「で結局、一時間目は何だったの?」  

「図工」

「いいわね、アルテ!」

 隣を歩く少女のツインテールが元気よく弾んだ。

「パドレが芸術品を集めるのが好きでね、小さな頃からそういうの見てきたから、メアリも好きなの、芸術」

「へえ。彫刻?」

 メアリを見上げる。

「絵画?」

 質問を投げかけ、空を見る。良い月だ。

 それを聞いたメアリは得意げに人差し指を立てた。

「ウチに沢山あるのは彫刻ね。至る所に飾ってある」

「お前の実家かあ。ミケランジェロが郵便受けになってそうな勢いだな」

「国を代表する芸術家の作品にそんなことさせないわ!」

「お、流石の愛国心」

「庭の噴水よ」

「それはそれで保存状態が心配」

 会話が広がったのが嬉しかったらしく、彼女の顔は明るい。

「もちろん、絵画もそこらの美術館に負けないくらいあるけど!」

「はは、だろうな」

「食器にも家具にも、部屋の角の埃に至るまで、決して妥協をしないのがパドレだもの」

「埃は捨てた方が良いと思うけどな」

「綺麗好きなの!」

「メアリの骨董集めグセも、お父さんの影響かもな」

「そうかも…ってレイ、パドレは埃を積もらせてるわけじゃないのよ、使用人に自分達がやるから良いと説得されても一人で掃除しちゃうくらいなんだから、ねえ、ちょっと聞いてる?」

 メアリの頰が染まった。活発的な彼女に相応しい顔だ。

 適当に頷きを返す。

 キューをくるくる回した。薄暗い道路を奏でるメアリの靴音に合わせて。

 行きつけのバーまではまだ少しかかる。歩道橋を渡って右手、灯りのない暗い細道を越えた先だ。

「そういえばレイは何を作ったの?」

「今やってるのは陶芸かな。まだ途中」

「ふーん。お皿?」

「花瓶」

「オシャレー。最近の子ってオシャレよね」

「メアリも充分、最近の子に当てはまると思うが」

 電柱に取りつけられた街灯が彼女を照らし出す。一回りも離れていない歳の差のメアリは当然若々しく、服装も相まってどこからどう見ても若者である。

 顔立ちも生活も大人びている彼女とは、自分の感覚は確かに違うのだろう。

 歩道橋を下って、路地に向かう。

 珍しい縦型の信号機がある横断歩道を右折して、もうバーは目の前だ。

「今夜は何を食べようかしら」

「いつものじゃないのか?」

「たまには他のも頼んであげないと、腕が鈍るでしょ?」

「子羊のうんたらだけでよっぽど腕は保つ気がする」

「ボケちゃうわよ、意表を突かなきゃ!」

 そう言ったメアリが不意に、ぴたりと足を止めた。伴っていた私も静止した。

 目を細め、薄々感じていたことを口にする。

「……臭いな」

「ええ、それに何か騒がしいわ」

 鋼鉄が不具合を起こしたような匂い。機械の壊れている気配だ。

「酔っ払いの喧嘩じゃなさそうよ」

 喧騒は夜のタンティ・アウグーリにとっては日常茶飯事だが、どうも様子が違いそうだ。

 メアリを見上げ、アイコンタクトをとる。

「近いぞ」

「そうね、恐らくすぐそこ」

 メアリがヒールを鳴らした。

「行きましょう」

「了解」

 キューをひと撫でしてから、彼女を追う。

 今駆けている舗装路には光源がない。大通りと隣り合っているおかげで、ぼんやりと影が視認できる程度の視界は確保できていた。

 ガード下の岐路まで出る。

 その途端、眩い二つの光が飛び込んできた。

「レイ!」

 メアリが振り返るのとほぼ同時に、私は彼女を脇へと突き飛ばす。

 眼前に迫るこの影の塊が車であると、本能が瞬時に告げていた。

 退がっても間に合わない。

 脳が決断するより早く、身体が動いた。轢かれる寸前に跳び上がって、止まりそうにない車のフロントガラスに、思いきりキューを突き立てる。

 ボンネットに着地した両足を踏ん張って、腹に力を込めた。

「止まれ!」

 私の陰で前方を見られない運転手が、慌てたようにハンドルを切る。

 振り落とそうという魂胆か。

 車体は高架の柱にぶつかって止まったものの、今度はバックして、再び柱にぶつかる。道を逸れた駐車場内で、それを何度も何度も繰り返す。どうやら運転手はパニックに陥ってるようだった。私を落とすのに必死らしい。

