ラシャの上の街

山城渉

「我らがアンセムを響かせるのは…イエス!」

 シャッターの向こう、リサイクル屋の店内からラジオが漏れ聞こえていた。

「ファミリア・ファミリ、この地区を統括する、最高にして最上の先導者だ!」

「中々に教唆的な物を聴くな、朝っぱらから」

 思わず笑ってしまった。

 そういえばここを切り盛りしているオヤジさんは、都市伝説やらオカルト話やらを楽しむのが趣味だった。

「お聴きの皆さんは普段、どんな形容で自分を認識していらっしゃいますか。会社員、母親、学生、それはそれは数えきれないほどありますよね」

 言うなれば、良識のある小学生。自分はそんなものだ。手にしたキューに目線を落とす。

「ですが、このタンティ・アウグーリにおいては、そんなもの、毛ほども役に立ちません。この地において最も重要なのは自分が何者かではなく、何ができ得るか、なのです」

 キューをくるくる回した。お転婆がよくやる、良い感じの棒の代わりのようなもん。とはいえ、ガードレールを打ちながら歩いたり地面に擦ったりは流石にしない。ダメになってしまう。

 何でも持って来て良いとクラスに向かって発した担任の先生は、これを見てただ一言、脱帽ですと笑った。やはり彼のことが大好きだと再確認した瞬間だ。今日も彼が笑顔だと良い。

 狭い歩道は朝露で湿っている。

「ようこそ皆さん、ここはタンティ・アウグーリ。己が何者か、それを決めるのは皆さん自身であり」

「気をつけろよ!」

「ん」

 ラジオの音声を遮るほどの唐突な怒号に振り返る。

「私?」

 ちょうどそこでは、ものすごい剣幕の老人が、傾いた自転車を支えるように地面に足をついたところだった。

 睨みつけてくる彼の表情は、とても穏やかとは言い難い。

「そうだよ、全く……」

 なんだか非常に大変なこととばかり自転車を真っ直ぐに据え、それに乗る。まるで非があるのは私だとでもいうように。

 スクールゾーンの看板が目に入る。

「それで?」

 スーツに汗の染みをつくりながら、老人は高圧的にこちらを見下ろした。

 小首を傾げる。

「それで?」

「だぁから、人に迷惑かけたらなんて言うんだよ、学校で習っただろ」

 視線を落とした。チャイムが聞こえた。

 まだ予鈴。一時間目は何だったか。

 ふむ、と顎に手をやる。

「それは、学校で習う前に人として身につくこと。恐らく貴方が言っているのは謝罪。だが、謝罪というのは和解に向けて互いに非を認め合う行為であって、一方的に求めて己だけが気持ちよくなるために強いることではない」

 彼も仕事に遅刻すれば良いと悪意が囁く。

「そうだな、それならおあいこだ」

 私はかすかに頷いた。

「結果として、私は貴方には謝らない。自然に謝罪の言葉が出る相手には、私だってごめんなさいを言うが。貴方はそうではない」

 滑らかなキューの表面をなぞる。

「正義を掲げる前に、正しいと思うことをするべきだ。自己の正当化よりも、先に」

 半ば嘲るような目を向けた。

「大人だろ」

「……へ、屁理屈ばっかり捏ねてんじゃねえよ、クソ。このままじゃ遅れちまう!」

 老人はジャケットを羽織りなおすと、そそくさと道路を走って行った。

 天を仰ぐ。首を後ろに倒すのは呆れた時の癖らしい。

 空には薄灰色の乱層雲が、風に流れてひらめいている。

「よくもまあ」

 自分でも驚くほどに冷淡な声が出た。

 顔を戻すと、紺色の背中はまだ歩道を走っていた。それが小さくなっていくのを、じっと両目に焼きつける。

 チャイムが聞こえた。点呼が始まる。この次のが一時間目の始まる合図。止まっていた歩みを進めた。

「どけどけ!」

 曲がり角に消えてなお、彼の怒鳴り声が聞こえてきた。自転車の警音ベルが何度も何度も鳴らされている。

 朝の空気には全くもって似つかわしくない。

 給食が終わったら道徳の日。

「あれ、思い出せないな、一時間目」

 校門に立っている先生に手を振り返しながら駆け出した。

 担任の彼なら、お茶目に唇を尖らせながら許してくれるだろう。

 おはようございます。唇を動かした。

 今日が始まる。 

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