第6話 コメディー要素がなければラブコメではなくね?

 その日の夜。


 俺は自室で『道徳の系譜』と必死に格闘していた。だって借りちゃったんだもん、ニーチェ。読むしかないじゃん。

 目の前の活字を懸命に追うものの、三行前の文さえ記憶から抜けていく。もはや読書というより目の運動である。しかもこの本、ほんのり新名さんの香りがして、否が応でも彼女の可愛すぎる上目遣いが脳裏をよぎるし……集中力が続くわけがない。



 だが、ある個所で俺の目はぱっと止まった。

 

 ──ルサンチマン──


 それは単なる文字の集合の中から、言葉が浮かび上がってくるような体験だった。

 ニーチェは説明する。それは強者に対する弱者の嫉妬の感情である、と。かつて弱い人間は強い人間を『悪人』として定義し、自分たちをその反対概念の『善人』とした。これこそが弱者の強者に対する想像上の復讐であり、道徳の正体なのだ。



 ……ドキリとした。まるでずっと目を背けてきた汚い感情を、突然に暴露されたような。


 俺は決して良い人間ではない。けれど道徳に従ってきたと思う。

 だがそんな俺に対して、ニーチェは改めて問い直すのだ。それは己が正しい人間だったからなのか。人にばれなければと不正を行なったことはなかったか。あるいは道徳を盾に他人を攻撃したことはなかったか……。


 そんな悶々とした気持ちを抱えつつ、12時を回った時計に目をやり、そしてベッドに飛び込んだのだった──。


※※※


 翌日。


「おはよう。新名さん」

「……あぃださん。おふぁようございます」


 登校するした俺は、すぐに新名さんに声をかけた。借りた本は早めに返さないと忘れちゃうからね!

 だが今朝の彼女はやや眠そうだ。呂律があまり回っていないし、目も7割ほどしか開いていない。


「新名さん、疲れてる?」

「ふぁい。実は昨日、遅くまで動画を見てしまったので、少し寝不足なんです……」


 口元を隠しつつ、小さくあくびをする。新名さんもネットサーフィンで夜更かしとかするんだ。難しい本をずっと読んでるイメージだったわ。ほんの少しだけ親近感。


「新名さんってどんな動画見るの?」

「いろいろありますが……昨日はずっとゴマフアザラシに夢中でした」

「へぇ、ゴマフアザラシ好きなんだ」

「はい! 水を蹴ってすーっと進むのが気持ちよくて、つい時間を忘れて夢中になってしまうんですよね。たまにカメラの方に顔を向けてくれるのもすごくかわいいんですよ」


 まるで幼い子どものように、頬を緩ませながら嬉しそうに話す新名さん。油断すると簡単に惚れてしまうので気が抜けない。


「す、すみません。また私ばかり……」

「いや、大丈夫」


 むしろ陰キャからすると、相手がたくさん話してくれる方がとてもありがたいのである。

 ……おい聞いてるか、陰キャと2人になると急に黙る自称陽キャたち! 陽キャ名乗りたいなら相手が誰だろうと会話を繋げよ。まじ気まずいんだけど〜(笑)──じゃねえよ! おめーが喋んねーからだよ連帯責任だろ俺のせいにすんな。


「どうかしました……?」

「ううん、なんでもない。ところでこれ、返すわ」


 俺は彼女に、昨夜開いたあの本を手渡した。もちろん、彼女の手に触れないよう、細心の注意を払いながら。


「ありがとうございます。……読んで、いただけました?」


 読んだかと問われると、読んだと答えられるレベルでは到底ない。目は滑っていたし、内容も9割以上頭から抜けている。

 でも──彼女に聞きたいことが、まったくないというわけでもない。


 「えっと……善人と悪人の議論が気になっていていたり……」

「ルサンチマンですね」


 新名さんは落ち着いた声音で言った。俺は首を軽く縦に振る。


「正直、俺が守ってきた道徳は、自由に生きる人への嫉妬だったのかなって、思わされたよ」


 ニーチェが露わにした道徳の負の側面。

 道徳という『価値観』を作り出し、自らが多数派になることで、そうでない人々に対抗する弱者の反逆。それが道徳の正体であると言う。

 この説明に、俺は妙に納得してしまった。そして激しく嫌悪を覚えた。道徳信仰の背後にある、人間の汚さに。そして──


「新名さんも、そうなの……?」


 相田翼を哲学研究部に誘った理由。その回答として、彼女はこの本を提示した。

 で、あるならば。彼女もきっと。


「──私は、人と関わるのが得意じゃないんです」


 新名さんは少し寂しそうな表情を見せながら、ポツリと語り出した。


「多くの人が集まれば、誰かを貶める言葉が生まれます。共通の敵が人々の繋がりを強めていく。まるでニーチェの『弱者』のように……それがどうしても、私は苦しいんです」

 

 その感覚は、俺にはまったく理解ができない。人の不幸は蜜の味──とまでは言わずとも、他所の苦しみは俺にとって所詮他人事だ。

 だけど──新名智愛はきっと優しすぎるのだ。繊細で、だからこそ他人の分まで傷ついてしまう。


「それで私は、哲学研究部を作ったんです。自分の生き方を、自分で決めるために」

「……そっか」

「相田さんも似てるのかなって……思ったりします」


 違う。彼女の期待に、俺は答えられない。

 たしかに、陰キャが集まって慰め合うのはとても惨めで……だからこそ、俺は孤高の陰キャでありたいと願ってきた。


 それでも──彼女との重なりを、俺は認めるわけにはいかない。認めたらどうやっても期待してしまうから。彼女とのラブコメを。


 この世界にはオタクに優しいギャルも実在するけれど、それはオタクに優しいギャルではない。新名さんの特別になれるに足るものを、俺は何も持ってはいないのだ。


「……えっと、また部室でね」

「は、はい」


 ──ラブコメ妄想に期待する陰キャほど、見苦しいものは無いのだから。



参考文献 

・ニーチェ著,中山元訳,2009「道徳の系譜学」光文社

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この世界が謎部活で美少女たちとイチャイチャする王道ラブコメであることを、俺はぜっっっっっっったいに認めません! 薬味たひち @yakumitahichi

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