 車の動きが読めているならば体勢を整える暇もできる。道に出そうもないし、他の人間に危害が及ぶ心配は今は要らないな。そんなことを考えながら、グリップを握る手に力を込め、フロントガラスの同じ位置に突き刺した。狙いを定めるように。

 今度は容赦しない。

 ゆっくりと弓の弦のごとく引いた肩を、勢いよく前方に突き出す。フェーラル、先角と呼ばれるキューの先端に、全ての力を乗せた。

 ガラスがぴしりと歪むのを、広がっていくヒビで確認する。トドメにひと突きすれば、フロントガラスは凄まじい音を立てて砕け散った。

「車を降りろ。二度は言わない」

 まるで刃の切先を喉元に向ける騎士かのごとく、フェーラルを運転手の眉間に寄せた。数ミリの隙間を空けて、よく狙う。

 運転手の容姿ははっきりとは見えない。

「抵抗するなら、お前の頭蓋骨が粉々になるだけだ。このフロントガラスみたいに」

 舌打ちが聴こえた。

「そうそう、私のキューは戦闘用に改造されてるんだ。特にこのフェーラルは特殊でな。刺突の威力は業物の細剣と同じかそれ以上、使い手によっちゃあ……」

 眉間に突きつけたそれを更に前へ押しやると、皮膚の弾力が感じられた。

「一撃必殺すら可能にする、優秀な殺傷能力を有している」

 憤りを見せていた運転手の荒い呼吸が止まった。慄いているらしかった。

「二度は言わないと言ったはずだ。選べ」

 運転手は観念したようにドアを開けた。そして駐車場に降り立つ。

 一方こちらはボンネットから下りずに、ただ立ち上がり、運転手を見下ろした。

「何故あんな無茶を?」

「……急いでたんだよ」

 バツが悪そうに答えた運転手の声は、予想に反して高かった。女性のようだ。

「迎えに行かなきゃならねんだよ、子供を、保育園にさあ。遅れて延長保育になるとまた金がかかんの!」

「それでこんな事故を起こしたら余計に時間を食うって分かるだろ」

「こんなこと起こるなんて思わねえだろ!」

 石を蹴飛ばした彼女が、何度も地団駄を踏む。

「ああっ、クソッ、イライラする!」

「子供に対してもそんななのか?」

「はあ?」

「そういった振る舞いを、自分の子供の前でもするのか?」

「関係ねえだろそんなこと!」

 彼女の怒りのボルテージがまた一段階上昇したのが分かった。

「つうかどうしてくれんだよコレ、修理代に弁償に、また金がかかる。お前、お前ガキだろ、払えんのかよコレ、ぜってえ払ってもらうからな!」

「いいや、私に支払の義務は生じない」

「飛び出して来たのはそっちだろうが!」

「違う。私たちは飛び出していない。お前の車が凄いスピードで突っ込んで来たんだ。挙句に私の忠告を聞かず、車を暴走させたのはお前だ。そもそも道路において歩行者と車との事故を起こしたのなら、最も重い罪を背負う羽目になるのは車の運転者だ、そんなことくらい分かるだろう、大人なんだから」

「なっ……」

「更に言えば、車は公共の交通区間にある狭路や見通しの悪い交差点に差し掛かる際には必ず速度を落とすのも道交法で定められている義務だ。そもそも今の時間帯はトワイライトゾーンといって暗順応が遅れ、人間の視覚が鈍る。一日で最も交通事故の起こる時間とも言われている。そのため運転には細心の注意を払うべきなんだ。運転免許を取得する過程で必ず学んでいるはず、知らないなどとは言わせない」

