹、兄は嬉しいぞ」


 まただ……。これはわざとなのか、気づけばいつも兄のペースに引きずり込まれてしまう。


「お兄ちゃ……」


「逢魔時、アカリも聞いたことはあるだろう」


「オウマガトキ?」


「かの柳田国男氏によれば、この言葉と同じ意味の方言がとある県に存在するらしい。僕は先日その地域を訪れたんだ」


「ん?」


「それは人里離れた場所でね。巫女、そうは言っても九十歳をこえたレディだったんだが、彼女から驚くべきこの世の真実を知らされたんだよ」


 いやいやお兄ちゃん、あんた帰ってきてからずっと部屋に引きこもってたんじゃ……。五郎丸は兄を見上げて熱心に聞いている。


「何よ、真実って」


 ここは兄の妄想につきあいながら、その論理の矛盾をつこうと頭を切り替える。


「今は一月。ちょうど夕方五時のこのあたりで日が沈む。魔に逢う時で逢魔が時。夕方の夜へと移り変わる時刻、暗くなりはじめて相手の顔が認識しづらくなるこの時に魔物に遭遇するのではないかと昔の人々は恐れたんだ。もちろん僕もそんなファンタジーなことは信じちゃいないよ。でもね、僕は子どものころから夕食前のこの時間、世界の空気が変質するのを感じていたんだ。子どもが学校から大人が会社から、もちろんすべての人が同じ時間に従って生きているわけじゃないこともわかってるけど、いろんな縛りから解き放たれたこの時間、人は無防備になるんだ。魂の意味で」


 兄は相変わらず変な踊りをしながら私に話している。まったく話が見えない。


「そこを連中は狙ってるんだよ」


「連中?」


「そう、彼らだよ」


「宇宙人?」


「いや、そうじゃない。もっと恐ろしいナニカだ。宇宙人にはこの交信を通じて連中から人類を守ってもらってるんだ」


「はあ?」


 ダメだ。これ以上の不毛な会話に意味を見いだせない。


「もう、頭にきた!」


「お、おい。やめろ! 世界の安寧が損なわれるじゃ……」


 お兄ちゃんの腕を勢いよくひっぱり部屋の中に引きずり込んだ。バランスを崩して倒れ込んでしまった。


「あっ!」


 お、お兄ちゃんの顔が近い。この無駄にイケメンな……。


 突然、スマホから不快な音が鳴り響く。


「Jアラートだ」


 兄が呟く。咄嗟に画面を見ると『ミサイル発射。ミサイル発射。ミサイルが発射されたものとみられます。建物の中、又は地下に避難してください。』の文字。


 そして巨大な爆発音。つづく爆風で窓ガラスが割れる。


 またひとつこの世界に新たな火種が生まれた瞬間だった。


「な、アカリ。そういうことだ」

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夕方五時のリズム 卯月二一 @uduki21uduki

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