「人がいるなんて思わねえだろ!」

「交通事故を起こした人間の多くはその台詞を吐くそうだ」

「ああ、ああ、あああっ!」

 叫んだ彼女が頭を掻きむしった。

「うるせんだよさっきから、いつまでわたしの車に乗ってんだ、とっとと降りろ!」

 全身を暴れさせる彼女はもはやパニックではなくヒステリックを起こしていると言わざるを得ない。

 頭をかくんと上に向け、天を仰ぐ。刻々と、東から紺碧が広がって、西の夕焼けを紫に変えていく空模様はいつもと変わらない。

「交通弱者という言葉を知ってるか」

 彼女を見ているより良いので、空を見つめたまま言った。

「白線の持つ意義を知ってるか」

 ボンネットから跳び降り、タイヤ痕のついた歩道をキューの尻でコンと突く。

「ここ。これが、法における交通弱者の唯一の盾であり、矛だ。それを侵犯したのはお前だ」

「訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ!」

「分かっていないのにハンドルを握っていたなら、遅かれ早かれ事故るだろう。それが今だったというだけで」

「ちょっとー!」

 メアリの声が響く。

「レイ、自転車の人がその車のせいでコケてるわ、ここで倒れてる!」

「介抱してやってくれ!」

「ヴァ・ベーネ!」

 あの調子なら、メアリ本人はピンピンしているとみて間違いないな。

 安堵の息をついてから、女に向き直る。

「罪が増えたな」

「仕方ねえだろ急いでんのに邪魔だったんだから!」

「まず、急がなくて済む時間に出発するべきだ。次に、遅れそうならその旨をきちんと園に連絡しておく。最後に、一つ、質問させてくれ。自首する意思はあるか」

「は、はあ⁉︎」

 女の声が裏返る。

「そんなの、お前もだろうが。お前も同罪だろ、ぜってえ弁償してもらうからな。そもそもガキのお前らが飛び出して来なけりゃ、それにあの自転車がよろよろ走ってなけりゃ、ああそれに、これからガキどもを迎えに行かなきゃならねえってのが一番イライラする、クソッ、なんなんだよ一体、何もかもイライラする!」

「うん、分かった」

 なおもぶつぶつと鬱憤を唱え続ける彼女の呪詛は、途中で聴かないことにした。

「もう十分だ」

 キューを構える。後ろ足がじりじりと道路を擦った。

「この地において最も重要なのは、己が何者かではなく、己に何ができ得るか」

 グリップを握っているほうの肩を引き絞る。

「己が何者か、それを決めるのはお前自身であり、この街だ」

 今朝のラジオでの謳い文句は、ファミリア・ファミリの鬨の声そのものだった。

 コンクリートを強く蹴って、女に向かってキューを打ち込む。

「剥奪」

 そう言って放った一撃が女の鳩尾に炸裂する。

 女は痛みと憎しみに満ちた表情のまま、その場に倒れる。

 どれだけ睨みつけられようとも、私の心は微塵も動じない。

「ようこそ。タンティ・アウグーリはお前を歓迎しない」

「っ、ざ、ふざっ……けんなよ、お、前みたいなガキ、訴えれば…かはっ、ぜ、ぜってえ……法の、裁きを、受けさせ、やる……!」

「法?」

 倒れた彼女の顔であろう場所を見下ろす。

「法は、私だ」

 女はまだ何か言いたそうに喘いでいたが、数秒もするとそのまま意識を失った。

「ふう」

 姿勢を解く。

「メアリ。済んだ」

 先ほど声のした方向にそう呼びかける。

 足元で砂利どうしが擦れた。

「ちょ、ちょっと待ってね、意外と重いのよ、人を支えるのって!」

 何かを引き摺るような音と共に、メアリの応答が返ってきた。自転車の人、というのが怪我でもしているのだろうか。

「大丈夫か?」

「あーー、メアリ、こんな重いもの持ったことないわ」

「支えてるだけなんだろ……ああそうだ、もう流石に暗いし」

 ポケットから手のひらサイズの懐中電灯を取り出し、道路を照らす。

「こっちだメアリ、見えてるか」

「ベネ。バッチリよ、レイ」

 しばらく懐中電灯の先に目を凝らしていると、メアリの派手な服が見えた。そして彼女が連れ添っている人というのも、段々と視認できるようになってきた。

 華やかな顔立ちのメアリの眉がキツく顰められている。

「もう、メアリ疲れたわ、ちょっとは自分の脚で……」

 メアリが肩を貸している人間に顔を向け、そして

「キャーッ!」

 あろうことかその人を突き飛ばした。

「ううっ」

 支えを失った人は当然、倒れ込む。

 私はそのうめき声にたじろいだ。

「どうした」

「コ、コイツ、コイツ、この男!」

 疲労など忘れてしまったかのように、メアリは顔を真っ赤にしている。湯気でも出そうな怒りようだ。

「メアリに今朝、退けと言ってきた不敬者よ、歩道をただ歩いていただけのメアリに、このメアリ・ファミリアに、よりにもよって、この、メアリ・ファミリアに!」

 苦しそうにしている男に光を向ける。

 スーツを着た彼は、見覚えのある紺色だ。

「……あ」

 ピンときた。

「朝の」

「なに、レイもこの男に不快にさせられたの⁉︎」

「い、いやわしは……」

「口答えは無用よ。レイ、コイツも剥奪しちゃいましょう。ね、ね、一人も二人も変わらない、交通ルールを破ったというのも一緒だし、いいわよね!」

 ヒールを鳴らし、メアリは老人に詰め寄った。人差し指を立て、彼の眼前にビシッと突き立てる。

「剥奪!」

「ひいっ」

「待て待て、メアリ、落ち着け」

 上質な肌触りの白いブラウスを、破かないように袖だけを、ちょいちょいと引っ張る。体を起こした彼女は不思議そうな目でこちらを見た。

「なに?」

「その人には剥奪はしない」

「どうして?」

「詳しく話すと長くなる。とにかく彼にはやらない。あっちの女だけ。シィ?」

 わざと短文に分けて語りかける。

 メアリは大きな双眸をぱちくりとした後、鼻からフーン、と息を吐いた。

「……ヴァ・ベーネ。レイが言うのなら従うわ、間違いないもの」

 仕方ない、と彼女は両肩をすくませた。

 袖先から離した手で、そのままキューを拭く。

 メアリは服の埃を払うように、全身を軽くはたいた。

「あの女はタンティ・アウグーリから追放する。メアリ・ファミリアの名の下に、彼女の戸籍、財産、身元、隈なく全ての権利をファミリア・ファミリに帰属するわ。母親だったのよね?」

「ああ、一人ないしそれ以上の子供がいる」

「ならその子たちはウチで手厚く保護するわ。独り立ちできるようになるまで、必ず見守る」

「その点は心配してないよ、ボス。いつものように任せる」

「もちろんよ、あとやめてね、そのボスって呼ぶの。嫌よ、そんな呼び方されるの。唯一の友達に!」

「悪い悪い……というかメアリ、まだ私以外の友人つくってないのか。同年代の友達をもっと持った方が良いぞ」

「だって重要なのはいつ産まれたか、ではなく今通じ合えるか、なんだもの。それができるなら、ビンボでもジジイでも大歓迎よ」

 胸を張る彼女に苦笑をこぼす。恐らくだが、ジジイ、というのは行きつけのバーのマスターのことだろう。

 私はしゃがんで、未だ伏している彼に手を延べる。

「平気か、どこか怪我をしているとか?」

「あの車を避けるのにバランスを崩して……」

 不服そうな茶々が入る。

「なんだ、轢かれてなかったの」

「メアリ」

 諌めるような視線を受けた彼女は、つんと鼻先を立ててそっぽを向いた。

 そして気がついたように道の先を見据える。

「あそうだ。メアリ、自転車をここまで持ってくるわ」

「大破してるのか?」

「どうかな。ちょっとずつ破損はあるでしょうけど」

 スタスタとメアリは行ってしまう。

 取り残された私は、再び老人に向き直った。

「立てるか?」

「足を、捻っている」

「なるほど。では車を手配しよう」

「……は?」

「病院へ向かわせるから、軽い怪我と甘く見ずに、診察と治療を受けてくれ。足だけじゃない。転倒したのなら、他の骨にも傷が入っていないか、皮膚挫傷の度合い、それから何より、頭だな。頭部への衝撃は洒落にならない。必ず診てもらうように」

「あ、ああ。だが」

「ああ大丈夫。自転車もこちらで新しい物を用意する。スーツや他の私物も、修繕が必要なら。好みや指定があれば、これから来る車に乗っている奴に伝えてくれ。何も心配は要らない」

「い、いやそうではなくて」

「メアリのことか? あいつは…そうだな、生まれと育ちの影響で頭に血が上りやすいし、少しばかり、その、選民思想があって。立場上まあ仕方なくはあるんだが……などと四の五の言わずに詫びるべきだよな。彼女の代わりに謝罪する。怯えさせてしまってすまなかった」

 唖然とした老人が、こちらを凝視していた。

「…………何者、なんだ。あんた」

 キン!

 強い金属音が耳を劈く。

 音のした方を見ると、すぐ後ろに、歪な形をした自転車に跨る、メアリがいた。フレームの曲がってしまったそれを見事に乗りこなし、彼女は何度も甲高い警音を響かせる。

「そう、この音。間違いないわ、許せない!」

 ぷりぷりと怒って自転車を停めたメアリは、私の隣に来ると、両手を腰に当てがって老人を見下した。

「何者か? 決まってるじゃない。レイはメアリの友達よ。マグナ・カルタ。正邪のリブラ」

 それから得意げに、首をこちらに傾ける。彼女はヒールのつま先をバレリーナよろしく道路の白線に沿わせた。

 老人は目を見開いたまま、眉間に皺を寄せていた。懸命に理解しようとしているのが伝わってくる。

 しかし私は首を振った。

「いいんだ、忘れてくれ……それよりメアリ、車を一台ここに向かわせてほしい。運転手以外にも何人か。それで彼を病院へ」

「そうね、お腹も空いてきたし。ソイツらが到着したら、この場は任せましょ」

「よろしく頼む」

 携帯電話を耳に当てがう彼女に、小声で付け加える。

「あとメアリ、あそこの柱なんだが」

「気にしないで。なんならメアリのポケットマネーで済ませるもの」

 メアリは口角を上げ、手をひらひらさせた。

「あ、もしもし。メアリよ」

 私は屈んで、老人の身体を観察した。

 どこも、おかしな方向に曲がったり、血溜まりになったりはしていない。素人目だが、重傷は負っていなさそうだ。

「な、なぜ、あんたはわしを」

「うん?」

「なぜわしを助ける」

「理由を問われれば…言うなれば、良識にのみ象られておきながら可視化され、絶対的な基準となり得るそれ、またはその意識によって統治される土地は、王政と共和政の欠点を補った完全な…………あ、いや」

 ぽかんとしてしまった老人に対して、また私は首を振る。

「善い街であってほしいだけだ。タンティ・アウグーリが」

「レイ、すぐに来るって!」

 通話を切った彼女が私の手を引く。

「行くわよ、もーお腹ペコペコ!」

「え、だけど一人にするのは……」

 メアリを見上げた瞬間に、車のクラクションが聴こえた。黒のベンツ。ヘッドライトが点滅した。ファミリーの連中だ。

「流石」

「言ったでしょ、すぐに来るって。さ、行きましょ」

 困惑した様子の老人に、メアリは顎で示した。

「乗って。後はソイツらに任せなさい」

 車から降りてきた黒服たちが、老人を抱き起こす。

 メアリに引っ張られるがまま彼らから遠ざかっていた私は、少し声を張った。

「私は」

 老人がこちらを向く。キューの尻で、白線をコツコツと叩いた。

「要は、これと同じ。それだけだ」

 角度のせいか、彼の表情は窺えなかった。

 まあいいかと眉を上げる。

 体を進行方向に合わせると、ようやくメアリは腕を解放してくれた。

「はーあ、何食べるか忘れちゃったわ」

「そうなのか?」

「考えるのもお腹空くし、もうサーロインステーキとかで良いかしら」

「良いんじゃないか」

「レイは?」

「私はアクアパッツァ」

「いつも通りね」

「うん、特別なことも無いしな」

「えーっ、祝杯くらいあげないとダメよ」

 また腕を掴まれて、ブンブンと振られた。

 メアリといると、こちらまで楽しくなってくる。

 佳い日だと思った。

 高架下の陰に、いつもの灯りを目にすると、余計に。

 待ちに待ったバーの扉を開く。

 落ち着いた店内の明かりと、木の香りに心が安らいだ。

「いらっしゃい…おや、お二方。お待ちしておりました」

「ただいま、ジジイ」

 メアリがさっさとバーカウンターに座る。一番端の、彼女のお気に入りの席だ。

「はーお腹空いた」

「お勤め、ご苦労様で御座います」

「とりあえずアペリティーボよ、話はそれから」

「はいはい」

 和やかな笑みを浮かべるマスターの皺は、優しい影を彼の顔に落としている。

「レイ様も、お帰りなさいませ」

「ただいま。マスター」

 そう返して、カウンターに並べられた、脚の高い椅子に座る。メアリとは反対側の、右端に。

 カウンターの奥の花瓶には、今日も色とりどりの花々が活けられている。彼のセンスには本当に舌を巻く。趣味の域はとうに超えていると思う。

「メアリ様と同じものをご用意しても?」

「ああ。ありがとう」

 レモンウォーターのグラスを受け取って、ふと、マスターが着ているエプロンを見て思い出す。

 そういえば明日は、釉薬に浸けるんだったか。

 私は彼をじっと見つめた。

「なあマスター」

「ええ、何か?」

「汚れてもいいエプロン、ない?」

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